#1-3 公孫穆の論理(ことわり)
小夜の行軍であった。
月影なき道のりを、夜陰に乗じて、ただ前へと進んでいた。
夜闇に溶け込んだ百五十人の部隊を率い、龍牙関南方の隘路を進む。
皆、一様に、しがない一兵卒に、自身の、祖国の、命運を賭けていた。
隘路は、黒龍河へと繋がる山間の獣道だ。
幅は狭く、両側は松林と切り立った岩壁に挟まれている。
(魯国軍は、この天然の要害を警戒していないわけがない....公孫穆ならば、必ず罠を仕掛けているはずだ....)
「張勇」 志文は、影のように隣を進む元密偵に、静かに尋ねた。
「敵の通信線が通る松林の位置は?」
「ここから一刻。松林は、隘路の最も開けた中央部にあります。公孫穆は、ここで通信線が切断される可能性を最も低く見積もっているはずです。」
その声は、冷たい確信を帯びていた。
志文は、無言で頷いた。
最も安全な場所が、最も致命的な場所となる。志文が狙い澄ますべき弱点だった。
部隊が松林に差し掛かるまであと半刻程の時分、張勇が微かな空気の変化を察知し、静かに手を挙げた。
部隊は即座に停止した。
「志文殿。前方、五十歩先に三つの罠が確認できます」張勇は、目線と共に状況を伝えた。
第一の罠: 松林の入り口に仕掛けられた、足の骨を砕くための鉄製の仕掛け罠。
第二の罠: 隘路の両側、岩壁上部に細い絹糸が張り巡らされている。すなわち、報せの音を感知し、上部の岩を落とす崩落の罠。
第三の罠: 松林内部の微かな血の臭い。すなわち、毒を塗った吹き矢の罠の可能性が高い。
「公孫穆め、論理的で、冷徹だな」 志文は、冷たく呟いた。
公孫穆の防御は、人の感情を考慮に入れない完璧な防御だった。
公孫穆は、少数の決死隊が、夜間の静寂を利用して速度重視で突破することを予測し、「音」「光」「速度」の全てを封じる三層構造の罠を構築していた。
「突破は不可能です。岩壁上部は、我々の存在を魯国軍に悟らせるためのいわば自動報知システムになっています」 張勇は冷たく自身の分析を述べた。
「ここで足止めを食えば、夜明け前には魯国軍の別働隊が、確実に我々を包囲します」
時間と静寂は、志文の命綱だった。
志文は、即座に、公孫穆の論理を逆手に取ることを決断した。
「李百人将。部隊を二つに分けろ。五十人は、隘路の岩壁に張り付け!岩壁の罠を発見しても、破壊せず、そのまま音を立てて前進しろ!」
芳蘭は、志文の指示に、眉一つ動かさなかった。
「音を立てるのですね。岩壁上の崩落の罠は、間違いなく作動します」 張勇が低い声で言った。
「作動させて構わない」 志文は言った。
「公孫穆は、我々が罠に気づかず、自滅した音だと論理的に判断するだろう。ゆえに、奴の論理の防壁は、弛緩するだろう」
志文の狙いは、「罠に気づかず自滅したと思わせる音」を立て、公孫穆に『安心』という隙を生じさせることだった。
公孫穆の冷徹な知略は、自身の絶対的な感情を根拠としている、志文はそう考えた。
芳蘭は、静かに命じた。五十人の兵士は、岩壁に張り付き、最小限の音を立てながら、崩落の罠を意図的に作動させた。
ガラガラガラ!
岩壁上部から、土砂と岩石が崩れ落ちる激しい音が、夜闇に轟いた。
志文は、残りの百人を率い、崩落の音に紛れて、第一の鉄の罠と第三の毒の罠を、張勇の指示で静かに解除させた。
魯国軍の前線斥候は、この崩落の音を聞いた。
彼らは、「衛国の愚かな残党が、罠に気づかず自滅した」と報告した。
魯国軍師・公孫穆の陣。
報告を聞いた公孫穆は、微動だにしなかった。
「想定内だ。崩落の音は、愚者が罠にかかった必然的な結果だ。警戒レベルを維持し、兵糧路の監視を続けろ。これで、通信線の安全は夜明けまで保証された。」
公孫穆の論理の防壁は、崩落の音によって、逆に強固になった。
志文の知略は、公孫穆の非情な論理を、一瞬たりとも揺るがすことができなかった。
公孫穆は『安心』しなかったのだ。
公孫穆の心には、人に対する不信と知略への絶対的な自信のみが存在していた。
志文たちは、松林へと到達した。
松林の中央には、魯国軍の通信線が、地中を這う蛇のように張り巡らされていた。
通信線の傍らには、十名ほどの魯国兵が、警戒怠慢な様子で火を囲んでいた。
彼らは、崩落の音で安心しきっていた。
「李百人将。一瞬で片付けろ。音は立てるな。」志文は静かに命じた。
李芳蘭は、五十人の精鋭と共に、夜闇を利用した完璧な連携で、魯国兵たちを無言で仕留めた。
彼女の上質な槍は、命の根元を正確に貫き、僅かな呻き声さえ上げさせなかった。
血の清算は、静かに、そして無慈悲に終わった。
志文は、通信舎の前に立った。
そこは多くの書簡が集まり、そこにはすべての衛国軍の動きが書いてあるようだった。衛国軍の動きだけでなく、衛国の王都の動きまで詳細に書き記されていた。
その書簡はそれぞれ印がつけられ、印に対応した舎に保管されているようだった。
(舎に書簡が届けられたら、舎から本陣に『光』で合図が出る仕組みか....)
(舎を破壊すれば、魯国軍本隊との情報遮断は可能だ、しかし、それは一時的なものに過ぎず、公孫穆は即座に別の通信手段を構築するだろう)
「舎はこのさらに先に四つあります」張勇は言った。
「張勇、舎は、全て破壊すべきか?」志文は尋ねた。
「全ての破壊は、公孫穆に我々の場所と規模を教えているようなものです。彼は、即座にここに別働隊を送り込み、我々の退路を断つでしょう。」 張勇は冷徹に分析した。
「舎は五つ」志文は、論理を働かせた。「破壊するのは、一つだけだ」
志文は、最も大きい通信舎を選び、破壊した。
目的は、通信の遮断ではない。公孫穆の論理を狂わせることだった。
志文は、破壊した一つの通信舎に、小さな竹筒を置いた。竹筒の中には、志文が書き上げた、魯国軍の陣形図と、龍牙関の偽の防御計画が詳細に記されていた。
志文の知略は、公孫穆の思考回路を完全に予測していた。
(公孫穆は、通信の途絶を確認した際、必ずこの通信線を調査させる。そして、破壊された一つの通信舎と、残された四つの通信舎、そして竹筒を発見するだろう)
(公孫穆は、通信舎が一つだけ破壊されたのは、敵の技術・時間不足か、情報不足。残りの四つは生きているため、敵は通信舎の全容を知らなかった。竹筒の中の詳細な情報は、本物の情報と信じ込ませるための巧妙な罠である。ゆえに、この竹筒の情報は真実の部分が多いに違いない)
志文は、公孫穆の論理の冷徹さと傲慢さを利用した。
「これで、公孫穆は、自分の知略で自分の首を絞めることになる」
志文は、冷たい笑みを浮かべた。
「志文殿。その竹筒の中身は?」張勇は、警戒を緩めずに尋ねた。
「真実を混ぜた偽の情報だ。公孫穆は、九割の真実を信じ込むために、一割の嘘に命を賭けることになるだろう」
志文は、部隊をまとめ、魯国軍補給部隊が駐留する南方河畔へと、静かに、そして迅速に進路を取った。
隘路の工作は、単なる通信線の破壊ではない。
それは、知略の頂点に立つ公孫穆の精神に、混乱という名の楔を打ち込む、最初の攻撃だった。
魯国軍の補給部隊は、黒龍河の河畔に油断しきった陣を敷いていた。
兵糧と武具を満載した百以上の荷馬車が、雑兵に守られながら、夜の静寂に沈んでいた。
「李百人将。目標は、敵の殲滅ではない。物資の破壊と、混乱だ」
志文は、冷たい声で指示した。「我らの覚悟を、希望を、奴らに叩き込め!」
志文と李芳蘭は、百五十人の部隊を三つの波に分け、補給部隊の陣へと同時多発的に急襲をかけた。
第一波は、火矢による物資への放火。 第二波は、芳蘭率いる槍隊による士官の殲滅。 第三波は、志文の精鋭による荷馬車の破壊と、混乱の拡大。
炎が、夜闇を血の色に染め上げた。
魯国兵の悲鳴と、燃え盛る木材の音が、黒龍河に響き渡る。
志文は、粗末な剣を振り抜き、魯国兵の心臓を貫いた。
その動きは、精密機械のように冷徹で、無駄がなかった。
「怯むな!全ての荷を燃やし尽くせ!」 志文は吠えた。
魯国兵の士官が、驚愕と怒りに満ちた顔で、志文めがけて重い剣を振りかざした。
ガキン!
志文は、剣を受け流し、瞬時に懐に踏み込む。彼の剣は、士官の首筋を深く切り裂いた。
血の噴水が、志文の甲冑を赤く濡らした。
芳蘭は、猛槍を縦横無尽に振るい、次々と敵の命を奪っていく。
彼女の槍術は、美しさと殺意が純粋に混ざり合った、武の極致だった。
「志文!火が回ったわ!撤退よ!」 芳蘭は叫んだ。
志文は、燃え盛る荷馬車と、血の海に沈む魯国兵の死体を、冷たい目で見下ろした。
公孫穆は、一夜にして数ヶ月分の物資を失った。
そして、志文の論理は、彼の知略の防壁に、最初の亀裂を入れた。
「張勇。撤退路を確保しろ。我々は、夜明けまでに龍牙関に戻る。公孫穆の報復は、太陽よりも早く来るだろうからな!」
志文は、血の臭いを纏ったまま、勝利の熱に浸ることもなく、冷徹な計算に従い、戦場を後にした。




