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#1-2 三ヶ条の鉄則

志文は、龍牙関の城壁の上に立っていた。

関所全体を覆う鉛色の空気。

それは、魯国軍の五万の重圧と、衛国軍の五千の飢えが生み出す諦念の霧だった。

志文は、その冷たい空気を肺の奥底まで吸い込んだ。

内には袁興の刺客、外には魯国の五万。絶望的な状況だった。

(要塞の士気値は、5%。魯国軍との本格的な交戦開始前に10%まで回復させなければ、ただの肉の塵となって崩壊するは必定だろう)

志文は、要塞の司令部(作戦本部)に戻った。

司令部は、不潔な空気と、敗戦の酒の臭いが混ざり合い、まるで腐敗を煮詰めたような場所だった。

軍師将軍の韓忠は、志文の顔を見るなり、憔悴した笑みを浮かべた。

「志文殿。貴方が斥候隊を破った武功は、兵士たちの間でも話題になっている。だが、それだけだ。彼らは王都に見捨てられたことを知っている。英雄が現れようと、兵糧が尽き、援軍が来ない現実は覆せない....」

韓忠の目は、諦念を通り越して、虚無に支配されていた。

龍牙関が落ちた後の未来を見据えているようであった。

「我らに必要なのは、希望ではない。生還の道筋だ」 志文は言った。

「道筋?」韓忠は鼻で笑った。

「志文殿。貴方は魯国軍師、公孫穆を知らない。あの男は、天才的な知略を持ちながら、人間性を欠いた冷血な策を打つ。兵糧を絶ち、内部分裂を誘う。我々は、彼の手のひらの上だ。道筋など、すでに血の川に沈んでいる」

「韓将軍、道筋は探すものではない。創るものだ。そして道を創るのは、常に人なのだ。」

志文は、机上に広がる龍牙関周辺の地図に視線を落とした。

魯国軍の布陣は完璧だった。

東からの魏鉄山率いる五万の主攻。関所の北方、黒龍河を利用した補給路の完全遮断。

そして、南方の隘路あいろを通る別働隊の噂。

(一寸の隙も無いか.....道は創れない....別の火種を創らねば....)

「どうするのだ、志文殿。貴方の狂気の知略とやらを、早く見せてくれ。私は、血の匂いに酔いすぎて、もうまともな判断ができない。」

韓忠は、酒瓶に手を伸ばした。

「韓将軍、我々の敗因は、王都の腐敗だけではない。あなたの諦念もまた敗因だ」

志文の言葉は、冷たい刃のように韓忠の胸を突き刺した。

韓忠の体が、怒りで震えた。

「伯志文!一兵卒の分際で!」

「黙れ」 志文は、一切の感情を排した声で続けた。

「貴方は、死に慣れ、勝ちを忘れた。韓将軍、私がこの地獄をどう切り開くか、貴方には、見届ける義務がある」

志文は、立ち上がり、李芳蘭らが待つ兵舎へと向かった。

(士気回復に必要なのは、絶望的な状況に圧倒的な活路を開く、その背中を、見せることだ。)

志文が足を踏み入れた兵舎は、李芳蘭の百人隊と、その他寄せ集めの雑兵がひしめいていた。

彼らは、死への片道切符を握らされた捨て駒であり、その目は生への執着と死への恐怖が混ざり合っていた。

芳蘭は、自隊の兵士たちに、槍の点検を命じていた。彼女の静かな厳しさが、かろうじて秩序を保っていた。

志文は、兵舎の中央に進み出た。甲冑は、未だ魯国兵の血で、黒く汚れていた。

「聞け」

志文の声は、静かだったが、鋼鉄の響きを持っていた。

「龍牙関は、三日以内に落ちる。王都からの援軍はない。兵糧もない。我らはとっくに見捨てられている」

兵士たちの間に、動揺が走った。目を背けていた事実を、真正面から突きつけられたからだ。

「生き延びること、それがおまえたちの希望(のぞみ)のはずだ。泣き言と諦念では、血の海は渡れない」

志文は、剣を抜き、それを足元の床板に深く突き刺した。

「俺に命を預けろ、おまえらの希望(のぞみ)を叶えてやる。そのための厳守すべき 鉄の掟 を、今、定める」

志文は、冷たい目で兵士たちを射抜いた。その目は、殺意ではなく、論理だけを宿していた。

【鉄の掟:龍牙関生還のための三ヶ条】

疑問を抱くな:俺の指示は、論理の産物だ。理解できずとも、実行しろ。僅かな躊躇が、全員の命を奪う。

情に溺れるな:負傷者は、戦場を離れる権利を持つ。だが、生還の可能性がない者は、見捨てろ。情は、死に至る病だ。

俺を裏切るな:この関所には、袁興からの暗殺者(刺客)がいる。俺に剣を向けた者、あるいは命令を無視した者は、その場で李芳蘭の槍か、俺の剣によって落命する。

兵士たちの間から、怒りと恐怖が同時に湧き上がった。

「見捨てろ」という命令と、「暗殺者」の存在は、彼らの心を、激しく揺さぶった。

「貴様、我々を道具にする気か!」雑兵の一人が、叫んだ。その声は怯えと怒りを宿していた。

「その通りだ」 志文は即座に答えた。

「俺は、貴様らを生きた道具として使う。道具でなければ、五万の魯国兵を相手に生還できるはずがない。生きて帰りたいなら、思考を停止し、俺の目となり、腕となり、足となれ」

芳蘭は、腕組みをしながら、その様子を静かに見つめていた。

彼女の瞳には、志文への興味と武人としての期待が含まれていた。

「李百人将。そなたもこの掟を厳守せよ」 志文は芳蘭に命じた。

「望むところよ」芳蘭は、鋭い笑みを浮かべた。

「私の命はすでに、貴方の狂気に預けたわ。死にゆく我らをどこまで駆り立てるか、見せてもらうわ」

——[システム通知]——

—士気値が3%上昇。現在士気値:8%—

(あと2%。恐怖を駆り立てた士気はただの仮初だ。必要なのは、具体的な生還の道筋だ)

翌朝。龍牙関を遠巻きに囲む魯国軍の陣営から、一機の伝令鳩がもたらされた。

鳩が運んできたのは、魯国軍師・公孫穆からの降伏勧告状だった。

勧告状は、衛国軍の兵糧が三日分であること、王都の援軍が来ないことを正確に指摘し、関所内の兵士の妻や家族の安全を保証するという内容だった。

(公孫穆.....内側から崩壊させるつもりか.....)

「兵士たちがこれを見れば、家族の安全のために、あるいは絶望から、一斉に投降を始めるだろう」 韓忠は、既に崩壊の未来を受け入れていた。

「いや、これは罠だ」志文は、冷たく笑った。

「公孫穆は、我々が降伏勧告状を焼却し、士気を保とうとすることを予測している。奴は、すでに、次の手を打っているだろう」

志文は、勧告状を手に取り、静かに言った。

「この勧告状を、全兵士に読み聞かせろ。」

韓忠は、絶句した。

「正気か!士気が一瞬で地に落ちるぞ!」

「士気は、真実によってしか回復しない。」 志文は、冷徹な目で韓忠を見据えた。

「公孫穆の狙いは、勧告状そのものではない。勧告状を隠蔽することで、指揮官と兵士たちの間の不信を深め、内部分裂を完成させることだ」

「真実を知った上で、生還の道筋を示してやれば、士気は鉄の意志となる。」

斯くし斯くして、勧告状は、関所内の全兵士に読み聞かせられた。

兵士たちの士気は、急落した。絶望の声が、要塞中に木霊した。

——[システム通知]——

—士気値が5%低下。現在士気値:3%—

(ここからが、正念場だ.....)

志文は、士気が底を打ったその瞬間を待っていた。

彼は、五千の兵士全員が見える、城壁広場の中央の最も高い場所に立った。

李芳蘭が、槍を携えて、側に立っている。

彼女の静かな武威が、広場の空気をより引き締めていた。

志文は、静かな声で話し始めた。

「貴様らは、真実を知った。絶望しているだろう。だが、泣き言は終わりだ。」

志文は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

それは、志文が、昨夜、徹夜で書き上げた龍牙関の地形を利用した、魯国軍への反撃計画図だった。

「公孫穆は、我々を三日で潰せると確信している。それゆえに、この地図を見ろ。」

志文は、その計画図を広場に向けて広げさせた。兵士たちは、半信半疑でその地図を見つめた。

「公孫穆は、黒龍河を利用して補給路を断った。だが、魯国の五万の陣形は、この地形においては一つの弱点を持つ。それは、南方の隘路あいろだ。魯国軍の補給部隊と、本隊の通信線は、その隘路沿いの松林を通っている。」

志文は、冷たい視線を、地図の一点に集中させた。

「今から、 李芳蘭百人隊の選抜者と俺が選抜した百人 が、この隘路を抜ける。狙いは、 隘路の先にある、公孫穆の情報網を担う、 後方補給部隊 だ。 三日以内に、必ず 補給部隊の首 を挙げ、この関所に戻る。 貴様らは、俺が戻るまで、ここを守り通せ。 情報の終着地が壊滅すれば、情報が分散し、錯綜することで、情報統制が取れなくなる。そしてそれはこの包囲戦において、致命的だ。我らのすべての動きを同時に知ることが難しくなるからだ。そして、これが、貴様らの生還の道筋となる」

兵士たちの間に、微かなざわめきが走った。

やがてそのざわめきは、強烈な動揺に変わった。

「通信線の破壊」と「補給部隊への攻撃」は、魯国軍の論理的な布陣を、根底から覆す可能性を含んでいた。

情報統制の破壊だけでなく、補給部隊は兵站の確保の要でもあったからだ。

絶望の中で示された具体的で論理的な反撃の道筋は彼らの最後の希望となった。

彼らの心は鉄の意志へと変貌を遂げていた。

李芳蘭は、隣で志文の冷徹な論理を聞きながら、武人としての興奮を隠せなかった。

「やはりこの男は、狂っている」

彼女は、喜びに近い笑みを浮かべていた。

——[システム通知]——

—士気値が5%上昇。現在士気値:8%。—

(まだ足りない。死地へ赴くという絶対的な覚悟を、「死」の覚悟を、彼らに見せる必要がある....)


その時、広場の端にいた一人の雑兵が、志文めがけて粗末な短刀を抜き、飛びかかってきた。袁興に雇われた暗殺者だった。

「貴様のような狂人に、俺たちの命は預けられん!死ね!伯志文!」

暗殺者は、絶望と袁興の金に目が眩み、最後のチャンスに自身の全てを賭けた。

志文は、躱さなかった。李芳蘭が、素早く、そして無慈悲に動いたからだ。

シュッ!

李芳蘭の上質な槍が、月光の軌跡を描くように、暗殺者の喉元を瞬時に貫いた。

グゥッ… 暗殺者は、血泡を噴きながら、その場に崩れ落ちた。

彼の目には、驚愕と恐怖だけが残っていた。

広場に集まった五千の兵士たちは、息を飲んだ。あたりは静寂に包まれていた。

志文は、血を滴らせる槍を抜いた芳蘭の隣に立ち、冷たい目で、死にゆく暗殺者を見下ろした。

「俺の命令を破った者、俺に剣を向けた者、そして生還の道を閉ざそうとする者は、この男と末路をたどる。俺の前に立つな!」

彼は、暗殺者の死体を無視し、再び兵士たちを見据えた。

「俺は、貴様らを地獄から連れ戻す。生きて帰りたいなら、俺の背中を見ろ。」

無慈悲な処刑と揺るぎない覚悟は、兵士たちの心に、絶対的な恐怖と、絶対的な信頼という矛盾した感情を同時に植え付けた。

狂気が、士気となった瞬間であった。

———[システム通知]———

—士気値が5%上昇。現在士気値:13%。—

―――【スペシャルミッション】 達成―――

目標:衛国軍兵士の士気値を、魯国軍との交戦開始前に10%以上、上昇させる

報酬:全能力値基礎上昇(0.1pt)

(これで、鉄の意志が完成した。後は、公孫穆との知略戦に勝つだけだ.....)

李芳蘭は、槍の血を払いながら、静かに言った。

「貴方は本当に狂っているわ......でも、なぜか惹きつけられる......貴方の狂気の先にあるものを見たくなったわ.....」  彼女の瞳には、武人としての悦びが宿っていた。

志文は、隘路突破のための反撃部隊を選抜した。

芳蘭の百人隊から五十人、その他から最も冷静な百人を選び、合計百五十人。

兵站は、三日分の乾パンと水のみ。速度と静粛性が、彼らの命綱だった。

志文が部隊の装備を確認していると、一人の男が近づいてきた。

ちょう ゆう。彼は元々は、衛国の情報局の密偵であった。

現在は、龍牙関の雑兵として身を潜めていた。

細身だが、その目には冷たい知性が宿っていた。彼は、袁興の腐敗に嫌気が差し、静かに生き延びる道を探していた。

「伯志文殿。その狂気の計画に、私も加えていただきたい」張勇は、静かに言った。

「貴殿は?」 志文は、男の冷たい目の奥に、冷徹な知性が隠されていることに気づいた。

「情報局にいました。元ですが。公孫穆の通信線の位置を特定し、最小の犠牲で破壊するには、情報戦の知識が必要なはずです」

張勇は、忠誠ではなく、志文の計画の成功が生還の唯一の道だと論理的に判断していた。

(情報戦のエキスパートか。公孫穆に対抗するには、たしかに必要だ)

「張勇、俺に、貴様の命を預けられるか?」 志文は尋ねた。

「私の命は、生還という唯一の目的のためにのみ存在します。志文殿の知略こそが、その唯一の活路だと私は信じることにしました」 張勇は、恭順の意を示した。

志文は、無言で頷いた。

部隊が出発する直前、韓忠が志文の前に現れた。その顔に、諦念は失く、一縷の希望が浮かんでいた。

「志文殿。生きて戻ってくれ。私は、衛国の未来をもう一度信じたいのだ。私は凡庸だ。だが、それでも私なりに死力を尽くして、この関所を守ろう、貴殿が戻るその時まで」

韓忠は、武人としての誇りを、自身の希望を、志文に託した。

「韓将軍。貴方は、必ず生きて、この関所を守り通せ。勝者だけが、未来を語ることを許されるのだ」

志文は、李芳蘭、張勇、そして百五十人の精鋭と共に、夜闇の中、龍牙関の南方、隘路へと向かった。

彼の背後には、魯国軍の五万の重圧と、袁興の暗殺の影。 彼の行く手には、公孫穆の冷酷な知略が待ち受けていた。

鉄の意志を宿した一兵卒の、狂気の反撃はここから始まるのであった。


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