#1-1 一兵卒、志文の武
伯 志文。一兵卒。
彼が立っていたのは、衛国の東の辺境。
魯国との戦が、敗走という泥に沈んだ戦場だった。
志文の心には、波風を立てず、静かに生き延びるという鉄の原則があった。これは怜士の性格であり、心であった。
魯国の重装歩兵が、こちらへ押し寄せてくる。
辺りには、腐敗した内臓の臭いと、湿った土の匂いが混ざり合い、死の色彩を色濃くしていた。
魯国兵の隊長格と思われる男が、重い鉄兜を揺らしながら、志文めがけて巨躯を押し出してきた。
その剣は、質量そのものであり、志文の頭上を死の影で覆った。
「死ね、衛国の虫けら!」 男は吠えた。
志文は、躱さない。
その判断は、計算に基づくものだった。
相手の剣が、甲冑の肩当てを掠める寸前、志文は全身の筋肉を極限まで収縮した。
『天恵』によって強化された筋力が集中する。
彼の粗末な剣が、下から掬い上げるように、魯国兵の脇腹の鎧の隙間へと吸い込まれた。
それは、流れる水が、最も低い場所へ落ちるように、必然的な軌道であった。
ドスッ! ―――鉄と内臓が噛み合う、乾いた鈍音。
男は、自らの重さに潰されるように崩れ落ちた。
魯国兵たちは、異様な恐怖に晒された。たかが一兵卒が、隊長格を一撃で仕留めたのだ。
志文は、剣を握り直し、地を蹴った。
志文の動きは、風の皮を被った鉄塊だった。無駄な計算が極限まで削ぎ落とされた論理の具現化である。
一閃。二閃。三閃。
彼は、敵の恐怖、防御の意図、鎧の最も脆弱な箇所を、瞬時に読み取り、最も効率的な殺戮を淡々と実行した。
魯国兵の絶望的な怯えが顔に浮かんだ刹那に、志文の剣は、魯国兵の顎の下から頭蓋へと突き抜けた。
戦場に、脳髄を貫く、乾いた音が微かに木霊した。
わずか数刻で血の精算は終わった。
約二十名の魯国兵が、皆一様に、地に倒れ、天を仰いでいる。
志文は、冷たい鉄の甲冑を纏い、血飛沫を浴びたまま、静かな殺戮者として、その場に立っていた。
(この能力なら、生き残ることは可能だろう。実力は隠しておいたほうがいい。過ぎた力は波紋を呼ぶからな。これ以上の殺生は無益だ。)
志文の予想に反して、この規格外の武功は、すぐに王都の軍議に届いた。
志文は、功績報告と褒賞のために、総大将・袁興の前に呼び出された。
(穏便にそして迅速に済まさねば....)
軍議の場。
太った腹を揺らし、その男は、志文を見下ろした。
その目には、一兵卒への侮蔑がこもっていた。
「伯志文。武勇は認める。しかし、お前ごとき下級貴族の末裔が、無闇に戦場を駆け、軍の秩序を乱すことはこれ以後、許さん。身の程を知れ」袁興は言った。
彼は、傲慢な笑みを浮かべたまま、続けた。「今回の褒賞は、金子と、お前の妹たちを私の侍女として王都に迎え入れるという名誉をもって代える。伯家再興の足がかりとせよ」
志文の顔から、表情が消えた。
彼の心の中で、穏便に済ませたいという理性の鎖が、妹たちへの侮辱という熱い感情に触れて、軋み始めた。
(妹たちを私物化しようと、伯家の身分が低いことを利用し、最も守るべきものを汚そうというのか....)
志文の心臓が、冷たい警鐘を鳴らした。
志文の意志ではなかった。天草怜士の絶対に許容できない過去の記憶であった。
志文は、一歩前に進み出た。
その目は、氷のように冷めていたが、声はあくまで静寂を保っていた。
まるで、深い水の底から響く音のようだった。
「私には、過分な褒賞でございます。その褒賞は、辞退させていただきます」
その静かな一言が、軍議の場の全ての空気を凍り付かせた。
それは、恭順ではなく、絶対的な拒絶を含んでいたからだ。
志文の態度は、袁興の虚栄を、無慈悲に、切り裂いた。
袁興の顔が、怒気を帯びる。
自身の尊厳が、ただの一兵卒の静かな拒絶によって、粉々に打ち砕かれたことが我慢ならなかった。
「…伯志文!貴様!この袁興の温情を、ただの一兵卒が拒否するのか!貴様のような狂気の兵は、この衛国には不要だ!しかと覚えておけ!!」
志文は、それ以上何も言わなかった。
ただ、深々とした、感情のない一礼を返すと、静かにその場をあとにした。
背中には、袁興の燃えるような憎悪が、向けられていた。
志文の穏便に済ませるという原則は、妹たちの想いによって、儚くも崩れ去ったのであった。
その日の夜。王都郊外、伯家の粗末な屋敷に「招集令」がもたらされた。。
早暁の薄明が、竹林の梢を淡く照らし始めていた刻。
世界が、白と黒の輪郭しか持たない冷たい時間であった。
「伯志文。貴様を、東部戦線、龍牙関への緊急徴発兵として命ずる。本日刻限までに、指定された部隊に合流せよ。魯国軍の総攻撃は、既に開始された。」
龍牙関。
それは、衛国の東の喉元。魯国の五万の重装歩兵を相手に、衛国の敗残兵が最後の抵抗を続けているが、もはや地獄と化している場所に他ならなかった。
一兵卒のまま送り込まれるというのは、片道切符を意味していた。
(袁興の令だろう....必ず、生きて戻らねば.....)
頭の中で、冷たいシステム音が響いた。
―――【天恵起動】―――
―――【デイリーミッション】―――
目標:1. 肉体の限界突破(筋力、耐久度、敏捷性のうち最低一つを1.0pt上昇)
目標:2. 衛国軍内の腐敗した情報(貴族派の陰謀)を一つ以上特定する 報酬:全能力値基礎上昇(0.1pt)
期限:夜明けまで
さらに乾いたシステム音が響く。
―――【デイリーミッション】
目標:2の特定達成―――
特定:袁興による、伯志文の「戦死」を目的とした龍牙関への緊急徴発(死地への追放)
報酬:全能力値基礎上昇(0.1pt)
(袁興よ、貴様のおかげで、また強くなれる.....)
戦支度を整えている志文の前に、二人の妹が、立っていた。
屋敷の中は、蝋燭の炎が揺らめき、二人の顔に陰影を落としている。
その光景は、戦場という闇の中で、志文を人間に繋ぎ止める唯一の光のように思えた。
長妹・月華が、震える手で志文の剣の鞘を握った。
「兄上、龍牙関は、地獄そのものだと聞きました。兵站は絶たれ、魯国の猛攻が止まらないと....」
月華の声は、諦念と切実な情愛を帯びていた。
「私は、戦も政もわかりません。ただ、お願いです。生きて戻ってきてください。私たちには、兄上しかいないのですから」
「月華。安心しろ。俺の命は、お前たちと共にある」
志文は、妹の冷たい体を力強く抱きしめた。
末妹・雪華が、腰にしがみついてくる。
「お兄さま、行っちゃダメです!雪華は、たまらなく、つらいです!雪華を置いてかないで!」
雪華は、甲冑に顔を埋めて泣いていた。
「兄さまがいなくなったら、もう誰も雪華を守ってくれないよ。だからお願い、行かないで!」
雪華の言葉は、志文の冷たい鋼の心を、一瞬にして溶かしてゆく。
(龍牙関は、全てを賭けてもなお、生還の保証がない。これが無限級か....だが、二人いる限り、俺は地獄からも這い上がらねばならない)
志文の瞳には、冷たい炎が宿っていた。
志文は、二人の妹の頭を、優しくなでた。
「月華、雪華。俺の鉄の意志は、その笑顔のためにのみ存在する。必ず戻る」
志文は、闇の中を単独で進み、王都郊外の指定された合流地点に到達した。
集結していたのは、李 芳蘭率いる百人隊と、一握りの雑兵たち。
死地へ向かうにはあまりに貧弱な、捨て駒の部隊だった。
部隊の中心で、精悍な鎧を纏った李 芳蘭が、月光を反射する上質な槍を携えて立っていた。
彼女の周りの空気は、他の兵士とは違う、冷たい緊張感を放っていた。
志文が近づくと、芳蘭は一瞥し、静かに言った。
「貴方が、伯志文ね。初陣で狂気じみた武功を挙げた、死にたがりの男だと聞いているわ。」
芳蘭は、志文の粗末な剣を見つめ、静かに尋ねた。「この任務は、片道切符よ。帰りたければ、いますぐ、帰って構わないわ。上には適当にごまかしておくから」
志文は、冷たい視線を夜闇の先に向けた。
「俺は死ぬつもりはない。貴女の猛槍は、衛国軍で最も美しい武器だと聞く。それを、無能な総大将のために朽ち果てさせるのは、惜しいだろう?我らはこんなところでは死なぬ」
芳蘭は、挑戦的な笑みを浮かべた。その笑みには、戦場での興奮と、志文への興味が混ざっていた。
「ふっ。私の槍は、強き者の隣でこそ輝く。貴方が、この絶望的な劣勢を覆す狂気を持っているなら、私の槍は貴方の血路を開くために動く。…果たして貴方にそれほどの武と知があるのかしら?」
「結構だ。李 百人将」志文は、初めて芳蘭の瞳を真正面から見つめた。
「俺についてこれるかどうか、俺も、貴方を試させてもらおう。俺の隣は、常に血の海だぞ」
「ふん、望むところよ。私の命は、最高の戦場に捧げるためにある。貴方の運命に、私の運命も賭けるわ」
芳蘭は、武人の礼を取った。武人としての覚悟だけが、そこに含まれていた。
冷たいシステム音が響く。
―――【ユニークミッション】 達成―――
武の契り:李芳蘭の命と武を、自身の覇道に賭けさせよ。
報酬:
1. 称号【狂気の知略】獲得 (士気掌握の成功率が上昇)
2. 武人の連帯 (李芳蘭の連携時攻撃力・防御力20%上昇)
3. システム解放:【信頼度パラメータ】 信頼度:初期値(20%)。
(ユニークミッション...。発生条件も達成原理も不明。だが、李芳蘭を、俺の指揮下に組み込めた。この報酬は、死地を越える対価として悪くない)
龍牙関への道中、魯国領との境に近い黒龍河の畔。
「魯国軍の斥候隊を発見!」
(魯国軍の斥候は、油断している。殺るなら、今だ!)
「李百人将!後方の警戒を頼む。この斥候隊は、俺に任せろ!」
志文は、腰の粗末な剣を抜き放つと、土煙を蹴立てて、魯国斥候隊の中へと、ただ一騎飛び込んだ。
その姿は、計算と武の極致に裏打ちされていた。
「衛国の虫けらめ!」
志文の頭上をめがけて、重い剣を振り下ろされる。
ガキンッ! ―――鉄と鉄が噛み合う、冷たい衝突音。
身体をわずかに沈ませることで、剣の破壊力の全てを、斜め上への僅かな剣の軌道の変化で逸らす。 無駄な力がない、完璧な防御。
敵の態勢がわずかに崩れる。
その一瞬の隙を、志文は逃さない。志文は懐に深く踏み込んだ。
志文の剣は、鎧の隙間を正確に捉え、心臓を貫いた。
ドスッ!という鈍い音。敵は、血泡を噴きながら、その場に崩れ落ちた。
志文は、剣を抜き、その血飛沫を静かに払う。
「怯むな!」残りの斥候が、志文を取り囲もうとする。
志文は、剣を左右に払う。
その動きは、武術の粋を集めたものであり、無駄な力がないがゆえに、予測不可能な軌道を描いた。
二つの剣閃が、夜の闇を切り裂いた。二人の斥候が、喉元と脇腹を同時に切り裂かれ、血を噴き上げながら、その場に倒れた。
彼の剣は、一兵卒の剣ではない。
それは、戦場の覇者の絶対的な武力だった。志文は、敵の命と、己の成長を、冷徹な計算のもとで、淡々と続けていく。
魯国の斥候の群れは、わずか一刻で血の塊に変えられた。
その場に残ったのは、冷たい月光と、生々しい死の匂いだけだった。
デイリーミッション 目標:1の突破達成:筋力1.0pt上昇。肉体の限界突破可能。
「流石ね!惚れ惚れするわ!無駄のない洗練された動きだったわ....」
彼女はそう呟きながら、志文をじっと見つめていた。
夜通しの行軍。志文らは、衛国最大の要塞、龍牙関に到着した。
要塞の兵士たちは、飢えと疲労で、士気は地に落ち、まさに敗残兵の群れ。
腐敗した王都が、兵站を抜き取ったことの弊害が、要塞全体を覆っていた。
志文は、要塞の惨状を『観察眼』で解析した。
(魯軍五万に対し、衛軍は戦闘可能な兵が五千。兵糧は三日分未満。士気値:-20%。加えて、袁興の「暗殺兵」が、衛国兵の中に多数潜伏しているようだ。内と外からの挟撃。まさに死地だな....)
衛国軍の軍師将軍、韓忠が、憔悴しきった表情で志文を出迎えた。
目には、敗北を悟り、諦念が浮かんでいる。
「伯志文。斥候隊を破ったと聞いた。だが、見ての通り、ここは煉獄だ。魯国軍師・公孫穆は、我々が兵糧切れであることを完全に把握している。あと三日で、この関所は落ちるだろう」
その時、志文の頭の中に、警告音が響いた。
―――【ワールドミッション】 発生―――
目標:魯国軍との交戦中に、景国、玄岳国、南黎国、沙嵐国のいずれかの国境に戦火を発生させ、天下の均衡を揺るがす
(五千の飢えた兵で、五万の重装歩兵を退け、なおかつ他国を動かす戦火を上げろ、か。内には、袁興の刺客がいる。…面白い。俺の武と知でどこまであがけるか、試してみようじゃないか....)
志文は、要塞の天辺へと向かい、衛国兵士たちに宣告する。
「聞け、衛国の兵士たちよ!貴族どもの腐敗で、我々は兵糧を抜き取られている!魯国の魏鉄山は、我々を三日で地獄に落とすであろう!もとより、我らには、敗走という選択肢はない!死か、勝利か、二つに一つだ!」
志文の声は、静かだが、要塞全体に響き渡った。
その声は、敗残兵の絶望を、覚悟へと変えた。
「俺に、三日間、諸君らの命を預けよ!魯国の五万を沈めてみせよう!腐敗した王都を見返すため、そして生きて帰るために、俺についてこい!」
兵士たちの間に、微かなざわめきが走る。
志文の冷徹な自信と覚悟が、絶望的な士気を、わずかに上向かせた。
——[システム通知]——
—士気値が5%上昇。現在士気値:5%ー
―――【スペシャルミッション】 発生―――
目標:衛国軍兵士の士気値を、魯国軍との交戦開始前に10%以上、上昇させる
「李芳蘭!そなたもついてこい!戦いの火蓋は、もう切られている!」
李芳蘭は、志文の隣で槍を握りしめた。
「ふん、望むところよ。私の命は、最高の戦場に捧げるためにある。貴方に、私の運命の全てを賭けるわ!」
志文の武と知略、そして『天恵』のミッションが、この戦場の運命を、大きく揺り動かそうとしていた。
魯国と衛国、驕慢と覚悟の戦いは、すぐそこまで迫っていた。




