#1-59:崩れた計画
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【前話のあらすじ:武威城にて、衛国と魯国の初戦が始まった。しかし、その初戦は、思わぬ様相を呈し、今や、武威城の伏兵と奇策によって、衛国軍は壊滅に追い込まれようとしていた……】
突如として、平原の「音」が変わった。
それまで戦場を支配していたのは、城壁を奪い合おうとする男たちの怒号と、金属が激しくぶつかり合う乾いた音だった。
だが、次の瞬間、それらすべてを塗りつぶすような、重低音の地鳴りが足裏から突き上げてきた。
志文は、自らの馬が異常なほどに耳を伏せ、小刻みに身震いするのを感じていた。
左右の鬱蒼とした森から、数万羽の鳥が一斉に羽ばたき、空を黒く染める。
その羽音さえもかき消す勢いで、緑の帳が内側から爆発するように弾けた。
「……来たか」 志文の呟きは、直後に放たれた魯国騎兵一万の咆哮にかき消された。
いまや、森から溢れ出した鋼の波は、計算し尽くされた鋭い楔となって、密集する衛国軍の退路へと深く、突き刺さっていた。
さらに絶望を塗り重ねるように、堅牢に閉ざされていた武威城の門が、重々しい音を立てて内側から跳ね上がる。
そこから吐き出されたのは、鈍い黒光りを放つ重装騎兵二万であった。
それはもはや、戦いと呼べるものではなかった。
城壁下に押し込められた三万近い衛兵たちは、あまりの密集ぶりに、盾を構えるどころか、腰の剣に手をかける空間すら奪われていた。
前後左右から押し寄せる魯軍の騎馬の衝撃。
馬の巨大な蹄が、ぬかるんだ泥を跳ね上げ、行き場を失った男たちを容赦なく踏み砕いていく。
「押すな! 戻れ! 戻れえっ!」
密集地帯での叫び声は、戦場の喧騒にかき消されていった。
逃げようとすれば、後ろの友軍に突き飛ばされ、踏みとどまろうとすれば、騎兵の槍に貫かれる。
組織という形を失った三万の軍勢は、ただの「獲物」へと成り下がり、逃げ場のない低い城壁を背に、一方的な刈り取りの作業に曝されていた。
衛国本陣。
維寿は、そのあまりに非現実的な殺戮の光景を前に、立ち尽くしていた。
維寿の手は震え、酒が地に滴り落ちているが、その瞳だけは戦場のどこか一点を狂気的に注視しているように思えた。
「な……なんだ、これは。何が起きている……」
維寿の視界の中では、自慢の精鋭たちが、まるで作物を収穫されるかのように、規則正しく地に伏していた。
その事実が、彼の誇りを根底から破壊していた。
「伏兵を叩け! 予備兵を……残りの全軍を出せ! 援軍だ! さらなる援軍を投入しろ! 奴らをここで叩けば、武威城は落ちるのだ!」
維寿の叫びは、戦略に基づいたものではなかった。
ただ、自らの戦略を正しいと思い込むために、さらなる「薪」を炎に投じようとする愚策であった。
「なりませぬ!」
背後から響いたのは、裂帛の気合がこもった志文の声であった。
志文は馬を跳ねさせると、維寿の正面に割り込んだ。
同時に、右軍の陣から風のように駆け戻ってきた韓忠も、維寿の退路を断つように背後に降り立つ。
二人の将が、物理的に維寿を挟み込み、その前進を阻んでいた。
「維寿将軍、援軍を出すのは、それこそ、敵の思うつぼです! 伏兵がこれで全てとは限りませぬ!」
「退け、志文! 総大将の命令が聞けぬというのか!」
維寿が腰の剣に手をかけようとした。
志文の瞳は、氷のように冷たく、その身には、業火のように激しい「殺気」を纏っていた。
志文は一歩も引かず、維寿の漆黒の胸当てを掴まんばかりの勢いで詰め寄る。
「今、兵を出せば、衛国軍が全滅するのです! これは敗北です。認めねばなりませぬ!」
「……敗北だと? 我が衛国の、この私に……泥を塗れと言うのか!」
「死んでしまえば、名誉も泥もありません! 生きていなければ、雪辱も叶わないのです!維寿将軍、貴方の遺恨は聞いております。ですが、それも生きてこそ!今ではありませぬ!!」
志文の咆哮は、周囲の兵たちが思わず身を縮めるほどの気迫に満ちていた。
韓忠もまた、一言も発さずに維寿を凝視していた。
その沈黙は、下手をすればこの場で総大将の首を撥ねかねないほどの重圧となって、維寿の全身を蝕んでいた。
「撤退の合図を……今すぐに!」
志文の悲痛な、しかし断固とした要求に、維寿の矜持はついに崩壊した。
彼は、自らの失態の重みに耐えかね、そして悔やむように、わなわなと震える手で、伝令兵に撤退の号令を命じた。
戦場に、低く重苦しい退却の法螺貝が響き渡った。
それは、衛国軍にとって、この戦に暗雲が立ち込めたという証の音でもあった。
その地獄の中で、ある一団だけが、異様な秩序を保って泥濘を脱していた。
林業率いる左軍である。
志文の配下の中で、武と策の両方を最も高水準に持ち合わせているがゆえに、どんな局面にも柔軟に対応できる可能性が最も高い将、それが林業だった。
それゆえに、志文は、林業を前線に向かわせた。
志文から託された「うまくやれ」という一言。
その真意を、林業は、卓越した知略で完璧に捉えていた。
彼は前線へ向かう道すがら、すでに「音」を聴いていた。
林業は、戦場を「音」で捉える将であった。
それは、「戦場の息遣い」とでも言うべきか、敵や味方の声や木々の揺れる音、風の音、そういった戦場に巣食う全ての「音」が彼の道標であった。
「予感」、そういうものを林業は頼りにしていた。
論理では説明できない、それでいて、”確かな”予感。それが林業にとっては「音」であった。
そして、林業が前線へと向かった時、武威城の魯国兵が、必死に抵抗しているようでいて、その実、衛兵を城壁の特定の位置に誘い込んでいるという、微かな「戦いの不自然さ」は「音」となって、彼のもとに届いていた。
守備兵の位置、左右の木々の異様な静まり、武威城の守備兵の士気と練度、味方の目線、そういったすべての「音」が、彼の軍の行軍を慎重なものへと変えていた。
左右の森から鳥が舞い上がる数秒前。
地面を伝う、馬の蹄とは異なる不気味な低振動を、林業の鋭敏な感覚が捉えていた。
(……来たな。蓋が閉まる音だ)
林業は、伏兵の姿を確認するよりも早く、自らの全兵力に反転を命じた。
維寿の撤退命令など待っていれば、今頃は自分たちも森から出た騎兵の餌食となっていただろう。
「引くぞ。長居は無用だ。」
林業が静かにそう言うと、葉旋軍を伴った左軍はまるで一つの生き物のように、魯軍の包囲網が完成する寸前の「隙間」をすり抜けていった。
それは、林業だからこそ成しえた、奇跡的な離脱であった。
夕闇が、すべてを隠し去るように黒龍河を包み込んでいく。
敵が追撃してくることはなかった。
志文は、左軍の本陣で、戻ってきた兵たちの姿を一人一人、目に焼き付けていた。
「……報告を」 志文の声は掠れていた。
報告を告げる兵の声は微かに震えていた。
林業が連れ戻したのは、一万のうち八千。
韓忠の配下、陳豪が、その剛力と統率で無理やりに引き剥がしてきたのが五千。
そして、維寿の配下が直接率い、罠のど真ん中に居座り続けた中央軍は……戻ってきたのは、千にも満たない数であった。
十五万という圧倒的な威容は、わずか一日のうちに崩壊し、たった一戦で二万近い兵が泥の中に沈んだのであった。
志文は、激しい眩暈に襲われ、膝を突きそうになった。
視界が揺れ、胃の底から熱いものがせり上がってくるのを、鉄の意志で押し留めていた。
今までも多くの兵の死を見てきた。友に永遠の別れを告げたこともあった。
しかし、この一戦は、「敗北」や「別れ」などという二文字で済ますには、あまりに異様で、残酷な一戦であった。
援軍を派兵せず、ただ眼前で地に伏していく同胞。
彼らにも家族がいて、愛する者がいて、帰りを待ちわびる者がいるはずだった。
その彼らを見捨てるという判断をしたのは、維寿であり、韓忠であり、そして自身であった。
「……武威城の、将よ」
霧の向こうで、赤黒い炎に照らされる武威城。
その城壁の上に、自分たちを見下ろす敵の指揮官の幻影を見た気がした。
志文の脳裏には、すでに次の「絶望」が描かれていた。
(六万という大軍を使い、これほど完璧に我々を誘い込んだその手腕。何者だ……)
志文は、自身の配下の傷跡を見つめながら、震える拳を握りしめた。
魯国軍はこの後、おそらくこの武威城を、未練もなく放棄して後退するだろう。
衛国軍に致命的な打撃を与え、戦意を削いだ状態で、「空っぽの城」という重荷を押し付けるために。
そうなれば、退路の確保のために、城壁の低い武威城に多くの兵を配さねばならなかった。
計画では、武威城に配する兵数は一万程度であった。
しかし、それは武威城に現れた援軍を含む魯国軍の士気と練度、そしてそれ以上に衛国軍を翻弄した将の存在によって、二万近くを失った衛国軍は、この武威城に一万よりも多くの守備兵を配す必要があった。
なにより、魯国軍の策が読めなくなった以上、衛国軍は、三軍に分断されたまま、背後に不安を抱えて、さらに険しい要塞戦へと進まなければならなかった。
「城そのものが、我々を縛る枷になるのか……」
志文は、暗く淀んだ河面を見つめた。
そこには、敗北に汚れ、修羅の相を浮かべた己の顔が映っていた。
「これが……これが、戦ということか……」
夕日の残光が闇に沈んでいく。 こうして、開戦初日は幕を閉じたのであった。
【お読みいただきありがとうございます!】
次話は、要塞戦です!!
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そっと一言:「文体を変えてみました。客観的に描いていたのですが、没入感が必要だと判断し、自分でも読んでいて、没入感がある方が読みやすいと感じたので……維寿はそんなに無能ではないんです、実は。「なぜ愚策を選んだか」というのは次話でわかります!!」
――――――――【他作品も全力執筆中!】
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