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#1-56:天下への一歩

天都は、夜の帳を脱ぎ捨てたばかりのような、重く湿った空気に包まれていた。

夜明け前の微光が街並みを青白く染め、軍舎の周囲には、朝露を含んだ冷気が澱んでいる。

門前には、最終試験を終えた者たちが立ち並んでいた。

彼らの吐き出す息は白く濁り、その視線は一様に鋭く、あるいは不安に揺れている。

これから下される合否の沙汰が、彼らの人生を、そしてこの国の行く末を左右することになるからであろうか。

その場に充満する緊張感は、まるで物理的な重みを持って、そこに立つ者の肩にのしかかっているようだった。


扉の奥、外の喧騒を遮断した静謐な空気が支配する一室で、伯志文は最後の一人を待っていた。

部屋の隅で焚かれた香の煙が、細く頼りなげに立ち上り、天井の梁に消えていく。

志文は机に置かれた木簡をじっと見つめていたが、その表情は彫刻のように硬く、

感情の入り込む隙をまったくと言っていいほど見当たらなかった。

その背後では、姜雷が巨躯を揺らし、所在なげに腕を組んでいる。

彼は退屈を隠そうともせず、時折、大きな鼻を鳴らしては、微かな振動を部屋の空気に伝えていた。

扉が軽く、だが確かな意思を持って叩かれた。

「入れ」 志文の声は、短く、冷徹であった。

しかし、入ってきたのは、最後の志願者ではなく、側近の羅清であった。

「なんだぁ? どういうことだぁ、羅清。最後の一人はどうした」

姜雷が眉根を寄せ、不機嫌そうにぼやく。

羅清はその不満を真っ向から受け止めながら、志文の前で深々と頭を下げた。

「殿、申し訳ありません。私の独断で、三百番の者を最後に致しました」

志文は動じなかった。

羅清という男が、単なる気まぐれで規律を乱すはずがないと信じていたからであった。

志文は、その瞳をじっと見据え、続きを促した。

羅清は言葉を選びながら、静かに語り始めた。

「先の連合軍戦の折、亡命のような形で我が国へ逃れてきた者がおります。林業と共に事情を詳しく聞き及んだのですが、その正体と処遇について、確信が持てるまで慎重を期しておりました。とりあえず、葉旋に預け、彼女の屋敷で過ごさせておりましたが……。危害を加える者でないことは、この一年で証明されております。ただ、本人が『殿にはいずれ機を見て、自分の口から話したい』と強く望んでおりましたゆえ、今日まで報告が遅れました。重ねて、申し訳ありません」

そう言うと、羅清は深く頭を下げた。

しかし、その羅清の言葉を発し終え、(こうべ)を垂れたと同時に、姜雷が椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。

「羅清! 貴様、志文様を蔑ろにしたということか! 将の決めた順序を勝手に変えるとは、軍律違反だ。ここで斬り捨ててくれるわ!!」

姜雷が薙刀の柄に手をかけた瞬間、志文が静かに片手を上げた。

その僅かな動作だけで、室内の殺気は霧散したようであった。

「構わぬ、姜雷。試験の統括については、当初より羅清に一任していた。ゆえに、現場の判断で順序を変えることに問題はない。知らせなかったのも、”本人”の覚悟を尊重した結果であろう。蔑ろにされたとは思っておらぬ。……とにかく、その、待たせてある”本人”を呼べ」

羅清は一度だけ志文の瞳を見て、安堵とも緊張とも取れる表情を浮かべると、深く一礼して退出した。


入れ替わるように、一人の女性が入ってきた。

志文はその顔を視界に捉えた瞬間、脳裏に雷光が走ったような衝撃を受けた。

心臓の鼓動が耳元で大きく鳴り、時間が永遠に引き延ばされたかのような錯覚に陥る。鋼のように冷徹に保たれていた彼の瞳に、隠しようのない動揺の波が広がっていた。

「……白麗……なぜ……そなたが、ここに……」

絞り出すような志文の声は、掠れ、震えていた。

そこに立っていたのは、かつての穏やかな日々において、父・伯明が交わした約束の象徴であり、幼き日の志文が、妹たちと同じくらい、その時間を共にした少女、白麗であった。

記憶の中にある幼い面影は、今や気高く美しい武人のそれへと昇華されていた。

だが、その瞳に宿る、清流のように澄んだ光だけは、かつての彼女そのものであった。


白麗は、志文の許嫁であった。

彼女の父は、沙嵐国の『沙嵐六猛』の一人、白鋼である。

白鋼は、『沙嵐六猛』の中でも最強と目されており、そのいわば、”最強説”は、今でも根強く残っているようであった。

志文の父・伯明とは戦場で幾度も刃を交えながらも、互いの武勇と人格を認め合う、奇妙な友情で結ばれていた。

かつての戦で伯明が白鋼を捕らえた際、伯明はその縄を解き、独断で沙嵐国へ返したという逸話がある。

その義侠心に打たれた白鋼は、敗戦の責任を取って、先王の引き留めを無視して、『沙嵐六猛』の座を退き、隠居の身となった。

沙嵐国の先王は、衛国に伯明という『最後の番人』がいることを理由に、長らく友好関係を保っていた。

祖国こそ違えど、志文と白麗の婚約は、二つの家族、そして二つの国の絆を結ぶ希望の象徴であった。

しかし、沙嵐国の王が代わり、野心溢れる新王が即位したことで、全ては暗転した。

沙嵐国は景国・玄岳国と手を結んで連合軍を結成し、志文の父・伯明を討った。

その凶報と共に、志文と白麗の婚約もまた、血塗られた歴史の中に埋もれ、破棄されたはずだった。


「……沙嵐国の白麗が、なぜこの場所にいる」 志文は無意識のうちに椅子から立ち上がり、彼女を真っ直ぐに見据えた。

白麗は、一瞬だけ唇を噛み、震える指先を隠すように拳を握りしめた。

だが、次の瞬間には、志願者としての凛とした表情を張り付かせ、深く一礼した。 「失礼いたします……」

彼女はそう言うと、許可を待たずに椅子に腰かけた。

その堂々たる振る舞いは、名門の娘としての矜持を感じさせた。

姜雷は、室内を流れるあまりに異様な空気感に、戸惑いながら目を(しばた)かせていた。

「姜雷……すまぬが、席を外せ」

志文が背中を向けたまま命じると、姜雷は全てを察したように、無言で深く一礼し、部屋を出ていった。

扉の外で、待機していた兵たちをも遠ざける姜雷の低い声が聞こえた。


室内は、不自然なほどの静寂に包まれた。

その静寂を破ったのは志文であった。

「……なぜ、来た。沙嵐国には白鋼殿がおられるはずだ。元『沙嵐六猛』の娘が、仇敵とも言える他国の軍門を叩くなど……。すぐに帰れ。ここはそなたのような者が来る場所ではない」

志文の声は、氷のように冷たかった。

それは冷酷な拒絶ではなく、彼女をこれ以上、血生臭い戦乱の渦中に立たせたくないという、悲痛なまでの忌避感の裏返しであった。

しかし、白麗は微動だにしなかった。

彼女は顔を上げ、志文の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

「父、白鋼は……五年前、病でこの世を去りました」

その一言は、志文の胸を鋭く刺した。

あの豪胆で、義理堅い英雄が、もはやこの世にいない。志文にとって、父の数少ない理解者を失った事実は、測り知れない衝撃であった。

「……亡くなられたのか。あの白鋼殿が」

「はい。父は最期まで、伯明様との絆を人生の誇りにしておりました。そして、沙嵐国の変わりゆく姿を嘆き、私にこう言い残したのです。『そなたの生きたいように生きろ。何者にも、過去にも縛られることはない。恐れず、己の信じる道を行け』と。……志文様、私は私自身の意志でここへ参りました。貴方に、そして、衛国にこの身を捧げたいと思ったのです」

白麗の言葉には、揺るぎない覚悟と、熱い気概が宿っていた。

志文は、目の前に座る女性の瞳の中に、かつて自分の後ろを泣きながらついてきた少女の面影を探したが、そこには一人の不退転の武人の姿があるだけで、もはやかつての面影は残されていないようだった。


しばしの沈黙が流れる。

やがて、志文はゆっくりと椅子に腰を下ろし、深く息を吐き出した。

「……よかろう。今の言葉、白鋼殿の娘としてではなく、一人の志願者として受け取ろう。……試験を開始する」

志文は、あふれ出す感情を心の奥底へと押し込んだ。

「白麗。そなたに問う。……天下を取ることは、重要か?」

白麗は一瞬、目を伏せて自らの魂に問いかけるように考えた。

「天下を取ること自体には、価値はないと考えます。重要なのは、その後にどのような景色を民に見せるか、ということでございます。果てなき戦乱を終わらせ、親が子を愛し、子が親を敬う、そんな当たり前の営みを護るための『手段』として天下を望むのであれば、それは至上の価値を持ちましょう。ですが、単なる権力の誇示であれば、それは虚しいだけです」

志文の瞳に、微かな、だが確かな光が宿った。

「……では、そなたはどのような者になりたい。武勇で名を馳せる将か、あるいは民に慕われる聖人か」

「私は……志文様の『影』になりとうございます。志文様が光り輝く龍として天下を翔ける時、その足元にある暗部を拭い、誰の手も届かぬ場所で貴方を支え、護り抜く。名声も、地位も、歴史に名を刻むことさえいりません。ただ、志文様という御方の芯を、最期まで護り通す、たった一人の理解者でありたいのです」


「……合格だ」 志文の声は、先ほどまでの冷たさを失っていた。

「民を大切にする心を忘れてはならぬ。……そして、軍に私情は挟むな。二つ目の問いは、重要ではなかった。ただ、その者の本質を知るための、鏡のような問いに過ぎぬ。ゆえに、合否は最初の問いで決めるつもりであったが……白鋼殿の、そして幼き日のそなた自身の理想を、そなたは正しく受け継いだようだな....」

白麗の表情が、一瞬だけ、春の陽だまりのように綻んだ。

彼女は深々と頭を下げ、立ち上がった。


退出する際、彼女はふと思い出したように足を止め、振り返った。

「……志文様。私は、志文様の本軍に入りたいのですが、可能ですか?」

志文は、手元の記録を確認した。彼女の成績は、並み居る手練れたちを抑えて総合第三位と記されていた。拒む理由はどこにもなかった。

「わかった。本軍に配属しよう」

「それと、志文」 白麗は唐突に敬称を省いた。

その響きは、かつての幼き日、夕暮れの丘で約束を交わした時の声そのものだった。

「その……数多の縁談を断ってきたわ。……貴方も、そうであることを、私は信じているわ」

頬を朱に染め、だが強い眼差しを残して、白麗は足早に去っていった。


こうして、盛況のうちに、初めての衛国志文軍の新兵募集試験は幕を閉じた。

合格者たちは、門の外で一様に喜びに沸き立っていた。

志文は、定員をわずかに超える二百十名の精鋭を選び抜いた。

朱炎の強い推薦により、過酷な状況を共に生き抜いた侭洪、石號、石厭の三人も、志文が直卒する精鋭隊へと組み込まれた。

そして、白麗もまた、志文本軍へと配属された。


それから、一年の月日が流れた。

天都の空を、四季の風が吹き抜けていった。

新兵たちは、志文軍という鋼の規律の中で、文字通り血を流し、汗を流して己を鍛え上げた。

志文の掲げる理想は高く、その調練は過酷を極めたが、脱落する者は一人もいなかった。

一兵卒に至るまで、彼らの瞳には「志文の意志」を体現しようとする強い光がいつしか宿るようになっていた。


その中でも、朱炎と白麗の成長は、特に目覚ましかった。

朱炎は、かつて魯国の密偵として、闇の中に生きていた彼女の影を、今や完全に断ち切っていた。

彼女が振るう双剣は、もはや迷いという毒を削ぎ落とし、純然たる武の鋭さを研ぎ澄ませていた。

戦場における彼女の動きは、誰よりも激しく、誰よりも勇敢であり、兵たちの信頼を一身に集める存在となっていた。

そして、白麗の才は、まさに「異形」であった。

ある日の模擬戦。

姜雷を相手に、彼女は一歩も引かずに長槍を操った。その穂先は閃光のごとく走り、姜雷の重厚な一撃を受け流しては、その隙を的確に突いた。

「はあっ!」 鋭い咆哮と共に放たれた一撃が、姜雷の喉元にピタリと止まる。

「……が、がはは! まさか、この俺が女に冷や汗をかかされるとはな!」

姜雷が手加減をしていたとはいえ、その実力を認めさせた彼女の武名は、全軍に轟いた。

さらに彼女は、武勇だけでなく、知略においても非凡な才能を見せた。

軍議の場で羅清や林業と対等に渡り合い、複雑な地形を活かした戦術を次々と提案する彼女に、古参の将たちも舌を巻いているようであった。

朱炎と白麗。二人の才女は、出自を伏せられたまま、その実力と人望によって異例の速さで「副将」へと昇格した。

志文の隊は、今や衛国最強の矛と盾を備えた軍勢へと変貌を遂げていた。


ある日の夕暮れ。

調練を終えた志文は、天都の街の喧騒を抜け、いつも通り、屋敷へと帰還した。

そして、いつものように、その帰りを二人の妹が待ち構えていた。

「おにいさまぁ! お帰りなさいませぇ!」

末妹の雪華が、弾けるような笑顔で駆け寄ってくる。

彼女は志文の腰にしがみつき、愛らしく甘えた声を上げる。

「今日は少し遅かったからぁ、雪華はとっても寂しかったです。ねえ、おにいさまぁ、ごはんの前に、雪華の話きいてぇ! だめぇ?」

「ただいま、雪華。……ああ、わかった。後でじっくり聞こう」

志文がその柔らかな頭を撫でると、奥から月華が穏やかな微笑みをたたえて現れた。

「お帰りなさいませ、お兄様。お夕飯の準備、すべて整っておりますよ。冷めないうちに召し上がってくださいね」

月華の包み込むような優しさと、雪華の無邪気な明るさ。

煮炊き場から漂う温かな香りと、妹たちの笑い声。

これこそが、志文が守り抜くべき「平和」の形であり、彼が唯一、戦鬼としての自分を忘れることができる休息の場所であった。


だが、その夜の静寂を破ったのは、胡麗の帰宅であった。

情報局を統括する彼女は、国家の機密を一身に背負い、近頃は屋敷に帰ることさえ稀になっていた。

志文が月華と雪華を寝かしつけ、庭の月を眺めていた時に彼女は屋敷に帰ってきたようだった。

「……あら、志文。起きていたのね」

胡麗は、普段の冷徹な仮面の下に、深い疲労と焦燥を隠しきれずにいた。

「……何かあったのか」

志文は、彼女のために温かい汁物と菜飯を用意した。

「食べておけ。そなたが倒れては、この国の目は閉じたも同然だ」

「……ありがと。貴方の作る飯は、相変わらずおいしいわね....」

胡麗は隣に座り、汁物を一口ずつ大切に運んだ。

その温かさが、彼女の頑なな肩の力を少しずつ解きほぐしていった。


「……景国が、動いたわ」

重い沈黙を破り、胡麗が語り出した。

「徴兵を大々的に開始し、国境の要塞を、守備のためではなく、侵攻の拠点として改築している。……いよいよ、牙を剥いたわ。景国が動けば、東の魯国も、西の沙嵐国も、北の玄岳国も必ず呼応する。衛国は、四方から喰い荒らされることになるわ」

彼女は粥を平らげると、決然とした目で志文を見つめた。

「私は情報局に戻るわ。まだ調べなければならないことが山ほどある。……志文、貴方も覚悟を決めておいて」

彼女は志文の袖を一度だけ、(すが)るように強く握ると、再び夜の闇へと消えていった。


明朝。

志文は軍舎の一室に羅清を呼び出した。

「景国が動いた。……羅清、策はあるか」

羅清は、まるでその情報を知っていたかのように、静かに地図の東方を指差した。

「……魯国を滅ぼす。それしかありません」

東の脅威を事前に排除し、防衛線を一本化する。

挟撃を避け、衛国の背後を固める。

「景国が動き出す前に、大国・魯国を飲み込むのが最善策かと。最短で景国が侵攻してくるまで一年。厳しい戦いになりますが、座して死を待つよりは、毒を喰らってでも活路を見出すべきかと」

志文は頷き、その足で情報局へ向かった。

局内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていたが、胡麗は志文の姿を見ると、すぐに彼を奥へと招き入れた。

「魯国の情報は既に、王宮に伝えたわ」

「そうか……助かる....」

「胡麗、あまり無理をするな。そなたが倒れては話にならん」

志文が不器用に気遣うと、胡麗は一瞬だけ顔を赤らめた。

「心配ないわ。貴方も、無理は禁物よ」

彼女はそう言うと、照れ隠しのように手を振り、彼を追い出した。


志文は、迷わず王宮へと向かった。 無論、謁見の為であった。

彼の到着は既に予見されていたのか、あるいは、胡麗が伝えたのか、謁見の要請は滞りなく通った。


大殿に入ると、宰相・徐平と、玉座に鎮座する衛徳王が待っていた。

志文は臣下の礼を取り、膝をついた。

「面を上げよ。胡麗から事情は聞いている。前置きは不要だ。志文、そなたの考えを聞かせよ」

志文は頭を下げたまま、迷いなく本題を切り出した。

「魯国を討ちます。そのための軍議の招集を、伏してお願い申し上げたく」

衛徳王は、志文の言葉の裏にある決意の重さを量るように沈黙した。

「徐平。軍議を三日後に開く。全将軍に通達せよ」

「承知いたしました」 徐平が退出し、大殿には王と志文だけが残された。


「志文、久しいな。変わりはないか」

「陛下におかれましても、ご健勝のご様子、何よりに存じます」

「……志文。実際のところ、どうなのだ。我が国は、もはや風前の灯火なのか」

志文は答えなかった。その沈黙こそが、最も残酷な真実であった。

「そうか……。そなたと話していると、少し気が楽になる。皆、私に気を遣って真実を濁すからな」

「....陛下がその座に座っておられるだけでないことは、皆、わかっております。兵書を読み、民を思い、陛下もまた戦っておられることは、皆が知っているのです。陛下は、僭越ながら、お強くなられました....」

「ふっ……。そうか....それが聞きたかったのかもしれぬな、私は。……志文、最後まで、共にいてくれるか....」

「私の護るべき者は、この国におりますゆえ」

志文の言葉に、衛徳王は穏やかで、どこか寂しげな笑みを浮かべた。


三日後。

王宮の大殿は、国家の命運を懸けた軍議を前に、空気は、爆発しそうなほどの熱気に包まれていた。

玉座の衛徳王、傍らの宰相・徐平。

そして大殿を埋め尽くすのは、衛国が誇る全将軍と、文官たちの群れであった。

最前列には、『双龍の番人』張江、豪胆な磐虎、柔和な韓忠をはじめとした志文にとっては旧知の将たちが並ぶ。

その他には、維寿(いじゅ)筝繍(そうしゅう)閲櫂(えつかい)楡畿(ゆき)顛紊(てんびん)楼潘(ろうばん)玄風(げんふう)斯臥烈(しがれつ)杜箭(とせん)蘇邦(そほう)毘辰(びしん)稔雷(じんらい)駑巌(どげん)

衛国の全武力が、ここに集結していた。


ほどなくして、徐平が立ち上がり、声を張り上げた。

「これより、軍議を開始する。伯志文より提案がある。皆、静粛に」

志文は、静かに前へと歩み出た。

「皆様、まずは、お忙しい中、私の要請に応えていただき、誠に感謝いたします。僭越ながら、この伯志文、非才の身ではありますが、衛国の危急を打破するため、皆様のお力をお借りしたく申し上げます」

志文は、景国の情勢を淡々と、だが力強く説明した。

「……景国が徴兵を行ったのが、つい先日ですので、兵站の確保や新兵の調練を鑑みたとはいえ、推測の域を出ませぬが、景国の侵攻は、最短で一年後かと推察いたします。その時、東の魯国が我らの背後を衝けば、衛国は両極に兵を割かねばならず、戦線は間延びし、敗戦する可能性が高くなると愚考いたします。ゆえに私は、景国が動く前に魯国を滅亡させることを提案いたします!さすれば、景国、玄岳国、沙嵐国が攻めてきても、防衛線を張りやすくなるかと」


大殿は水を打ったように静まり返っていた。

その静寂を破ったのは、楼潘であった。

「志文殿、貴殿の説明は端的で大変、明快であった。ゆえに問おう。我らが魯国を滅ぼすことができるとお思いか?」

楼潘は、慎重な将として衛国内では有名で、守戦に長けている将であった。

「滅ぼすことができるかは、わかりませぬ。なれど、座して動かぬは死すも同じにございます」

志文の答えに、楼潘は笑みをこぼした。

「うむ!その返答、気に入った。我は賛成じゃ!しかし.....伯明殿にそっくりじゃな!ガハハハッ!」


「志文殿、私からも一つよろしいかな?」毘辰が丁重な態度で言葉を発する。

毘辰は、礼儀を重んじる将であり、定石通りの戦術を得意とする将であった。奇策にはやや弱いところがあったが、手堅い将であった。

「ぜひ賜りたく」志文がそう告げると、毘辰は少し間を置いて、言葉を発した。

「仮に、景国が攻めてきたとして、例えば、今、玄岳国を討てば、少なくとも、魯国は、景国や沙嵐国と連携を取れぬ。その可能性も考慮したうえでの魯国なのかな?」

「たしかに、玄岳国を討てば、魯国が他国と戦場で連携を取ることは難しくなります。しかし、それでも私は魯国を討つことを提案いたします。というのも、第一に玄岳国を討つには、万全の準備が必要です。玄岳国には『玄岳四堅』が四人、皆、健在しております。対して、魯国は、『魯三傑』のうち、魏鉄山がいない今、確実にその士気を落としているはずです。第二に魯国は、歩兵戦が主体です。ゆえに、戦場は平地を好みます。ですから、山岳や海上とは違って、地形に悩まされる可能性は低くなります。第三に、玄岳国を攻めれば、密約を交わしている魯国は救援に動きますが、その逆は起こりませぬ。玄岳国国王、玄岳王牙(げんがくおうが)は、慎重で保守的な性格と聞きます。勝てる戦でなければ、動かないはずです。白狼山脈と飛砂関で二度も敗れている今、動かない可能性は高いはずです」

「たしかにその通りだ。私も志文殿の提案に賛成しよう」


「俺も賛成です!」そう大声を響かせたのは磐虎であった。

「志文の言うことには、明確な筋が通っております!ゆえに賛成です!」

志文は深く頭を下げる。


「私も賛成です。新たな『魯三傑』が生まれる前に、叩くべきです」そう言って、一歩進み出たのは、韓忠であった。


張り詰めた空気が和らいでいく。

果たして、旧知の将たちの援護により、大殿での決議は終結を迎えようとしていた。


「一つ尋ねてもよいか?」そんな空気の中、そう言って、一歩進み出たのは、維寿であった。そのそばで、閲櫂、玄風、蘇邦も一歩進み出ていた。

「魯国と手を結ぶという選択肢はないのか?」

維寿は、戦ではなく外交で国を護りたい将であった。

若い頃の彼は、戦を好んだ。

大小さまざまな傷を作っては、そのたびに自慢していたような猛将であった。

しかし、伯明亡きあと、彼は、この国の脆弱さを知り、外交を重要視したのであった。

閲櫂や玄風、蘇邦も同じように外交を重んじた将であった。

事実、袁興(えんこう)が伯明の戦死後の外交を進められたのも、維寿らの後押しによるところが大きかった。


「貴殿らもわかっておられるのではないか?」志文が言葉を発する前にそう言葉を発したは、筝繍であった。

筝繍は、冷静な将で、常に落ち着き、どんな相手にも分け隔てなく接するため、多くの者から慕われていた。

筝繍は淡々と言葉を発した。

「外交などという甘美で脆弱なものに頼れるほど、この天下は容易くないと貴殿らもわかっているはずだ。でなければ、龍牙関での戦や白狼山脈での戦、なにより、連合軍などいうものは生まれなかったはずだ。そうであろう?」

維寿たちは黙っていた。


「外交など、所詮、この天下の争乱にあっては役に立たぬわ!魯国を滅ぼす?その気概は大いに結構!劣勢など関係ないわ!もとより、戦場で死ねるのであれば本望じゃ!ゆえにわしは賛成じゃ!」

そう吠えたのは、駑巌であった。

駑巌は猛将であった。策を一切使わず、ただ力のみで押し切るため、戦の度に、多くの犠牲を出したが、その猛攻は、衛国でも随一の破壊力を持っていた。

「ああ....俺も賛成だな!漢たる者、退いてはならぬ!!」

衛国の猛将であり、駑巌と同じく、力を尊ぶが、その実、兵法にも通じていることで有名な斯臥烈も賛成する。

「私はどちらでもよい。役を与えられれば、それを全うしよう」

そう発したのは、楡畿であった。

楡畿は、つかみどころのない性格であったが、戦に関しては、奇策を用いることが多い将であった。


「私は志文に賛成だ。伯明の息子としてではなく、飛砂関で共に戦った戦友として、私は志文の武を智をそして心を信じている」

張江のその一言は絶大であった。

張江は長らく、この衛国を、伯明と共に支えてきた将軍であった。

ゆえに、この場にいる将軍は、皆、張江を敬っていた。


「張江様がそう申されるのであれば、私も賛成です」

そう口にしたのは杜仙であった。杜仙は、どんな戦術にも対応できる柔軟な将であった。ゆえに、戦場においては援軍のような役割で戦に出ることが多かったが、実の彼は、勇将であり、その勇ましさを知る者は、彼の実力に一目置いていた。

「張江様がそこまで仰るのならば異論はない」稔雷も唸るような声を出す。

稔雷は、山岳戦を得意とし、騎兵の機動力を生かした騎馬戦術を得意としていた。彼は、衛国においては、山岳戦に最も長けた将であった。


顛紊は微かに咳ばらいをした。どうやら賛成のようだった。


「では、皆様、賛成のようですので、軍容の編成に議題を移しましょう」

徐平の言葉を合図に、軍議は再び、熱に包まれていった。

議論は数時間に及んだ。

他国との国境の防衛を誰が担うか、魯国へ向かう兵力はどう捻出するか。文官たちは兵糧の計算を弾き、将軍たちは、役割を話し合っていた。


衛徳王は、突如として立ち上がった。

「伯志文。そなたを魯国遠征時は、正式に『将軍』に任ずる。しかと頼む」


それは誰もが納得する(めい)であった。

志文の武と知は、今や、必要であることを、将の多くはわかっていた。

なにより、二度、魯国と刃を交えていたことも大きな要因であった。


そこからは怒涛のごとく、軍編成が決定されていった。

【国境防衛】

景国国境:駑巌(二万)、稔雷(一万)、毘辰(二万)。

沙嵐国国境:斯臥烈(一万)、楼幡(二万)。

玄岳国国境:顛紊(二万)、玄風(一万)。

天都・国内防衛:張江(二万)、磐虎(一万)、蘇邦(一万)。

【魯国遠征軍:計十五万】

(左軍):総大将:志文(一万五千)、葉旋(八千)、杜箭(一万七千)

(右軍):総大将:韓忠(二万)、筝繍(二万)

(中央軍):総大将:維寿(三万)、楡畿(二万)、閲櫂(二万)

全軍の総大将は維寿が務める。


軍容が一通り、決定したのを確認すると、胡麗が前に進み出た。

彼女の手には詳細な地図が握られていた。

「魯国王都・苑陽への進軍経路を説明します。まずは、黒龍河(こくりゅうが)を渡河し、魯国の最前線、武威(ぶい)城を二日以内で落とします。その後、三軍に分かれ、左軍と右軍は四つ、中央軍は六つの要塞をそれぞれ八日以内に落としてください。侵攻から十日後、王都の喉元である基備城で合流。基備城を三日以内で落とした後、最後の関門・天苑(てんえん)関を七日以内に突破。王都・苑陽へ入ります。一ヶ月以内に魯国を討つことが肝要にございます」

胡麗は少し間を置くと、話を続けた。

「戦況報告は一日ごとに左軍、右軍、中央軍がそれぞれに送りあってください。また天都にも報告を飛ばしてください。二日以上音信が途絶える軍が二軍以上出れば、即時撤退してください。……以上となります。出立は明後日の早朝にございます。各々方、御武運をお祈り申し上げます」


胡麗が話し終えると、衛徳王が玉座から徐に立ち上がる。

「我はここで祈ることしかできぬ。そなたらに武運があらんことを....」

衛徳王がそう言うと、軍議の場にいた将軍が一様に、片膝をつき、武人の礼をとった。文官たちは、深く頭を下げ、文人の礼をとった。

かくして、軍議は解散した。


その夜。

志文は月華と雪華を連れて、天都の屋台へ向かった。

「おにいさまぁ! 雪華、あのおりんごの飴が食べたいですぅ!」

「ああ、雪華。一つだけだぞ」

「お兄様、お身体は大丈夫ですか? 明後日には出立と伺いました。……どうか、ご無理をなさらずに。私たちは、ここでお兄様のお帰りを信じて待っております」

月華の優しい言葉が、志文の背中を静かに押す。


その次の日も月華と雪華を連れ、志文は衣服を買ったり、屋台を回ったりと楽しい時を過ごした。


そして、出立の日の朝が来た。

天都の門には、十五万の精鋭が、龍の鱗のごとく並んでいた。

胡麗が志文の馬に近づき、小さな声で告げた。

「……ちゃんと、帰ってきてよ。……貴方がいない衛国なんて、私には何の意味もないんだから」


張江が歩み寄り、志文と強く抱擁を交わした。

「志文……天都は任せろ。月華たちのことも心配するな。……そなたは、前だけを見て戦ってこい!」

「……感謝します、張江殿」


「全軍、出立!!」

維寿の号令が、天都の空を切り裂いた。

十五万の鼓動が一つになり、魯国へと向かって大地を揺らしていった。

それぞれの想いを乗せた軍勢は、今、歴史の荒波へとその身を投じたのであった。

その背後では、天都の城壁が朝陽に白く輝いていた。


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