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#1-55:芯の強さ

天都の朝は、これまでの峻厳な空気を嘘のように塗り替え、柔らかな陽光を軍舎に注いでいた。

その穏やかな陽光とは裏腹に、軍舎を満たす空気は、鋭く、重いものであった。

生き残った三百名の志願者たちは、一時の安寧と共にそれぞれの時を過ごしていた。

ある者は夜明けと共に霧の立ち込める隅で木剣を振り、己の迷いを断ち切るように鋭い風切り音を響かせている。

その音は、まるで己の恐怖を切り裂こうとするかのように、悲痛なほどに鋭鋳物のように思えた。

一振りごとに飛び散る朝露が、朝日を浴びて宝石のようにきらめき、それがかえって、この場に漂う空気の鋭さを際立たせていた。

またある者は、石段に深く腰を下ろし、昨日の泥にまみれた四肢を解きほぐすように、あるいは己の運命を祈るように、肺の奥にある重苦しい沈黙を吐き出していた。

石畳に落ちる影さえも、今日ばかりは己の首を狙う鋭利な刃のように見えるのか、(うずくま)るようにして座っていた。

誰もが、今日という日が自分たちの運命を分かつ最後の日であり、ここでの数分間が、これからの数十年を、あるいは生と死の境界を決定することを痛いほどに理解していた。

喉は渇き、鼓動は耳元で鳴り響き、ただ過ぎ去る一秒一秒が、重い鉄の塊のように心臓にのしかかっていた。


昨日までの試験で、脱落した者たちの叫び声や、泥にまみれた敗北の匂いはまだ鼻腔に残っている者もいるようだった。

生き残った三百名は、まさに地獄を這い上がってきた精鋭と言えた。

しかし、その顔に達成感はなかった。

これから行われる「口頭試問」という、武人にとって最も不得手であり、かつ最も残酷に本質を抉り出す試験への恐怖が、彼らの屈強な肩を丸めさせていたからであった。


朝霧が完全に晴れ、天都の城壁が鮮やかな朱に染まる頃、軍舎の掲示板に一枚の貼り紙がなされた。

『最終試験:口頭試問。最終試験は二段階とする。一の担当は、参謀・羅清殿。二の担当は総大将・伯志文様。以上を以て、志文軍への登用を決定する』

その簡潔な文言は、戦場で死線を潜り抜けてきた男たちの背筋を、冷たい刃でなぞるような緊張感で満たした。

武力や体力、知力ではない、己の「本質」を言葉で問われるという未知の領域が、志願者たちを音もなく支配していった。

ざわついていた軍舎は、その貼り紙がなされた瞬間から、奇妙なほど無機質な沈黙に包まれた。

風に舞う砂埃の音さえもが、耳障りなほどに大きく感じられ、遠くで聞こえる軍馬のいななきが、けたたましく聞こえるようであった。


朱炎は、その喧騒から少し離れた場所に立ち、朝の冷気を肺の奥まで吸い込んでいた。

冷たい空気が気管を通り、火照った内臓を冷やしていく。

(口頭試問……。伯志文に直接まみえる機会が、これほど早く訪れるとはな...)

彼女の腰に暗殺の刃はなかった。

というのも、潜入している仲間の一人からは、志文の傍らには常に『伯七狼』随一の猛将、姜雷が控えているという情報を得ていたからである。

(姜雷。あの怪物が傍にいては、この身一つで志文の首を獲るのは不可能に近い。今は焦るべきではない……)

彼女の指先は、戦いの中でついた微かな指のタコをなぞる。

それは密偵としての矜持か、あるいは「蓁玲」としてこの地で泥にまみれ、生き抜いてきた証なのか。

その自問自答さえも、冷たい風が奪い去っていくようであった。


彼女の瞳は、天都の高くそびえる城壁を見上げていた。

この壁の向こうに、かつての敵、そして今の「主」となるべき男がいる。

魯国からの密偵は、朱炎を含め十名いた。

だが、この苛烈な選別を潜り抜け、第五試験まで残ったのはわずか三名。

脱落した七名は、今頃魯国へと帰り、崇壜すうびんへ報告しているはずだ。

崇壜の予想は、完全に外れていた。

志文軍の試験は想像を絶する厳しさであり、それ以上に、この数日間で肌に染みた志文軍の精強さは、言葉を失うほどだった。

末兵に至るまで一切の妥協がなく、規律は鋼のように堅かった。

魯国が二度も辛酸をなめたのは、決して偶然ではなく、必然の結果である。

今は、はっきりとそれが理解できた。


朱炎は今回の任務の長であった。

彼女が命令を下さない限り、他の二人が独断で暗殺に踏切る可能性は低かった。

しかし、朱炎自身の中で、志文の喉元を掻き切ることへの逡巡が、毒のように全身を回っていた。

連合軍戦で遠目に見た志文の姿を思い出す。

ただそこに立つだけで、周囲の空間が歪むような圧倒的な「武」の威圧感。

勝てる気など微塵もしなかった。

きっと一撃も浴びせられずに終わる—―そんな予感さえするほどの、絶対的な差。

そして、その圧倒的な武の先には、まだ見ぬ深淵があるように思えてならなかった。

そしてなにより、泥にまみれ、侭洪や煉岱と笑い合った時間。

魯国のために捨て去ったはずの「人間としての情」が、天都の柔らかな朝陽に照らされたのか、疼き始めていた。

彼女は自身の内側に芽生えたその戸惑いを、無理やり思考の奥底へ押し込もうとしたが、そのたびに練兵場の乾いた土の匂いが鼻腔を突き、残酷なほど鮮明な記憶を突きつけてくるのであった。


最終試験が始まると、軍舎は一気に静まり返った。

三百名が番号順に、一室へと案内されていく。

案内役の兵士たちの足音さえもが規則正しく、志願者たちの鼓動を早めさせていた。

朱炎の番号は百十四番。まだ呼ばれるまでに少し、時間があった。


ふと辺りを見渡すが、煉岱の姿が見当たらなかった。

あの軽口を叩く男が、この最終局面で敵前逃亡したとは思えないが。厠にでも行ったのか、あるいは彼なりの方法でこの極限の緊張を逃れようとしているのか。


そこへ、一人の男が戻ってきた。昨日、朱炎の窮地を身を挺して守った大柄な男、侭洪だった。

だが、その顔は暗く沈んでいた。

屈強な体が、心なしか小さく見える。

肩が力なく垂れ、自慢の剛腕も幽霊のように揺れている。

「……ちきしょう……」 絞り出すような声。

侭洪は石段に座り込み、大きな掌で顔を覆った。

その指の間から、泥のついた爪が見える。必死にこの試験を生き抜いてきた証のように思えた。

侭洪の大きな背中が、小刻みに震えているのが分かった。

朱炎は、気づけば彼に声をかけていた。自分でも、そんな自分に驚いていた。

「大丈夫だ。お前なら、きっと……」

「蓁玲か……。ありがとな」

侭洪は顔を上げ、その大きな瞳から大粒の涙を(こぼ)した。

頬を伝う涙が、少し砂ばんだ顔に細い筋を作る。

「俺、自分の思いを上手く言葉にできなくて……情けねえよ。頭の中じゃ分かってんのに、羅清様のあの綺麗な目に見つめられると、自分が空っぽになったみたいで……。俺みたいな、ただ力が強いだけの木っ端役人が、志文軍なんて高望みだったのかもしれねえな.....でも、あんたにそう言われると、不思議と悪い気はしねえな。大げさで済まねえ。あんたは……あんただけは、絶対受かってくれよ」

その涙に、朱炎の胸の奥がチリと焼けた。

自分は密偵だ。いつかこの男を斬るかもしれない女だ。

そう自覚すればするほど、彼に向ける言葉が棘のように自分の心に突き刺さった。

彼の無垢な信頼が、今の彼女には何よりも重かった。

偽りの優しさで彼を励ます自分が、吐き気がするほど醜く感じられた。


「百十四番、蓁玲。」

朱炎は深く息を吐き、思考を「蓁玲」へと切り替えた。

背筋を伸ばし、一歩一歩の重みを確かめるように歩を進める。

軍舎の砂利を踏みしめる音が、自身の決意を刻むリズムのように聞こえた。

誘導に従い、奥まった簡素な一室の前に立つ。

周囲の喧騒が遠のき、ただ自身の血流の音だけがうるさく響く。

ちょうど、扉が開いた。 入れ違いで、一人の女性が出てくる。

朱炎の足が、磁石に吸い寄せられたかのように止まった。

(……なんて美しい女だ.....)

品の良い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。

それは戦場の泥や汗の匂いとは無縁の、どこか浮世離れした清廉な香りだった。

可憐で、それでいて完成された佇まい。

自分と同じくらいの年頃に見えるが、纏っている空気がまるで違う。

女性は軽く会釈をすると、風のように去っていった。

その一瞬の邂逅が、朱炎の緊張を別の何かへと変質させた。

あのような女性がなぜこの戦の道にいるのか、一瞬の疑念がよぎり、その背中を目で追ってしまう。

彼女が歩いた後の空気さえもが、浄化されたように澄んでいた。


部屋に入ると、扉がバタンと重い音を立てて閉まる。

外界との繋がりが絶たれたような感覚。

窓から差し込む一筋の光が、室内の塵を浮かび上がらせている。

そこには、木製の卓を前にした羅清が一人、座っていた。

「掛けてください」

穏やかな笑み。だが、その瞳はすべてを見透かしているかのように鋭かった。

朱炎は平静を装い、深く礼をすると椅子に腰かけた。

木の椅子の軋む音が、静寂の中で不気味に響く。

卓の上には、これまで彼女がこなしてきた試験の記録だろうか、

分厚い書類の束が置かれていた。

羅清はそれをめくることもせず、ただ静かに質問を始めた。

名前、経歴、出生地。偽造された情報を澱みなく、感情を殺して答える。


羅清は時折、小刻みに筆を走らせながら頷き、やがて本題を告げた。

「今から三つの質問をします。判断するのは答えのみ。いくら考えていただいても構いません」

その声は鈴のように澄んでいながら、どことなく拒絶を許さない威厳のようなものを纏っていた。

朱炎は気を引き締める。

一問目は、志文軍に入りたい理由。

朱炎は、偽らざる本心を一部混ぜて答えた。「強いからだ」と。

この混沌とした天下で、最強の名を欲しいままにする軍に入れば、強さの本質を、その源を学べると思ったからだと。

羅清は少し間を置くと、「次の質問に移ります」とだけ言った。

筆を走らせる合間に見える、その無表情に近い微笑からは、納得したのか、あるいは失望したのかさえ読み取れなかった。


「貴方の言う『強さ』とは何ですか?」

朱炎は沈黙した。

この男は相手によって質問を変えている。個々の「本質」を見ようとしている。

事前に用意していた、誰にでも当てはまるような模範解答などは、この男の前では何の役にも立たないようだった。

彼女は目を閉じ、この数日間に見た光景を反芻した。

侭洪が自分を守るために盾となった背中。煉岱が吐き捨てた、戦場における無慈悲な真理。

そして、師・魏鉄山が最後に遺した眼差し。

しばらくして、彼女は口を開いた。

「……芯が強い、という意味の強さです」

「芯...ですか...?」

「はい。それは単なる武力や、揺るがない意志のことではありません。戦う理由そのものの根源的な強さです。護るべき『もの』の重さだと言い換えてもいい。人だけでなく、国や土地、誰かとの約束、あるいは譲れない思い。そういったものが大きい人ほど、芯が強い……。そして志文殿の軍には、そういう方が多いように感じたのです。自分一人のために戦う者よりも、何かを背負う者の方が、つまるところ、強い。……かつて私の大切な人がそう言っていました。今の私には、その意味が少しだけ分かる気がするのです」


それは、かつて魏鉄山が言った言葉だった。

若き日の自分には分からなかったその真意が、今、この天都で、煉岱や侭洪と過ごした泥まみれの時間を通じて、ようやく理解でき始めていた。

自分は魯国という巨大な虚像を護りたかったのではない。

魏鉄山という師と共に戦場を駆けたかったのだ。

そして今は、この偽りの日々、煉岱の皮肉や侭洪の無器用な優しさを、ほんの少しだけ護りたいと思ってしまっている。

それが、今の彼女にとっての「芯」なのだと思っていた。


羅清は表情を変えず、筆を置いた。

その動作一つにさえ無駄がなく、静謐な美しさが宿っていた。

そして、最後の質問を、まるで世間話の続きのように投じた。

「貴方に、秘密はありますか?」

心臓が一気に跳ね上がった。

血液が逆流し、こめかみがドクドクと脈打つ。

喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込むことさえ躊躇われた。

室内の空気が一変し、羅清の背後に巨大な深淵が口を開けているような感覚。

だが、彼女は瞬き一つせず、鏡のような瞳で答えた。

「ありません」

羅清が、初めて顔を上げて、朱炎をじっと見つめた。

その瞳の中に、朱炎の姿が小さく映っている。

「そうですか.....。 普通は、誰でも秘密の一つや二つはあるものですが……。そうですね、例えば私の秘密は、私が『清羅氏』の生き残りであること。あるいは昨日、志文様に『休め』と言われたのに、密かに朝まで執務室で報告書を書いていたこと、とかですね....」


朱炎は息を呑んだ。失敗した、と直感した。背中に嫌な汗が伝う。

羅清という男の極めて高度な揺さぶりだった。

ありきたりの質問や過去の感傷に浸らせることで相手の警戒を解くと同時に、一気に核心に迫り、その反応から嘘を炙り出す。

なにより、最終的には、即座に「ありません」と断じた自分の不自然さ。

あまりに普通の、それでいて重い告白を混ぜた質問に対し、余裕のない拒絶を見せてしまった。

「ま、いいでしょう……」

羅清が唐突に告げる。

「合格です」

「……へ?」 思わず変な声が出る。拍子抜けした。

羅清の穏やかな笑みに、朱炎は茫然としたまま、促されるように部屋を後にした。

合格と言われた喜びよりも、この男の底知れなさに底知れぬ恐怖を感じていた。


頭が混乱していた。清羅氏の生き残り。

衛国の先王時代に逆族として処刑された一族。

だが、実情は濡れ衣であったことを、魯国の密偵として活動していた朱炎は知っていた。

志文は、それを知っていて羅清を傍に置いているのか。だとしたら、伯志文という男は一体どれほどの広さと深さを持っているというのか。

(……なぜ、あの男は私にそれを伝えた? “訳アリ”の者も仲間として認められるとでも言いたいのか......それとも……あらかじめ私が魯国の密偵だと見抜いた上での私の行動を試しているのか....)


軍舎に戻ると、五十名ほどが身支度を済ませて、軍舎を去っていった。

かつての喧騒は消え、残った者たちの間に、これまでとは質の違う緊張が走る。

肉体的な疲労を伴わない試験でも、不合格を与えられる者がいるという残酷な事実を忘れていたようであった。

”肉体的に疲れない”最終試験であっても、これまでと同じ”試験”であったことを思い出していた。

かくして、二の試験—―伯志文による最終試問が始まった。


「いやぁ、あんた、蓁玲って言ったっけ? すごい活躍ねぇ」

突然声をかけてきたのは、大柄な女と優しい目つきをした男。

朱炎と同じ、魯国の密偵だ。

二人は周囲を警戒しながらも、朱炎に近づき、低い声で囁いた。

「どうする?姜雷がいるとはいえ、伯志文の首を獲ろうと思えば獲れるかもしれないわ。どうするの?」

周囲の様子を窺いながら、朱炎は声を低くし、冷徹に、しかし断固とした意志で告げた。

「私は抜ける。……蓁玲として生きたい....」

二人は息を呑んだ。

裏切り者の末路を知らないわけではあるまいに、という蔑みと困惑の混じった視線。

女の方がナイフのような眼光を朱炎に向けた。

「正気なの? 崇壜様は許さないはずよ....」

「私が護りたかったのは魯国じゃなかった。師匠の仇を討つことが”生きがい”だと思っていたけど、違ったみたい。私は、ただ師匠と共にいたかっただけだと思うの.....今は……蓁玲として、煉岱や侭洪と過ごすこの時間が、楽しい....きっと、師匠のいない今、私の護りたい”もの”は.....生きがいは.....ここにあると思うの。ごめんなさい。貴方たちのことは言わないし、止めもしないわ....」

朱炎の言葉に、二人は顔を見合わせ、苦い表情を浮かべて立ち去っていった。

裏切り、という冷たい言葉が脳裏をよぎるが、不思議と心は軽かった。

重い鉄の鎖を引きちぎったような、清々しささえあった。

自分は今、初めて自分の足で立っている、そう確信できた。

「百十四番、蓁玲」

再び名が呼ばれる。

今度は一段階目よりもさらに奥、軍舎の心臓部。

重厚な石造りの廊下が、彼女の決意を試すように、暗く、長く感じられた。

廊下の両脇には不動の姿勢で立つ衛兵たちが並び、その威圧感が朱炎の肩に重くのしかかっていた。

入れ違いで一人の男が部屋から出てきた。

軽く会釈される。

(あの女性はどうしたのかしら.....)

彼女は軍舎を後にした者の中にはいなかったと、朱炎は記憶していた。

一つ前の試験で見た、あの可憐な女性。

女子(おなご)の密偵は容姿が整っている者が多かった。女子(おなご)は、特に、容姿が良いだけで、相手の警戒心を解くことができるからだと、先輩に言われた。

ゆえに、周りには、多くの容姿端麗な女子がいた。

しかし、一つ前の試験で見た、あの可憐な女性は、自らも容姿には自信のあった朱炎ですら、見惚れるほどの完成された美をもっていた。

「何か気になりますか?」 いつの間にか羅清が背後にいた。

朱炎は、一瞬、心臓が止まりそうになった。

「いえ……先の試験で、私の前の志願者の方が女子だったもので.....」

「.....確かに、そうでしたね.....彼女には事情があって、私の判断で順番を最後に回したのです.....不公平に感じさせてしまいましたね....」

羅清は深々と頭を下げた。

朱炎は慌ててそれを制し、「いえ、そのようなつもりでは....こちらこそ、出過ぎたことを申し訳ありません....」と頭を下げると、最終試験へと歩き出した。


長い回廊を抜けると、重厚な扉が現れる。朱炎はその扉を軽くたたく。

「入れ」

地を這うような、冷徹な声。

その一言だけで、室内の空気が凝固したかのように感じられた。

扉を開けると、そこには伯志文が座っていた。

整った容姿、冷酷に光る瞳、感情を一切表さない、鋼のような唇。

その存在感は、部屋全体を支配し、朱炎の吸う空気さえも彼の所有物であるかのように思わせた。

そしてその横には、巨躯の姜雷が、今にも爆発しそうな怒りを物理的な重圧に変えて纏い、控えている。

その眼光は、部屋に入った朱炎を鋭く射抜いていた。

姜雷の手が薙刀の柄を鳴らすたび、床から微かな振動が伝わってくる。


朱炎は微かな恐怖を押し殺して、椅子に座った。


志文は主語を省いて、刃を突きつけるように告げた。

「二つある」 何が、と問う前に、志文は「入れ」と命じた。

入ってきたのは、先ほどの密偵の仲間二人だった。

無残に縄で縛られている。

朱炎の心臓が凍りついた。

蓁玲として生きると決めたとはいえ、共に死線を越えてきた仲間だ。

彼らの目が、朱炎を責めるように見えた。


「仮に、そなたを他国の密偵……そうだな、魯国の密偵だとしよう。そなたはこの軍に潜り込んだ鼠だ。そしてこ奴らはその仲間だ。今からこいつらを殺す命令を下す。俺を思いとどまらせよ。できねば、ここに三つの首が並ぶことになる」

志文の瞳が朱炎を射抜く。

その視線には、慈悲など一滴も混じっていないようだった。

すべてはバレていたのだ。

志文は、彼女の本性を、正体を、その瞳の奥ですでに見据えていた。

逃げ場はないかった。

羅清による一段階目の試験は、このための布石だったように思われた。


「……姜雷、女の方を殺せ」

無造作に、姜雷が薙刀を振り上げる。

空気が裂ける、凄まじい音がした。その刃が銀色の軌跡を描く。

「お待ちを!!」

そう、叫んでいた。

試験に落ちることよりも、多くの任務を共にし、最後には、自分の裏切りを責めずに苦笑しながらも受け入れてくれた仲間の命が失われることへの、理屈を超えた拒絶が勝った。

姜雷の重厚な刃が、仲間の首筋寸前で止まる。

凄まじい風圧で仲間の髪が乱れ、部屋に飾られた旗が激しく揺れた。

姜雷の顔には、殺気を止められた不満が露わになっていた。


「……人は季節の折々にその美しさを讃えます。ですが、季節を愛でる心は大方同じでも、人の感情は千差万別です。移ろいやすく、儚い。けれど、芯が通っていれば……人は四季を常に美しいと思うように、その本質を失うことはありません。芯は人によって気づかされるものです。変わったように見えても、それは隠れていた芯が露わになっただけ! ……芯が多ければ多いほど、強くなるのだと思います。魯国の仲間も衛国の仲間も、今は、私の芯であり、強さの根源です。そして、私は、強者とは、そういう護るべきものを護り通すために、芯の多い者さえも受け入れる豊かさを持つべきだと思います! なにより、目の前の命を救えぬ者に、国を、天下を取る資格などないと、私は思います!」

蓁玲は、絞り出すように言い切ると、目を閉じた。


部屋の中を、冬のような鋭い静寂が支配する。

志文の吐息さえもが聞こえそうなほどの静寂。

朱炎の背中を冷や汗が流れ、その一滴が床に落ちる音が聞こえるようだった。

やがて、志文が静かに言った。

「そなたはどうする?」

その問いの意味を、朱炎は瞬時に理解した。

密偵として、一人の人間として、これからどう生きるのかと。

「……祖国や衛国が滅ぶ時、私が何を思うかは分かりません。ですが、今は……この国を、志文軍を護りたい。泥を啜ってでも、ここにいたい。そう思っています。たとえ、この手で仲間を斬ることはできませんが……それでもこの軍の力になりたいという思いは揺るぎません」

志文が、微かに、本当に微かに笑った。

それは凍土に咲いた一輪の花のような、残酷なほどに美しい微笑だった。


「合格だ」

その一言で、部屋の重圧が霧散したように軽くなった。

姜雷が豪快に薙刀を納め、腹の底から笑い声を響かせる。

「がははは! 気に入ったぜ、この女! 胆力が据わってやがる! 志文様の術中にハマりやがって!」

「すまないな、試すような真似を。……密偵であるかなど、この際どうでもいい。仲間を助けないような冷血な女なら、俺は不合格にするつもりだった。大儀や国家、天下という空虚な言葉よりも、人を護ることの尊さを知る者の方が、俺は好きだ。俺も、天下や衛国を語れるほど知らぬし、もとより、語る気もない。にしても、芯の多い者、異心を抱く者すら受け入れる者が強者とは、面白い。まるで、魏鉄山のようだ....」


志文は二人の縄を解かせた。

「そなたらは戻って魯国に報告せよ。殺したところで、また別の者が来るだけだからな。伯志文を殺したければ、もっとマシな刺客を送れ、とな。……それと、この朱炎という女は死んだ。ここにいるのは、俺の兵だ」

その表情は、先ほどまでの冷酷さが嘘のように穏やかで、慈愛に満ちていた。

朱炎は確信した。

これが伯志文という男の強さであり、将としての器なのだと。

殺意を持って近づいた者さえ、その輝きの中に飲み込んでしまう。

彼女は初めて、誰かに仕えることの喜びを、自身の魂の震えを感じていた。


羅清が部屋に入ってくる。

朱炎を見て一瞬視線を志文に投げたが、志文が「構わぬ」と促すと徐に言葉を発した。

「煉岱が消えました。私がいながら、申し訳ありませぬ.....」

「そうか、南黎は放っておけ。あそこは昔からそういう国だ。今は、この残った者たちを一日も早く『兵』に育てることが先決だ。朱炎、お前は俺の本隊に入れ。そなたが他に入れたい者がいれば、連れてこい。認めてやる。ただし、五人までだ」

志文は事も無げに答え、朱炎を力強い目で見据えた。

朱炎は迷わず、「はい」と短く答えた。その言葉に、もはや偽りはなかった。


退出した朱炎の元へ、待ちわびていた侭洪が駆け寄ってくる。

「おい! 合格したぞ! 俺、合格したんだ! 蓁玲、お前はどうだった!? まさか、あんたまで泣かされたんじゃねえだろうな?」

侭洪の顔はくしゃくしゃの笑顔で、先ほどの涙の跡さえもが輝いて見えた。

朱炎は、かつての暗殺者としての仮面を脱ぎ捨て、心からの笑みを浮かべた。

「合格したよ。……これからは、朱炎と呼んでくれ。それが私の本当の名前だ」

「朱炎か! かっこいい名前じゃねえか! よろしくな、朱炎!」

「姉貴〜! 一生ついていきやすぜ!」 後ろからは石兄弟が現れた。

兄の石號が調子よく叫び、弟の石厭が深く、何度も頷いている。

石號は朱炎の周りを飛び跳ね、石厭はその影で静かに、だが力強くガッツポーズを作っていた。

「俺らも合格だ! 石家の名にかけて、暴れまくってやるぜ!」

「全く……調子のいい奴らだ....」

朱炎は呆れたような声を出しつつも、その胸はかつてない高揚感で満たされていた。

自分の居場所がここにある。そう思えることが、何よりも誇らしかった。


その時だ。 「三百番、白麗殿」

羅清の凛とした呼びかけに、練兵場にいた全員が一斉に振り返った。

羅清自身が呼んだことに加え、”殿”という敬称が彼らの目を彼女に釘付けに刺せていた。

彼女は、朱炎が見た、あの可憐な女性であった。

彼女が歩みを進めるたび、志願者たちが、まるで海が割れるかのごとく、すっと道を作る。

朱炎は、かつて志文を初めて見た時と同じ感覚を覚えていた。

生まれた時から風格オーラを纏っていたのではないかと思わせる、圧倒的な気品。

創り物ではない、純然たる自然体でありながら、周囲の空気を神聖なものへと変質させていく。

格が違う。 その言葉が最も相応しいように思えた。


彼女はそのまま、志文の待つ扉の向こうへと、吸い込まれるようにその姿を消していった。

後に残された三百名の志願者たちは、言葉を失い、ただ一様に茫然として、閉じられた扉を見つめ続けていた。

天都の陽光が、彼女の去った跡を白く照らし出していた。


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