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#1-54:揺らぐ決意

天都の夜は、深まるほどにその鋭利な牙を剥き出しにしているようだった。

練兵場の端々に残る戦いの余韻、泥と汗の混じった重い沈黙、そして明日への恐怖。

それらを飲み込みながら、夜の風は、乾いた地を冷たく叩いていた。


そこから少し離れたところにある、簡素な一室。

報告書が溢れる羅清の前には、既に卓を囲む三人の姿があった。

窓際で長弓を点検する衛射、扇で口元を隠しながらもその瞳に冷徹な光を宿す宋燕、そして隊長格になって日が浅いからか、控えめに座している芳蘭。

室内には、羅清が好む静謐な沈香の香が漂っていたが、その香りは夜叉と林業が扉を開けて入室した瞬間、微かな震えを見せた。

「お疲れ様です、夜叉、林業。……第二、第三試験の『選別』は順調でしたか?」

羅清が穏やかに声をかける。

その柔和な微笑みは、どのような惨劇を前にしても決して揺らぐことはないように思われた。その穏やかさこそが、志文軍の参謀としての底知れぬ深淵を感じさせた。


「……数は減った....残ったのは相応の毒を持つ連中....」

夜叉が、その巨躯を黒衣の装束に身を包みながら、地の底から響くような声で答えた。

その「黒鬼面」に刻まれた憤怒の表情は、報告の内容以上に凄まじい威圧感を室内に放つ。

夜叉と林業が着席し、まさに詳細な報告が始まろうとしたその時であった。

羅清の部屋の扉が、物理的な衝撃と共に豪快に跳ね開けられた。

「よう! 揃ってるじゃねえか、野郎ども! ……おっと、宋燕に芳蘭もいたか! 景気がいいじゃねえか!」

爆風のような声と共に踏み込んできたのは、志文軍第一の猛将、姜雷であった。

はち切れんばかりの筋躯を誇り、背中には一振りで城門をも砕きそうな重厚な薙刀を背負っている。

その存在自体が、狭い室内を物理的に圧迫し、冬の冷気を奪い去るかのような熱量を放っていた。


「姜雷。……呼んでいない。お前は、試験の担当ではないはずだ。軍議の邪魔だ」 衛射が、愛用の長弓の弦を指先で弾き、心底呆れたように冷ややかに言い放った。

「そうよ、姜雷。せっかくの非番なのに、そんなに寂しかったのかしら? この募兵の間、あなたには大切なお仕事があるでしょう? ……そう、大人しくお部屋でお留守番するという、あなたには最も不向きで、かつ平和な大役がね」

宋燕が扇をぱちりと閉じ、意地悪く、しかし親愛の情を込めてからかう。

「がははは! お留守番だと? 違えねえ。だがな、俺様を抜きにして面白え話をしようってのは感心しねえ。羅清、どうなんだ? 今回のヒヨコどもの中に、俺が一度でも薙刀を振るう価値のある奴はいるのか? 骨のある奴がいたら、俺が直々に叩き直してやってもいいんだぜ!」

姜雷は衛射や宋燕のからかいを、春の微風のように受け流して豪快に笑い飛ばした。

姜雷はからかわれて怒るような狭量な男ではなかった。

むしろ、この一癖も二癖もある隊長格同士の、遠慮のないやり取りを何よりも愛しているようにさえ思えた。

志文軍の隊長格たちは、各々が異質な才を持つ怪物であったが、不思議なことにその絆は鋼よりも固く結ばれていた。


姜雷は、志文軍においては「猪突猛進の巨漢」として兵たちに認知されている。

しかし、その真の「武」を知る者は、この部屋にいる面々と、主である伯志文のみであった。

姜雷は、実戦の戦場でその全力を出したことが一度もない。

というのも志文にその真の武を振るうことを禁じられたからである。

志文は姜雷の武を他国との強者に使いたかった。

ゆえに、情報を伏せ、姜雷の武の真髄を隊長格の者にのみしか、明かさなかったのである。

唯一、志文との一対一の鍛錬においてのみ、彼はその枷を解いていた。

嵐のような打撃と、雷鳴のような咆哮。

志文軍においては、志文とまともに打ち合い、その薙刀を真っ向から受け止めることができるのは、この男を置いて他にいなかった。

志文自身も、姜雷の「不条理なまでの暴力」には一目を置いており、彼を戦場の”最終兵器”として温存していた。


そんな姜雷が、今回の募兵で試験官を担当していないのには理由があった。

当初、彼が自信満々に提案した試験案は、誰もが笑いを堪えるのに必死になるほどに”バカ”な内容であった。

『俺と一対一で戦って、三合耐えられたら合格、一合で死んだら即不合格。死ななかったら運がいい!』。

さらに、合格者が多すぎる場合の選別案として真面目な顔で提案された代案。最も、姜雷との一騎打ちで、合格者が出る心配は全くと言っていいほど、皆無であったが....

『俺が食うのと同じ量、大鍋いっぱいの飯を食わせ、それを完食できれば合格。漢は胃袋だ!』という、軍略も兵法も完全に置き去りにした「漢気選別」であった。


『兵法を知らぬ者は足枷になる』と説く林業や衛射にとって、それは到底受け入れられるものではなく、何より主君である志文によって「お前が動けば志願者が全滅するし、そんなに米を食わせたら軍庫が空になる」と即座に却下されたのだ。

その結果、試験は五つに減らされ、姜雷は今回、実質的な非番――すなわち「お留守番」を命じられていた。

しかし、新兵たちに自らの威厳を見せつけたい姜雷は、こうして隙あらば軍議に顔を出しては持て余した力を発散させているのであった。


「姜雷殿、志文も貴殿の武は認めておられます。ただ、今は選別の刻なのです。……少しだけ、静かにしていていただけますか? 夜叉殿や林業殿の報告を、拝聴したいのです」

芳蘭が、夜叉らへの敬意を込めつつ、新入りらしい丁寧な敬語で宥める。

芳蘭は、志文と出会ったのが龍牙関の戦のため、志文とは古い付き合いだった。

しかし、彼女は、韓忠のもとで将校を務めていたため、志文の傘下に入ったのは、飛砂関での連合軍戦のあと、志文の最も信頼していた李岳が戦死したことによるものであった。

ゆえに、志文とは、隊長格の中では最も古い付き合いであるものの、志文軍の隊長格の中では、いわば”新米”であった。

「おう、芳蘭がそう言うなら仕方ねえな。……だが、つまらねえ報告だったら寝るからな」 姜雷は巨大な体を椅子に沈め、ようやく静かになった。

「なぜ、非番のお前がそんなに尊大なんだ....」衛射が少し呆れたようにつぶやく。


羅清は夜叉へ視線を戻した。 「さて……報告の続きを」

「……百十四番。および三六五番...」 夜叉の声が、再び室内の空気を引き締める。

「奴ら....手を抜いていた.....直接立ち合った.....奥底の『武』を見せなかった.....女の方は、兵としての基本的な動きを正確になぞっていた.....一撃の重みが一定すぎるのが、玉に(きず).....一切の迷いも焦りもない.....機械のような打撃.......意識的に実力を一定のラインに制御している証拠.....男の方は『逃げ専』.....不気味.....」


夜叉の言葉を継ぐように、林業が冷徹な響きを持つ声で口を開いた。

「羅清。蓁玲は密偵だ。第三試験で、鎌をかけた」

「どうでした?」羅清が穏やかに聞く。

「彼女が記述した策は、あまりに合理的で無駄がなかった。私はそれを、『志文様がかつて北方の戦で用いた秘策、霧隠の陣の骨子に酷似している。お前はそれをどこで知った』と告げた。彼女は僅かな動揺も見せず、『効率の結果だ』と淡々と答えた」

林業の黒漆面の奥で、その視線がどことなく鋭く光る。

「だが、そんな陣は我が国には存在しない。志文様もそのような名称の策は一度も使っておられないし、私もそんなものは教えていない。……にも関わらず、彼女はそれを『周知の事実』として、あるいは『逆らえぬ将の功績』として即座に受け流した。……真っ当な志願者であれば、その名を知らぬことに戸惑うか、あるいは聞き返すはずだ。彼女の沈黙と肯定は、『志文様』という偶像に対する、徹底した迎合。……すなわち、密偵としての立ち振る舞いそのものだ」

「確かにその通りですね.....しかし、密偵の慎重さを逆手に取るとは、貴方も食えない人ですね、林業殿...」羅清が面白そうに言う。

「ふっ...そなたがいうか....」林業が微かに口元を緩める。


少なくとも朱炎への密偵の疑いは、もはや疑惑から確信に近いものへと変わりつつあった。

姜雷が「やっぱりぶっ殺すか? 俺の薙刀なら一撃だぜ」と背負っている薙刀の柄に手をかけたが、羅清は静かに首を振った。

「……確証はありません。彼女が単に、試験官の言葉に逆らうのを避けただけの可能性もあります。……保留にしましょう。殺すことはいつでもできます。むしろ、その牙がどこを向いているのかを完全に見極め、逆手に取ってからでも遅くはないでしょう」

羅清は解散を告げた。

隊長格たちはそれぞれ去っていき、簡素な一室には再び静寂が戻った。

羅清は一人、卓上に広げられた天下の情勢図を見つめ、天都の位置を見つめる。

「……蓁玲、そして煉岱。貴方たちは、この衛国を救う劇薬になるのか、それとも滅ぼす毒になるのか。楽しみですよ」


翌朝。東の空が白み始め、天都の城壁が、遠くに巨大な怪物の影のように浮かび上がる頃。

練兵場には、心臓を直接叩くような激しい太鼓の音が響き渡った。

「総員、起床! 五息以内に整列せよ! 遅れた者はその場で不合格だ!」

志願者たちは、もはや悲鳴を上げる気力もなく、反射的に跳ね起きた。

朱炎(蓁玲)は、一瞬で意識を完全に覚醒させると、自身の粗末な革鎧を整え、髪をきつく結び直した。

隣では、煉岱が「あー、腰が痛え。地べたは痛すぎてかなわねえよ」とぼやきながらも、その瞳だけは鋭く周囲の志願者たちの動向を走らせているようだった。


一千名の生き残りたちは、そのまま天都の北門へと行軍を開始した。

太陽が昇るにつれ、気温は上がるが、志願者たちの表情は凍りついたままであった。

「……ただの移動だと思うなよ」 隊列の脇を馬で並走する、志文軍の将校らしき男が冷たく告げる。

「この行軍中の足並み、荷の持ち方、周囲への警戒。それらすべてが、将たちの目に入っている。一歩でも乱せば、そこで貴様らの試験は終わりだと思え。志文軍に、足並みも揃えられぬ烏合の衆はいらんのだ」

その言葉通り、行軍は過酷を極めた。

天都を離れるにつれ、道は舗装されたものから、尖った石が転がる荒れた土の道へと変わっていく。

朱炎は、軍の中列に身を置きながら、呼吸を一定に保つことに集中した。

歩幅、呼吸の深さ、視線の動かし方。

(...監視されている。林業の言っていた『霧隠の陣』。あんな策、魯国の資料にもなかったし、私も知らない。……完璧な罠ね。私の反応一つで、どこまでこちらの正体に近づいたのかしら。.....これからは、より慎重に、かつ『志文軍が好む有能さ』を演じなければならないようね...)

二刻ほどの行軍の末、彼らが辿り着いたのは、北方に広がる広大な丘陵地帯であった。

そこは、三つの巨大な丘が対峙するように左右に並び、中央に広大な平地を抱きかかえた、戦略的に極めて複雑な地形であった。

中央の丘の間は、視界の開けた平地だが、微かな起伏が死角を作っている。

右側の丘の間は、緑色の水面が不気味に揺れる、足を取られる底なしの湿地帯であった。

左側の丘の間は、視界を完全に遮るほどに木々が生い茂り、鳥の声すら止んでいる密林地帯であった。


丘の頂に立ち、逆光の中で強弓を携えた衛射が、その冷徹な声を丘陵全体に響かせた。

「これより、第四試験を開始する」

志願者一千名に加え、実力を見極めるための重石として、本隊から選抜された志文軍三千名が合流し、計四千の兵が野に広がった。

その威容は、これまでの個人戦とは比較にならないほどの重圧を志願者たちに与えた。

「これより四千の兵を二軍に分ける。成績上位の者から交互に配置していく。……不服がある者は今すぐ立ち去れ」

衛射がそう命じると、志願者たちは分けられていった。

朱炎は、衛射が率いる「赤軍」に配属された。

対する「白軍」を率いるのは、白銀の甲冑を纏い、背に槍を背負う芳蘭であった。煉岱は「白軍」に配属された。

「二千対二千の模擬戦を行う。勝敗の条件は、相手側の三つの丘をすべて占領すること」

芳蘭が愛槍を携え、澄んだ声を響かせた。

「だが、この試験で見ているのは勝敗そのものではない。……我ら総大将に対し、いかに的確な献策を行い、軍としての動きの中でどう実力を出すか。……そして、指揮官への礼儀と態度だ。……ただの暴力はいらぬ!我らが求めているのは、軍を背負って立つ『将』の萌芽だ。当然だが、総大将の許可なく勝手な行動を取ることは許されない」


ほどなくして、両軍が布陣し終えると、試験開始の銅鑼が鳴り響いた。

ドォォォォォン!!

地鳴りのような咆哮と共に、二軍が激突すべく動き出す。

朱炎が配属された赤軍、総大将・衛射は丘の頂から戦場を俯瞰し、微動だにしなかった。

周囲には功名心に駆られた志願者たちが群がり、衛射に聞こえるように声を張り上げていた。

「衛射様! 正面の平地を一気に突破すべきです。数で押し潰しましょう!」

「いや、左の密林に伏兵を置くのが定石です! 私が先鋒を務めます!」

衛射はそれらの声を一切無視し、ただ冷たく丘の下を見つめている。


朱炎は、その衛射の視線の先にある「違和感」を追った。

(……芳蘭様の白軍、平地の陣が薄すぎる。あれは誘いね。中央に引き込んでから、両翼から包囲するつもりか……それとも) 朱炎は周囲の喧騒を掻き分け、衛射に一歩近づいた。

「衛射様。失礼します」

「……百十四番、蓁玲か。申せ」 衛射は視線を動かさない。

「正面の敵は寡兵ですが、精強な堅陣を組んでいるゆえ、囮です。芳蘭様の本命は、左の密林を抜けた先の我が軍の左方の丘。左方の丘には、この正面からでは気づけぬ死角がございます。なにより密林の木々の揺れ方が、風向きと一致していません。丘を一つでも取られれば、正面の軍との挟撃を受けます。」

衛射がわずかに口角を上げた。 「……ほう。目が良いのだな.....ならばどうする...右翼の湿地帯に多くの兵を割いている様だが?」

「敢えて中央の囮を叩くと見せかけ、右翼の守備を薄くします。敵が湿地から上がってきた瞬間、この丘から衛射様が直接指揮を執り、矢の雨を降らせてください。……私は、その際に生じる敵の背後の隙を突き、湿地帯を逆走して芳蘭様の本陣を狙います」

「湿地を逆走か.....自死願望をあまり私は好まぬが.....」

「……地盤の硬い場所は、この位置から見極めました。責任を持って、私が部隊を引きます」

衛射は初めて朱炎を正面から見た。

その瞳には、彼女を駒として品定めするような冷酷な光が宿っている。

衛射は、彼女の策の合理性を瞬時に理解していた。

この平地の誘いは芳蘭が得意とする「包囲殲滅」の予兆であった。

そして密林帯の木の揺れ。

それは志文軍の中でも鋭敏な観察力を持つ者にしか気づけぬ微細な変化だった。

(この女、単なる密偵か、それとも天才か。どちらにせよ、ここで使い潰すには惜しい「牙」だ。もし失敗しても、失うのは志願者五十名程度.....成功すれば、この戦、短期で勝負がつく....「速」の勝負か....左方の丘を取られそうになれば、俺が直接出向けばよい.....)

「……面白い。蓁玲、貴様に志願者五十名を預ける。楔を打ってこい。失敗すれば、お前たちは泥の中で試験の礎となるだけだ。許可する、行け」

「ハッ!ありがたく!」


朱炎は素早く五十名の志願者を募り、右翼の湿地帯へと急行した。

戦場は凄まじい熱気に包まれていた。

平地では赤軍の主力が咆哮を上げ、盾を叩きながら白軍の囮部隊へと突撃を開始した。

土煙が舞い、木剣が交差する乾いた音が丘陵に響き渡る。

朱炎の指揮に付いた五十名は、最初は半信半疑だった。

「おい、本当にこんな湿地に行くのか? 泥に足を取られたら終わりだぞ」

「黙って付いてきなさい。死にたくなければ、私の足跡だけを辿って」

朱炎の冷徹だが確信に満ちた声に、男たちは気圧される。

彼女は行軍中に見極めていた地質の変化—―色の濃い泥ではなく、石混じりの硬い土が浮き出ている箇所を選び、迅速に進軍した。


怒号が飛び交う中、朱炎は低く身を屈め、腰まである葦の原を音もなく進んだ。

背後の五十名は、彼女の動きに必死に追随する。

「静かに。呼吸を殺せ。敵の耳は湿地の外にある」

朱炎の指示は、風に溶けるほどに微かだった。だが、そこに潜む煉岱は、その気配を鋭敏に感じ取っていた。

白軍の側面、湿地帯の奥深く。煉岱は芳蘭の指示を受け、遊撃隊として潜んでいた。

「……来たか。相棒は、やっぱり鋭いねえ」 煉岱は唇を舐め、背中の蛇剣を握り直す。

彼の役割は、左方の密林から奇襲をかける本隊の援護であった。


芳蘭は、左方の丘を取る素振りをしつつ、その実、一気に、中央の丘を中央の囮、右方の伏兵と囮の多くの兵と共に挟撃しようとしている。

すなわち、中央の丘で、衛射の本軍を殲滅しようとしているに違いない。

これが、朱炎が、読んだ”芳蘭の策”であった。


「皆、準備はいいかい。奴らが油断した瞬間に、泥の中に引きずり込んでやるんだ。芳蘭様の期待に応えないとね」

朱炎たちが湿地の縁、地盤の固い「突き出た岩」の周辺に辿り着いた瞬間だった。

ドォン、という重い振動と共に、湿地の水面が爆ぜた。

「 いくぜぇ!」 煉岱の叫びと共に、泥まみれの白軍志願者たちが一斉に姿を現した。


「なっ……! 伏兵か!」 朱炎の背後の志願者が悲鳴を上げる。

「うろたえるな! 円陣を組め! 背後を見せるな!」

朱炎が即座に叫ぶが、白軍の勢いは凄まじかった。


さらに、湿地を盾にしていたのは志願者だけではなかった。

「退路は断った。蓁玲殿、我が軍の策、読み違えましたね」

白銀の甲冑を翻し、芳蘭が湿地の岩陰から馬を駆って現れた。

その手には長槍が握られ、穂先が鈍い光を放っている。


「芳蘭様自ら……!」 朱炎は戦慄した。

密林の中に、一瞬だけ、芳蘭の姿が見えたのだ。それは、目ざとい者しか気づかないような刹那の瞬間であった。

それゆえに、芳蘭が左方の丘を取ると、朱炎は思った。

(影武者.....なにより、総大将がこれほど早く前線に姿を現すなんて....)


芳蘭の指揮は苛烈だった。

「全方位より包囲せよ。一兵たりとも逃すな。……これが戦場の現実です!」

芳蘭の槍が朱炎の喉元を突く。朱炎はそれを紙一髪でかわしたが、足元の泥が粘りつき、逃げ場を奪われる。

「がはっ!」

横から飛んできた木剣が朱炎の脇腹を捉えた。

さらに別の兵が彼女の脚を払う。

朱炎は泥の中に転倒し、一瞬視界が白くなった。

(……まずい。このままでは……)

芳蘭の槍が、容赦なく振り下ろされる。死を覚悟したその瞬間、

「蓁玲さん! 離れろ!」


叫び声と共に、赤軍の志願者たちが泥の中に飛び込んできた。

「まだ負けたわけじゃねぇ!」 一人の大柄な男が、芳蘭の槍をその身で受け止めた。

模擬戦用の防具越しとはいえ、凄まじい衝撃に男は吐血する。

だが、彼は離さなかった。

「今だ! 蓁玲を救い出せ!」

他の志願者たちも、泥にまみれ、白軍の兵たちに組み付いていく。

彼らは朱炎の卓越した策を信じ、今日一日、彼女が自分たちを「ただの捨て駒」ではなく、勝利のための「必要な力」として扱った(少なくともそう見えた)ことに恩義を感じていた。


「くそっ、離せ! 泥まみれの烏合の衆が!」 白軍の兵士が叫ぶが、赤軍の志願者たちは必死だった。

「烏合の衆で上等だ! 蓁玲、立て! 指示をくれ!」

泥まみれになりながらも、自らの身を盾にして芳蘭の猛攻を防いでいる仲間たち。

その光景に、朱炎の胸の中で、密偵としての冷めた心とは別の、熱い何かが震えていた。

(……救われた? なぜ、彼らは私のような者を……。私はあなたたちを利用しているだけなのに。魯国の、復讐のための……)

だが、その献身が朱炎の芯を叩いた。

彼女は泥を蹴り、立ち上がった。

「……全員、聞け! 私の背後に立て! 命を捨てるな、勝利を掴み取るためにその命を使え!」

朱炎の声が、戦場を支配する熱量を一変させた。

彼女は泥まみれの木剣を正しく構え、芳蘭の眼前に立ちはだかる。

「……楔を打つぞ! 全員、一点に集中しろ! あの岩を起点に、包囲網を食い破る!」

五十名の志願者が、一人の意志を持った獣のようにまとまった。

朱炎が先頭に立ち、芳蘭の突きを捌きながら、白軍の包囲の一角へと突っ込む。

「無駄です! その数では……!」 芳蘭が叫ぶが、朱炎の動きは「機械」のそれだった。

一切の無駄を排し、敵の重心を崩し、仲間のための道を切り拓く。彼女の剣筋は、一瞬の隙を突き、白軍の連携を乱していく。

その時だった。丘の頂、衛射の眼が冷たく光った。

「……機は熟した。蓁玲、よくぞ耐えた。……全軍、進軍! 矢の雨の後に続け!」

ヒュオォォォォォォン!!

衛射が放った鏑矢が空を引き裂く。

それを合図に、丘の斜面に布陣していた赤軍の弓隊が一斉に弦を放した。 放たれた矢の雨は、湿地を行軍していた白軍の部隊を正確に叩いた。

「なにっ……! 衛射殿、この距離からか!」 芳蘭が驚愕し、空を仰ぐ。

「今です! 押し戻せ!」

朱炎の鼓舞を受け、泥だらけの志願者たちが咆哮を上げた。

包囲網が内側から弾け、赤軍の本隊が丘を駆け下りてくる。

戦場は、赤と白が入り乱れる極限の混沌へと突入した。

朱炎は乱戦の中、再び芳蘭と刃を交える。

芳蘭の槍は美しく、洗練されていた。

だが朱炎の剣は泥臭く、執拗だった。そのような剣に自然と変わっていた。


一方で、煉岱は赤軍の奔流に飲み込まれそうになりながらも、軽やかに刃を振るっていた。

「へえ、相棒、やるじゃないか。……俺も、負けてらんねぇなぁ。芳蘭様、ここは一度引いて、丘の裏から回り込みましょう! 衛射様の矢の届かない死角があるはずです!」

煉岱の献策を、芳蘭は一瞬の迷いの後に受け入れた。

煉岱の”逃げ専”ならではの視点は、戦局の綻びを見つけるのに長けていた。

「……全軍、後退! 陣を移せ! まだ勝負は終わってはないわ!」

しかし、その撤退すらも衛射の想定内だった。

衛射は丘の頂で、号令を発した。

「蓁玲には追撃するように伝えよ。中央の兵八百を退かせ、左方の密林の部隊に突撃させよ……中央は俺と百名で滅す。右方の湿地に一千を迅速に送れ。百名はこの中央の丘で待機せよ」

そう告げると、衛射は悠々と丘を下っていった。

志願者の一人が微かな、そして真っ当な疑念を口にする。

「中央の敵は、精強で、寡兵とはいえ、六百はおります。総大将が出撃しても大丈夫なのでしょうか?」

「問題ない。そもそも衛射様、御一人でもなんとかなるのだ。飛砂関での戦での衛射様を拝せば、そなたもそのような戯言を申さなくなるはずだ....」

将校と思しき男はそう告げると、「行くぞ」と号令をかけ、右方の援護に向かった。


朱炎は、息を切らし、傷だらけの仲間たちを振り返った。

「いけるか?」

「ああ、やってやるよ! 蓁玲、あんたについていけば勝てるんだろ? だったらどこまでも行くぜ!」

志願者たちの顔には、恐怖ではなく、確かな高揚感が漂っていた。いつの間にか、彼女は彼らにとっての「将」となっていたのである。


その後、数刻にわたる激闘が続いた。

丘陵地帯の起伏を活かした芳蘭の巧みな防御に対し、衛射は冷徹なまでの消耗戦を強いた。朱炎の部隊は、常に最も激しい衝突点に投入され、傷つきながらも一歩も引かなかった。

芳蘭たちは右方の湿地帯を抜けることも抜くこともできず、戦場に囚われていた。

そんな時、左方の丘から喚声があがり、赤の旗が立てられた。

それと時を同じくして、中央の丘にも、赤の旗が立てられた。

芳蘭たちは、どうにか、この湿地帯から抜け出そうと、必死に軍を束ねていたが、それ以上に、朱炎をはじめとする隊の士気が高く、中央から送られた赤軍の援軍もそれに感化されたように、その包囲に寸分の隙も見せなかった。


ほどなくして、右方の丘に赤の旗が立てられると、試験終了を告げる銅鑼が重々しく鳴った。

陽は完全に落ち、丘陵には夜霧が立ち込めていた。

合否を分ける過酷な第四試験が、幕を閉じた瞬間だった。


結果は、赤軍の完全勝利。

志願者たちは、勝利の宣言を聞いた瞬間、その場に崩れ落ちた。

泥と汗が混じり合い、あちこちから喘ぎ声が漏れる。

「……合格者は三百名。名を呼ばれぬ者は、志文軍の門を去れ」 衛射の冷徹な声が響く。

一千名の志願者のうち、過酷な模擬戦を生き残り、かつ「将」としての資質を認められたのは、わずか三割。

朱炎と煉岱の名前が呼ばれたのは、必然であった。


「蓁玲……素晴らしかったわ!」

芳蘭が、兜を脱ぎ、乱れた髪をかき上げながら歩み寄ってきた。

その表情には、敗北の悔しさよりも、新たな才能を見出したことへの喜びが浮かんでいた。

「仲間に救われただけです。……芳蘭様の采配、勉強になりました」

朱炎が深く頭を下げると、芳蘭は微笑んだ。

「その謙虚さも、また武器となるでしょう。……明日の最終試験も貴方なら突破できるでしょう。貴女のような方に、これからの我が軍を支えていただけることになれば、とても頼もしく思います」


朱炎の胸の奥で、再び冷たい風が吹いた。

(……支える? 私が殺す男の軍を?)

だが、その視線の先で、共に泥を這った志願者たちが「やったな、蓁玲!」と手を振っている。

その光景を、彼女はどのような面持ちで見れば良いのか分からなかった。


夜、合格した三百名は、王都・天都の軍舎へと迎えられた。

そこには、これまでとは比較にならないほど充実した環境が整えられていた。

「さあ、食え! 明日は殿との謁見だ。英気を養っておけ!」

運ばれてきたのは、大鍋で煮込まれた、湯気を上げる具沢山の汁物、香ばしく焼かれた山盛りの肉、そして輝くような白米だった。

志願者たちは、今日一日の戦友として、互いの傷を労わりながら、無心に食事を摂った。

「おい蓁玲、肉食えよ! お前が一番動いてたろ」

昼間、彼女を助けた大柄な男が、豪快に肉を差し出してくる。

朱炎は一瞬戸惑ったが、差し出された器を受け取った。

「……ありがとう」

「俺の名前は侭洪(じんこう)だ。よろしくな!!...へへっ、なに、礼なんかいらねえよ。今更、水くせぇ。俺たちは『志文軍』になるんだ。要は、仲間だろ?」

仲間。その言葉が、朱炎の胸の奥をチクリと刺す。

魯国の密偵として、敵国の兵と笑い合うなど、あってはならないことだ。

だが、この肉の温かさと、彼らの無邪気な笑顔が、彼女の冷え切った心を少しずつ溶かしていくのを止められなかった。


「相棒、ここ空いてるか?」

ひょっこりと現れたのは、煉岱だった。

彼は白軍の敗戦側であったが、その動きを高く評価され、合格を勝ち取っていた。

「煉岱、貴方も生き残ったのね」

「まあね。てかさぁ、聞いてくれよぉ!第二試験で相棒とペシャンコにした、石號と石厭がよぉ.....あれ?もう、忘れちまったのかぁ??『首狩りの石兄弟』だよぉ。相棒、俺のことは忘れてないよなぁ??しかし、右方の丘は取れると思ったんだけどなぁ。やっぱりただ者じゃねぇな。……ま、それでこそ、俺の相棒にふさわしいんだけどな!...てかさ、衛国の飯って意外と旨いよな。故郷の味とは違うけど、なんか元気になるっていうかさ」

煉岱は悪びれず笑いながら、米を口に運ぶ。

「……そうね。悪くないわ....それと私は貴方の相棒になった覚えはないわ。あと、話が長すぎるわ」

「そんなぁ、ま、いいじゃねぇか!」そう言って、からかうように話し続ける煉岱を無視して、朱炎も、一口米を噛み締めた。

その甘みが、泥にまみれた体へ染み渡っていった。


軍舎には、巨大な石造りの沐浴場があった。

「わあ、広ーい! 湯気がすごいわね」 女子志願者たちの声が響く。

朱炎は独り、隅の方で湯を被っていたが、同室になった女子たちが賑やかに話しかけてきた。

「ねえ、蓁玲さんだっけ? 今日はすごかったわね。衛射様の指示を直接受けるなんて、みんな憧れてるのよ」

「芳蘭様と直接やり合ったなんてすごいわ! 私、遠くから見てて足が震えちゃった」

彼女たちは、戦場の厳しさを知ったばかりの、まだ幼さの残る少女たちだった。

「……ただ必死だっただけよ」

「ねえ、沐浴終わったら、少し話さない?」 不意に肩に温かな手が触れる。

朱炎は思わず身を硬くしたが、その手の持ち主が屈託のない笑顔で笑いかけているのを見て、ふっと力が抜けた。

温かな湯が、凝り固まった筋肉と、全身にこびりついた泥を、そして自分を縛っていた「密偵」という名の鎖を、一時的にでも溶かしていくような感覚。

(……これが、志文軍。魏鉄山様を討った、憎き敵の軍勢。なのに、なぜこんなに心が静かなの……)

朱炎は独り、湯船の隅で目を細めた。

全身が鈍く痛む。だが、不思議と心は澄んでいた。

(……明日。明日、ついに伯志文に会う。魏鉄山様を、魯国を……)

彼女は湯に浸かった腕を強く握りしめた。

その腕を、今日、名もなき志願者たちが必死で守ってくれた。

彼らが語った「未来」や、交わした「信頼」。

その事実が、彼女の復讐心をかすかに濁らせていた。


体を清め、清潔な衣服に身を包んだ朱炎は、与えられた簡素な寝床に横たわった。

隣の部屋からは、安堵の寝息が聞こえてくる。

今日一日を共に戦い、明日を共に夢見る若者たちの息遣いだ。

天都の夜は、どこまでも静かだった。

だが、朱炎の心臓は、明日訪れるであろう嵐を予感し、激しく脈打っていた。

(……伯志文。貴方が愛するこの軍を、私は明日、滅ぼさなければ……)

暗闇の中、彼女は静かに目を閉じた。

その枕元には、明日、全てを終わらせるための冷徹な殺意が。 そしてその隣には、今夜初めて抱いた、この軍に対する微かな愛着が、月光を反射して静かに、不協和音を奏でながら横たわっていた。


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