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#1-53:拭えぬ疑念

天都の夜気は、皮膚を裂くような鋭さを増していた。

第一試験という、死と隣り合わせの広大な樹海を辛くも生き延びた五千名の志願者たち。

彼らが辿り着いたのは、樹海のさらに先に広がる、広大な荒地だった。

四方を囲む高い石壁には、風に煽られた無数の松明が掲げられ、その赤黒い火が、志願者たちの疲弊しきった顔を不気味に浮かび上がらせている。

松明の爆ぜる音が、死線を越えてきた者たちの耳朶(じだ)に、戦場の鼓動のように重く響いていた。


樹海の泥や砂、枯れ葉を全身に被り、荒い呼吸を繰り返す彼らの前に、一人の巨漢が音もなく現れた。

その存在は、そこにあるだけで周囲の空気を歪ませ、空間そのものを物理的に収縮させているかのようであった。


志文軍の『伯七狼』が一人、夜叉やしゃである。

その全身は、幾多の猛火と戦場を潜り抜けてきたことを物語る、黒ずんだ鉄の鎧に包まれていた。

鎧の各所には、激戦の証である刀傷や凹みが無数に刻まれ、それがかえってこの男の不壊の強さを無言で誇示している。

その顔には、憤怒の表情を精緻に象った「黒鬼面」が嵌められ、人間としての情緒を一切遮断しているようであった。

露出しているのは、暗闇の中で獲物を狙う獣のように爛々と輝く両の目と、厳しく一文字に結ばれた唇のみ。

その巨躯から放たれる圧倒的な威圧感は、周囲の空気を物理的に押し広げ、志願者たちの胸を圧迫するほどの威であった。

志文に対する絶対的な忠誠心を持つこの男は、志文軍においては、一二を争う最強の「矛」そのものであった。

夜叉の背には、漆黒の鞘に収められた二振りの双剣が、背中で交差するように背負われている。

彼は一言も発しなかった。

ただ、志願者たちの群れを、黒鬼面の奥から一瞥しただけだった。

しかし、その一瞥には、戦場で数多の命を奪ってきた者だけが持つ、逃れようのない死の香りが宿っていた。

空気がその一瞥に微かに振動しているようだった。

その場の静寂は、単なる沈黙ではなく、いつ首を撥ねられてもおかしくないという「死線の恐怖」を彼らに抱かせた。


「……整列」

低く、地の底から響くような地鳴りの一言が放たれた。

その声に込められた有無を言わせぬ強制力に、五千の志願者は本能的な恐怖に突き動かされた。

泥にまみれ、疲労で膝が震えていたはずの者たちも、その震えるような無機質な響きに、魂が叩き起こされたかのように動いた。

乱れていた列は、瞬きする間もなく整えられ、練兵場には一糸乱れぬ緊張が走る。

その群衆の片隅、影の薄い位置に、朱炎(蓁玲)はいた。

彼女は、自身の内側に潜む「(からす)」としての鋭い気配を、深海に沈めるかのように極限まで抑え込んでいた。

どこにでもいる、少しばかり腕に自信のある女武者の振りを装い、肩をすくめて周囲に同調している。

だが、その伏せられた瞳の奥では、黒鬼面の奥に潜む夜叉の視線、そのわずかな動き、重心の置き所を、冷徹なまでに測り続けていた。

(夜叉……志文の影。あの巨躯であの双剣を操るのか。手練れの武人といえど、間合いに入った瞬間に細切れにされるだろう。伯志文を暗殺するなら、最大の障害は奴だ.....とにかく、今は、目立ちすぎず、かつ落とされぬよう立ち回る必要がある。だが、この男の目は、単なる実力だけを見ているのではない。その実力の出処をも見ているように思える.....)


そんな朱炎の思考を遮るように、背後からまとわりつくような、それでいて芯の通った声が、ひそやかに聞こえてきた。

「なあ、相棒。あの黒鬼の若、怖すぎないか?『伯七狼』は皆、その武威や風貌で有名なんだが、どうにも、夜叉様だけは、市井に回る噂に一貫性がなくてね....なんだか、大真面目に黒鬼そのものに見えるぜ..... ったく、志文様の周りには、あんな化け物ばかりいるのかね。見てなよ、あの大地を踏みしめる足。象が歩いてるのと変わらないぜ。あの一歩に踏み潰されたら、骨も残らねえな」

煉岱れんたいであった。

第一試験で、まるで影のように朱炎を執拗に追いかけ、その異常な身体能力と観察眼を見せつけた男。

彼は、この英雄豪傑ですら気圧されるような緊張感に満ちた場にあって、一人だけ近所の散歩にでも来たかのような、不自然なほどの軽妙さを持ち続けていた。

「……黙れ。死にたくなければな」

朱炎は、喉の奥から絞り出すような低い響きで返した。

女としての柔らかさが微塵も出ぬよう、冷たく、刺すような拒絶を込めた声音。

だが、煉岱はそんな彼女の拒絶を柳に風と受け流し、さらに顔を近づけてくる。

「冷たいねぇ。でもさ、相棒。あの夜叉って将、あんたのこと、さっきからじっと見てるぜ? 獲物を見つけた鷹みたいな目をしてさ。まるで、あんたの中にある『何か』を引っ張り出そうとしてるみたいだ。あんた、あの若の好みなのかい?」

朱炎は眉一つ動かさなかったが、内心では激しい舌打ちをした。

煉岱の言う通り、夜叉の視線は確かに、他の志願者とは明らかに異なる「質量」を持って朱炎を捉えているように思えた。

それは単なる観察ではなく、魂の奥底まで引きずり出そうとするような、執拗な品定めであった。

(目立ちすぎたみたいね.....まあ、いいわ....落とされるよりはましね....)

まるで、鋼の触手が皮膚の下を探っているような不快な予感が、朱炎の背筋をかすめていった。


その頃、練兵場の喧騒を見下ろす、高い石積みの高台に設けられた簡素な一室。

そこでは、志文軍の軍師でもあり、参謀的な役を担う羅清らせいが、第一試験の全容を記した報告書に目を通していた。

本陣内は静謐に包まれ、卓上に置かれた香炉からは、微かに心を落ち着かせる香が立ち上っていた。


羅清は、どのような戦況にあっても、常に穏やかな春の海のような微笑みを絶やさなかった。

その立ち居振る舞いは丁寧で、相手を気遣う優しさに満ちていたが、しかし、その柔和な表情の裏側では、万象の因果を見通し、対象のすべてを見通すかのような冷徹なる観察眼が、休むことなく働き続けていた。

志文軍において、最も「頭が切れる」男。それが羅清である。

「……宋燕(そうえん)、報告を頼みます」

羅清の声は、夜の風のように柔らかく響く。


宋燕は、その羅清の声の響きに、幾分かの緊張感が含まれているように感じた。

「第一試験は無事終了したわ。勿論、手心は加えてないわ。配下を参加させて、私は見守るだけにしたわ」

「で、どうでしたか?」羅清は穏やかに聞いた。

宋燕は、「どう」というのが、他国からの密偵のことを指しているということを瞬時に悟った。

「百十四番、蓁玲。および三六五番、煉岱。この二名は、他の追随を許さぬ速度で、あの複雑に入り組んだ樹海の難所を駆け抜けたわ。仕掛けられた落とし穴、毒矢の罠の発動すら置き去りにして、鳴子すら搔い(くぐ)り、私の配下は、二人の位置を全く掴めなかったと言っていたわ。特に三六四番は、最短経路を熟知しているかのごとき動きをしていたわ。途中からしか見ていないけど、そうね....まるで、あらかじめ地図を読み込んできたかのような、動きだったわ」


宋燕の報告を聞き、羅清の常に細められた目が、わずかに開かれた。その奥にある黒い瞳が、松明の火を反射して鋭く光る。

「……異常ですね。味方ならば、とても興味深いですが.....他国からの回し者ならば、実に厄介ですね...」

羅清の声は依然として朗らかだったが、その内容は冷え冷えとした殺意を含んでいた。


「そうね....確かに、その速度には、目を見張るものがあったわ。でも、私が監視していたことに気づいていないようだったし、敵だとしても心配ないわ。それに、もし、他国からの密偵や刺客の(たぐい)だとしたら、目立つのは、それこそ変だと思うわ。だって逆に怪しまれるもの。違う?」

宋燕は少し早口で羅清に尋ねた。しかし、羅清は、ゆっくりと、そして冷静に答えた。

「宋燕、貴方は試験が始まる前、私に言ったはずです。第一試験の罠は、地形を熟知した者であっても、足を止めざるを得ないように組んであると。地形を知らぬはずの志願者が、それをいとも容易く、走り抜けたのです。それゆえに、それを『偶然』という言葉で片付けるには、いささか不安が残ります。......極めて高度な斥候技術を、骨の髄まで叩き込まれている者か.....あるいは、この地形を事前に熟知し、裏をかいた他国の密偵か....」

宋燕は思いついたように尋ねた。

「経歴に怪しい点はなかったのかしら?どうなの?」

「ありませんでした。まったくと言っていいほど完璧に。蓁玲は、王都のはずれで生まれ、情報局の密偵として活動していました。主に、魯国へ赴き、情報収集を行っていたようです。その高度な斥候技術には、周りも一目置いていたようです」

羅清は、手元の木簡に刻まれた蓁玲の戸籍を、じっと見つめた。

「今回の募集において、一位通過者には志文様の御側、つまり、本隊への無条件の配属権が与えられます。……それは同時に、志文様の御首みしるしを、最も近い距離、最も隙のある瞬間に狙える特権を得るということでもあります。志文様の名声が天下に轟き、初めて大規模な募兵が行われた今、他国がこの機会に凶刃を送りこんでくる可能性は高いはずです。志文様は、飄々としておられますが、我らまでその雰囲気に吞まれてはなりません。この”平和”はただの見せかけなのですから」

羅清は少し息を吐く。

「なにより、私にはどうも煉岱という者の方が不気味に見えます。煉岱は、南黎国出身です。普通に考えれば、他国出身の者は、それだけで、密偵だと疑われ、重用される可能性は低いことは当然の(ことわり)です。にも関わらず、南黎国出身だという戸籍を持ち、南黎国から、この募兵を機に、天都に居を移しています。二面を隠す者より、二面を曝け出してくる者の方が、私には厄介に思えます」

そう言うと、羅清は考え込むように黙ってしまった。

「私は行くわね。計略は貴方や林業の専門よ。私は専門外よ」

宋燕は、そう言うと、簡素な一室を後にした。


宋燕が去り、羅清は一人、天下の情勢図を広げていた。

衛国を中心に、北に玄岳国、西に沙嵐国、東に魯国、南に南黎国、そして沙嵐国と南黎国の間に景国が存在している。

精強な歩兵部隊をはじめとした「防」の玄岳国、迅速に敵を穿つ軽騎馬隊が主の「攻」の沙嵐国、重装歩兵や重装騎兵を擁する、天下で最も国土の広い「大国」の魯国、水運業が魯国以上に盛んで、計略や奸計、外交に加え、水軍が精強な「智」の南黎国、そして天下に最も近く、隣接国数が衛国と同数でありながら、未だ滅せず、無類の強さを誇り、天下にその名を轟かす、猛将や智将を多く擁する「質」の景国。

それに対し、地の利に恵まれ、豊かな風土と気候、そして鉱山を持つ反面、軍事力では他国に劣り、天下に最も遠い「産」の衛国。

この情勢図を見るたびに、衛国がいかに薄氷の上に立っているかを、羅清は身に染みて感じていた。


魯国。魏鉄山という巨星を失った国が、密偵を送る可能性としては、最も高かった。

しかし、南黎国。かの国は、衛国と唯一、隣接しない国であり、密偵をあからさまに送る理由(わけ)が、羅清にはどうにもわからなかった。


「夜叉には、第二試験で徹底的に『ふるい』にかけるよう、既に伝えてはある。もし、あの蓁玲や煉岱なる者が不浄な目的を持つ者であれば……夜叉の剣が、その仮面を容赦なく剥ぎ取るだろう。殿をお守りすること、それが我ら『伯七狼』の根源的かつ絶対の責務なのだから」

羅清は、そう吐息とともに、独り言のように呟いた。


練兵場の中央に、巨大な円陣が組まれた。

志願者たちの間に、再び重苦しい緊張が走る。

「第二試験は対人での対戦.....」

夜叉が短く、断ち切るように告げた。

夜叉は背から双剣を抜き放つと、素早く振った。

ビュン...ビュン。

それはまさに、一切の無駄のない、それでいて重々しい舞のようだった。

夜叉は、双剣を背に納めると、短く告げた。

「この程度の武は必要....」

(やはり、私ではあれに勝てない.....どうにか、伯志文が一人の時を狙わねば....)

朱炎の隣では、珍しく、煉岱がじっと夜叉を見つめていた。


どうやら、試験の内容は、二人一組による実戦形式の立ち合いのようだった。

そして、日が落ち、松明しか明かりがない中での戦闘という、特殊な状況下であった。

しかし、朱炎には、この試験の本質が、なにやら、自分のことを探るためのように思われて、仕方なかった。


「百十四番、三六五番……前へ」

夜叉の呼び出しに応じ、朱炎と煉岱が、砂煙の舞い上がる円陣の中央へと歩み出た。

彼らの対戦相手として選ばれたのは、北方の国境付近で「首狩り」と恐れられていた傭兵崩れの巨漢二人組であった。

彼らは、木で作られた巨大な斧を肩に担ぎ、朱炎の細身の体躯を舐めるように見つめて、下卑た笑いを浮かべた。

「おいおい、冗談だろう? こんな華奢な女が相手かよ。夜叉様も、随分と人を馬鹿にした配役をするもんだぜ。俺たちが手を出せば、一瞬で消えちまうぞ、なあ、(えん)?」

「ああ、(ごう)(にい)!「首狩りの(せき)兄弟」とは俺らのことよ!!こいつの首、愛斧(あいふ)で叩き折っちまっても、文句は言わねえだろうな? 夜叉様よぉ」

夜叉は彼らの挑発を一切無視し、ただ無言で双剣を交差させ、開始の合図を送った。


「始め」

夜叉の配下の号令と同時に、巨漢の一人が地を揺らす咆哮を上げ、木製の大斧を空高く振り上げた。

空気を切り裂く轟音と共に、それは朱炎の脳天へと垂直に振り下ろされる。

朱炎の身体は、思考よりも早く、訓練された本能に突き動かされて動いた。

彼女は一歩も引かなかった。むしろ、相手の死懐へと、一筋の影のように滑り込んだ。

(……殺してはいけない。だが、一撃で、再起不能なまでに無力化しなければ、面倒だ。夜叉め....強者を対戦相手にするとは.....ここで、手の内を見せるのは得策ではない....!)

朱炎は手に持った木剣をあえて振るわず、左手の掌で相手の肘を鋭く突き上げ、関節を逆方向に固定した。

同時に、右足の踵で相手の軸足を正確に払う。

「ぐあッ!?」

自身の巨体と大斧の重みが、そのまま自分への凶器となった。

巨漢はバランスを崩し、無様に地面に叩きつけられる。

砂煙が舞う中、朱炎はその喉元に、音もなく木剣の先を突きつけた。

「……動くな。死にたくなければな」

その声音には、極寒の地を吹く風のような、冷徹な死の香りが混じっていた。

倒された男は、恐怖と驚愕が入り混じった表情をしていた。


一方、煉岱の方はといえば、相手の猛烈な連続攻撃を、まるで舞踏でも踊っているかのように、紙一重の差ですべてかわし続けていた。

木剣をだらりと下げ、おどけて体をくねらせる。

「おっと! 危ないねぇ、お兄さん。そんなに力んじゃ当たらないぜ? もっと腰を据えて、俺の心臓を狙ってみなよ。ほらほら、ここだぜ?」

煉岱は相手が業を煮やし、大きく踏み込んだ一瞬の隙を逃さなかった。

相手の鎧の継ぎ目、脇の下、刻まれた首筋を、木剣の先で正確無比な速さで三度、小突いた。

それだけの動作で、相手の巨漢は糸の切れた人形のように脱力し、その場に跪いた。

神経の要所を、最小限の力で断たれたのであった。


夜叉の目が、黒鬼面の奥で一層鋭く細められた。

彼は無言のまま、地を割るような足取りで歩み寄ると、自ら双剣を構え、朱炎と煉岱の前に立ち塞がった。

周囲の志願者たちが一斉に息を呑み、静まり返る。

志文軍最強とも目される男が、自ら志願者の相手をしようというのか。


夜叉の攻撃には、予備動作というものが存在しなかった。

一振りが、電光石火の速さで朱炎の首筋を襲う。

同時に、もう一振りが、煉岱の胴を真っ二つにするような軌道で薙ぎ払われた。

朱炎は、全身の毛穴が逆立つような、これまでに経験したことのない殺気を感じた。

逃げ場はない。

彼女は反射的に、自身の重心を極限まで落とし、木剣の腹でその一撃を真っ向から受け止めた。

――重い。

それは人の力による一撃ではなかった。

まるで巨大な山が空から崩れ落ちてきたかのような、絶対的な質量。

朱炎の足元の大地が、一寸ほどめり込み、彼女の細い腕の骨が悲鳴を上げた。

全身の筋肉が震え、奥歯が砕けんばかりに噛み締められる。

だが、朱炎は耐え抜いた。

彼女の華奢な体躯のどこに、これほどの勁力が、そして折れぬ芯が潜んでいるのか。夜叉の目は、朱炎の瞳の奥深くに潜む、決して光を通さぬ「深い闇」を、確信を持って見逃さなかった。

煉岱は、はるか後方に吹っ飛んだようであったが、受け身をとったようで、かろうじてその意識を保っているようであった。

「ひえぇ....えげつねぇぜ、夜叉様は....俺は逃げ専なのによぉ....」

夜叉は、少しだけ煉岱を見やると、呟いた。

「……合格」

夜叉は静かに剣を引き、背中の鞘へと戻した。

そして、再び言葉を持たぬ石像のような静寂へと戻った。

この第二試験により、五千人程いた志願者は二千名まで、文字通り半分以下にまで叩き落とされた。

立ち合いで敗れた者だけではない。

勝った者であっても、その動きに「兵としての資質」が欠けていると夜叉が判断すれば、容赦なく不合格の刻印が押されたのだ。

そして、稀ではあったが、敗れた者の中でも、その資質ゆえに「合格」となる者もいた。


第二試験の熱気が冷めやらぬうちに、二千名の生き残りたちの前に、新たな将が現れた。

夜叉の重厚な威圧感とは対照的な、細身で長身、そして死神のような静謐さを纏った男であった。

林業りんぎょう

彼は表情を完全に隠す「黒漆面」を付け、一切の感情を排した、金属的で冷徹な声を出す男であった。

志文軍の智将であったが、それと同時に猛将でもあった。

その薙刀の腕前は、志文すら一目を置くという。

彼は音もなく現れ、音もなく任務を遂行する。

羅清が志文の「冷徹なる頭脳」とすれば、林業は、その実行役というところであろうか。

表情の読めないその面は、ただ冷酷に相手の失策を待っているかのようだった。


「……座れ。一刻の猶予も与えん」

林業の声は、低く、練兵場の地面を這うように響いた。

その声は、一切の感情が見えぬ声であったが、そこに熱のこもる夜叉と違い、冷めた冷徹な声であった。


志願者たちは、練兵場の片隅に急造された、簡素な机と椅子の前に座らされた。

「これより第三試験、座学を行う。武勇のみで、志文様の軍に加わろうなどという傲慢は持たぬことだ。兵法を知らぬ者は、戦場においてはただの殺戮者に過ぎず、我らの軍にその席はない。なにより、策を解さぬ者は、軍全体にとっては、ただの足枷に過ぎぬ」

林業は、自身の背丈を超える長大な薙刀を、机の傍らに立てかけた。

そして、志願者たちの列の間を、影のように歩き始めた。

その歩調は一定で、衣擦れの音さえ聞こえてはこなかった。

試験の内容は、特定の極限状態における、百人将としての行動指針を記述するものであった。

志願者たちは、もはや、疲労の極致にあったが、休息をとることはできずに、第三試験に臨んでいた。


『問い:貴公は百人将である。霧の深い平原において、敵の伏兵により本隊との連絡を断たれた。食料は三日分。周囲は敵軍五千に包囲されている。この時、貴公が取るべき行動を述べよ。ただし、志文様は、「不退転」を貴公に求めていることを忘れてはならぬ』

「不退転」とは、背水の陣を敷いてでも、決して退かずに戦うという覚悟であり、戦においては、重要な覚悟であった。

周囲からは、筆を進める音は聞こえなかった。ただ低い唸り声だけが静寂を支配していた。


朱炎は、手元の竹簡に記された問いを、静かに見つめた。

(不退転……。通常ならば、死力を尽くして、敵の包囲を突破することを「不退転」とするだろうが、そのような問いではあるまい。そもそも、志文軍は、常に無駄な犠牲を排し、最小の力で敵の急所を穿つ戦術を軸に据えている。ここで単なる「玉砕」や「突撃」を説く者は、林業の慧眼にはかなわないだろう。すなわち、どう効率的に生き残るかを「智」を以て達せなければならない……)

朱炎は迷うことなく筆を執り、さらさらと文字を綴り始めた。

最終的に遂行しなければならないのは、敵の伏兵五千の存在を本隊に知らせること、伏兵から逃れ生き残ること。

そして、それらを達し、かつ、より多くの死を敵に与え、より多くの生を味方にもたらす戦術を創造することが、この第三試験の合否の分け目であると朱炎は理解していた。


彼女が記したのは、霧という環境を最大限に利用した「偽装退却」と、敵指揮官の心理を突いた「一極集中の奇襲案」であった。

それは、実戦的で泥臭い策であった。

敵の油断を誘い、最も脆い一点を穿つことで、五千の包囲網を霧消させる。

すなわち、一日目は、霧を利用して、敵に奇襲をかけ続ける。それは、”嫌がらせ”程度に抑え、敵の戦術を絞り込むための布石であった。

敵は、執拗な”嫌がらせ”を排し、伏兵としての任を果たすために、最小の被害で最大の効果を出す戦術を捨て、数という”物量”で押し切る戦術へと変える。

ゆえに、霧に(まぎ)れ、二日目は、自身の百人隊の攻勢に差をつける。

すなわち、ある一点にのみ、精鋭の寡兵を以て攻勢を強め、他兵には攻勢を弱めるように指示する。

これにより、敵は寡兵に多くの兵を割くため、他兵は、敵の包囲を突破しやすくなるため、霧に紛れて、他兵は突破する。

三日目は、霧に紛れて、その姿を隠し、二日目に包囲を突破した他兵に喚声を上げさせ、本体からの援軍が来たように見せかけることで、敵の動揺を誘い、その隙をついて、包囲を自分たちも突破し、霧に紛れて、本隊に合流し、伏兵の存在を伝える。


林業は、志願者たちの解答を背後から覗き込みながら、一歩、また一歩と、朱炎の席へと近づいてくる。

彼の黒漆面の奥にある目は、色も熱も持たず、ただ冷徹に文字を追っている。

やがて、林業は朱炎の真後ろで足を止めた。

その瞬間、朱炎の背筋に、氷の刃を直接押し当てられたような鋭い悪寒が走った。

「……蓁玲と言ったな」

林業の声が、直接脳を揺さぶるように耳元で響いてくる。

「お前の策、面白いが、それは、志文様がかつて北方の戦で用いた『霧隠の陣』の骨子に酷似している。『霧隠の陣』は、わが国の秘匿陣のはずだ。……なぜ、まだ入軍もしていない、天都外れの密偵に過ぎないお前が、志文様の秘策の核心をこうも容易く言い当てられる? それとも、どこかでその策の『結果』を知っていたのか?」

朱炎は筆を置かず、呼吸一つ乱さずに淡々と答えた。

「……地形と兵数、そして与えられた絶望的な条件から逆算すれば、残された道はこれしかありません。私は、ただ最も効率的な勝利と、最も確実な生存の道を好むだけです。それ以上の意図はありません。感情を抜きにすれば、答えは自ずと絞られます」


「効率、か。殺しを数式のように扱うようだな......お前の言葉には、情がない。衛国の兵が当然持つべき国への忠義も、志文様という稀代の英雄への心酔も感じられない。ここにあるのは、ただ、冷徹で合理的な『殺し』の計算式だけだ。まるで、感情を殺して訓練された刺客の解答だな」

朱炎は、鉄の仮面のような無表情を貫いた。

「……天都の外れの、名もなき貧しい村で生まれ、元・情報局の末端として、日の当たらぬ汚い仕事ばかりを見てきました。そのせいで、高潔な理想を抱くことや、誰かを信じるという夢を見ることを忘れただけかもしれません。信じるに値する主も、国も、私にはなかった。ただそれだけです」

「そうか.....私の目は、嘘よりも先に殺意を嗅ぎ分ける。お前のその『効率』が、我らに牙を剥くことがあれば、その瞬間に首と胴が離れると思え」

一方の煉岱はといえば、解答用紙に何やら難解な幾何学的な数式のようなものと、空気の流れを示すような不気味な矢印の図解を、猛烈な勢いで書き殴っていた。

林業はそれを見ても一言も発さなかったが、その目が、漆黒の面の奥で一瞬だけ驚愕に揺れたのを、朱炎は見逃さなかった。

煉岱という男もまた、測り知れぬ深淵を持っている。

彼の解答は、兵法というよりも「ことわり」そのものを書き換えるような、異質な理論に満ちていた。


やがて、砂時計の砂が最後の一粒まで落ちきり、選考の刻が終了した。

二千名いた生き残りたちは、林業による冷徹な採点の結果、さらにその半数――一千名にまで削り取られた。

不合格となった者たちは、一言の弁明も許されず、志文軍の兵たちによって、半ば強制的に練兵場から追い出された。

闇の中に消えていく彼らの後ろ姿には、選別という名の冷酷な裁きが刻まれていた。

残ったのは、武勇という暴力の才能と、軍略という理性の才能。その両面で「選別された」真の精鋭たちであった。


「本日はこれにて、終了とする。合格者一千名は、今夜は、この練兵場にて野営せよ。食事は配給されるもののみとする。勝手に火を焚くことは許さん。闇に慣れるのも兵の修行だ」

志文の配下の無慈悲な声が、夜の練兵場に響き渡る。

「第四試験以降は明日(あす)、日を跨いで行われる。会場は、ここではない。天都を出て少し行ったところにある。夜明け前には発つ。各自、身体を休めておけ」

林業と夜叉は、示し合わせたように影となって闇へと消えていった。

練兵場には、合格を勝ち取った一千名の志願者たちが、ようやく訪れた安堵と、明日の試験へのさらなる緊張が入り混じった複雑な表情で、その場に座り込んでいた。


朱炎は、支給された堅い干し肉とわずかな水を、無味乾燥な思いで噛み締めながら、黒い夜空を仰いだ。

松明の火が消された練兵場は、深い沈黙に包まれていた。

聞こえるのは、志願者たちの押し殺した溜息と、遠くで風が鳴る音だけであった。

(明日が第四試験。明後日が第五試験。そこが最終選考になるのか。これまでの試験は、ただの入り口に過ぎない。本隊に入るための、残酷な通過儀礼だ。だが、私の刃は、その門を潜り抜けた先にある……)

『伯七狼』である、羅清、姜雷、衛射、夜叉、宋燕、林業、そして、同格である芳蘭。

彼らの卓越した武と智、そして志文という一人の男に対する、狂信的とも言えるほどの厚い忠誠心。

それは、朱炎が、魯国で予測していた規模を遥かに超え、強固な鋼の壁となって彼女の前に立ちはだかっていた。

「なぁ、相棒!そんなに怖い顔をして夜空を見て、明日が不安なのかい? それとも、俺の顔が恋しくなったのか? 照れるじゃないか。あんたのその鋭い横顔、焚き火がないとより一層、刺客らしく見えるぜ」

煉岱が、月明かりのわずかな反射に照らされて、不気味なほど楽しげに笑っている。

「……お前こそ、あんな解答でよく通ったな。私には理解できん。お前の頭の中はどうなっている。兵法ですらなかったぞ、あれは。ただの戯言にしか見えなかったが」

「失礼だなぁ。俺なりに、一生懸命に計算した結果なんだぜ? 志文様がどう軍を動かし、どう風を読み、どう敵を罠に嵌めるか。物理学的な計算だよ。この世のすべては数式で表せるんだ。……でもさ、あんたの策の方が、ずっと『志文様らしかった』よ。不思議だねぇ、天都の外れの、ただの元密偵さんが、どうしてそこまで主の心を読めるのかな? まるで、ずっと前から彼のことだけを考えて、彼を殺すためだけに生きてきたみたいだ。違うかい?」

煉岱の目は、笑っていなかった。

その瞳は、朱炎の正体を、既にすべて見抜いているのではないかと錯覚させるほどの鋭利な光を宿していた。

朱炎は、彼に背を向け、薄い毛布を頭まで被った。

(……きっと、この男も、そして、志文の配下の将も、私の正体を暴こうと、牙を研いで待ち構えている。一瞬の隙も見せてはならない。一歩踏み外せば、「死」が待っている断崖絶壁なのだ。だが、その崖の下にしか私の望む答えはない....)

だが、朱炎の目的は微塵も揺るぐことはなかった。

魏鉄山の仇である志文を殺し、魯国の脅威を根源から断ち切ること。

そのためには、この冷徹な選別を最後まで勝ち抜き、志文の最も近い場所――その喉笛に手が届く場所へと辿り着かなければならないのだ。

たとえ、どれほどの地獄が待っていようとも。この身がどれほど汚泥に塗れようとも。

天都の夜は、嵐の前の不気味な静けさを湛え(たたえ)、ただ深く、重く沈み込んでいた。


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