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#1-52:新兵募集

~読者の皆様、新年あけましておめでとうございます。今年も何卒宜しくお願い致します。~

『投稿がとても空いてしまって申し訳ないです。。。

投稿頻度、更新速度を大幅に上げていきますので、末永くお付き合い頂ければ幸いです。』

――なお、他作品の投稿頻度・更新速度も大幅に上げていきますので、そちらもお付き合い下されば、ありがたいです!—―       ーNoirー

季節は巡り、天都てんとを囲む山々は、鮮やかな紅葉の燃え残りを雪の予感で覆い隠そうとしていた。

春の芽吹きが大地を揺らし、夏の陽光が兵たちの肌を焦がし、秋の収穫が民の腹を満たした。

飛砂関ひさかんでのあの凄惨な血戦から、既に一年という月日が流れていた。


衛国は、奇跡のような静謐の中にあった。

だがそれは、深い傷を負った猛獣たちが、互いの出方を伺いながら傷口を舐め合っているような、ひどく脆く、危うい平穏であった。

胡麗これいの情報によれば、周辺諸国—―魯国ろこく玄岳国げんがくこく沙嵐国さらんこくの連合軍は、敗北による傷跡があまりに深く、軍備の再編と国内の引き締めに追われているようだった。

国境付近で小競り合いが起きることはあっても、本腰を入れて国境を越えてくるような戦まで発展することはなかった。

そして、それが嵐の前の静けさであることを、天都に集う将たちは皆、痛いほどに理解していた。

各国の使者が時折、天都を訪れては美辞麗句を並べるが、その瞳の奥には、衛国の内情を抉り取ろうとする冷徹な毒が潜んでいる。

今はただ、各々が牙を研ぎ、次なる「天下」の変動に備えて力を蓄える、重苦しい停滞の季節であった。


志文しぶんは二十一になっていた。

この世界に転生し、伯志文という名を引き受けてから、四年が過ぎたことになる。

水面(みなも)の中に映る己の顔には、かつての青臭さは影を潜め、数多の決断と別れを刻んだ、鋼のような冷徹さが宿り始めていた。

頬の輪郭は削ぎ落とされたように鋭くなり、瞳の奥には、数千、数万の命を預かる者特有の、底知れぬ深淵が横たわっていた。

時折、深夜にふと目覚め、暗闇の中で己の手を見つめることがある。

この手で斬ってきた者の感触、そしてこの手で救い上げられなかった命の重みが、じわりと指先に蘇る。

かつての平穏な日本で過ごしていた自分は、もう、どこにもいなかった。


「冬とは思えぬ暖かさですね。天が志文様を祝福しているようですよ」

軍舎の重い木戸を開けながら、羅清らせいが柔らかな声を発する。

その言葉通り、窓から差し込む陽光は穏やかで、冬特有の刺すような寒気はどこにもなかった。

天都の空は抜けるように青く、遠くに見える白狼山脈の稜線が、鋭い刃のように空を切り裂いている。


「……ああ。調練には丁度いい日だ」 志文は筆を置き、手元の竹簡に目をやった。

現在、志文が率いる軍は「八千人隊」という名目であったが、衛徳王えいとくおうから下された特旨により、有事に備えて最大「一万五千騎」までの調練が認められていた。

一万五千騎。

それはもはや一隊の規模を遥かに超え、一つの独立した軍としての機能を要求される数字であった。

兵站の維持、通信網の確立、兵糧の管理、そして何より、各千人隊を束ねる将の育成。

戦力が増えるということは、それだけ背負う命が増えるということだ。

それは同時に、戦場において一万五千の家族の未来を己の指先一つで左右するという、逃れようのない事実でもあった。

志文の肩に食い込む目に見えぬ重圧は、日増しにその密度を増していた。


さて、天都の街は、数日前から異様な熱気に包まれていた。

というのも、志文の軍—―「伯七狼はくしちろう」を核とする志文軍が、初めての「公的な新兵募集」を行うと布告したからである。

龍牙関から始まり、白狼山脈での武功、何より、飛砂関で三ヶ国の連合軍を退けた志文の名声は、今や衛国内で宗教的なまでの崇拝対象となっていた。

若き英雄、あるいは亡き名将・伯明はくめいの嫡男。

伯家はくけが戻ってきた」

その噂は衛国の隅々にまで行き渡り、戦火に苛まれてきた民衆にとって、志文の軍に加わることは、単なる兵役ではなく、一つの誇り、あるいは明日への救いとなりつつあった。

老いた親が、わずかな蓄えを握らせて息子を送り出し、幼い子が、志文の姿を一目見ようと軍舎の門影で背伸びをしていた。


新兵募集の当日。

軍舎周辺は、未だかつてない狂騒に飲み込まれていた。

早朝から並ぶ長蛇の列は、城門を越えて大通りを埋め尽くし、隣町まで続いていると言われても信じることができるような人並であった。

今回の募集は、精鋭二百人程度だと通達していた。

しかし、それに対し、天都に集まった志願者は一万人を優に超え、野次馬を含めれば、三万人を越えようとしていた。

街には「選抜試験の内容を予想する」という予想屋まで現れ、どのような鍛錬を行えばよいか、どのような問いが出されるかなどといった噂が、酒場の喧騒を賑わせていた。

なかには、志文の似顔絵を売る商売人や、志文の姿を模したお守りまで出回る始末であり、王都始まって以来の狂騒曲が奏でられていた。

門兵たちは押し寄せる群衆の整理に追われ、そのあまりの勢いに、城壁の石材が微かに震えているようにさえ感じられた。


「ねえ、志文、この行列を見て……!女子おなごもいるわ……!」

芳蘭ほうらんが、どこか楽しげに、そして驚きを隠せずに口を尖らせた。

彼女の隣では、宋燕そうえんが目を輝かせていた。

「志文様! ぜひ、女子も取ってください! 私や芳蘭の下で鍛えて、男顔負けの精鋭にして御覧に入れますから! 衛国の歴史に、女傑の隊の名を刻みましょう!」

二人の必死さが少し滑稽に思えて、志文は苦笑する。

「わかった……実力次第では考えよう……まったく……」

確かに志文の整った容姿も相まって、志願者の中には純粋な武勇だけではなく、伯志文という若き英雄の姿を一目見たいと願う女性たちの姿も少なくなかった。

天都の町娘から、遠方の村から武芸を嗜んでやってきた勇ましい娘まで。

ゆえに、実際のところ、試験に参加する女子は、そう多くなかったが、その志は男たちに劣らぬほど熱かった。


「……能力があるなら、性別は問わぬ。だが、俺の軍は厳しい。そなたらも、それはわかっているはずだ。戦場で、最も頼れるのは、己自身だ。ゆえに、実力は最も大事なのだ。それに耐えられる者だけを連れてこい……!決して、判断を誤るな……手心を加えてはならぬ」

志文の言葉に、宋燕は「承知しました!」と威勢よく答え、芳蘭と顔を見合わせて不敵に笑った。

「まったく……あの二人はホントにわかっているのか……」

「よいではありませんか。芳蘭も宋燕も公平を期すはずです。戦場の過酷さは彼女たちも身をもって知っているはずですから……」

羅清が朗らかに微笑む。

その微笑みの裏には、志文軍が新たな段階へ進むことへの確かな期待が込められていた。


志文は、今回の選抜のために五つの試験を課した。

しかし、その内容は志文が細かく設定するのではなく、自身の信頼する配下たちに一任したものであった。

彼らがどのような基準で「部下」を選ぶのか。

八千人将ともなれば、その配下である彼らの隊も、単隊で戦場を指揮する可能性があった。

各将が己の哲学に基づいて精鋭を磨き上げる。

ゆえに、それは、将としての彼ら自身の成長を測る試石でもあった。

第一の試験。

その舞台は、天都の外れ、「月の湖」のさらに先に広がる広大な樹海であった。

ここは、かつて伯明が若き頃に調練に使っていた、起伏の激しく、原生林が深く根を張る地であった。

第一試験は、宋燕が担当することになっていた。

彼女は、試験を始める前に、自身の配下を使い、森の中に無数の巧妙な罠を仕掛けさせていた。

深い落とし穴、巧妙に隠された鳴子、そして不意に飛び出す木偶でく

試験の内容は単純明快。

制限時間内に、この樹海を突破し、その先にある小旗を手にすること。

ただ、小旗は、総数の約七割、七千旗程しかない。 そのため、この第一試験は、時間との勝負であり、己との勝負でもあり、他者との勝負でもあった。


「第一試験を開始するわ! そうそう、森の中にいる私の配下は、貴方たちを見つけ次第、容赦なく襲撃するわ。そこで捕縛されたら、その場で失格よ!あと、武器はここに置いていきなさい! 使えるのは己の体と知恵だけよ! では、始め!」

宋燕の声が、樹海の入り口に響き渡る。

志願者たちは、期待と不安を入り混じらせた表情で、次々と鬱蒼とした緑の深淵へと足を踏み入れていった。

森の奥からは、早くも仕掛けに掛かった者たちの悲鳴と、それを追う宋燕の配下たちの鋭い声が響き始めていた。

樹海の入り口に積まれた、志願者たちの置いていった武器の山が、朝日を浴びて虚しく光っていた。


さて、少し時は戻って、話の先は魯国に移る。

朱炎しゅえんが魯国に帰還し、訃報と共に、戦況の一部始終を魯王、魯王猛ろおうもうに報告し終えた時分である。

先の飛砂関での戦を終えて、魯国は『魯三傑』の一人、魏鉄山ぎてつざんを失った。それの意味するところは、魯国の英雄を失っただけに留まらなかった。 それは、魯国という大国の崩壊であり、周辺国を畏怖させていた武の重しが消えたことを意味していた。


『魯三傑』は、もともと、他国の脅威を防ぐために、先王の時代に発足された防衛の要であった。

先王の時代。

その時代は、数多の国がひしめき合い、しのぎを削った群雄割拠の時代でもあった。

次第に、数多の国が、滅亡や併合を迎え、あるいは大国に臣従することで、いつしか天下は「六国時代」へと突入していった。

その“六国”が、すなわち、衛国、魯国、玄岳国、沙嵐国、南黎国、景国である。

天下が六国に淘汰されてからというもの、長らくその情勢は変わらなかった。

時に、大国同士が手を組んだり、密盟を結んだりと、水面下で動きはあったものの、いまだ、この“六国”状態は永く続いていた。

そして、その最も大きな要因は、英雄の存在によるところが大きかった。

『玄岳四堅』、『沙嵐六猛』、『南黎双璧』、『双龍の番人』、『景七師』。

彼らが互いに睨みを利かせている限り、この状況は変わらないであろう、そう魯国は楽観視していた。

いわゆる“先王”の時代、すなわち、各国の現王の父、あるいは祖父の世代は、“戦火の時代”と呼ばれていた。

戦をすることに、各将、各国はどこか、誇りをもっていた。

「楽しむ戦」とでも言うべきか、戦をすることが、どこか生きがいになっていたふしがあった。

そこには、殺戮の中にも、ある種の武人の矜持が存在していた。 それは、凄惨な奪い合いの中にも、一定の「法」と「礼」が守られていた最後の日々であった。


しかし、状況は突如として一変した。

一変させた原因は、「英雄の死」であった。

老衰や引退は、この世の常である。

各国とも、代替わりは経験していたが、それでも、英雄は生まれ続けていた。

しかし、今回の「死」は戦場における「死」であった。

そして、なにより、戦死した将は、いわば、“天下の英雄”であった。

あの時代にあって、小国でありながら、唯一、国として存続していた衛国。

その小国を国たらしめていたのは、伯明というただ一人の圧倒的な英雄であった。

『双龍の番人』は当然、双龍であるから、番人も二人いる。

その二人が伯明と張江ちょうこうであったが、実際のところ、二人の間には大きな差があった。

智謀も武勇も人望も統率も、そして積み上げてきた武功や名声もすべて伯明がまさっていた。

ゆえに、伯明の死は、実質、衛国の滅亡を意味していたと言っても過言ではなかった。


しかし、衛国にとってだけでなく、他国にとっても「伯明の死」は、大きな意味を持っていた。

すなわち、永く続く「六国時代」が終わろうとしている、その予感を「伯明の死」は天下に運んだのだ。

伯明という均衡を支えていた柱が一本折れたことで、蓋をされていた“天下統一”という潜在的かつ原初の欲望が、各国に噴出されることとなった。

ゆえに、伯明亡き後、各国が繰り広げる戦は、「誇り」や「享楽」などといった“小局的”なものではなくなった。

各将が、各国が、一様に「天下」を見据えて、戦を繰り広げた。

次第に、戦は「天下」を得るためにのみ、成されてゆくようになったのである。

そこに、かつての騎士道精神や武人の情けなどは存在しなかった。

ただ、一国が残り、他が滅ぶという、極めて単純で残酷な算術が天下を支配した。


そして、そんな時代にあって、最もその武威が揺らいでいたのは、伯明を失った、衛国ではなく、その東、魯国であった。

魯国は大国である。

豊富な資源に恵まれ、なにより、黒龍河をはじめとする“水”の利が、この国を潤していた。

民は豊かであり、畑を耕し、時に獣を狩ることで穏やかに生活していた。

ゆえに、奪い合いが激化する“天下の時代”にあっては、軍としての野心や練度が不足していたのだ。

豊かな大地は、時として人を、そして国家を甘やかす。

畑を耕している者たちが急に戦に出されては、練度の高い他国の精鋭の前に、あっという間に地に伏していく。

にも関わらず、魯国がその領土を他国に刈り取られなかったのは、ひとえに、人口が圧倒的に多かったため、兵力の補填が他国より、素早く、大量に行えたからに過ぎない。

数で押し潰す。それが魯国の唯一の防衛策であった。

勿論、「勝敗は時の運」という言葉があるように、“天運”が魯国に味方していたことも大きな要因であった。


さて、“天下の時代”になって、しばらくして、魯国に最大の“天運”が到来する。

すなわち、英雄の誕生であった。

それは、『景七師』の隗宣かいせん祁璟ぎけい景昊李けいこうりが、魯国の国境の要塞を突破し、魯国の王都の目と鼻の先、基備きび城を攻めた時であった。

『景七師』の名は伊達ではなく、成すすべもなく、魯国兵は地に伏していった。

ついに、基備城の城門が開かれ、景国兵が城内に怒涛のように雪崩れ込む。

城内では悲鳴が上がり、王都が紅蓮の炎に包まれる未来を、誰もが覚悟した。

魯国の滅亡は間近に迫っていた。


その時だった。

俄かに、城門から土煙と怒号が上がり、景国兵が猛烈な勢いで蹴散らされると、基備城の城門は再び、固く閉ざされた。

それは一瞬の出来事であった。

城外で何が起きたのか、景国の将たちさえ把握できないほどの神速の逆撃。

その後、隗宣らが、死に物狂いの猛攻を仕掛けるも、基備城を落とすことはできなかった。

そればかりか、予測不能な反撃を受け、隗宣と祁景は戦死。

残った景昊李は、命からがら撤退を余儀なくされる。

こうして、魯国は滅亡の危機から脱し、それと同時に、『景七師』を正面から退けた国として、その威名を天下に轟かせたのである。


この戦の立役者こそが、魏鉄山と徐峰じょほう、そして昶毅えいきであった。

魯王猛の父である先王、魯傑常ろけつじょうは、自身の名から一字を取って、この三名を『魯三傑』として賞し、軍の柱とした。

そして、この『魯三傑』を各国との国境に配置することにしたのである。

魏鉄山は衛国との国境へ、徐峰は玄岳国との国境へ、昶毅は景国との国境へ、それぞれ配された。

すなわち、魏鉄山を失った今、衛国との国境に、“象徴”となる将軍を配する力が今の魯国には残っていなかった。


「どうすればよいのだ……」 魯王猛は軍議の最中に深い溜息と共に呟いた。

衛国が攻めてくることを想定した、防衛のための軍議であった。

攻められてから対応するようでは後手に回るという、魯国宰相、崇壜すうびんの強い要請によるものだった。

軍議は紛糾した。

衛国に二度も敗れたうえに、魏鉄山という“武の象徴”を失ったことが、魯国の上層部を大きく混乱させていた。

「皆様、お静まりを……!まずは、大王の意を伺うべきでは……?」

崇壜の声はよく通る。

崇壜は、一見、穏やかに見えるが、その実、極めて冷静で、時に冷酷であることを、魯王猛はよく知っていた。

彼の瞳は、常に数手先の冷徹な利害を見据え、感情という不確かな要素を排して思考していた。


父、傑常は、「強くあれ」と願い、息子に王猛と名付けたが、当の本人は自分は王に向いていないと、幼い頃から思っていた。

名に反して、性格は慎重であり、悪く言えば臆病でもあった。

何の才もない自分より、人を見る目や人を使うことに長けた崇壜の方が、よほどこの玉座に相応しいのではないか、そう思ってさえいた。

父のように、家臣を圧倒するような強圧的な振舞いを心掛けたこともあったが、所詮、中身のない者の虚勢に過ぎなかった。

強圧的に振舞う自分が余計惨めに思えた。

「王猛」という名が、呪いのように己の心に突き刺さる。

きっと、王という星のもとに生まれていなければ、戦の先陣でまっさきに無意味にその命を散らしていただろう。


「ふっ……」自嘲気味な吐息が漏れる。

「大王、ご意見を賜りたく……」 崇壜が、一切の顔色を変えずに声を発する。

「余は戦はわからぬ。が、魏鉄山が討たれたのだ。まずは、衛国に探りを入れろ。特に伯志文という将は、しかと探るのだ……!敵を知れば、我らも備えができるであろう! その若き英雄の正体を見極めねばならん!」

「御英断にございます!!」

崇壜をはじめ、軍議に参加する将たちが、一斉に板敷に額を擦り付け、跪く。

「あとは、我らにお任せを」 崇壜がそう告げると、各将は粛々と軍議の間を後にしていった。


崇壜が自分をないがしろにしていると思ったことは、王猛には一度もなかった。

崇壜の言動は、王への敬意を欠いたことはなかったが、過剰な媚びもまたなかった。

それが崇壜なりの、王に対する不器用な気遣いであると悟ったのは、王位について、しばらく経ってからのことだった。

口に出したことはなかったが、王としての自身の孤独と重責を、この広い宮中で最もよく理解していたのは、紛れもなく崇壜だった。

王猛の心の揺らぎを、誰よりも早く察し、それを埋めるための言葉を過不足なく差し出す。


魏鉄山や徐峰、昶毅らは、父の代から仕えている猛将・智将たちであり、自身の忠臣ではあったが、彼らはどこまでも「魯傑常の嫡子」として自分を敬っているように思えた。

対して崇壜は、王猛自らが殿試を通して、登用した官吏だった。 “彼を宰相まで引き上げたのは自分だ”という、王猛にとって唯一と言ってもいい自負がそこにはあった。

崇壜とは、言葉を交わさずとも、お互いの思考の輪郭がわかる。 それは、信頼とはまた違う、“同種”のような感覚であった。


陽が沈みかけ、夕日が王都にそびえ立つ壮麗な王城に長い残影を留めていた。

崇壜が改めての謁見を求めているとの報を受け、王猛は寝所から軍議の間へと再び向かった。

崇壜は少し頭を下げた。 「それ以上の礼は不要だ。報告せよ」 崇壜は予測していたとばかりに、間髪を入れず、報告を始めた。

「衛国は、先の白狼山脈での玄岳国との戦の際に、衛国内に張り巡らされていた雷鋒らいほうの諜報網を、いとも容易く破壊して戦に臨んだようです。ゆえに、今、下手に多くの密偵を送るより、少数ですが、これ以上のない精鋭を送るほうがよいと判断いたしました。一刻を争う事態ゆえ、既に実行に移しました。事後報告になりましたこと、申し訳ありません」

「よい。余はそなたを信じておる。そなたの判断に間違いはない」

「ありがたきお言葉」 崇壜は深くこうべを垂れた。

「して、誰を送った?」

「朱炎を送りました。魏鉄山殿が最も目をかけていた若き鴉です。伯志文の隊は、近々、募兵のための試験を行うそうです。その試験に朱炎らを参加させます。捕縛されても、身元は割れませぬ。細工は完璧です。心配は無用です」

「そうか……」

「王よ、ここが正念場です。魏鉄山殿を失った今、我らは、なんとしても勝たねばなりませぬ。ここで負ければ、衛国だけでなく、他国もまた、我が国に押し寄せるはずです」

崇壜が語気を柔らかに、しかし鉄のように強く込める。 その声には、冷徹な宰相としての顔の裏に、主君を守り抜こうとする秘めたる熱情が宿っていた。

「わかっておる……耐えねばならぬな、今回も……」

崇壜は、深く礼をすると、静かに去っていった。


魯王猛は、再び静寂に包まれた軍議の間で、独り、玉座に腰かけ、ちゅうを見つめていた。

この玉座という椅子が、この魯国という広大な大地が、果たして、忠臣たちが死を賭すほどの価値があるものなのだろうか。

王としての孤独を知り、この国の民を愛しているがゆえに彼には、天下という言葉が、ひどく虚しく、陳腐なものに思えてならなかった。

だが、彼は王であった。逃げることも、立ち止まることも許されない、血塗られた栄光の囚人であった。


朱炎は、木々が生い茂り、時折、何者かの叫びのような不気味な音が響く樹海の中で、崇壜の冷徹な命令を反芻していた。

「情報をなるべく多くもたらせ。伯志文の軍の策や核を把握せよ。そして可能であれば……伯志文は暗殺せよ」


正直なところ、朱炎は崇壜のことはあまり好きではなかった。

あの男の顔は常に薄笑いを浮かべているが、その心は冬の湖のように冷え切っている。

彼にとって、人は使い捨ての駒に過ぎないのではないか。

かつて、朱炎は、その不満を魏鉄山に漏らしたことがあった。

魏鉄山は、岩をも砕くような大声を上げて笑った。

「はっはっは! お前はまだ若いな、朱炎!」

(よわい)は今年で二十一。魏鉄山にそんな不満を漏らしたのは、十九の時だった。

「もう大人です!」

そう声を荒げ、必死に背伸びをしていた自分が、今はひどく恥ずかしく、そして愛おしく思える。


大人の、そして真の武人としての自身の背中を見せる前に、魏鉄山は戦死した。

考えたこともなかった。

あの鋼鉄の巨人、魏鉄山が口を閉ざし、冷たい棺に横たわる姿など。 不意に目頭が熱くなり、視界が歪む。

朱炎はそれを乱暴に袖口で拭うと、「ふぅ」と深く重い息を吐き出した。

魏鉄山がその命を賭して護ろうとした魯国のために、この役目を全うしよう。亡き師への恩返しは、これしかない。今はそれだけを考えることにした。


ガサッ。

背後の藪が、不自然に揺れた。

朱炎は瞬時に体を反転させ、鋭く肘を突き出す。

「ぐえっ」 鈍い衝撃と共に、悲鳴が上がる。

朱炎が振り向くと、そこには一人の男が腹を抱えて、体をクネクネとさせて悶絶していた。

どうやら、宋燕の配下ではなく、同じ志願者のようだった。 男の身なりは粗末な布服だが、その筋肉の付き方には、どこか異様なバランスの良さが感じられた。


「……すまない。てっきり、宋燕殿の配下かと……」

「い……いや……いいんだ……きに……しないで……くれ……ぐはっ」

男は息も絶え絶えのようだった。

朱炎の反射的な一撃は、訓練を積んだ兵でも気絶しかねない鋭さを持っていたからだ。


朱炎は、周囲に他の脅威がないことを即座に確認すると、あえてそこで数息の休息をとることにした。

自身の進行速度から見て、自分が最も先頭集団に位置していることは確信していた。

ゆえに、ほんのわずかな休息を取っても、小旗の確保に支障はないと判断したのだ。

なにより、自身が悶絶させてしまった男が少し気がかりだった。

はるか後方では、志願者たちが仕掛けに掛かり、無様に地を這っている気配が感じられた。 そして、宋燕の配下たちが、まるで獲物を追う猟犬のように、森を縦横無尽に駆け抜けていく音も鮮明に聞こえた。


男はほどなくして、腹をさすりながらよろよろと起き上がると、親しげに手を出してきた。

「俺の名前は煉岱れんたいだ! 俺が一番乗りかと思って飛ばしてきたが、あんた、見かけによらず、すげぇなぁ! まったく、腹が捩れるかと思ったぜ」

どうやら握手を求めているようだった。

朱炎は、煉岱の全身を舐めるように観察し、そこに殺気がなく、ただの能天気な若者であることを確認すると、その手を軽く握った。

握った瞬間、その手のひらの「豆」の付き方から、彼が凄まじい修練を積んできた武芸者であることを朱炎の直感が告げた。

だが、表情には一切の毒がなかった。

蓁玲しんれいよ」

勿論、偽名である。

戸籍も、崇壜がなにをどうしたのかは知らないが、完璧に細工を施したものであり、衛国の役人が調べたところでボロが出る心配はなかった。


「いやぁ、しっかし、ここから先はさらに面倒だなぁ……なあ、相棒! 一緒に行かないか?」

「……」

朱炎は煉岱の言葉が聞こえていないかのように振舞った。

この薄っぺらく、隙だらけの男とこれ以上、時間を共にする意味はない。心配し、強者と認めた自分が馬鹿くさく感じられた。

朱炎は、煉岱を無視するように再び駆けだした。


その瞬間、唐突に横の茂みから、太い丸太を模した木偶が迫る。

朱炎は、走る速度を落とすことなく、わずかに上体をかがめてそれを躱す。

木偶の風切り音が耳元をかすめる。

背後で、宋燕の配下と思われる気配が、一瞬近づき、そして遠ざかっていく。

朱炎は、単なる脚力だけではなく、全身の筋肉を連動させることで、宋燕の配下たちの追跡を易々と振り切っていた。

その身のこなしは、まさに戦場を翔ける鴉であった。

鳴子を鳴らさないよう、地面の枯れ葉の踏みどころを選び、足音を殺しつつ、自身の位置を悟らせない。

巧妙に擬装された落とし穴を、土の色のわずかな変化から察知して避け、次々と現れる木偶を最小限の動きで躱し続ける。

朱炎は、試験開始から一刻を待たずして、樹海の出口に到達した。

そこには、陽光を反射して輝く銀色の小旗が並んでいた。朱炎はその一本を迷わず手にした。


そのわずか数分後。

「へへっ……やっぱ相棒はすげえなぁ! 追いつくのがやっとだったぜ!」

なんと、背後から煉岱が息を切らしながらも、同様に小旗を手に取った。

朱炎は、自身の極限に近い速度についてこれた煉岱に、内心で激しい驚愕を覚えていた。

やはり、ただの能天気ではなかった。

煉岱は息を切らしてはいるが、かすり傷一つ、負っていなかった。

宋燕の配下の苛烈な追撃を、どうやって躱してきたのか。

だが、煉岱のあまりに馴れ馴れしい態度が癪に触ったため、朱炎は言葉を返す代わりに、氷のような鋭い視線を投げかけることで、それに応えた。


さらに二刻ほどが過ぎ、樹海の入り口で試験の終了を告げる銅鑼の音が響き渡った。

小旗はまだ、二千旗程余っていた。

「五千名まで減っちまったかぁ……みんな、意外と根性ねぇなぁ……ちきしょぉ……」

なぜか自分のことのように悔しそうに周囲を見回している煉岱を横目に、朱炎らは、指示に従って第二試験の場へと誘導された。


脱落した者たちの、絶望と後悔に満ちた呻きが、夕闇に溶けていくようにかき消されていった。


すでに、先ほどまでの、冬とは思えない暖かさはどこかへ消え去っていた。

日は傾き、王都を囲む山々の向こうに沈もうとしている。

夕闇の訪れと共に、天都の冷気がしんしんと、しかし確実に志願者たちの体を突き刺すように押し寄せていた。

吐き出す息が、白く、長く、空気に溶ける。

朱炎は、自身の懐にある暗殺の刃の感触を確かめながら、次なる試験の場へと、その一歩を踏み出した。

その視線の先には、松明の火に照らされた不気味な、しかし荘厳な試験会場が、口を開けて彼らを待っていた。


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