#1-51 友との歩み
衛国の王都、天都の門が、重々しい音を立てて開かれた。
乾いた空の下、城壁を埋め尽くした民衆から、地鳴りのような歓声が沸き起こる。
飛砂関での血戦。
魯国・玄岳国・沙嵐国の連合軍という巨大な波を、衛国軍はその総力を挙げて押し返したのだ。
総大将・張江を筆頭に、数多の将たちが泥を舐め、数多の兵が土に還ることで勝ち取った、総力戦の結果であった。
志文は愛馬の首を軽く叩き、張江の後ろに従って進む。 張江の背中は、戦前よりもさらに一回り大きく見えた。
幾万の命を背負い、決断を下し続けた男の重みが、その甲冑越しに伝わってくる。
志文の背後には、配下の羅清、姜雷、衛射、夜叉、宋燕、林業らが続く。
民衆は兵たちの名を呼び、勝利を讃える。
だが、志文の視界は、熱狂の渦の隙間に、ぽっかりと空いた「空白」を捉えていた。
李岳。
本来ならば、自身のすぐ隣で馬を並べ、冷徹な知性を湛えた眼差しで民衆を眺めていたはずの男。
志文と同い年でありながら、どこか達観し、戦場という狂気の中で唯一、志文と孤独を分け合えた戦友。
李岳の馬がいない。その事実が、凱旋の歓声という華やかな幕の裏側で、冷たい隙間風のように志文の心を吹き抜けていた。
志文は、自らの甲冑にこびりついた、乾いた泥と血の匂いを意識した。それは自身のものであり、敵のものであり、そして二度と天都の地を踏むことのなかった部下たちの、最期の証でもあった。
天城での謁見を終えた後、志文は、膨大な戦後処理に追われていた。
軍舎内の軍務所の広間には、飛砂関や情報局から運び込まれた竹簡と紙の束が、壁のように積まれている。
戦は終わったが、軍という組織が動いた痕跡を整理し、世を去った友を記録し、恩賞の基礎を作る作業は、剣を振るうこと以上に過酷な忍耐を必要とした。
志文は筆を動かしながら、数字の羅列を睨む。 将軍・張江の差配により、論功行賞の原案作成は各将に割り振られていた。
志文は、自らの指揮下で戦った兵たちの名を確認していく。
「志文様、こちらに物資の損耗リストと、遺留品の配送計画案を置いておきます」
羅清が、静かに現れて書類を置いた。 朗らかな笑みを崩さなかったが、その声は、冷静で、どこか事務的だった。
「李岳の隊も整理してあります....」 羅清は、珍しく口ごもるように告げた。
「悪いな...助かった...」志文は、羅清を見ずに、少し冷ややかに告げた。
羅清は、深く礼をすると、静かに軍務所を後にした。
志文は、李岳の死を受け止めることは、まだできなかった。
彼は知性的で、時に冷酷なまでに合理的だった。だが、志文の若さゆえの苦悩や、天下という言葉に抱く漠然とした畏怖を、誰よりも理解していた。
「この李岳が.....いつも....そばにおります....」 かつて李岳が言った言葉が、耳の奥で蘇る。 今、その言葉の主は、冷たい竹簡の中に「戦死」の一文字として刻まれている。
志文は、戦死者の家族への訃報を書き続けた。 それは事務的な報告ではない。将として、その兵がどのように戦い、どのように果てたのか、可能な限り記憶を絞り出し、紙に写していく。
「……お前の息子は、最後まで盾を捨てなかった」 「……貴殿の夫が稼いだ時間は、我ら千人の命を救った」 一筆一筆が、志文の指を重くする。
どんな御託を並べても、失った者は帰ってこない。たとえ、その雄姿を、遺族のもとにどれだけ届けようと、自身の手で死地に送り、自身が、彼らを遺族にしたという事実は、どうしようもなかった。それでも、その雄姿を伝えたかった。
遺族を救うものではないことはわかっていた。言うなれば、ただの「自己満足」であった。
外では凱旋の宴の残り香が漂い、賑やかな声が聞こえてくるが、軍務所の中だけは、死者との対話という重苦しい沈黙が支配していた。
夜が更け、夜灯が短くなる頃、ようやく志文は筆を置いた。
軍務所を出ると、夜風が火照った顔を撫でた。
天都は、ようやく静まり返ろうとしていた。 志文は、自分の帰るべき場所へと足を向けた。そこには、戦場の泥も、死者の記録も存在しない、唯一の平穏があるはずだった。
屋敷の門をくぐる頃には、深夜に近かった。 だが、玄関には、暖かな灯が漏れていた。
「おにいさまぁ!」 扉を開けるなり、小さな影が飛び出してきた。 雪華だった。
まだ幼い妹は、志文の腰にしがみつき、顔を押し付けてくる。
「雪華、ずっと待ってたんだぁ」
可憐な瞳に不安を滲ませ、上目遣いで志文を見る雪華を、志文は優しく抱き上げた。
雪華の柔らかな体温と、ほのかに香る石鹸の匂いが、戦場の鉄臭さを上書きしていく。
「雪華、お兄様を困らせないで。お兄様、夕餉の支度ができております」
月華は志文の顔をじっと見つめ、その瞳の奥にある疲労と悲しみを感じ取ったように、静かに微笑んだ。
「お兄様……御無事でなによりです」 彼女は、それだけ言うと、夕餉の席に志文を誘った。
居間へ行くと、胡麗が甲斐甲斐しく料理を並べていた。
「……天城の方は、まだ騒がしいんでしょう?」
情報局長の彼女の目は、志文が見ている戦場とは別の、政治という名の濁流を見ていた。
「……ああ。論功行賞が終わるまでは、落ち着かないだろうな」
「そうね。....これ……月華と一緒に作ったの。貴方の好きな、鴨のスープもあるわ」
「ちょ...ちょっと...なによ...!私は元々、遊女なのよ...!!」 胡麗が頬を赤らめながら、口を尖らせる。
四人で囲む食卓。 雪華は志文の隣から離れようとせず、たどたどしい口調で、天都で流行っている遊びや、留守の間に庭に咲いた花の話をした。
月華は、そんな雪華を優しく宥めながら、志文の皿に次々と料理を運ぶ。
「お兄様、好きなだけ食べてください。……お父様が生きてたら、きっとお酒を注いで喜ばれます。「よくやった」、そう言うのでは?」 月華は、穏やかに言った。
父・伯明。かつてこの国を支えた名将の不在を、月華は悲しみとしてではなく、誇りとして語る。彼女のその強さが、志文にとっては、常に救いであった。
食事を終えると、雪華は志文の膝の上で、力尽きたように眠ってしまった。
月華が、愛おしそうに雪華を抱き上げる。
「お兄様、おやすみなさい」 月華は、そう言うと、寝所に雪華を連れて、入っていった。
兄への最大の自然な気遣いであった。
「……李岳のこと、聞いたわ」 お茶を入れながら、胡麗は静かに言った。
胡麗の言葉に、志文は胸の奥を刺されたような感覚を覚えた。
「……そうか。情報局は、耳が早いな」
「.....あいつがいないと、これからの軍務が、ひどく退屈になりそうだ」
志文は、無理に笑おうとしたが、唇が強張った。
胡麗はそれ以上何も言わず、志文の肩にそっと手を置き、しばらく寄り添っていた。
しばらくすると、志文の肩から、胡麗の静かな寝息が聞こえてくる。
(まったく....) 志文は、胡麗を寝所に運び、独り、裏庭へと向かった。
裏庭には、冷たい夜風が吹き抜けていた。
天都の夜空は、飛砂関で見たものよりも遠く、冷たく感じられた。 志文は、庭の隅にある古びた石段に腰を下ろした。
静かだった。 あまりに静かで、心臓の鼓動が騒々しく感じられた。
目の前には、竹林が夜風に揺れ、ざわざわと音を立てている。
(……李岳。天下などというものは、幻だと、俺は思う。俺たちに知っているのは、今、この瞬間の戦場の重さだけだろう)
李岳の笑い声が聞こえた気がした。
寒い日の夜、焚き火を囲みながら、李岳に言った言葉だ。
「それでも、私は天下を信じたいのです。天下を知らずに、ただ信じるのです」
そう言って、李岳は、少し困ったような、それでいて嬉しそうな顔をして、酒を煽った。
李岳は、常にそばにいて、冷徹な理屈で志文を現実に繋ぎ止めていた。 志文が「将」として振る舞う時の「個」としての孤独を見抜いていた。
言葉にしなくても伝わるものがあった。 戦場において、李岳の存在は、志文にとって唯一の、魂の停泊地であった。
「……李岳」 志文は、膝を抱え、小さく呟いた。 その瞬間、せき止めていたものが、決壊した。
目頭が熱くなり、視界が歪む。涙は止まらなかった。 熱い滴が、指の間を通り、地面の枯れ葉に吸い込まれていく。
(なぜ、死んだ……。なぜ、お前なんだ)
問いかけても、竹林のざわめきが返ってくるだけだった。
数多の将が死んだ。李岳だけが特別ではない。
将として、それは理解していた。だが、伯志文という個人として、一人の友として、李岳の喪失は、心の一部を削り取られたような、取り返しのつかない痛みだった。
志文は、李岳の冷徹な眼差しを思い出し、また涙を流した。
(あいつがいれば、今のこの涙すら「非効率だ」と笑っただろうか。それとも、何も言わずに隣に座っていたのだろうか....)
天下は広い。 飛砂関で連合軍を退けたところで、それは大陸のほんの一角の出来事に過ぎない。
これから先、さらなる激戦が待ち受けているだろう。
天下統一をなせば、友を失わない世界がくるのか。 志文には、わからなかった。
むしろ、統一という果てしない旅路の中で、さらに多くの友を失い、自らも汚れ、冷酷な怪物になっていくのではないかという恐怖があった。
(……それでも、俺は歩くしかないのか) 志文は、涙を拭った。
立ち止まることは、李岳の死を無駄にすることだ。 李岳が命を賭けて守り抜いた飛砂関の土、そして志文という男の命。 それを背負って、志文は「天下」という名の蜃気楼を追い続けなければならない。そう信じることにした。
「……信じるしかないんだな。あんな世界が、いつか来ると」 志文は空を見上げた。
月は高く、静かに天都を照らしている。
涙が乾くと、志文の心には、鋼のような冷たい覚悟が沈殿していた。 悲しみは消えない。だが、その悲しみを糧にして、前へ進む。
それが、生き残った者の、死者に対する唯一の礼儀だと、彼は信じることにした。
翌朝。
志文は、太陽が天城の尖塔を照らす前に、軍装を整えた。 甲冑は、月華が磨いてくれたのか、昨日の泥汚れは消え、鈍い銀色の光を放っている。
「おにいさまぁ?」 雪華が、眠そうな目を擦りながら起きてきた。
志文は、雪華を抱き寄せ、そのおでこに軽く口づけをした。
「少し、行ってくる。……いい子にしてるんだぞ」 「うん、いい子にしてるから、早く帰ってきてねぇ」
門前では、月華が静かに立っていた。
彼女は志文の顔を見て、昨夜の涙の跡が消え、代わりに揺るぎない「覚悟」が宿っていることを悟ったようであった。
「お兄様。……お兄様は、お父様に似てきたわ....」
「……そうか」
「ええ。とても、立派な顔....でも....」
志文は、月華の背中を優しく叩いた。月華の不安が、背中越しに伝わってくる。
「心配するな。そなたたちがいる限り、俺は死なぬ。父上と俺は違うのだ」
志文は、月華をそっと抱き寄せた。
屋敷を出ると、早朝の寒気が志文の身体を冷やしていく。この寒気が、頭を芯から冷やしていく。
志文は、白い吐息と共に、天城へと続く道に、馬を駆った。
天城の門前に着くと、すでに、張江と磐虎、葉旋が待っていた。
「志文か。……顔つきが変わったな」 張江が、志文を見て僅かに目を細めた。
「……はい。ようやく、戦が終わった気がします」
「そうか。一つの戦が終われば、次の戦が始まる。……衛国の矛と盾は、まだ休むわけにはいかぬであろう」
「承知しております」
天都の空に、朝日が昇る。 その光は、天城を黄金色に染め、これから始まる新たな時代の到来を告げているようだった。
天城の大殿へと続く回廊には、冷ややかな空気が張り詰めていた。
志文は、張江、周翼、磐虎、葉旋と共に、その石床を踏みしめていた。
戦場を脱したばかりの将たちの身体からは、どれほど天都の陽光を浴びようとも消えぬ、血と硝煙の匂いが、まだ微かに漂っているようだった。
大殿の重厚な扉が開かれる。
そこには既に衛国の重鎮たちが居並んでいた。
左右の列には、戦場を生き抜いた将軍たちが立ち並び、中央の広大な空間が、今から行われる論功行賞の重みを無言で語っている。
その最奥、玉座に座る衛国王・衛徳の姿を見て、志文は微かに目を細めた。
衛徳王の双眸には、一国を背負う者特有の、鋭く、それでいて底知れぬ静謐さが宿っていた。
父・伯明が仕えた先王の老練さとは違う、研ぎ澄まされた刃のような覇気が、若き王の全身から立ち昇っている。
しかし、その瞳には、勝利を祝う軽薄な喜びなど微塵もなく、ただ、国を護るために失われた膨大な命に対する、重苦しい「責」だけが存在していた。
志文たちが左右の列に加わると、大殿の静寂は、玉座の一声によって破られた。
「面を上げよ、衛国の勇士たちよ」 衛徳の声は高く、透き通るような力強さがあった。
「まず、語らねばならぬことがある」 衛徳は言葉を区切り、大殿の隅々まで行き渡るように告げた。
「荀厳、朱威、汪盃……そして、名もなき数多の将兵。飛砂関の土となった彼らがいたからこそ、今日、この天都に日は昇った。余は、衛国を代表し、散って逝った魂に深い哀悼の意を捧げる」
衛徳王が静かに頭を垂れると、並み居る将軍たちも、一斉に首を垂れた。
志文の脳裏に、李岳の姿がよぎる。あの知性的な笑みを浮かべた男も、今やこの「哀悼」の対象となったのだ。その事実が、胸の奥で鈍く疼いた。
宰相・徐平が、その沈黙を引き継ぐように一歩前へ出た。
論功行賞は、粛々と進められた。
まず、第三功として名が呼ばれたのは、葉旋であった。
「葉旋。汝は、飛砂関南翼において魏の猛攻を凌ぎ、反撃の起点を作った。その功、極めて大なり。金三千、兵糧一万石を賜い、八千人将へと昇格させる」
葉旋は、一歩前へ出て深く礼をした。 「身に余る光栄に存じます」
その声に気負いはない。彼女もまた、多くの部下を失った重みを噛み締めているようだった。
続いて、第二功。
「張江。汝は総大将として、連合軍の圧力に屈することなく、衛国軍の士気を支え続けた。その大局的な差配こそ、勝利の根幹なり。金五千、兵糧二万石。さらに、張家に塩の専売権限を一部付与する」
これには、周囲の将たちからも小さなざわめきが起こった。塩の専売権は、一族に永劫の富貴を約束する破格の恩賞であったからだ。
張江は、表情を変えずに、恭しく礼をした。
「第一功—―伯志文」 徐平の声が響き渡る。
「金五千、兵糧二万石。八千人将への昇進。さらに、国家存亡の危機に際しては、臨時に『将軍』の位を授け、軍の全権を委ねるものとする」
周囲がどよめいた。二十歳そこそこの若者に、将軍の権限を預ける。
だが、反対する者はいなかった。
龍牙関、白狼山脈、そして飛砂関。志文が潜り抜けてきた死地の数々が、その武功を裏付けていた。
志文は深く首を垂れながら、手のひらにじっとりと汗をかいているのを感じた。
「将軍」という二文字の重み。
それは、もはや一兵卒の死を嘆く自由すら奪われる、孤独な高みへの招待状であった。
論功行賞が終わったその日の夜。
軍務所の一角、志文の執務室では、重苦しい問答が始まろうとしていた。
「殿……第一功、お祝い申し上げます」
羅清はいつものように朗らかな笑みを浮かべていたが、その瞳には隠しきれない真剣な光が宿っていた。
「……めでたくはない。背負うものが増えただけだ」
志文は椅子に深く腰掛け、机の上に置かれた部隊名簿を睨んだ。
一番上に記されていた「李岳」の名は、斜線が引かれ、その下には誰の名も記されていなかった。
志文は、この場所を空けたままにしたかった。
他の者を隊長に据えることは、李岳の存在を、ただの「埋め合わせ可能な駒」として認めるようで、耐え難かったのである。
「殿、……隊長を、もう一人補充していただかなければなりません」
羅清の顔から、いつもの朗らかさが消えていた。
「……しつこいぞ、羅清。李岳の代わりなどいないと言ったはずだ。策の実行なら林業ができる。それで十分だ」
志文は、机に積まれた李岳の遺した竹簡を睨みながら、冷たく言い放った。
「十分ではありません!」 羅清が声を荒らげた。
「殿。しつこいようですが申し上げます」 羅清が、一歩踏み出した。
「李岳の代わりなど、この世にいないことは、私も含め、皆わかっております。ですが、軍として……『伯七狼』として機能し続けるためには、新たな隊長がもう一人、どうしても必要なのです」
「……林業がいる」
「林業は確かに優れています。李岳ほどとはいきませんが、殿の策を実行できることは確かでしょう。しかし、戦場では、殿の『腕』となり、『盾』となり、時に殿が戦場全体を俯瞰するために背中を預けられる、もう一人の『将』が必要なのです。李岳はそれを一人でこなしていましたが、林業は、李岳ではありませぬ」
「大国との戦は、個人の武勇だけでは勝てません。先陣として敵陣に穴を開ける将、後方から脅威を与え続ける将、殿のそばを守る将、第二陣として助勢する将、奇襲・攪乱を担う将、戦場全体を俯瞰し、後方から援軍を的確に差配する将、乱戦に身を置き、すべての役割をある程度の水準でこなせる将……。これらが歯車のように噛み合わねばならない。そう仰ったのは、殿のはずです。今、我々の誰かが再び欠ければ、この軍は機能しなくなります。殿お一人に、すべてを背負わせるわけにはいかないのです」
志文は、何も言い返せなかった。 羅清の言葉は、正論だった。正論だからこそ、心の一部を抉られるような痛みがあった。
李岳のいた場所を、誰かに明け渡す。
それは志文にとって、親友の魂を完全に過去のものとして葬り去るような、耐え難い裏切りに思えたのである。
「……殿は、お一人で背負いすぎです。八千の命を、お一人で抱えきれるとお思いですか」
羅清の瞳には、志文への深い憂慮が滲んでいた。
志文は窓の外、闇に沈む天都を見つめた。
(……お前なら、どう言う、李岳) 答えは返ってこない。
ただ、冷たい風が竹林を揺らしているだけだった。
翌朝、志文は衛徳王に呼び出され、天城の奥まった一室へと向かった。
そこには、王と共に一人の女性が待っていた。 見間違えるはずもない。
粛々とした正装に身を包み、凛と立っていて、その眼差しは、冷静で輝きに満ちていた。
「芳蘭……」 志文の口から、その名が漏れた。
彼女は、龍牙関での魯国戦において、志文と肩を並べて戦った戦友であり、先の連合軍戦でも、彼女の隊がいなければ、中央は、とっくに壊滅していただろう。
槍を振るえば一騎当千、指揮を執れば百戦錬磨。
衛国軍において、いまや「紅蓮の女傑」と恐れられる猛将であった。
「志文。久しぶりね。……少し、顔が険しくなったんじゃない?」
芳蘭が、以前と変わらぬ、しかしどこか包容力のある笑みを浮かべて言った。
彼女の口調は、戦場での苛烈さとは裏腹に、旧知の仲である志文に対しては、友と接するかのように柔らかかった。。
「芳蘭....なぜ、ここに」 「余が呼んだのだ」 衛徳王が、椅子に深く腰掛けて口を開いた。
「志文よ。余は、李岳という稀代の才を失ったことを、国を挙げて悼んでいる。だが、死者は帰らぬ。……そなたの軍には、李岳の代わりはおらぬが、それでも新たな「将」が必要であろう。そしてそれは、赤の他人では務まらぬことも、余は承知している」
衛徳王は、芳蘭に視線を向けた。
「李 芳蘭は、龍牙関でも、飛砂関でも、そなたと共に地獄を潜り抜けてきた。実力は、そなた自身が一番よく知っているはずだ。芳蘭を隊長として迎えてはどうだ?『伯七狼』にせよとは言わぬ。それは、芳蘭自身が勝ち取るものだ。ただ、新たな将として、迎え入れてはどうか?」
志文は、言葉を失った。 昨夜、羅清に詰め寄られた際、志文の脳裏には「もし迎え入れるとしても、赤の他人は嫌だ」という拒絶があった。
羅清は頑固だ。もし志文が首を縦に振らなければ、彼は軍の維持のために、どこからか見ず知らずの実力者を連れてきてでも、その穴を埋めようとするだろう。
(……赤の他人を迎え入れ、李岳の椅子を汚されるくらいなら)
志文は、芳蘭を見つめた。 彼女は、志文が何を迷っているのか、すべてを見抜いているような、澄んだ瞳をしていた。
「……志文。私は、李岳殿の代わりになろうなんて、これっぽっちも思ってないわ」
芳蘭が、一歩前に出て言った。
「私は、私の槍で、貴方の背中を護りたいだけ。……貴方が見ようとしている『天下』とやらを、横で見てみたいのよ。それに、貴方一人に重い荷物を全部持たせておくなんて、戦友として見てられないわ」
志文は、小さく息を吐いた。 彼女なら、李岳も文句は言うまい。
「……羅清の奴、王にまで話を回したのか」
「ふふ、貴方のことが心配で仕方ないみたいよ。……どうするの、志文様?」
芳蘭が、少し茶化すように首を傾げた。
「……わかった。芳蘭殿、貴女の力を貸してほしい」
志文がそう告げると、衛徳王が満足げに頷いた。
「決まりだな。志文、芳蘭。お前たちが揃えば、衛国の矛はさらに鋭くなる。期待しているぞ」
数日後。 天都の外れにある演習場に、八千の将兵が集結していた。
志文は、将壇の上に立ち、全軍を見渡した。
そこには、羅清、姜雷、衛射、夜叉、宋燕、林業の姿があった。
「皆、聞け。今日から、我らに新たな隊長を迎える」
志文の声が、冷たい朝の空気を切り裂く。 志文の合図と共に、芳蘭が壇上に上がった。 背中の長槍が、朝日に反射して眩しく光る。
「李芳蘭だ。飛砂関で、我らと共に戦った戦友であることは、皆も知っての通りだ。彼女を隊長に任ずる」
芳蘭は、一歩前へ出ると、並み居る屈強な兵たちを、鋭い眼光で射抜いた。
「李岳殿の代わりには、私はなれないわ。それでも、貴方たちの盾にはなれるわ。もちろん矛にもね」
その苛烈な、しかし揺るぎない力強さに、兵たちの間にどよめきが走り、やがてそれは巨大な地鳴りのような歓声へと変わった。
「……林業。策の実行は、お前に任せる。芳蘭の動きを考慮に入れ、演習をしておけ。羅清に、後方からの援護を頼む」
「御意」
林業の返辞は短かったが、その中には、新たな戦力に対する、彼なりの信頼が混じっていた。
「羅清。……満足か」 志文が問いかけると、羅清は朗らかに笑った。それは、いつもの羅清の顔であった。
「これでようやく、軍として、本当の意味で動き出せます。志文様、これからは芳蘭様にも、しっかり頼ってくださいね」
「……お前の小言が増えるだけのような気がするがな」 志文の僅かな冗談に、周囲の将たちがドッと沸いた。
その夜。 志文は再び、屋敷の裏庭にいた。 冷たい月光が、竹林を銀色に染めている。
石段に座り、志文は隣に置かれた李岳の文箱を見つめた。
(李岳。……俺は、前に進むことに決めた....)
それは、忘却ではない。 李岳という男が、命を賭けて自分に繋いだこの命を、最も有効に、最も苛烈に使い切ること。
それが、李岳への唯一の供養だと、志文は信じた。
「……やっぱり、ここにいたのね」 足音が聞こえ、振り返ると、芳蘭が立っていた。
彼女は酒瓶を二つ、手に持っていた。 「月華ちゃんがね、『お兄様はきっと裏庭で、また寂しい顔をしてますわ』って。……妹さんは、よく見てるわね」
芳蘭は志文の隣に座り、酒瓶の一つを差し出した。 志文はそれを受け取り、一気に煽った。喉を焼く酒精が、胸の奥の澱を流してくれるようだった。
「……李岳は、ここに何度かきた。ここで、俺を笑ってくれた」
「……いい男だったんでしょうね。私も、もう少しあの方と、戦場じゃない場所で話してみたかったわ」
芳蘭は夜空を見上げ、寂しげに目を細めた。
「でも、志文。死んだ人は、生きてる人の背中を押すために死ぬのよ。悲しませるためじゃない。……貴方は、もう一人じゃないわ」
芳蘭が、志文の肩にそっと手を置いた。
その手の温かさは、戦友としての、そして同じ武人としての、深い共感に満ちていた。
「……ああ。わかっている」 志文は、李岳の文箱を懐にしまった。 悲しみは、消えない。だが、それはもはや志文を縛る鎖ではなく、前へ進むための重みへと変わっていた。
「……明日から、また忙しくなるわね。八千の軍勢の訓練に、新しい陣形の確認。それに、将軍拝命の際のために、さらに七千の軍勢も調練しなきゃいけないわ……志文、私では頼りないとは思うけど、それでも、ほんの少しだけ、ほんの少しだけでも、背中を預けてくれることを期待しているわ」
二人は、月明かりの下で、静かに杯を交わした。
志文の瞳には、もはや迷いはなかった。
志文は、友の死を胸に、戦友の力を腕に、天下という名の、果てしない嵐の中へと、その一歩を力強く踏み出していくのであった。
衛国の夜風が、志文たちの背中を、強く、強く、押し出していった。




