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#1-50 英雄の幕引き

飛砂関の中央の広場の右方にある回廊。

そこは、石柱が断続的に、その姿を現すだけの殺風景な場所であった。

そして、いまや、そこは、地上の喧騒が遠く響く、孤独な狙撃手たちの領域であった。

ヒュン。 乾いた音と同時に、衛射は、すばやく半歩下がる。

衛射の寸刻前まで胴体が存在していた石柱に、深々と矢が刺さっている。

衛射は息を潜め、迫りくる陳堅の矢を紙一重で躱し続けていた。

反撃する余裕など、もはや彼には残されていなかった。

陳堅。その名は、父から聞いたことがあった。

父は、狩人だった。『天下五矢』に、自身の名を刻みたい、その一心に囚われた男だった。

父は、厳しく、寡黙な男だった。ことさら、弓術のことになると、その目を輝かせながら、それでいて、常に怒号を飛ばしていた。 誰かを称賛するなど、ありえないことだった。

その父が、五日間、家に帰ってこなかった。父は、ふらっと出て行っては、ふらっと帰ってくるのが常だった。

母は、父をまったく心配しなかった。母は、無頓着というか、人に興味がなかったのだと思う。母が父を語るとき、父を形容する言葉は、「弓術馬鹿」だった。

母は、束縛されるのが嫌いだからか、父が家を出ると、より自由になったかのように、昼頃に起きて、衛射が作った飯を食べ、また寝るという、勝手気ままな暮らしをした。

だが、その日は父の様子がおかしかった。いつもあるはずのお土産もなければ、母への飯の催促もなかった。

母も、父の「異変」に気づいたのか、せかせかと、飯を作っていた、そんな時だった。

父が、唐突に呟いた。その声は、感嘆も悲哀も含まれていなかった。絶望、諦念、そんな言葉がふさわしいような、感情のない重々しい声だった。

「俺には、才能がなかった....」初めて見る顔だった。父が、こんなにも憔悴した顔を見せたのは後にも先にも、この日だけであった。

母は、「数日すれば、あの「弓術馬鹿」は元通りになるさ」と軽口を叩いていたが、父は、その日以降、二度と弓を取らなくなった。

衛射にとっては、弓を取らない父が好きだった。遊んでくれるし、ずっとそばにいてくれたからだ。

だが、父が変わったように、母も、しばらくして、変わってしまった。

何が理由だったのかは、今でもわからない。ただ、怠惰であった母は、過去の藻屑となり、冷徹で、厳格な母になった。

あの日から、父と母はよく喧嘩をするようになった。些細なことだった。ご飯の量が足りないだとか、寝床をきれいにしろだとか。

彼は、嫌気が差していた。だから、彼は、父と母に告げた。

「僕、弓をやりたい!戦場に出て、名を残すんだ」父と母は、驚いたようだったが、何も言わなかった。

衛射は、父が物置の奥底に眠らせた弓を片手に、軍に入った。

幸か不幸か、衛射には、弓の才があった。天賦の才、そう呼ぶにふさわしいほどのまばゆい才能であった。

軍に入って、三年ほどして、母の訃報が衛射のもとに届いた。

衛射は、家に戻らなかった。戻りたくなかった。もう、不快な喧騒は御免だった。

しかし、それから二年ほどして、父が軍舎に訪ねてきた。

人は、五年ほど、頭の片隅にしまっていると、父親の姿を忘れるのかもしれない。というのも、この人が本当に父なのかという疑問が浮かび上がってくるほど、父は変わり果てていた。

髭はきれいになくなり、ぼさぼさだった髪も整えられていた。目元には、皺ができていたが、優しい目をしていた。

大事(だいじ)ないか?」 衛射の軍舎に通すと、彼はそう聞いた。

「ああ」彼は、そう短く答えた。 父が、自分を気遣う姿を、彼は初めて見た。驚きはなかった。もはや、彼は、「父」に、何の感情も抱いていなかった。

父は、ずっと口を開かなかった。彼は、苛立ちを込めて、尋ねた。

「何用ですか?父上」 

「いつか話さなければならないと思っていた...」かすれた声は、そう告げた。

衛射は、黙っていた。早く、この時間が過ぎればいいと思った。

「俺は才能がなかった....そんなものは、とうに、わかっていた。俺があこがれていたのは、弓術そのものだった。弓術の御業でもなければ、射手でもない。ただ、風を感じて、人の想いを感じて、それを矢に乗せる。風を切って、まっすぐ飛んでいく。ただ、それだけのことが心地よかった」

父はそこで、言葉を置いた。

「『天下五矢』を知っているか?」 彼は、頷いた。弓術を極めんとする者ならば、当然知っておかなければならない異名だった。

「俺は、あの日、『天下五矢』の一人、素軌(そき)を見たのだ。あれは、まさに、一撃必中の矢であり、どんな者でも、狙われれば最後、命を落とす、そう思える弓術だった。」

素軌。その名を、当然、衛射は知っていた。弓将でありながら、常に最前線に立ち、敵を射貫き続ける男だという噂だった。

「あれは....あれは...化け物なのだ...」父の声は震えていた。衛射は、そんな父を情けないと思った。

弓術馬鹿だった父の方が、ましなように思えた。

父は、突然言った。

「お前は、『天下五矢』を目指してはならぬ。お前なら、その領域にそのうち、辿り着くだろう。だが、その領域は、感情を排し、ただ敵を射貫き続けるのだ。そこには、完成された無駄のない弓術が存在するが、人としての感情は、すでに欠如している。陳堅という男が魯国にいる。その男は、『天下五矢』の領域に最も近いと言われている弓将だ。おまえは、陳堅を目指せ。陳堅の弓は、人として美しいのだ。想いが乗り、感情を込める弓なのだ」

父は、それだけ言うと、軍舎を後にした。

衛射は、その父の発言を気にも留めなかった。その領域に辿り着いても、人であり続けられる、そう思っていた。

父は、ほどなくして死んだ。山中で、獣にやられたらしい。

それから、少し経って、衛射は、志文と出会った。志文のことは知っていた。龍牙関での活躍は、いやでも耳に入ってきていた。なにより、志文も含め、同年齢で、優秀な者は、衛射の頭の中に、皆、入っていた。皆、自身の実力を示す、最高の踏み台だと思っていた。

だが、すぐに悟った。才能が劣っている、そんな生ぬるい言葉では、済まされないほどの差であった。

格が違う、そんな感情を同期に抱いたのは、志文が初めてだった。

志文は、寡黙で、その瞳は、常に、先を見通すかのように冷徹だった。

だが、その瞳の奥底に、不気味なものがあるような気がしてならなかった。

ほどなくして、それが運命であったかのように、志文の隊に、衛射は配属された。

李岳、羅清、姜雷、夜叉、宋燕、林業、彼らもまた、優秀な同期であり、その噂は、衛射の耳に届いていた。

ほどなくして七人は、隊長として、志文に仕えることになった。

志文のそばにいるようになって、彼は、志文を好きになった。

人として、彼は、温かかった。優しい言葉をかけるわけでも、思いやる素振りを見せるわけでもなかった。

ただ、そばにいるだけで、心地よかった。

夜が更けて、皆が寝静まったころ、彼は、志文に、自身の過去を話していた。

変貌した父と母のこと。軍舎での父の言葉。弓術について。

志文は、静かに聞いていた。

衛射が話し終えても、志文は黙っていた。 衛射は、思わず、昔日の疑問を口にした。

「なぜ、私の父と母は、変わってしまったのでしょうか?」志文が答えられない疑問だということは、わかっていた。それでも、衛射は、聞いてみたかった。自分には見えていない景色を見ている存在に。

「私は、御父君も御母君も変わっていないように思う。主観だが、御母君は、弓術の残酷さを知り、自身の追い求めていた弓術を簡単に諦めてしまわれた御父君を、「夢追い人」に戻したかったのではないかと思う。きっと、御母君は、夢に向かい、真っ正直に努力なさる御父君を好いていたのではないか」

志文は、そう言うと、哀しそうに笑った。

「私もそうだった。祖父に、「臆病者」だと言われた。私は、自身のすべてを曝け出すのが怖いのだ。自身に忠実であることが恐ろしいのだ」

衛射には、志文の言っていることはわからなかった。ただ、父と母が変わった理由はわかった。確証はなかった。ただ、そんな気がする。その程度が、妙に心地よかった。

志文は、去り際に、呟いた。独り言のようだった。

「自身の本来の感情に素直であること...」 

ヒュン。 乾いた音が、現実に、衛射を引き戻す。

彼は、半歩下がる。矢は、彼が寸刻前にいた石柱に刺さった。

彼は、弓を番えた。怖くはなかった。むしろ、心地よかった。

ヒュン。ヒュン。

彼は、前方の石柱にその体を進める。そして、半歩、右にずれる。

第一矢は、彼の頬をかすめ、背後の石柱に刺さり、第二矢は、彼の視界の左隅に刺さった。

ビュン。 

陳堅は躱したようだった。

風の揺らめき、空気の震え、陳堅の呼吸音、自身の心臓の鼓動、彼が感じるすべての音がゆっくりと、確実に聞こえた。

ヒュン。 その矢は、彼にまっすぐ向かってきた。

彼は、体をわずかに捻る。 矢は、そのまま後方の石柱に刺さる。

(遅い...これが..これが...『天下第五矢』の入り口か....)

ビュン。ビュン。

彼は、右方の石柱に矢を放ち、続けざまに、前方、右隅の石柱に矢を放つ。

ビュン。 彼は、寸刻遅らせて、右方の石柱と右隅の石柱のちょうど中間地点に放箭する。

「ぐっ」 陳堅の呻き声が漏れる。 右足を射貫いたようであった。

「……小僧、腕を上げたな」 石柱の影から、陳堅の低く、風のような声が響いた。

衛射は答えなかった。言葉を交わせば、集中が削がれる。

だが、陳堅は語り続けた。 「私の右足を射抜いたあの一矢……あれには迷いがなかった。だが、お前にはまだ足りぬものがある。それは、死を受け入れる覚悟だ。弓を引く瞬間、お前はまだ生きようとしている。それでは、私の領域には届かぬ」

陳堅は、静かに弓を番えた。

陳堅の脳裏には、亡き妻の面影があった。戦場に明け暮れた人生。最期を看取ることもできなかった。

衛射が動いた。

石柱を蹴り、影から影へと跳躍する。 陳堅の左手から放たれた矢が、衛射の太腿を掠める。

衛射は転倒しかけるが、空中で体勢を立て直し、一本の矢を放った。

「甘い!」 陳堅は首をわずかに傾け、その矢をかわす。

ヒュン。ヒュン。ヒュン。

次々と、迫る矢を衛射は、紙一重で躱していく。

「逃げてばかりでは、私は倒せぬぞ!死を覚悟した者のみが至れる境地、貴様にはそれがない!これで終わりだ!」

陳堅は、衛射に、一矢を放つ。それは疾風の如く、衛射に迫った。

衛射は、間一髪でそれを躱す。

「馬鹿め!遅いわ」 陳堅の放った一矢は、陳堅が、一つ前に放った矢に、鏃をかすかに当て、その軌道はわずかにずらしていた。

衛射の左腕を、陳堅の矢が射貫く直前、衛射は石柱を蹴った。

彼の体は、宙に舞い、陳堅の矢は、石柱に刺さった。

ビュン。それは、宙に舞う衛射からの、重い一矢であった。

陳堅は、反応できなかった。その一矢は、彼の左胸を貫いた。

陳堅は、静かに膝をついた。

「私の負けのようだ...貴様はいずれ、『天下五矢』に入るであろう...」

「『天下五矢』など、今の私にとってはどうでもいい。父が生前、言っていた。貴様の弓は美しい、と。私には、そうは思えない。生を捨て、死を覚悟した者の矢は、軽いのだ。どれだけ速かろうと、どれだけ正確であろうと、軽いのだ。私は、生を渇望している。主君の隣に居続けるためだ。弓は、その道具に過ぎない。生を願うからこそ、想いが乗るのだ。死を覚悟した者には、想いなど、ちんけなものに映るだろうがな...」

陳堅は短く笑うと、その瞳を閉じた。彼は、ようやく悟ったのだ。自身の矢は、戦の中で、数多の将兵を討ち取る、殺戮の弓と化してしまったことに。戦場を、弓の業ではなく、弓術自体を追って、駆けていた過去を、ようやく思い出したのだ。

瞳の閉じられたその顔は穏やかであった。

その頃、広場の北東部、瓦礫の山と化した一角で、林業と孟武の死闘は最終局面を迎えていた。

孟武の薙刀は、林業の緻密な防御をことごとく粉砕し、彼を限界まで追い詰めていた。

林業の全身は打撲と裂傷で覆われ、薙刀の柄も歪んでいた。

孟武は、かつて魏鉄山に命を救われた男だった。一介の捨て子だった彼を、魏鉄山は兵として育て、武人としての誇りを与えた。孟武にとって、魏鉄山は主君であり、父でもあった。

「林業……貴殿は強い。だが、貴様ではこの俺の『想い』は斬れん!」

孟武の叫びと共に、薙刀が旋回する。その一振りは、大気を震わせ、周囲の石壁を粉砕した。

林業は、孟武の圧倒的な熱量に、自身の(ことわり)が狂わされるのを感じていた。

(なぜだ……。これほどまでに非効率な、感情に任せた一撃が、なぜこれほど重い……)

林業は、自身の過去を振り返っていた。

彼はかつて、効率を求めすぎるあまり、多くの部下を見捨てたことがあった。「勝つために必要な犠牲」と自分を納得させてきた。しかし、そんな夜は、きまって、部下たちの家族の泣き声が耳から離れなかった。

以来、彼は自身の理に、密かな「願い」を込めるようになった。誰も死なせないための、完璧な理。

しかし、その「願い」が、その「理」が、達せられたことはなかった。

それは、机上の空論に過ぎないとわかっていた。

誰も死なせずに戦を終える。 将なら、誰しもが望み、誰しもが届かない頂のはずだった。

だから、彼は、自身の感情に蓋をした。友が散っても、部下が逝っても、たとえどんな惨劇が起ころうと、勝利を優先した。

勝利こそが、道半ばで倒れた者たちへの手向けだと思った。

彼は、面をつけた。黒面だ。夜叉のつける黒鬼の面ではない。

彼の黒面は、兜と一体化している。兜の頂点がT字型を呈していた。まるで湧き上がってくる感情を、横一線で、蓋をするかのような重々しさがそこにはあった。

彼は、兜を脱ぐことはなかった。彼の兜は、とてつもなく軽い。つけていても苦にならなかった。

なにより、彼は、自身の苦悩を理解しているであろう、最も傍で見てきたであろう、相棒を片時も放したくなかった。

孤独。その言葉が、彼を苦しめていた。独りは好きだった。気楽だったからだ。

眠れぬ夜は、決まって道半ばで倒れた、自身の部下が笑いながら、彼に語りかけていた。

「感謝しております」、「殿には我らがついているのですよ」、「思い詰めすぎです、殿」

その言葉は、彼をさらに孤独にした。彼らの家族は、泣いていた。声を殺して、泣いていた。

志文といると、彼は、孤独ではない気がしていた。

なにかを言われたわけでも、なにかをもらったわけでもなかった。

志文は、決して、弱音を吐かなかった。泣かなかった。将として、頂点にいる者として、それは義務であり、当然であった。

しかし、志文は泣いた。特に、李岳が逝った時、彼は、ただ泣いていた。

涙を流したことはなかった。涙を流す人を見るのが嫌いだった。

それでも、志文が、李岳を抱きながら、慟哭し、姜雷らが、悲嘆に暮れる情景は、見ていて胸が締め付けられるようだった。

気づけば、頬を涙が伝っていた。泣くことは許されない。それは、道半ばで倒れた者たちへの贖罪だと思っていた。

しかし、志文は違った。彼もまた、孤独だった。孤独であり続けようとした。

李岳は、それに気づいていた。そして、この林業の孤独にも気づいていた。

李岳は不思議な存在だった。参謀としての智謀は、舌を巻くことも多々あった。

武はからっきしとは言わないまでも、はっきり言って、才能がなかったように思う。

出会ってから数週間、彼は、李岳が嫌いだった。後方で、指示を出し、次々と、兵を死地に送り込む。

その冷徹さと慎重さが、彼には、臆病者に、薄情者に映った。

それでも、彼は好かれた。志文だけでなく、誰からもだ。素直だったからだと思う。

しかし、李岳は死んだ。無数の刃に貫かれていた。無数の敵兵が傍らで倒れていた。

彼は、自分を恥じた。李岳を、臆病者、薄情者だと決めつけた自分を恥じた。

李岳は、常に後方にいながら、最も苦悩し、最も冷静で、そして最も苛烈な将だった。

それを、李岳が逝って、初めて悟った。

志文が、孤独を分かち合った理由(わけ)も、今なら、痛いほどよくわかる。

「お前が泣かないのは、贖罪の為ではない。ただ臆病なだけだ。散って逝った者たちに囚われるな。彼らと共に歩め」

李岳が、林業に、呟いた一言。いつだったかすら覚えていない。それでも、この言葉を、横たわる李岳を前に、思い出した。

誰の感情も理解しないはずだった。しかし、あの時は、志文の痛みも、李岳の想いも、そして自身の恐れも、痛いほどわかった。

感情を見せずに、感情を出すこと、それが李岳が自分に教えてくれたことだった。

戦場で、理が通じない相手には、想いを乗せなければならない。それを彼は、李岳の死で、悟っていた。

孟武が、薙刀をすばやくつく。薙刀が林業の頭上から降り注ぐ。

林業は、それを避けることをしなかった。彼は、歪んだ薙刀の柄で、孟武の薙刀の柄を抑えると、全身の力を込めて、それを押し返した。 孟武が後方に、ほんの少し下がる。

「...!!....そうか...貴様もこっち側か...冷めた奴だと思っていたが....」

孟武は、 間合いを一気に詰めた。薙刀は、神速の如き、速さで横に薙ぎ払われる。

林業は、後方にわずかに跳ぶ。

「遅いわぁぁぁああ...」 孟武が狙っていたのは、林業が、後方に跳んで着地に至るまでのわずか寸秒の無防備な瞬間であった。

孟武は、左足を一歩前に出し、右腕にありったけの力と想いを込めて、薙刀を突き出した。

林業には、見えていた。林業は、後方に跳びながら、自身の薙刀を右方の地に立て、体を捻ると、瓦礫の山の一角を蹴りながら、薙刀を振り下ろした。

ザシュッ。 孟武は静かに崩れ落ちた。

孟武は吐血し、林業の肩に手を置いた。その手には、殺気ではなく、慈しみのような温かさがあった。

「林業…。.....手が震えているぞ...」 孟武は、林業の耳元で囁いた。

「...だが、それでいい.....。護るには強さがいる.....武ではなく、人としての想いの強さだ.....想いをすべて受け止めると、孤独が残る....ゆえに、必要な時に、必要な分だけ、想いを、自身で紡げばよい....そうすれば、震えも....」

孟武は、静かにその目を閉じた。林業は、地に崩れ落ちる孟武を抱きとめた。

彼は、ゆっくりと孟武を地に横たわらせた。

その頃、広場の中央では、魏鉄山と伯志文が、刃を交えていた。

二人の周囲は、他の兵士たちが遠巻きに見守る中、異様な静寂が支配していた。

魏鉄山の大刀は、血を吸うほどに黒光りし、志文の薙刀と激突するたびに、死者の呻き声のような音を立てていた。

(全身が重い....) 志文の一撃の重さは、魏鉄山の想定をはるかに超えていた。

魏鉄山が、どんなに大刀を振るっても、志文は倒れなかった。それどころか、反撃さえしてくる。

魏鉄山は、この重みを知っていた。

徐峰。彼は、「魯三傑」の一人であったが、武人ではなかった。一度だけ、戯れ程度に刃を交えたことがある。その刃は、今の志文の刃と同じように、膂力を超えた重みを宿していた。

徐峰は、公孫穆の師であり、その智は、魯国一と目されていた。

「その類まれなる智謀とやらで、俺の刃を読んでいるのか?」魏鉄山は、徐峰にそう聞いたことがあった。

徐峰は笑った。徐峰は、穏やかに笑う。だから、誰からも好かれる。自分は、感情に素直だった。言いたいことを、言いたいだけ、言った。やりたいことを、やりたいだけ、やった。

だから、敵は多かった。政治は嫌いだった。戦は好きだった。王宮の中にいると、鬱屈しそうだった。その点、戦は自由だった。

だが、徐峰は、当たり前のように言った。

「私は戦は嫌いだ」 その言葉は、魏鉄山を不快にさせるのに十分な言葉であった。

「俺は戦が好きだ!この王宮の方が、陰湿で、不快だ!」

「ああ、そうだな」 徐峰は、目を丸くする自分を見ながら、また笑った。

「戦には想いが乗る。それは、策にも影響するが、最も影響するのは武だ。魏鉄山、そなたの武は、想いが乗りすぎる。ゆえに、私でも読めてしまうのだ。重さは、そなたの膂力を利用しているだけに過ぎん」

「だが、想いを乗せぬのは無理だ。俺の武は、どうしても出てしまう」

「私は武人ではない。ゆえに、戯言かもしれぬ。想いが乗る武人は、私は強いと思う。策を弄しても、読み切れぬところがある。それは激情とは違う。散って逝った者だけではない、今もなお、生き続ける者、あるいはそれを越えて、国のために戦う、そんな想いが乗った武だと私は思う。わかっていても、止められぬ。どんなに傷つこうと、決して、その歩みは止まらぬ、それが想いを乗せた武の極致であると私は思う」

「俺の想いが未熟だと言いたいのか?」魏鉄山は聞いた。苛立ちはなかった。

彼は知っていた。思いを乗せた武の極致に達した男を。

伯明。張江と共に、『双龍』と呼ばれていたが、龍という感じではないように思えた。

やはり、『最後の番人』、その呼び名が最もふさわしいように思えた。

伯明の刃は重かった。速いわけでも、正確なわけでもなかった。ただ重かった。

なにより、彼らの兵の刃も、重かった。伯明が、先陣を切った時には、彼らの刃は、さらに、その重さを増した。

「伯明は少し違うと私は思う」 徐峰は、魏鉄山の心を読んだかのように、朗らかに言った。

「伯明は強い。だが、あれの強さは、想いの武の極致ではない。想いの極致だ。いずれ、そなたも出会うかもしれぬ。想いを乗せた武の極致は、想いの強さと純粋な武の頂、その双方を自身が到達しうる、最高の高みまで運ぶことだ。伯明は、まだ自身の武の頂にはいない」

「会ったことがあるのか?」 「ある」

徐峰が口にしたのは、『景七師』であり、今では、『五武帝』にその名を連ねる、洪刹(こうせつ)だった。

「洪刹は強いぞ...」徐峰が、人を褒めることは滅多になかった。

「そうか....そこまでか....」「ああ....そこまでだ」魏鉄山の呟きに、徐峰は、呻くように答えた。

「洪刹だけではないだろう。いずれ、そなたも出会うはずだ。もし、その境地の者と出会ったら、想いを消すのだ。無心になれ。純粋な武人となるのだ。想いの強さは、上限は変わらぬ。ゆえに、武を追求するのだ。戦の中でな」

魏鉄山は、志文が、その境地に入りかけていると思った。

魏鉄山の目からは、熱情が消え、ただ熱が残った。そして、それは刃も同様であった。

ザシュッ。

魏鉄山の振り下ろされた大刀が、志文の肩を切り裂く。

「志文様!」 周囲の兵が、声をあげる。

志文の肩口が朱色に染まる。しかし、志文は、表情を変えなかった。

彼は、一気に間合いを詰めた。魏鉄山も、間合いを詰めた。

ガキン。

刃が交差したのも束の間、志文は、魏鉄山の刃を、体をのこぞらせて受け流すと、そのまま、魏鉄山の腹を斬る。

「ぐっ」 魏鉄山から低い呻き声が漏れる。

魏鉄山は、すぐに振り向いたが、その時には、すでに魏鉄山の胸は貫かれていた。

「ガハッ」 魏鉄山は、地に崩れ落ちた。

(やはり....やはり....俺では勝てなかった....)

「魯国に栄光あれ!」 魏鉄山は、そう叫ぶと、大刀を地に落とした。

志文によって、ついに、彼の熱は、永遠に失われたのであった。

誰も動かなかった。重い静寂となって、それは、飛砂関を覆っていた。

魏鉄山の死。それは、連合軍にとって、終戦を意味していた。

城壁の上で戦っていた厳冰と霜華は、その瞬間を明確に感じ取った。

厳冰は、対峙していた張江と葉旋に、最後の一撃を加えようとしていた剣を止めた。

「……盤面が崩壊したか....」

厳冰の目は、依然として冷徹な眼差しであったが、その奥底には、はっきりと動揺が見て取れた。

張江は、胸を深く切られ、意識が遠のきかけていた。葉旋もまた、肩を斬られ、剣を握る力を失っていた。

「霜華、行くぞ。これ以上、ここにいる意味はない....」

霜華は、重傷を負って倒れている春蘭を一瞥した。

「……春蘭。死なないでね。貴女とは、また別の戦場で会う気がするわ」

厳冰は、霜華と精鋭五百名と共に、城壁の影へと消えていった。

魯国の女将・朱炎は、静かに溜息をついた。彼女の密偵が、続々と、戦場から戻ってきていた。

彼女の隊は、一度も戦いに参加しなかった。

それは、魏鉄山から与えられた「任務」のためだった。

『朱炎よ、俺が死んだら、この戦いの真実を魯国へ持ち帰れ。そして、伯志文、厳冰についてを、王に報告せよ』

朱炎は、飛砂関に翻る衛国の旗を見つめた。

「これも運命ね....」

彼女は、誰にも気づかれることなく、部隊に撤退の合図を出した。

「……伯志文。貴方はこれから、本当の地獄を見ることになるわ。国を背負うという地獄をね」

朱炎の隊は、夜霧に溶けるように、魯国へと帰還していった。

志文たちもまた、微かに漏れ出づる朝日を感じながら、祖国へと行軍を始めていた。

夜が明け、新たな朝が始まろうとしていた。


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