#1-49 死が将を分かつまで
飛砂関に夜が訪れていた。
漆黒の闇に蠢く戦場は、まばゆい光を放つ月明かりと飛砂関に散見される松明によって、かろうじて両軍の様相を浮かび上がらせていた。
それは、石造りの城郭が昼の熱を吐き出す間もなく、血と鉄の匂いに塗り潰され、行き場を失っているかのように、混沌としていた。
関門が破られ、魏鉄山率いる一千余騎が地鳴りのような蹄の音と共になだれ込んだその瞬間、この堅牢な関は巨大な殺戮の檻へと変貌した。だが、その檻の中は、物理的な高低差と石積みの重厚さによって、上下二つの隔絶された世界に分かれていた。
城壁と飛砂関の関門の間の通路。そこは、狭い回廊が迷路のように入り組み、矢狭間から夜風が吹き抜けるこの回廊では、張江率いる衛国の精鋭部隊が、『玄岳四堅』第一堅・厳冰の軍と、火花で夜空を焦がすほどの白兵戦を繰り広げていた。
この回廊からは、階下の広場で行われている凄惨な乱戦の様子は、ほとんど視認できなかった。立ち込める土煙と断続的に上がる火の手が視界を遮り、反響する石壁が音を歪ませる。聞こえてくるのは、遠雷のような地響きと、判別不能な数千の絶叫が混ざり合った、混沌とした唸りだけであった。階下の熱狂から切り離されたこの場所には、ただ冷徹で、刺すような殺気だけが停滞していた。
張江の右手には、長年使い古され、主の意志を宿したかのような一振りの剣が握られていた。
「……はぁ、はぁ……」
張江は、自身の肩から流れる熱い血の感触を意識の隅に追いやり、目の前の敵を睨みつけた。
彼の眼前に立つ厳冰は、銀色の月光を背負い、その手には長大な薙刀を、一点の曇りもなく、それでいて重力さえ感じさせぬ軽やかさで携えていた。
張江の焦燥は、自身の負傷によるものではなかった。
彼を戦慄させているのは、目の前の敵—―厳冰という男の底知れぬ「武」の深淵であった。
張江は、厳冰の本質を常に「智」にあると踏んでいた。戦場を盤面のように瞰し、冷徹な計算に基づいて兵を動かす男。その個としての武は、あくまで知略を全うするための護身、あるいは象徴的な域を出ないものだと考えていたのである。かつての朱威でさえ、厳冰の策には警戒したが、その刃に恐怖したという話は聞かなかった。
だが、その予測は、最初の一合の交差で脆くも粉砕されていた。
厳冰の振るう薙刀は、重厚にして神速。それは、計算し尽くされた最短の軌跡を描き、張江の剣筋を、まるで過去の出来事であるかのように先読みする。一寸の無駄もなく急所を穿とうとするその刃は、技術という概念を超え、未来を確定させていく「理」そのものであった。
「張江。そなたは何も変わっておらぬ。伯明が逝ったあの時から何も、だ。そなたの剣は、己の剣ではない。そなたの剣は、朱威の幻影を、荀厳の幻影を、そして伯明の還魂を追うばかりで、目の前の現実を捉えてはおらぬ。死んだ者の重みに引きずられ、魂が沈んでいる。ゆえにそなたは弱い。亡者の悲憤を、亡者への慕情を乗せた武は、時として、人の武の域を超え、『武の極致』と呼ばれる域に、一時的に達することがある。それは、そなたが、決して届かぬ域だ。なぜかわかるか。そなたが弱いからだ。背負うものの大きさに見合った武を持たねば、それはただの足枷となる。それでは私に触れることさえ叶わぬ」
厳冰の声は、激しい金属音の中でも不気味なほど透き通り、鮮明に響いた。感情の起伏を一切排した、冬の夜風のように冷ややかな宣告。
「黙れ……この裏切り者が。伯明の遺志は、今もこの剣と共に、我ら衛国の血の中に生きている!貴様ごときが、推し量れるものではない!」
張江は奥歯を噛み締め、再び踏み込む。石畳を強く蹴り、剣を鋭く横に払い、厳冰の喉元を狙う。だが、厳冰は薙刀の柄を垂直に立ててそれを容易く弾くと、石突を張江の鳩尾へと正確に、かつ容赦なく叩き込んだ。
「ぐっ……!」
張江は激しく後退し、冷たい壁に背を打った。肺から空気が強制的に搾り出され、視界がチカチカと火花を散らす。
予想を遥かに超える、厳冰の個としての圧倒的な武。この回廊において、階下の戦況に気を回す余裕など、一分一秒たりとも残されてはいなかった。張江にとっての世界は今、この狭い回廊と、目の前で薙刀を構える厳冰という「死の具現者」だけに限定されていた。
一方、その遥か後方。
飛砂関の関門から少し離れた広場。
その中心部では、周翼と芳蘭が、人間の限界を超えた「暴力」の体現者・魏鉄山と対峙していた。
周翼は、かつて朱威に「静かなる刃」と評されたほど、冷静沈着な将であった。
彼の武は、力任せに振るうものではなく、敵の重心の崩れや呼吸の隙を突く、極めて合理的で洗練されたものであった。戦況が悪化すればするほど、その瞳は冷徹さを増し、冷えた思考で最適解を探り当てる。それが周翼という男の強みであり、矜持であった。
だが、今の魏鉄山には、その理屈が一切通用しなかった。
「ぬぉぉおらぁぁあ! 衛国の餓鬼が! 俺の前に立つなら、それ相応の覚悟……命のやり取りというものを教えてやる!」
魏鉄山の大刀が、月光を切り裂いて巨大な円を描き、振り下ろされる。
周翼は、その軌道を見切り、最小限の動きで剣を合わせ、斜めに滑らせることで力を逃そうとした。本来なら、これで敵の勢いを逸らし、無防備になった懐に潜り込めるはずだった。
だが、大刀から伝わる圧力は、技術で逃がしきれる次元を絶していた。
「……っ、なんという……膂力か。筋肉の束が、岩石を編んでできているのか……!」
周翼の端正な顔が、耐え難い衝撃に歪む。
衝撃が剣を伝って腕の骨を軋ませ、足元の石畳には放射状の深い亀裂が走る。冷静に戦況を分析しようとしても、魏鉄山の放つ圧倒的な威圧感が、脳の防衛本能を直接叩き、生存のための思考を強引に中断させる。
隣では、芳蘭が槍を縦横無尽に振るい、魏鉄山の死角——脚部の関節や脇腹の隙間——を執拗に狙い撃っていた。彼女の動きは実戦的であり、かつてないほどの鋭さで魏鉄山の巨躯を翻弄しようとしていた。
だが、魏鉄山はそれらを自身の「咆哮」だけで弾き飛ばすかのような気迫に満ちていた。芳蘭の槍先が彼の鎧に触れる寸前、魏鉄山は大刀の柄で強引に槍を叩き、その勢いのまま芳蘭を狙って拳を放つ。
「くっ……!」
芳蘭が、衝撃で十数歩も後方へ吹き飛ばされ、石柱に背を強く打ちつけた。
「芳蘭!」
周翼が叫び、彼女を庇うように前に出る。だが、魏鉄山はそれを嘲笑うかのように、地を這うような重厚な連撃を繰り出した。周翼は必死に剣で受け止めるが、胸の防具が粉砕され、その衝撃波が肺を圧迫して口内から鮮血が溢れ出した。
二人の将が負傷し、広場に展開していた衛国兵たちの間には、絶望に近い沈黙が広がり始めた。彼らの心の支えである周翼と芳蘭が、文字通り力ずくで圧殺されようとしているのだ。
さらに、魏鉄山と共に猛威を振るっていた孟武と陳堅を止められる者は、もはや、この場にいなかった。彼らは魏鉄山の武を最も深く理解している者たちであった。魏鉄山が討たれることは万が一にもなかった。ゆえに、彼らは、魏鉄山を気にすることなく、周翼・芳蘭の隊を殲滅していた。
自身の主が周翼・芳蘭を追い詰めたのを見て、孟武は、薙刀をさらに加速させた。彼の前には、すでに数多の衛国兵が倒れている。
その後方では、陳堅が冷酷な手つきで弓を引き絞り、逃げ惑う衛国兵たちの心臓を一矢ごとに確実に貫き、数を減らしていた。
飛砂関内部は、志文の策によって、魏鉄山らを葬るための完璧な罠を形成したかに思えた。しかし、今や、飛砂関の内部は、もはや組織的な抵抗を許さぬ、一方的な屠殺場へと変わりつつあった。
その頃、関門の入り口で、伯志文は、もはや己の限界の先にある「虚無」の中にいた。
関門のほんの少し外。
伯志文と林業の隊は、互いに背中を預け、文字通り一心同体となって敵の猛攻を凌いでいた。
林業の薙刀は、すでに刃の半分が血糊と脂で覆われ、その鋭さを失っていた。
だが、彼はそれを棍棒のように扱い、近づく敵の頭蓋を正確に砕き続けていた。林業の隊と志文の隊は、互いの側面を補い合うように隣接して陣を敷いている。そのため、一方が完全に包囲されることはないが、逆に言えば、敵の九千という圧倒的な「質量」が、その接点に一点集中していることを意味していた。
「殿……私はまだ殺れます。ですが……兵たちの疲労が、もはや限界のその先にあります...」
林業の声は、肺から空気が漏れるような、掠れた音であった。
志文の薙刀が、一人の兵を胴から両断する。だが、その直後、志文の膝が微かに折れた。
(体が……、重い。全身に鉛を流し込まれたようだ。思考が、白く染まっていく……)
極度の肉体疲労と精神的重圧が、神域に達していた志文の感覚を、過酷な現実へと引きずり戻そうとしていた。
敵の槍の穂先が、一瞬、一瞬だけ遅れて見える。それが戦場において何を意味するか、志文は誰よりも理解していた。
魏鉄山軍の後続部隊は、この「鉄の壁」にようやく亀裂が入ったことを確信した。
「今だ! 伯志文が膝をついたぞ! 勢いに陰りが見えた! 一気に突き崩せ! あの英雄の首を取った者には、一生遊んで暮らせる褒賞が与えられるぞ!」
敵将の野卑な叫びに呼応し、何百という兵たちが、手柄を求めて飢えた獣のように志文へと殺到する。
志文が、最期の一振りを放とうと、残された全気力を振り絞って薙刀を頭上に掲げた、その刹那——。
戦場の最果て、魏軍の後方から、全ての喧騒を上書きするような凄まじい「地鳴り」が轟いた。
それは、飛砂関の左方。魏鉄山軍が、志文たちの殲滅に集中するあまり、全く警戒していなかった暗闇の彼方からやってきた。
「……何だ!? 後方で何が起きている! 伏兵か!?」
魏軍の将兵が振り返った瞬間、そこには銀色に輝く一筋の光が、猛然と迫っていた。
葉旋であった。
彼女の戦術眼は、この混迷極まる戦場において、誰よりも冷静に「点」と「線」を繋いでいた。
彼女は、魏鉄山が関門を強行突破した直後、自軍の要である春蘭の隊だけを、密かに志文の視界に入らぬ背後の狭路へと滑り込ませていた。志文の背後から迫るであろう刺客——厳冰の懐刀である霜華の影を、志文自身に余計な気を遣わせずに護らせるためである。
そして自身は、わずかな配下と共に戦場を大きく左方へと離脱し、地形を利用して姿を隠していた。
葉旋の当初の狙いは、魏軍の後続の要である氷虎を、前線に出る前に討ち取り、後方の指揮系統を破壊することにあった。
だが、葉旋が急行軍の果てに氷虎の駐屯地に辿り着いた時、そこはすでに空であった。氷虎は葉旋の予測を上回る執念で、すでに志文を討つべく、自ら前線へと身を投じていたのである。
「……ならば、この軍勢そのものを、最短経路で討つまで」
葉旋は即座に決断を切り替えた。彼女は軍を整え、最短の進軍路を脳内で再計算し、志文たちが最も窮地に陥る瞬間——すなわち、敵が勝利を確信し、後方の警戒を解く瞬間を見計らって、全速力で突撃を敢行したのだ。
「全軍、突貫! 衛国の魂を、奴ら賊軍の背に刻み込め! 志文たちの道を切り拓くのだ!」
葉旋の槍が、月光を反射して銀の閃光を放った。
彼女の突撃は、まさに機械のような正確さと鋭さを持っていた。魏軍の後方、兵站や予備の指揮官が集まる脆弱な部分を、一筋の光となって貫通する。
背後からの予期せぬ、かつ熾烈極まりない襲撃に、四千余騎までその数を減らされた魏鉄山軍は一瞬にして混乱に陥った。
今や、関門を押し潰さんとしていた圧力は、自分たちが背後から押し潰される恐怖へと転換されていた。
志文は、膝の震えを意志の力で止め、口端を微かに上げ、再び立ち上がった。
「林業、衛射! 葉旋の隊と共に、眼前の敵を殲滅する!」
志文、林業、衛射の隊は、葉旋の突撃によって生じた敵の動揺を逃さなかった。彼らは残された全ての力を呼び覚まし、関門に迫る敵を、葉旋の隊と挟撃することで、一気に殲滅を開始した。
その頃、関門の内側。志文の背後に繋がる暗い狭路では、もう一つの音なき死闘が展開されていた。
厳冰の命を受け、内側から関門を無力化し、志文の隊を圧殺しようとしていた霜華の隊。彼女たちは、勝利を確信して影の中を無音で走っていた。
志文の意識が前方に集中している今、背後を襲えば、すべては終わるはずだった。
だが、その行く手を遮るように、一隊の影が姿を現した。
「……誰だ」
霜華が双剣を構え、低く、冷徹な声で問う。
「ここから先は、我が主・葉旋様が立ち入りを禁じられた場所。志文様の背中は、子の春蘭が護ります」
春蘭が、静かに槍を正眼に構えた。
葉旋が密かに配置していた春蘭の隊は、この狭路において完璧な伏兵として機能していた。霜華の隊が関門へ至り、志文の背中を突くには、この春蘭を倒さねばならなかった。
だが、狭い通路での戦いは、春蘭の隊が最も得意とする土俵であった。
彼女たちは槍を壁のように並べ、霜華の隊の機動力を完全に封じ込めたのである。
「……ちっ、葉旋。どこまで鼻が利く女なのよ」
霜華は、外で巻き起こっている巨大な地響きと絶叫を、壁越しに聞き取った。それは葉旋の本隊による急襲の合図。それにより、外からの圧力が消え、自分たちの計画の前提条件が根底から崩れたことを悟った。
(外の軍が崩された……。これでは、今ここで門を開けても、中になだれ込む兵がいないわ。逆に、私たちが挟み撃ちにされるだけ)
霜華は、冷徹に、そして残酷なまでに正確に状況を判断した。彼女にとって、主君への忠義と、自己の生存は同義であった。
今、この場で春蘭と不毛な消耗戦を演じることは、自分たちをも死地に追いやることになる。
「……好機を逸したわね。全軍、撤退! 厳冰様のもとへ戻り、態勢を立て直すわよ!」
霜華の隊は、春蘭の隊が追撃に入る隙を与えず、影のように城壁の奥へと去っていった。
春蘭は、無理な追撃をせず、すぐに関門の外の戦況を確認した。葉旋と志文の隊による、敵軍の殲滅が完了しつつあった。
関門の外では、凄まじい「死の静寂」が訪れようとしていた。
葉旋の完璧な頃合いでの突撃、そして志文たちの命を賭した反撃により、四千の魏軍は、ある者は討たれ、ある者は闇へと散り、軍としての体を完全に失って壊滅した。
志文は、血に濡れた薙刀を杖にし、肩で息をしながら、馬上の葉旋を見上げた。
「……助かった、葉旋。飛砂関に入ったと思っていたが...」
葉旋は、満足そうな笑みを浮かべた。
「礼は不要よ。貴方がここで死ねば、貴方と御飯の約束がなくなってしまうもの。...春蘭が、背後の蛇を、そろそろ追い払ったはずよ」
志文は、関内へと視線を向けた。 その視線は、通路の壁に阻まれていたが、その視線の先には、護るべき者がいた。
そして、そこにはまだ、戦わねばならぬ怪物が二人、そして救わねばならぬ仲間たちがいるはずであった。
「行くぞ。飛砂関の決着をつけ、この長い夜を終わらせる」
志文たちは、殲滅戦を終えたばかりの兵たちを引き連れ、ついに飛砂関の内部へと、友を救うべく足を踏み入れた。
広場になだれ込んだ志文と葉旋。
魏鉄山と厳冰は、その姿をそれぞれの持ち場で受け止めた。
魏鉄山は広場の中心で、負傷した周翼と芳蘭を足蹴にするかのように立ち、大刀を再び肩に担ぎ直した。その表情には一瞬の驚きこそあったが、動揺は微塵もなかった。むしろ、好敵手が揃ったことへの、狂気的なまでの喜びさえ浮かんでいた。
一方、城壁の上の厳冰は、張江との交戦を続けながらも、階下の状況が劇的に変化したことを、その鋭敏な知覚で察知していた。
(……殲滅したのか....まさか、これほど早いとはな。志文。貴様の個の武が、九千という軍事的「質量」を凌駕したか。やはり、私の盤面において、最大の脅威は、志文、貴様だということか...)
厳冰は、自身の薙刀を一度引き、張江を見据えた。
「張江。どうやら、関門の盤面は決したようだ。だが、そなたとの勝負は、まだ終わってはおらぬ。そなたの首を土産に、私はこの関を去る」
張江は、肩で息をしながらも、志文たちが戻ってきたことを確信し、その剣を強く握り直した。
「……ああ、そうだ。終わってはおらぬ!厳冰、貴様の首、ここで俺が、そして俺たちが叩き落とす! 貴様の末路を見せてやる!」
志文は広場の中心へ歩みを進め、全容を把握した。
魏鉄山が広場を支配し、厳冰が城壁を制している。この二つの脅威を同時に排除しなければ、飛砂関の奪還は完遂されない。
志文の声が、死の匂いが濃く漂う広場に、冷徹な響きを持って通った。
「衛射。貴様は陳堅を射抜け。奴の矢を封じぬ限り、我らは自由に動けぬ。奴の神速の弓を上回れるのは、貴様の目だけだ」
「承知しました。……委細、お任せください」
衛射は、配下を従えて、陳堅の隊に静かに向かっていく。
「林業。貴様は孟武を止めろ。あれを封じ込められるのは、今や、貴様の冷静な刃だけだ。殺れるか?」
林業は目線で頷く。
林業は、刃こぼれした薙刀を持ち、配下と共に、孟武のもとへと向かっていった。その背中には、志文への絶対的な信頼があった。
志文は、隣に立つ葉旋を一瞥した。
「葉旋。そなたは春蘭を連れ、城壁の上へ向かってほしい。張江と合流し、厳冰を討つのだ」
葉旋は、不敵な笑みを浮かべた。白銀の槍が、月光に燦然と浮かび上がっている。
「命令されるのは不快だわ……。でも、まあ、いいわ。厳冰とやらを討ってくるわ。志文、約束がまだ果たされていないわ。だから、当然、死なないわよね?」
彼女は、妖艶な笑みを残して、配下の春蘭の隊と共に、側面の狭い通路から、城壁への階段を駆け上がっていた。
広場に残るは、志文の隊と魏鉄山の隊であった。
「芳蘭、周翼。……下がれ。お前たちの命は、この関を奪還した後の『衛国』にこそ必要だ。ここで死んではならぬ」
志文の言葉に、二人は悔しさを滲ませながらも、後退した。
「行くぞ!」
志文の合図と共に、飛砂関の空気は、物理的な破壊を伴うほどの殺気の渦へと突入した。
広場では、志文と魏鉄山が、一歩の踏み込みごとに大地を砕くような激突を開始していた。
志文の薙刀は、静寂の中から放たれる迅雷であり、その軌跡は、月光さえも切り裂き、最短距離で魏鉄山の喉元を狙い続けていた。
魏鉄山の大刀は、全てを粉砕する瀑布のようで、その一振りは、大気を震わせ、周囲の石畳を巻き上げる。
「伯志文! 三年!三年だ!馬徳、李彪、宋良が逝ってから、三年が経った。だが、俺は忘れたことなど一度もない!貴様への恨みは色あせぬのだ!貴様の武、確かに素晴らしい! 配下の伯七狼の名も伊達ではない! だが、この魏鉄山の怨念を上回れるかぁぁ!」
魏鉄山は、大刀を振り下ろした。それは、積年の恨みがこもった一撃であった。
志文はその一撃を、自身の薙刀で受け止めた。
ガキン。
「……怨念など、とっくに捨てた。俺は、貴様のように恨みを引きずりはしない。俺は、友に託されたのだ。「独りではない」、そう言われたのだ!俺は、未来を託されたのだ。散って逝った友が描いた未来だ!貴様同様、俺の刃もまた、想いが宿っている。だがそれは、過去の怨念を背負う貴様の刃とは違うのだ!俺の刃は未来の希望を宿しているのだ!魏鉄山、この地に眠る者たちの声を聞くのだ!」
志文は、わずかに自身の左肩に食い込む、その刃をはねのけた。
二人の刃が触れ合うたびに、広場には白銀の火花が散り、その衝撃波で周囲の石畳が弾け飛ぶ。それはもはや、人間同士の戦いを超えた、天災同士の衝突のようであった。
一方、城壁の上では、張江のもとに、階段を駆け上がった葉旋と春蘭が合流していた。
「……張江様、情けない顔してないで。総大将の肩書が泣いているわよ」
「……ふん、よく言う。厳冰を相手に、これだけ持たせたのを褒めてほしいくらいだ。この男、本当に化け物だぞ」
張江、葉旋、春蘭。衛国の三つの鋭利な刃が、長大な薙刀を構える厳冰と双剣を携えた霜華を包囲する。
厳冰は、その三人の殺気を一身に浴びながらも、依然として氷のような平穏を保っていた。その瞳には、絶望も恐怖も、あるいは勝利の確信さえも映っていない。ただ、冷徹な分析の結果だけが宿っていた。
「葉旋。貴様の計算外の動きが、この盤面を狂わせた。……賞賛に値する。だが、三人がかりであろうと、私の薙刀の届く領域は、死の領域だ。一歩、その線を越えれば、命はないものと思え」
厳冰が、薙刀を大きく旋回させ、その刃を月光に晒した。
「来るがいい、衛国の残光ども。この飛砂関を、貴様らの墓標にしてやろう」
飛砂関の夜は、今、真の最終楽章へと突入した。
広場での「暴力」と「意志」の激突。 城壁の上での「智」と「魂」の削り合い。
どちらが先に、その命の芯を焼き切るか。 衛国軍と連合軍。
衛国の存亡を、そして英雄たちの宿命を賭けた死闘が、飛砂関の石造りの舞台の上で、月夜に照らされ、静かに始まっていた。




