#1-48 それぞれの死力
飛砂関。
衛国の西を守り続けてきたその堅牢なる関門が、ついに轟音と共にその機能を永久に失った。
破城槌の執拗なる連打は、数十年を経て黒ずんだ厚い木材を粉砕し、鍛え抜かれた鉄の杭を飴細工のように千切り、堅牢な石造りの基部すらも絶え間なく揺るがし続けた。
最後の一撃。それは、戦場に漂う数多の将兵たちの執念と、失われた友への報復心が乗せられたかのような、重々しく、そして暴力的な響きであった。
断末魔のような軋みを上げて関門が両開きに弾け飛び、激しく立ち込める土煙の向こう側に、広大な飛砂関の内部が、無防備な喉元のように、その姿を露呈させた。
「門が開いたぞ! 衛国の残党を蹂躙するのだ! 突入せよ!」
魏鉄山の咆哮が、秋の冷たい大気を震わせ、兵たちの鼓膜を叩く。
その叫びに応じるように、魏鉄山軍の先鋒の数名が、堰を切った黒い濁流の如き勢いで関内へと流れ込んでいった。
魏鉄山自身も、孟武と陳堅を左右に従え、愛馬の脇腹を狂ったように蹴り立てた。
彼らの眼前に広がるのは、勝利という名の甘美な果実であった。『魏五虎』であり、友でもあった大崩と聞閉を相次いで失い、心に底知れぬ深い穴を穿たれた魏鉄山にとって、この門の突破は、亡き友の魂へ捧げる唯一の手向けであり、復讐の始まりであった。
だが、その勝利への奔流を真横から断ち切るように、一筋の鋭い影が割り込んだ。
伯志文の隊であった。
「邪魔をするなぁぁああ」 魏鉄山の薙刀が、志文に振り下ろされる。志文は、それを軽くいなすと、魏鉄山をめがけて、薙刀を横にはらう。
その隙をめがけて、孟武が薙刀を突き出す。 志文は、後方に跳んだ。
「今だ!突入せよ!」魏鉄山を先頭に、魏鉄山・孟武・陳堅らが関門へと突入する。
志文は、ただ見つめていた。
志文は、もはや、魏鉄山という巨大な首を追うことをあえて選ばなかった。
彼が狙ったのは、関門という戦略上の「点」の支配である。
魏鉄山の本隊一千余騎が関内へ吸い込まれていくその隙間、後続の九千もの大軍が続こうとするその瞬間の、わずかな断絶。
志文はそこに、自らの全兵力を、全存在を叩き込んだ。
「ここから先、一兵たりとも通すな。この門を、我らが墓標、あるいは敵の絶望の壁とせよ」
志文の声は、戦場の喧騒の中でさえ、氷の結晶のように冷たく、そして恐ろしいほど鮮明に響いた。
志文の隊は、今や限界をとうに超えていた。
羅清、姜雷、夜叉、宋燕を欠き、隊長級で動けるのは林業と衛射のみであった。
兵たちの鎧は返り血と泥に汚れ、刃は無数の衝突でこぼれ、呼吸は肺を焼くほどに熱くなっていた。
だが、彼らの瞳に、絶望の影は、微塵もなかった。そこにあるのは、死を恐れぬ者だけが到達できる、ある種の崇高な狂気であった。
志文は最前線、敵の槍先が届く距離に立ち、薙刀を振るう。
彼の動きには、もはや美しさを見せるための無駄な装飾など一切なかった。ただ、最も効率的に、最も速く、敵を制圧するための最短の軌跡を描き続けていた。
魏鉄山の後続兵たちが功を焦って関門に殺到するたびに、志文の薙刀が閃光となって空を裂き、敵を次々と地に沈めていった。
志文の狙いは、残酷なまでに明確であった。
魏鉄山、孟武、陳堅。この三将を含む精鋭一千騎を関内へ「閉じ込める」こと。そして、残る九千余騎を、この狭隘な関門の前で食い止めること。
志文は、魏鉄山と、刃を軽く交わすことで、張江・周翼・芳蘭の隊が、先に中に入り、隊を整える時間を生み出していたのだ。
しかし、その志文も、いまや策の成功を信じることはできなかった。
関門には、数多の敵が群がっていた。
数倍、数十倍という絶望的な戦力差。
それを埋めるのは、関門という物理的な制約と、志文・衛射・林業という男の圧倒的な個の武、そして狂気的なまでの統率力に加え、彼らの配下たちの忠義のみであった。
志文と林業の隊は、今や、馬を下り、関門の前に陣取り、刃を振るい続けていた。
衛射の隊は、馬上から弓を放ち続けていた。
「林業、左を締めろ。敵の圧力を分散させるな。ここで我らが沈めば、衛国の灯は永遠に消える」
志文の峻烈な命令に従い、林業の隊が、関門の左隅に突進する、魏鉄山軍に死に物狂いで食らいついた。
林業の薙刀は、先ほどの聞閉との死闘の余熱を帯びたまま、無駄のない動きで敵の動線を寸断していく。
関門の入り口は、瞬く間に倒れ伏した兵たちの壁で埋め尽くされ、足場すらおぼつかない状態であった。
魏鉄山軍の後続は、自軍の骸に阻まれて足止めを食らい、混乱の極致にあった。その混沌の渦中で、志文の刃は、一刻の猶予も与えず閃き続けた。
志文は、自身の背後で関内へと消えていった魏鉄山の背中を一瞥だにしなかった。その背を見送ることこそが、彼の策の核心であったからだ。
(魏鉄山、貴様は望み通り、飛砂関へ入れ。そこには、すでに、復讐に燃える張江と周翼、そして芳蘭が待っている)
志文は心の中で、冷ややかに呟く。
飛砂関の内部。
そこは今や、魏国の厳冰と霜華が制圧し、安息の地となっているはずだった。
だが、そこに張江らの精鋭が突入し、今や関内は敵味方が入り乱れる混迷の檻となっている。
魏鉄山は、関内に入った瞬間に、自軍の拠点であったはずの飛砂関が、自分たちを狩るための巨大な罠に変貌していることを知ることになる。
志文たちの任務は、関内の衛国軍が孤立した魏鉄山を討ち果たすまでの時間を、外からの膨大な増援を遮断することで稼ぎ出すことにあった。一分一秒が、友の命に直結する。
「来るぞ。林業、そなたは構うな。俺が殺る」
志文が、肺に溜まった熱い空気を吐き出しながら告げた。
もうもうと立ち込める煙の向こう側から、魏鉄山軍の兵たちとは明らかに異なる、研ぎ澄まされた冷徹な殺気を纏った一団が現れた。
厳冰の配下、氷虎。
厳冰と同じように常に冷静でありながら、厳冰と違い、苛烈な猛将であった。
志文の排除という命を任され、彼の隊だけは、飛砂関に入らず、後方に待機していた。
彼は、混迷を極める、関門の死闘に割り込んできたのである。
氷虎は、その名の通り、周囲の大気さえも凍てつかせるような、純粋で鋭利な殺意を纏っていた。
彼は、乱戦の隙間を縫うようにして、最短距離で志文に肉薄する。周囲の志文隊の兵たちが必死に彼を止めようと槍を突き出すが、氷虎の獲物である二振りの双短剣は、瞬く間に兵たちの攻撃をいなし、翻るような円運動で次の標的を捉える。
「伯志文。貴様の首、我が主・厳冰殿への最高の手向けとさせてもらう。この戦、ここでおしまいだ」
氷虎の声は、感情を一切排した、機械仕掛けの暗器のように無機質なものであった。
志文は、無言で剣を正眼に構える。
周囲の怒号、金属音、落馬の悲鳴。そのすべてが、志文の研ぎ澄まされた意識の中で遠のいていく。
彼に見えているのは、氷虎の指先の微かな震え、不規則な呼吸の断続、そして次に繰り出されるであろう攻撃の予兆のみであった。
志文の脳は、極限状態の集中力によって、敵の全細胞を解析していた。
氷虎が動いた。
その速度は、常人の視神経が追える領域を超えていた。低く沈み込み、風を切る音さえ立てずに影のように志文の懐へと滑り込む。
右の短剣が志文の急所である脇腹を無慈悲に狙い、左の短剣がコンマ数秒遅れて、防御を想定した喉元を貫こうとする。二段構えの、完璧なる必殺の連撃。
志文は、それを紙一重でかわそうとはしなかった。
あえて、左腕を盾として差し出した。
鈍い金属音が響き、氷虎の右短剣が志文の左腕を保護する厚い籠手を深く叩く。衝撃が肩まで突き抜けるが、志文は眉一つ動かさない。その衝撃すらも、彼は計算のうちに入れていた。自らの肉体を餌に、敵の動きを封じたのだ。
短剣が籠手に食い込んだ瞬間、志文は左腕を強引に捻り、氷虎の短剣と、それを操る彼の体勢を完全に固定した。
「なに....! 自ら受けたというのか!」
氷虎の冷徹な瞳に、初めて狼狽と驚愕の色が浮かぶ。彼にとって、想定外の事態は死に直結する。
志文の右手の薙刀が、音もなく一閃した。
それは、これまでの数えきれない死闘の中で志文が培ってきた、研ぎ澄まされた意志と、衛国の未来が放つ一撃であった。刃は大気を鋭く切り裂き、体勢を崩した氷虎の胸元を正確に捉える。
抵抗はなかった。志文の薙刀は、氷虎の防御を突き破り、その心臓を貫いた。
氷虎の身体から力が抜け、双短剣が地面に転がる。
彼は何かを言いかけ、そのまま音もなく地面に崩れ落ちた。周囲にいた厳冰の配下たちの間に、爆発的な動揺が走る。
「氷虎様が……! あの氷虎様が、一撃で討たれただと!」
志文は、倒れた強敵を一瞥もせず、刃に付着した不純物を拭うことすらなく、次の敵へと向き直った。彼の瞳は、すでに次の脅威を捉えている。
「次だ。止まるな。一兵たりとも通すな。死にたくなければ、刃を振るうのだ」
志文の声が、熱気に包まれた戦場を、さらなる灼熱の渦に引き込んでいた。
しかし、魏鉄山軍の圧倒的な物量は衰えを知らなかった。
むしろ、目の前の怪物を仕留めなければ自分たちに明日はないという恐怖が、兵たちを狂乱させ、関門へとなだれ込ませていた。
志文は、その狂気の奔流の真っ只中で、荒波を分かつ不動の岩のように立ち続けた。
彼の周囲には、不用意に近づくことすら叶わぬ、死の香りを纏った神聖不可侵の領域が出来上がっていく。
志文が、刃を一振りするたびに、眼前の敵が確実に沈み、また一振りすれば、彼らは、宙に舞い、新たな道が切り拓かれる。
志文の隊の孤独な、しかし圧倒的な奮戦。それは、後に「関門の修羅」として敵味方双方に語り継がれることになる、伝説的な英雄的行為そのものであった。
一方、その志文の背後、関内では、さらに凄惨かつ重厚な激戦が展開されていた。
関門を突破し、飛砂関の中心部である広場へ、砂塵と共になだれ込んだ魏鉄山、孟武、陳堅の三将。彼らを待ち受けていたのは、想定していた勝利の歓声ではなく、冷徹に計算し尽くされた伏兵の洗礼であった。
「撃て! 賊の首を射抜け!」
張江の鋭く、鋼のような命令が飛ぶ。
城壁の上、そして迷路のように入り組んだ回廊の陰から、潜伏していた衛国軍の精鋭たちが、呼吸を合わせて一斉に矢を放った。
魏鉄山軍の先鋒たちは、何が起きたのか理解する間もなく、無数の矢に身体を射抜かれ、次々と落馬していく。
「待ち伏せだと! おのれ、この関は、厳冰殿が完全に制圧したはずではなかったのか!」
孟武が、飛来する矢を払いながら、憤怒に燃える声を上げる。
魏鉄山の顔は、これまでに見たこともないほどの怒りと屈辱で赤黒く歪んでいた。
「厳冰め、しくじったのか……! あるいは、伯志文の策か! どちらにせよ、小癪な!」
魏鉄山は、関内の様子が自分たちの予想が、厳冰の当初の策と大きく異なっていることを瞬時に悟った。
連合軍が占拠したはずであった飛砂関は、今や、複雑な地形と高低差を活かした、魏軍を飲み込むための巨大な陥穽へと変貌を遂げていた。
彼らの眼前に、突如として、重厚な蹄の音と共に、数百騎が現れる。
周翼と芳蘭の隊であった。
「魏鉄山! 貴様らの短い勝利の夢は、この関の入り口でついえたのだ!」
周翼の剣が唸りを上げ、魏鉄山軍の精鋭騎兵を、その馬ごと一振りで薙ぎ倒す。
芳蘭もまた、その華麗かつ実戦的な槍捌きで、混乱する敵兵の隙を突き、確実に無力化していく。
彼女の瞳には、かつての仲間たちが汚されたことへの怒りと、この地に骨を埋めるという強い決意が、蒼い炎となって宿っていた。
「一人として、この門から生きて帰しはしないわ!」
芳蘭の魂を揺さぶる叫びが、石造りの関内に反響する。
魏鉄山軍一千余騎は、前方からは周翼と芳蘭の騎馬隊、頭上からは張江が送った弓隊、そして唯一の退路である背後は志文によって完全に断たれた。それは、志文が描き出した、完璧な包囲網であった。
「孟武、陳堅、俺の周りを固めろ! 怯むな! ここを突き破り、城壁の厳冰と合流するぞ!」
魏鉄山は、自身が絶体絶命の窮地に陥ったことを本能で認めつつも、その衰えぬ武威をさらに苛烈に燃え上がらせた。
彼は、この死地を自らの武で突破し、城壁の上にいるはずの厳冰の隊と呼応すれば、まだこの地獄を逆転させる目があると考えていた。
だが、彼らが関内を北へと、希望を求めて突き進もうとしたとき、城壁の上でさらなる異変が起きた。
「厳冰様、背後より奇襲! 衛国軍の新たな影が……!」
霜華が、自身の愛用する双剣を構え、城壁の狭い通路の先を睨みつける。
そこには、朱威の残党を制圧し終えた厳冰たちの、まさに背後を衝こうとする、張江の精鋭部隊の姿があった。張江は、志文の奮闘により、魏鉄山らより、先に飛砂関に入ると、城壁上から降りてくる厳冰の隊の背後を急襲していた。
飛砂関は、もはや単なる拠点の奪い合いではなかった。
志文が、自軍の命すべてを駒として描き出した、幾重にも重なる「殺戮の迷宮」であった。
魏鉄山、厳冰、張江。それぞれの誇りと意志が、この石造りの城郭の中で、火花を散らしながら、あるいは泥にまみれながら衝突し合う。
そしてその頃、関門の外。志文は、自軍の「神の目」に全ての命運を託していた。
志文の隊の背後、半ば崩れ落ちた関門の巨大な瓦礫の上に、微動だにせず一人の男が馬に跨っていた。
衛射。
彼は、乱戦の極致に身を置く志文や林業とは異なり、高い位置から戦場を冷徹に俯瞰していた。彼の持つ強弓は、通常の弓よりも二周りは長く、その弦を引き絞る音は、まるで静かな嵐の予兆、あるいは死神の囁きのように重く、そして鋭いものであった。
志文は、四方から迫る刃をいなしながら、背後にいる衛射に、視線だけで短く合図を送っていた。
「衛射、余計な雑兵に構うな。指揮官を潰せ。頭を叩けば、体は自ずと止まる。残りは私と林業が引き受ける」
衛射は無言で頷く。その瞳には、もはや戦場の喧騒は映っていない。
彼の視界には、数千の兵のうごめきが、精密な幾何学模様のように展開されていた。
その模様の中で、周囲とは異なる動きを見せ、兵たちに命令を下し、士気を支えている「核」を見つけ出す作業。
一人の筋骨隆々とした百人長らしき男が、志文の左翼の薄い部分を崩そうと、盾兵を集結させていた。
衛射の指が、弦から離れる。
放たれた一本の矢は、空気抵抗という概念すら感じさせず、混戦の中を滑るように進み、その百人長の喉元を寸分の狂いもなく射抜いた。指揮官を失った部隊は、瞬時に烏合の衆と化し、統制を失う。そこへ志文の鋭い薙刀が割り込み、一気に部隊を瓦解させていった。
(あの黒い馬に乗った将校。あれが後続の再編を担っている....)
衛射は、次の獲物を冷酷に定めた。
魏鉄山軍の後続を、怒号を上げながら立て直そうとしている将。彼は重厚な板金鎧を纏い、四方を盾を構えた屈強な護衛兵に守られていた。
衛射は、深く呼吸を吐き出し、一度止める。自らの心臓の鼓動、風のうねり、兵士たちの叫び。そのすべてを消去し、放つタイミングと魂を同期させる。
放たれた矢は、盾の重なり合うわずかな隙間、針の穴を通すような軌道を描き、将の眉間を貫いた。将は、何が起きたのか理解する間もなく、絶命して落馬し、泥濘と化した大地の中に沈んでいった。
衛射の放箭は、魏鉄山軍にとって、実体の見えない神罰のような脅威であった。
どこからともなく飛来する、死を約束された一本の矢。それが、指揮官たちを次々と戦場から退場させていく。
物理的な死以上に、「いつ自分が標的になるか分からない」という目に見えぬ恐怖が、兵士たちの心に、たちまちに伝染していった。
「弓将を探せ! 上だ! あの黒馬の悪魔を、今すぐ射殺するのだ!」
魏鉄山軍の兵士たちが、衛射を指差しながら叫ぶ。
だが、衛射の周囲には、衛射の隊の中でも、死を恐れぬ数名の精鋭の護衛が配置されていた。さらに、林業の隊が、衛射への接近を許さないように、関門の脇を鉄壁の守りで固めていた。
林業の薙刀は、もはや冷徹という言葉すら生ぬるい、静かなる殺戮の極致であった。
林業は、近づく敵を一人ずつ、まるで淡々と農作業をこなすかのように、確実に退けていく。彼の瞳には、親友であった李岳を失った悲しみも、次に自分が死ぬことへの恐怖もない。あるのはただ、志文が示した「勝利」という唯一の希望へ、自分たちが到達しなければならないという、鉄のような義務感だけであった。
志文と林業。
二人の将が、崩壊した関門の入り口で、互いの背中を預けるようにして立ち、迫りくる兵の黒い奔流を押し返す。
志文の刃は、圧倒的な速度で円を描き、敵の重い武器を木の枝のように弾き飛ばす。
林業の刃は、最小限の動きによる正確な一撃によって、敵の生命を確実に刈り取っていく。
この二人の英雄的な奮闘を彼らの配下が周囲で支えることで、数千もの魏鉄山軍の増援は、関門という「死の難所」を、どうしても突破できずにいた。
「林業、交代だ。右翼が押されている。回れ」
「承知」
短い会話の中に、数多の修羅場を共に潜り抜けてきた、言葉を超えた信頼が滲んでいた。
志文の鎧は、もはや元の色も判別できぬほど汚れ、その顔は気迫に満ち満ちていた。
彼が薙刀を大きく一振りするたびに、魏鉄山軍の兵たちは、一歩、また一歩と、死の恐怖に押されて後退せざるを得なかった。
だが、敵の数は依然として雲霞の如く多かった。一人倒しても、その骸を乗り越えて三人が現れる。
「まだだ……。まだ、張江たちが中で魏鉄山を片付けるには時間が足りない。持ち堪えるんだ」
志文は、自身の肺が焼け付くような、血の味がする熱さを帯びているのを感じながら、奥歯が砕けるほどに歯を食いしばった。
戦場を照らし、すべてを飲み込もうとしていた夕焼けの光は、今や濃紺の夜に押し流され、しかし戦場の血によって不気味な朱色に染まり続けていた。
関門を巡る戦闘は、持久戦の様相を呈しながらも、その一瞬の密度は、人間の精神が耐えうる限界をとうに超えていた。
志文は、自身の感覚が極限まで研ぎ澄まされ、周囲の凄まじい混沌さえもが、緩慢に見える「神域の領域」に達していた。
敵の剣が振り下ろされる、空気の震え。
背後で土を蹴る、林業の足運びの微かな変化。
馬上から放たれる衛射の矢が、風を切り裂き、獲物の肉を穿つ音。
そのすべてが、志文の頭の中で一つの、静謐かつ激しい楽曲のように調和していた。
彼は、その狂った旋律に合わせて、正確に、そして冷酷に刃を振るい続けた。
魏鉄山軍の兵士たちは、もはや志文の前に立つことそのものに、生理的な恐怖を抱き始めていた。彼らがどれだけ勇ましく叫び、どれだけ必死に武器を突き出しても、志文の刃は、まるで未来を見通しているかのようにそれを弾き、次の瞬間には彼らの意識を断ち切る。
「伯志文……。化け物め.....貴様、本当に……、人間ではないのか……!」
最前線に立つ一人の兵士が、ガチガチと歯を鳴らし、震えながら呟いた。
志文は、その問いに答えなかった。答える必要も、答える時間もなかった。ただ、剣を再び、寸分の乱れもなく正眼に構える。
(化け物....やはり、この言葉が、俺には似合っている....)
志文は、燃え盛る意識の片隅で、客観的にそう思った。
まっとうな人間であれば、この全身を襲う疲労にとうに屈し、泥の中に倒れているだろう。人間であれば、友を、部下を、戦友を失った悲しみに立ち止まり、地に屈しているはずであった。
だが、今の彼は、衛国という国の命運そのものを背負う、冷徹で折れることのない「意志」の体現者でなければならなかった。
志文の傍らで、林業もまた、自身の肉体の限界を精神力で凌駕し、戦い続けていた。
林業の得物は、すでに幾人もの盾を叩き割り、その刃は無数の刃こぼれでボロボロの、満身創痍の状態であった。だが、彼はそれを決して捨てない。このボロボロの武器こそが、散っていった李岳らの熱い思い、林業自身の鋼鉄の意志、そして主君である、伯志文という男の計り知れない孤独を支え続けるための、唯一の支柱であったからだ。
衛射の指先は、すでに強靭な弦との摩擦で、熱い痛みと感覚の麻痺が交互に襲っていた。だが、彼は一度たりとも弓を置こうとはしなかった。志文が最前線で地獄を舞っている限り、林業が血路を切り開いている限り、彼はこの戦場を支配する「神の目」であり続けなければならなかった。
関門の周囲は、まさに「地獄」と呼ぶにふさわしい光景であった。
累々と積み重なった兵たちの亡骸が壁となり、大地は夕陽と炎を反射して、不気味な深紅に輝いている。
志文たちは、その凄惨な舞台の上で、ただ一つの衛国の未来を掴み取るために、意志の戦いを演じ続けていた。
その頃、関内では、魏鉄山軍と衛国軍の激突が、文字通り最高潮に達していた。
周翼の、魂を震わせる咆哮が関内の建物に反響し、芳蘭の剣が、月明かりを浴びて美しくも残酷に舞う。
「魏鉄山、貴様の野望の道は、この関の中で、永遠に途絶えるのだ!」
周翼の剣が風を切り、魏鉄山の周囲を守る近衛兵たちを次々と蹴散らしていく。
魏鉄山は、孟武と、陳堅を左右に従え、猛然と反撃を繰り出していた。
「寝言は死んでから言え、若造が! 俺を誰だと思っている! この関を、貴様ら衛国の青二才どもの巨大な墓場にしてくれるわ!」
魏鉄山の放つ武威は、孤立しているという状況下にあっても、依然として周囲を圧していた。彼の大刀は、一振りで衛国兵の防備を木の葉のように砕き散らす。孟武の山をも動かす剛腕と、陳堅の計算された緻密な放箭。この三将が一体となった動きは、完全に包囲されているという絶望的な状況を微塵も感じさせない、爆発的な破壊力を持っていた。
城壁の上では、厳冰がその光景を、冷徹な氷のような瞳で分析していた。
「魏鉄山軍を関内に誘い込み、閉じ込めたか。伯志文……、相変わらず見事な采配を振るう。だが、私がいることを忘れるな...」
厳冰は、傍らに控える霜華に、感情の乗らぬ声で命じた。
「霜華、城壁の残存兵をすべて、惜しみなく投入しろ。魏鉄山を外側から援護するのではなく、内部から、この関門の封鎖を内側からこじ開けるのだ。志文の隊を、関門の表裏から挟み撃ちにし、圧殺せよ。私は張江を討つ」
霜華は、不敵で、どこか艶めかしい笑みを口元に浮かべた。
「承知いたしました。厳冰様。あの方々の、意地汚いほどに気高い首……、私がこの手で、直接刈り取って差し上げますわ」
霜華の率いる精鋭隊が、城壁の狭い回廊を、影のように走り抜ける。
志文たちの背後。固く閉ざされたはずの関門の内側から、新たな、そして決定的な破滅の影が、すぐそこまで忍び寄ろうとしていた。
志文は、その戦場に満ちる不穏な気配を察知していた。
(内側からも、牙を剥きに来るか。だが、それも想定内だ……)
志文は、一瞬の隙を突き、重い雲の隙間から微かに月が出始めていた。
志文の瞳に、鋭く、そしてどこまでも冷たい、確信に満ちた光が宿った。
林業もただ黙々と刃を振り続けていた。
二人の将の刃が、深まる夕闇の中で激しく激突し、火花を散らす。
それは、この戦において、衛国という小さな、しかし誇り高き国の魂が放った、最も明るく、そして最も凄絶な、最後にして最大の輝きであった。
その頃、衛射は、自身の肉体的な限界を、痛烈に自覚していた。
引き絞り続けた腕の筋肉は鉛のように重く、何度も痙攣を繰り返し、視界は極度の疲労と砂塵で霞み、今にも意識が途切れそうになっていた。だが、彼が弓を構え、弦を引くその動作にのみ、かつてないほどの魂の熱量が込められていた。
「見えたぞ……。貴様が、この混乱を操る蜘蛛の糸か……」
衛射は、魏鉄山軍のさらに後方、全軍の指揮を執ろうとしている、一際立派な羽飾りをつけた指揮官の姿を、その驚異的な視力で捉えていた。
その男は、厚い肉壁のように並んだ重装兵の後ろで、軍旗を激しく振り、兵たちに声を荒らげて指示を出している。彼さえ討てば、この関門前に殺到し、志文を苦しめている九千の軍勢は、司令塔を失い、完全に統制を失う。
距離は、通常の強弓の限界を遥かに超えている。さらに、夜にさしかかる風は不規則に吹き荒れ、乱戦によって舞い上がる濃い砂塵が、標的を幾度となく視界から隠していた。
だが、衛射の心に迷いは微塵もなかった。
彼は、弓の木材が悲鳴を上げるまで、弦を限界以上に引き絞った。指先に食い込む弦の感触が、もはや痛みを超えて快感ですらある。
「我らは志文配下……。誇り高き『伯七狼』なり。その魂に、刻み込め」
衛射は、呼吸を極限まで薄くし、短く呟いた。
彼の放った一本の矢は、もはや物理的な法則、空気の壁、重力の縛りさえも凌駕したかのような、言葉にできぬほど美しい、一条の光のような軌跡を描いた。
矢は、戦場に立ち込める厚い土煙を真っ二つに裂き、密集する敵兵の鎧の擦れ合うわずかな隙間を奇跡的にすり抜け、そして……、
大声を張り上げていた指揮官の喉元を、吸い込まれるように正確に貫いた。
指揮官は、驚愕に目を見開いたまま、叫びを上げた形のままで、言葉を失って崩れ落ちた。彼が掲げていた大きな軍旗が、持ち主を失い、力なく泥と血の中に落ちる。
「隊長が討たれたぞ!」
「何事だ! どこだ! どこから撃ってきた! 伏兵か!」
魏鉄山軍の後方に、波及的な動揺と恐怖が広がった。
志文は、その敵のわずかな乱れを、まるで肌で感じるように見逃さなかった。
「今だ! 全員、押し返せ! 勝利は目の前だ!」
志文の刃が、さらに加速し、もはや目にも止まらぬ速さで敵をなぎ倒していく。
林業もまた、残された全ての生命力を武器に叩き込み、防戦一方だった隊を率いて、敵の列を怒涛の勢いで押し流していく。
志文と林業の隊。その、数えるほどしか残っていない、わずか数百名の満身創痍の兵たちが、四百余名にその数を減らした魏鉄山軍を、関門の入り口から、確実に数歩分だけ押し戻した。
その、わずか数歩の距離。それが、この巨大な戦場における、死と生の、勝北と敗北の決定的な境界線であった。
志文の瞳には、依然として一点の曇りも、迷いもなかった。
彼の視線は、関門の向こう側、飛砂関の内部で、命を燃やして戦う仲間たち、そしてその戦いの先にあるはずの、衛国の夜明けを見据えていた。
戦場を完全に包み込んだ深い夕闇は、大地の鮮血によって、さらにその深みを増し、地獄の門を、より一層、静謐で苛烈な、永遠の朱色へと染め上げていった。




