#1-46 狂気の策
陽が大地を勢いよく照らしていた。
中央の飛砂平原では、熾烈な戦が繰り広げられていた。
両軍の兵士たちの動きは、疲労ゆえか、鈍くなっている。灼熱の陽光が、彼らをより追い込んでいた。
もはや、ただ慣性によって動いているかのようであった。
衛国と魯国・玄岳国。国を支える戦士たちの魂は、何日も前から既に削り尽くされていた。鉄の意志と生き残ろうとする動物的な本能だけが、彼らをこの地に留めていた。
戦場は泥の海であった。
疲労の影は、志文の全身に深く刻まれていた。しかしその佇まい、その動きは、周囲の兵士たちのぎこちなく重い動作とは一線を画していた。
それは、いわば、精密に調整された機械のようであった。
薙刀を黒い闇の中に突き出す。それを、寸分違わぬ精度で黙々と続けていく。
殺戮という行為。それは、もはや、志文にとって感情を伴わないただの事務的な処理に過ぎなかった。感情は、この地獄では。死を招く最大の毒である、志文はそう思っていた。
「重いな」 志文はふと、呟いた。しかし、敵は次から次へと、群がってくる。
薙刀を振り下ろす。手応えがある。泥がその鮮血を貪るように吸い込んでいった。
その物理的な重さ以上に、志文は胸の奥に別の心理的な重さを感じていた。
魏鉄山、大崩、聞閉、孟武、陳堅、氷虎ら、天下にその名を馳せるであろう猛将たち。
彼らは猪突猛進という言葉の体現者であろうかというほど、苛烈な武を奮っていた。
そして同時に、衛国軍の頑強な抵抗を前に、それに苛立ちを募らせていた。
そこに、もはや策と呼べるものはなく、ただ、お互いの死力、誇り、武、気力、という自身の武威を成す要素をぶつけ合っているだけであった。
それは、厳冰が最も嫌う戦のはずであった。しかし、この戦場に、厳冰の姿はなかった。
この熱狂、この泥の重さ、この濃厚すぎる血の匂い、それらすべてが厳冰の真の罠を隠蔽するための最も甘美な毒性の高い餌である、志文には、そう思えて、仕方ないのであった。
厳冰は常に最も誰もが目を向けない盲点を突いてくる。その厳冰がこの熱狂の中にいない。厳冰の不在、それこそが最大の警戒すべき要素であった。
志文の胸の奥に冷たい金属のような警戒心が横たわっていた。
突如、後方から、泥を蹴散らし、一人の伝令兵が駆けてくる。
「飛砂関より、朗報でございます!!魏鉄山軍の突撃部隊は朱威将軍らの奮闘により、完全に殲滅されました!飛砂関は衛国の手に残っております!」
その一報は、戦場へと迅速に伝播した。衛国軍は歓喜に沸いた。
長時間に及ぶ死闘の中で、氷のように凍てついていた兵士たちの心、その心の堰が、飛砂関からの一報によって、切られた。
雄叫びが戦場を揺らす。しかし、志文の冷たい目はその熱狂の光を反射していた。
(あまりにも都合が良すぎる...)
飛砂関からの詳細な報告が頭の中を駆け巡る。
「敵は二千騎ほどの突撃隊でしたが、予想以上の粘りを見せ、精鋭と遜色ない奮闘ぶりでした。しかし、朱威将軍をはじめ、関内の兵らの奮戦の前に、地に果てて往きました。飛砂関の残存兵力は、予想以上に減りましたが、それでも二千騎おります!』
敵の二千騎。もともと、飛砂関の兵数はそれよりも多かった。地の利もあった。敵の二千騎が精鋭だとしても、敵兵らの働き如何で、落とされる可能性は限りなく低かった。
交戦を開始して、すぐに撤退したなら理解できた。士気と練度の限界を見極めるためであったと思うことができた。
だが、彼らは、全滅するまで、奮戦した。なおかつ、彼らは精鋭ではなかった。結果は、彼らは全滅。こちらは、飛砂関の待機兵が二千まで減った。
(もし、飛砂関を落とすことが目的ではなく、飛砂関の兵を減らすことが目的だとしたら....)
飛砂関の守備兵を極限まで疲弊させる。
その上でこの「勝利の報」によって衛国軍全体の最も重要な警戒心を完全に緩ませること。
そして中央の戦線にいる衛国軍の士気を意図的に上げさせること。
士気は熱狂を生む。そして、熱狂は冷静な思考を奪うものであった。
しかし、厳冰がなにをするつもりなのかが、読めなかった。
乱戦の中では、どうしても冷静に頭が回らない。志文は、薙刀を振り続けていた。
その時、乱戦の波を、羅清が、必死にかいくぐってきた。
羅清は、志文の傍へと馬を寄せた。羅清の甲冑の継ぎ目からは鮮血が止めどなく滲み出ている。
「殿…!今すぐ後方へお下がりください!」
羅清の声はかすれていた。泥と血で汚れたその声。しかしその必死な響きは、戦場の喧騒よりも強く志文の耳に届いた。羅清はもはや馬の上に鋼鉄の意志だけでしがみついている状態であった。
志文は薙刀を構えたまま羅清の負傷を見据えた。
「羅清。そなたこそ下がれ!その傷は深いであろう。まだ治っておらぬはずだ!そなたまでここで失うわけにはいかん!!」
「殿!聞く耳をお持ちください!」
羅清は呻くように言った。血の匂い。それは羅清の体から、立ち上っているようだった。
「殿は…今、厳冰の策を読もうとしておられる。その思考は、この乱戦の中で極限まで集中力を摩耗させております!」
羅清の指摘は正確だった。志文は確かに厳冰の不在と飛砂関の報告に気を取られていた。
彼の思考の半分は、戦場から切り離されていた。
この一瞬の集中力の欠如。それは志文にとって致命的な隙となりうる可能性を秘めていた。
「私は殿を信じます。殿の武人としての勘を信じています。だからこそ、殿を危険に晒すわけには参りませぬ!後方にお下がりを。殿に万一があれば、間違いなく、この中央は、瓦解します。それほどまでに、殿は大きくなられたのです!」
羅清は、震える手で、志文の薙刀の柄を握り締める。血がその柄に、ゆっくりと滲み込んでいった。
「私を信じてください!殿が策を看破するための時間は…この羅清が埋めましょう!殿がおらずとも、戦線はしばし、持たせてみせます!李岳のように、鮮やかにはいかないでしょうが、それでも、その程度の時は、戦えます!」
志文は、羅清の目を見つめた。羅清の決意は鋼鉄よりも硬いようだった。
「すまぬ、しばし頼む。すぐに戻る故、無理をするな!よいな!」
志文は、熱狂の戦場から重い足取りで単騎、後方へと下がり始めた。
羅清は、志文の背中が後方に消えるのを見届けると、深く息を吐いた。
傷ついた体は再び熱を帯びていた。羅清は剣を手に、乱戦の中へ入っていった。
戦線の騒音から離れ、後方に下がった志文は、馬上で静かに思考を巡らせていた。
羅清は負傷していた。それでなくとも、厳冰が消えている今、もはや一刻の猶予もなかった。
志文の思考の全ては、飛砂関の「勝利」の裏に隠された真実へと注ぎ込まれていた。
魏鉄山軍は二千騎。予想以上の粘り。飛砂関の残存兵力二千。消えた厳冰。
もし魏鉄山軍が本気で、飛砂関を落とすつもりだったのなら、二千騎で攻め込むという策は愚策としか言いようがなかった。
精鋭であるならば、可能性はあったが、それでも少なくとも、倍の人数は必要だった。
総大将は魏鉄山とはいえ、厳冰の性格からして、無駄な犠牲は出さないはずであった。今までの戦が、厳冰という男を、そう物語っていた。
そして、魏鉄山が総大将とはいえ、知略の面では、厳冰の方が、魏鉄山をはるかに上回っている。魏鉄山は猛将であるが、総大将としての格も備えた人物であることから、今や、魏鉄山は、厳冰の行動が独断かどうかに関わらず、厳冰を、戦力として信頼しているはずだ。
すなわち、魏鉄山が、白狼山脈を越えて飛砂関を攻めさせた軍は、囮、すなわち捨て石だった可能性が高かった。そして、彼らは、飛砂関内の兵を減らすという一事のために、その命を捧げたように、志文には思えた。二千騎という数は、飛砂関からすれば、殲滅可能な人数だった。すなわち、衛国軍に、「勝利」という希望を与え、その警戒を緩め、熱狂に渦に陥れるには最も都合の良い数であった。
志文は、ついに、厳冰の策の本質を見抜いた。それは、周到で、確実に衛国を大敗に導くものであった。
すなわち、飛砂関の周囲を囲む二つの山脈、白狼山脈と天狼山脈を使うという策であった。
白狼山脈側は、飛砂関の下部に、広野が広がっている。
広野は見通しが良く、敵軍が進軍してくれば、飛砂関は、その姿をすぐに捉えることができた。しかし、中央戦線から白狼山脈を通って兵を送れば、道がほぼ一本道のため、急行すれば、ほどなくして飛砂関へと到着する。
対して、天狼山脈側から飛砂関へ到達するには、急峻で隘路が複雑に絡み合う山道を通る必要があり、中央戦線から天狼山脈を抜けて飛砂関へ到着するには最低でも一日を要した。しかし、この天狼山脈側こそが城壁が持つ絶対的な死角であった。
城壁のすぐ下。そこには複雑に絡み合う隘路と高木が密生した深い森が広がっている。
城壁に近づけば近づくほど関内からの視界は遮られる。すなわち、完全に死角となるのであった。天然の岩盤と直結したその場所は心理的な盲点でもあり、誰もが、天狼山脈側から攻めることは、寡兵では困難だと断じるが故に誰もが警戒を緩めている部分でもあった。
特に、連合軍が、数多の将兵を失い、士気の上でも、劣勢であればなおさらであった。
しかし、厳冰、『玄岳四堅』の第一堅の智謀ならば、この最も困難で、誰もが不可能と断じる「死角」からの奇襲を必ず選ぶ。
そして勝利に沸く飛砂関の兵は、次の攻撃に備え、魏鉄山軍が攻めてきた「白狼山脈側」に全ての意識と兵力を集中させるだろう。
厳冰は、そこでさらに激しい攻めを、別動隊に、白狼山脈を通って、飛砂関に仕掛けさせる。これにより、関内の兵の全ての眼と意識を目の前の戦場、すなわち白狼山脈を越えてきた敵軍に完全に釘付けにする。
その隙をついて、天狼山脈側の「死角」から厳冰の精鋭が音もなく城壁を越え、関内に侵入を開始する。天狼山脈側から城壁を超えるには、鍵縄のような道具が必要であった。しかし、雪忍の隊が持っていたことを考えると、当然、天狼山脈を越えて、飛砂関を攻める部隊も準備しているはずであった。
瞬く間に、挟撃にあい、飛砂関は混乱に陥る。そして飛砂関は、厳冰らによって占拠される。
志文の思考は冷たい金属のように研ぎ澄まされていた。
天狼山脈を越えて、中央戦線から飛砂関まで丸一日かかる。
そしてこの中央戦線の激突は数日間続いている。
沙嵐国軍。冥禰らが率いるその部隊が連合軍から離脱し、撤退した時にすでに、軍を送っていた。単騎だけなら、天狼山脈を越えて、飛砂関へ急行すれば、半日とかからずつく。
厳冰ならば十分あり得る可能性だった。。
冥禰軍の撤退。それは厳冰にとって痛手であると同時に、最も巧妙な「目くらまし」の機会となりえた。
その混乱に紛れて、誰も気がつかぬうちに、厳冰は天狼山脈へと精鋭部隊を派遣した。
彼らは今丸一日をかけて急峻な隘路を進軍している。つまり、まさに今、飛砂関の城壁の死角に到達しているはずだった。
厳冰のことだ。天狼山脈の隘路に、暗闇の中でも見える目印を先行した精鋭部隊に残させれば、夜でも行軍が可能であった。五日目の終戦後、すぐに、中央を出発しているとすれば、厳冰が、もう、飛砂関の城壁に辿り着いていてもおかしくはなかった。
朱威らが撃退した魏鉄山軍は二千騎。この奮闘で飛砂関の兵は大きな損耗を強いられた。残る兵力は二千騎ほど。
士気は高い。それは疑いようのない事実。だが疲弊も極限に達している。
対して厳冰が派遣した精鋭は、おそらく、万難を排して、白狼山脈から二千余騎、天狼山脈から一千余騎はいるはずだ。そして、それは、撃退した魏鉄山軍の部隊とは、練度、士気ともに、雲泥の差であろう。
疲弊しきった飛砂関の二千の兵。勝利の甘い毒に酔い、警戒は最も怠惰な方向へ向かっている。
抗うことのできない死神が、刻一刻と迫っていることを、志文は感じていた。
飛砂関の陥落。
それは衛国の背後に敵の巨大な要塞が築かれることを意味する。
そして中央戦線で戦う衛国軍は敵の本陣と背後の要塞の二つの強大な力に挟まれる。それは、全滅へと向かう、いわば避けようのない未来であった。
志文は、張江の詰める本陣へと急いだ。
志文の表情を見た総大将張江は、礼は不要とばかりに、軽く右手を振った。
「張江様。申し上げます。飛砂関は、まもなく、敵の手に落ちます」
張江の顔色が変わる。
「…何だと?飛砂関は魏鉄山軍を撃退したと報告があったばかりではないか!」
「魏鉄山軍の撃退は厳冰囮にございます」
志文は淀みなく続けた。
「本命は天狼山脈からの奇襲。関内の兵は、魏鉄山軍の撃退、そして、天狼山脈の地形や状況から考えて、天狼山脈からの奇襲に備えておりませぬ。白狼山脈側からの攻めを囮とすることで、関内の兵の全ての注意を釘付けにし、その間に天狼山脈側の死角から侵入するはずです」
「ありえぬ....いくら厳冰といえど...一日も先の展開を読むなど....」
「いえ、厳冰は、おそらく、左翼の馬淵軍が全滅した時点で、天狼山脈を使う可能性を視野に入れていたはずです」
志文は、張江の動揺を、冷たい目で見つめていた。
「厳冰が関門を閉じれば我々衛国軍は、挟撃にあい、全滅いたします。しかし、最も恐ろしいのは、厳冰らが飛砂関を占拠した後、関門を開けず、そのまま、飛砂関を動かぬことです。これにより、我が軍は、城壁を自力で登らなければなりません。魏鉄山軍の猛攻を受けながら、飛砂関の関門を開く、あるいは、城壁を登るのは、もはや全滅を意味します」
志文は一息に、全ての絶望的な事実を突きつけた。張江は椅子に座り込んだまま、言葉を失っていた。
志文は、構わず続けた。もはや、猶予がなかった。
「故に打開策を一つ進言いたします。」
志文は深く息を吸った。
「この中央戦線の飛砂関の関門を、魏鉄山らに開けさせ、我が軍も、飛砂関になだれ込むのです」
城門を開く。それは味方を裏切り敵に道を譲る狂気の沙汰であった。張江は目を大きく見開いていた。
「そんなことをしては...自滅を早めるだけではないのか?」張江は、動揺しつつも、冷静に聞いた。志文の策は、『志文の』というだけで、今や、一考の価値があることを張江は、理解していた。
「いえ、まず間違いなく、飛砂関は、厳冰らに占拠されます。そのために、魏鉄山軍を送り、飛砂関の兵数を、減らしたのですから。加えて、関門を開くと言っても、ただ開くわけではありませぬ。奴らは、破城槌を持っているはずです。我らは、持っておりませぬ。ゆえに、厳冰らに、飛砂関が占拠し、我が軍が飛砂関に入ることが不可能になる前に、飛砂関の関門を開ける必要があるのです。破城槌で、関門を壊すときは、その破城槌を護るように、魏鉄山らは、戦うでしょう。ゆえに、我らは、破城槌を護る魏鉄山軍を包囲する形で、猛攻をしかけ、関門が開き次第、我が隊が関門で、敵を食い止めましょう。その隙に、張江様たちは中を一掃してください。張江様たちが一掃するまでは、関門から一兵たりとも通しませぬ」
これは、賭けであった。魏鉄山が罠だと踏めば、関門を開こうとしない可能性もあった。なにより、厳冰らが飛砂関を占拠する前に、関門を開かせる必要があった。
そして、関門が開いた後、押し寄せる敵を、関門前で塞ぎ続ける必要があった。
張江は、静かに告げた。
「策を許可する。各将に周知を。行動は飛砂関の状況を見てからとする」その声は、低く冷静であった。
志文は、飛砂関に向けて、矢文を放った。
簡潔な命令だった。飛砂関の朱威へ向けた最後の警告。『天狼山脈側の奇襲に備えよ』
しかし、その矢文が日の目を見ることはなかった。
志文が矢文を飛ばす少し前に、すでに白狼山脈を越えて、敵軍がその姿を現していた。
霜華。厳冰の最も信頼する腹心だった。彼女が率いる精鋭部隊。二千余騎の歩兵部隊。
「行くぞ。休む暇はない!」朱威の声を合図に、飛砂関の二千の兵は、その意識を、霜華の隊に集中させた。
霜華軍は魏鉄山軍と異なっていた。彼女の軍は精密で無駄がなかった。足並みは揃い、その殺意は、禍々しい雰囲気を醸し出していた。
「来るぞ!矢を放て!槍を突け!」
朱威の怒鳴り声が城壁に響く。
白狼山脈側での城壁戦は凄まじいものであった。霜華の采配には隙がなかった。
兵たちは疲労を感じさせない動きで城壁に鍵縄を打ち込み登ってくる。
飛砂関の守備兵たちは必死だった。疲弊を隠し、歓喜の後の絶望的な現実に抗う。
血を吐きながら城壁の上から、弓を放ち石を落とす。
矢文はその乱戦の真っ只中へ飛んだ。
誰が気づくだろうか。一瞬の静寂すらない。血と叫びと金属の衝突音。その狂乱の中で飛来した一本の矢。
それは城壁の隅の泥濘に音もなく突き刺さった。矢の先端に結ばれた志文の警告。それは誰の目にも触れることなく埋もれていく。
霜華の猛攻。それは飛砂関の全ての兵の意識と力を白狼山脈側の城壁に完全に固定していた。
そしてその時、天狼山脈側の深い森の死角。
厳冰の真の精鋭隊は音もなく城壁を登り始めていた。鍵縄の先端が城壁の石に静かに食い込む。彼らは影であり、迫りくる死神であった。
志文の推測は全て当たっていた。矢文は無意味だった。彼の警告は戦場の熱狂と絶望の前にかき消されたのであった。
志文は中央の総大将張江の指揮所へと戻った。
飛砂関が、霜華の隊に攻められている報はすでにその耳に入っているようだった。
「飛砂関に矢文を飛ばしました。しかし、すでに遅いでしょう」
志文は冷たく言い放つ。
「白狼山脈側には霜華の精鋭が攻めているようです。朱威らはその猛攻を前に矢文に気づく暇すらないでしょう。なにより、気づいてももう遅いはずです。今頃、厳冰らが城壁を登り始めている頃でしょう。でなければ、霜華の隊は、動きませぬ」
張江は重く頷いた。その額には脂汗が滲む。
飛砂関を占拠し、関門を閉ざす。すなわち、守る側に回る。それは、最も苛烈な刃となって、取り残された衛国軍を襲うであろう。
「飛砂関が厳冰の手に落ちたことを知ればどうなるか。玄岳国はすぐに援軍を送る。魯国も必ず動く。さらに沙嵐国までもが漁夫の利を狙い、動くかもしれませぬ」
「そうなれば我々は、敵の本陣と背後の要塞そして各国からの援軍に挟まれる。全滅は避けられませぬ」
厳冰の狙いは衛国軍の殲滅。飛砂関を開けずに守備に徹する。それが最も確実な衛国軍の抹殺の手順だった。
「そうでなくても現時点でも我々は魏鉄山軍に兵数で劣勢です。このまま戦線を維持してもただ疲弊するだけです」
「城壁戦も、我らに勝ち目はありませぬ。もし我々が飛砂関の奪還を試みても関を登っている間は無防備になる。城壁の上から敵に弓を射かけられ石を落とされれば一たまりもないでしょう」
「城門を閉ざされたまま飛砂関内を占拠されること。それは衛国の完全な敗北を意味します」
志文の声は冷たい。感情を挟まずただ事実を並べる。
「魏鉄山に罠と悟られないような隙をつくる。徐々に隊列を乱すのです。そこに魏鉄山は必ず飛び込んでくる。飛砂関が落ちたという報せはまだ魏鉄山軍には届いていないはずです」
「彼らは中央を突破すれば一気に勝利だと錯覚する。ゆえに、飛砂関へ突き進むはずです。熱気に充てられているのは、彼らも同じでしょう」
「我々は、その背後を討ちます。突破し、破城槌を護る、魏鉄山軍の背後に我々が猛攻をかけます。そして、できる限り多くを討ち、飛砂関へ入る敵の人数を減らします」
「関門が開くまでは、張江様と周翼殿、葉旋殿の隊は、破城槌を護る魏鉄山軍を討つ我らが、押し寄せる敵から挟撃を受けないよう、守ってください」
張江は、一瞬、沈黙した。張江の瞳の中で恐怖と責任と覚悟が激しく渦巻いていた。
総大将の張江はゆっくりと息を吐き出した。その吐息は鉛のように重かった。
「…分かった。志文。そなたの狂気ともいえる策に賭けよう。衛国の命運を全て、この策に託す」
張江は覚悟を決めた。
「しかし、魏鉄山に罠と悟られぬよう、どう隙を作ればよい?」
志文は即座に答えた。
「疲弊したふりをしてください。中央戦線は激戦の極みにあります。当然、兵たちは限界に達しているはずです。それゆえに、徐々に隊列を乱すことで、疲弊が限界にきたと思わせるのです」
「前線の隊列を徐々に後退させる。その速度は一律ではなく、ある部隊は早く、ある部隊は遅くしてください。まるで、指揮系統が完全に乱れた、あるいは機能していないかのように見せかけるのです」
「最も重要なのは、中央の防御の要を構成する部隊が少しずつ崩れていくように見せること」
「魏鉄山は我々のこの激戦での消耗を知っている。これは自然な崩壊だと判断するでしょう。何より、飛砂関の関門を開く意味を、奴は最もよく知っているはずです。奴は必ずこの絶好の機を逃さないでしょう」
張江は命令を下した。低い声だった。しかしその声には、総大将としての重みがあった。
「全隊に伝えよ。徐々に隊列を乱せ。混乱を装うのだ。しかし、真に崩壊してはならぬ。指揮官は各々、自分の部隊を、内密に統制せよ」
命令は瞬時に中央戦線に伝播した。
衛国軍の隊列は徐々に形を変え始めた。
それはまるで巨大な氷山が、熱を受け、ゆっくりと崩れていくようであった。
中央の最前線は、最も激しく血を流した部隊から、重い足取りで、徐々に後退を始めた。
彼らは意図的に、それでいて自然な形で、隙間を生み出していた。
魏鉄山は、その変化にすぐに気づいた。
彼は消耗戦の最中にあり、疲労は衛国軍とさして変わらなかったが、敵の隊列の乱れを明確に感じ取っていた。
それは勝利への兆しであった。
魏鉄山の目は獣のように光った。
「見よ!衛国軍の隊列が崩れ始めたぞ!奴らは限界だ!ここが好機!全軍中央を突破せよ!飛砂関は我々の目の前だ!」
魏鉄山は吠えた。彼の声は戦場の喧騒を突き破る。
魏鉄山軍は、さらなる攻勢をかけた。彼らは疲労を忘れ勝利の錯覚に酔っていた。
衛国軍の作った偽りの隙間へ雪崩を打ったように押し寄せる。
志文はその様子を冷たい目で見つめていた。彼の策は完璧に機能している。
魏鉄山の牙は罠にかかった。しかしその牙が完全に関門を、食い破るまでには、少し時が必要であった。
志文は二人の配下を呼び寄せた。姜雷と林業である。
彼らは中央の左右の翼を支えていた。激戦で血に塗れた彼らの顔には、疲労と同時に武人特有の殺意が宿っている。
志文の声は低い。感情の揺らぎは一切なかった。
「魏鉄山が中央を突破する前に、両翼の猛威を討つのだ。大崩と聞閉、敵の二人の柱を討つのだ」
姜雷の瞳が鋭く光った。
「承知!この姜雷にお任せあれ!大崩の首、必ずや獲ってご覧に入れましょう!」
姜雷は、志文の顔をじっと見た。
「なんだ?言いたいことでも?」
姜雷は、満面の笑みを浮かべた。
「殿、もっとドンと構えていてください!俺がついていますから!心配するようなことは何一つないはずです!」
姜雷は、胸を張った。
「ふん、さっさと行け!」 「承知!」背を向ける姜雷に志文は呟いた。
「無茶をするな。生きて戻れ」 姜雷は、聞こえたのか、軽く右手を上げると、馬を走らせていった。
「なんだ?そなたも言いたいことでもあるのか?」 志文は、静かに佇む林業に尋ねた。
林業は静かに頷いた。
「李岳の代わりはおりませぬ」 そう告げた林業に、志文は一瞬戸惑う。林業は、志文でも腹の内を読めない男だった。だが、信頼していた。林業が、志文のことを信頼していることも、言葉を交わさずとも、わかっていた。
しかし、この林業の一言は、志文に困惑をもたらしていた。
林業はそんな志文をよそに、話を続けた。
「李岳は、殿にとって、大切な存在でした。羅清は、殿の心を最も理解しておりますし、姜雷は、殿が最も頼りにする武でしょう。衛射は、殿が最も信を置く判断力をもち、夜叉は、常に殿のそばで、危険を取り除いてきたことから、もはや殿の体の一部と言っても差し支えないはずです。宋燕は、我が軍の唯一の女です。あれの槍は苛烈ゆえに、同時に危険を内包しています。ゆえに、我らの中では、最も殿が心を配る存在でしょう。そして私は、殿と同等の智謀を持ちます。殿が策を実行するときの要と言えるでしょう」
「自分で言うのか?ふっ」 志文は、かすかに笑った。
「しかし、李岳。あの男だけは違います。李岳は、我々の中で、武を振るわない唯一の将です。しかし、殿が最も信を置いたのは李岳です。なぜならば、李岳は、いうなれば、殿の闇であったからです。殿が誰にも見せぬ部分、それを李岳はわかっていた。そして、それをどことなく支えていた。李岳の智謀は、殿や私より優れていました。それゆえ、七将に入ったと、皆が思っておりますが、私にはわかるのです。そうではないと」
「何が言いたいのだ?林業、いつになく、長く話すでない」
林業は笑った。笑ったように見えた。黒面から見える、目が細くなり、その筋肉が少し緩む。
「李岳の代わりはおりませぬ。ですから、ここで、連合軍を滅しても、心の空白は埋められぬはずです。李岳になれるとは思いませぬ。しかし、私も、殿の闇をいくらか分かち合うことができれば、幸せに思います」
林業は、そう言うと、そのまま、馬に跨った。
「私は、死にませぬ。殿のもとへ必ず、戻ります。殿が我らを信じるまで、必ず殿のもとへ戻ってまいります。我らが死ぬことを恐れないでください。我らは殿と共にあるのです」
林業は、志文にそう告げて、馬を駆った。
中央戦線は混沌を極めていた。
魏鉄山軍の先頭部隊は衛国軍の陣を突き破り中央の城門へと肉薄する。彼らは勝利の熱狂に酔いしれていた。
姜雷と林業の部隊が魏鉄山軍の両翼へ凄まじい勢いで突撃する。
彼らの攻撃は完全に意表を突いた。魏鉄山軍は中央の突破に意識を集中していた。両翼は、いささか無防備だ。
姜雷は、薙刀を振りかざし大崩の陣へと突進していった。
林業はその反対側、聞閉の部隊へ猛烈な勢いで突撃した。
血の祭りが始まった。
魏鉄山軍は歓喜の雄叫びを上げていた。
「関門は目前だ!全軍、ここが正念場だ!飛砂関を落とすのだ!」
魏鉄山は馬を駆り立てる。彼の眼中には、勝利が見えていた。
志文の策は完全に成功した。魏鉄山は志文の仕掛けた罠に飛び込んだのであった。
あとは、どれだけ、飛砂関に入る兵数を減らせるかが、勝負の鍵であった。
志文の軍は、破城槌を護るように背を向けて戦う、魏鉄山軍に猛攻を仕掛けていた。
その志文の軍を護るように、志文の軍に群がる敵兵を、張江・周翼・葉旋らが、必死になぎ倒していった。
両翼では、姜雷と林業の部隊が、大崩と聞閉の隊と死戦を繰り広げていた。
戦場は再び狂乱の坩堝と化した。
しかしその狂乱の中心で志文の冷たい策が衛国の運命を決定づける鋼鉄の歯車を回し続けていた。
戦の終わりは、すぐそこであった。




