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#1-44 闇の訪れ

戦役五日目の開戦は、静かにその始まりを告げた。

朝霧が天を覆い、大地には重々しい湿気が纏わりつく。両軍の兵士たちは、この静けさの裏で、これから始まるであろう総力戦への、深い予感を抱いていた。

衛国軍本陣では、開戦を前に、将校たちを集めた軍議が開かれていた。しかし、その雰囲気は、前日までの熱気に満ちたものではなかった。重く、冷たい空気が、本陣全体を支配していた。

伝令役の報告は、その空気を、さらに冷ややかなものとした。

右翼総大将の荀厳じゅんげんが討たれ、飛砂関への援軍として、出撃した汪盃おうはいもまた、忠義に殉じたという。

二将の壮絶な戦死は、将兵たちの心を深く抉ったが、同時に、我らも衛国軍としての誇りを示さねばならぬという武人としての覚悟を刻みつけた。

伝令はまた、敵軍の動向についても報告した。冥禰みょうねいが重傷を負ったことにより、沙嵐国軍はこれ以上、この戦に参戦しないというものであった。

これにより、衛国軍は、その全兵力を玄岳国軍・魯国軍との中央戦線に割くことが可能となった。

それこそが、衛国軍にとって、唯一の救いであった。

しかし、その救いも束の間であった。

磐虎ばんこ....負傷の具合はどうだ....!」

張江ちょうこうが、苦しげな面持ちで尋ねた。

磐虎は、前日の激戦で、深手を負っていた。その傷は、武人にとって致命的とも言えるものであった。

「心配は無用だ....!この磐虎、そう易々とは倒れるぬ....!」磐虎は、低い唸りのような声で答えた。

しかし、その言葉とは裏腹に、体が限界を迎えていることは、誰もが肌で感じていた。

志文は、ただ静かに、その光景を見つめていた。

軍議の末、衛国軍は、新たな布陣を敷くことを決定した。

中央に、総兵力六千余騎を率いる張江軍を置き、その中央を守るように、両翼が前方に張り出す、巧妙な布陣であった。

右翼には、志文と周翼しゅうよくの二将、そして芳蘭ほうらん張勇ちょうゆうら、二千余騎が堅陣を組み、左翼には、磐虎と葉旋ようせんの二将、同じく二千余騎が、磐石の守りを固めていた。

これは、中央の張江軍を囮とし、敵軍の突撃を誘い、両翼から包囲殲滅を図るという、志文の策に基づいたものであった。

一方、魏鉄山軍本陣、もとい連合軍本陣では、厳冰げんひょうが、戦況図を前に、冷徹な目を光らせていた。

彼の眼前には、衛国軍の新たな布陣が描かれていた。

中央が後退し、両翼が張り出す巧妙な守備陣であった。

魏鉄山ぎてつざん...隊を分けるぞ...よいか?」厳冰は、静かに魏鉄山に提案した。

しかし、それは提案というよりも、もはや、厳冰の中で、決定事項であるようにも思われた。

魏鉄山は、厳冰の提案に、眉をひそめた。

「厳冰....そなたの知略は、理解できぬ....が、この衛国軍の布陣は、中央の張江への力任せの突撃を誘う罠だ....我が軍の兵士たちは、前日の激戦で、疲弊している....無闇に突っ込んでは、無駄な犠牲を出すことになる」

厳冰は、静かに頷いた。

「その通りだ....衛国軍は、この中央の守りを固めれば、飛砂関は落ちないと踏んでいる....ゆえに、士気はこちらよりも高く、無闇な突撃は、彼らの望むところだ」

厳冰は、衛国軍の布陣を指差した。

「この布陣の穴は、どこにもない....中央の張江へ突撃すれば、両翼から包囲され、殲滅されるだろう....左翼か右翼を攻撃しても、中央の張江が援護を送り、両翼の守備は堅固になり、容易に突破はできない....」

魏鉄山は、厳冰の分析に、深く頷いた。彼は、厳冰の知略を、冷徹で薄情なものだと、常々思っていたが、この分析の精確さには、感嘆せざるを得なかった。

「では、どうする....?」魏鉄山が、厳冰に尋ねた。

厳冰は、静かに笑った。その笑みは、冷徹なものであったが、どこか悲壮感を漂わせていた。

「俺が囮になる....!」

魏鉄山は、厳冰の言葉に、驚きを隠せなかった。

「な....なにを....!厳冰....貴様は....!」

厳冰は、魏鉄山の驚きを無視し、静かに続けた。

「中央の張江への援護を阻止する必要がある....誰かが、中央の張江を攻めなければならない....俺が囮となり、張江軍の注意を引きつける」

厳冰の提案は、衛国軍の布陣の唯一の穴を突くものであった。

中央の張江軍が、両翼の援護を優先すれば、中央の守りが手薄になる。しかし、中央の張江軍を攻めるということは、両翼からの攻撃を受ける必要があった。

「魏鉄山....手伝え....!中央の援護を阻止するには、餌が足りぬ...天狼山脈・白狼山脈を越えて、飛砂関を急襲することも考えたが、奴らの士気は高い。そう簡単には落ちぬ。その間に、中央が崩れる可能性もある。ゆえに、張江の中央を突破する」

魏鉄山は、厳冰の言葉に、深い感動を覚えていた。

冷徹で薄情な奴だと思っていた厳冰が、自らの命を賭けて、戦局を打開しようとしていたからだ。

「厳冰....その覚悟....見事だ....!この魏鉄山が....貴殿と共に....中央を攻めよう!」魏鉄山は、力強く言った。

厳冰は、静かに頷いた。

「感謝する....魏鉄山....貴殿の武は....この戦の勝利を....確実にするだろう」

魏鉄山は、厳冰の言葉に、驚きながらも、厳冰のことを見直した。

彼は、厳冰の冷徹さの裏に、武人としての誇りが、隠されていることを、初めて知った。

斯くして、玄岳軍は、三つの隊に分かれ、突撃が敢行された。

まず、『魏五虎ぎごこ』の一人、孟武もうぶ陳堅ちんけんの隊、八千余騎が、磐虎らの左翼めがけて、猛然と突撃した。

次に、『魏五虎』の大崩だいほう聞閉ぶんぺい露鴈ろがんの隊、一万余騎が、志文らの右翼めがけて、突進した。

そして、中央の張江らのもとには、厳冰と、その配下の文盾ぶんじゅん雪忍せつにん氷虎ひょうこ霜華そうか、そして魏鉄山を含む、二万余騎が、力任せの突撃を開始した。

戦いは文字通り、総力戦となった。両軍の兵士たちは、自らの命を賭け、激しい戦闘を繰り広げた。

しかし、最も苦戦していたのは、磐虎らの左翼であった。

磐虎は、前日の負傷により、思うようにその武を発揮できていなかった。彼の薙刀は、以前のような鋭さを失い、その一撃は、苦しいものであった。

葉旋ようせんは、その状況を見て、必死に槍を振るっていた。彼は、磐虎の負傷を庇い、最前線で、孟武と陳堅の隊の猛攻を受け止めていた。

一方、中央の張江軍は、厳冰らと魏鉄山の猛攻により、戦列を維持することに全力を割き、磐虎らのもとへ援軍を送れなかった。彼らの突撃は、張江軍の心胆を寒からしめるものであった。

志文たちは、右翼で、大崩と聞閉、露鴈の隊と激戦を繰り広げていた。彼らの隊は、精強であった。そしてなにより、その兵力差により、志文たちは、次第におされていった。

右翼の総大将である周翼は、中央の張江が援軍を送れない状況を見て、志文に磐虎の援軍として行くように指示した。

「志文!磐虎殿の援軍に行かれよ!あのままでは、磐虎殿の命が危ない!」周翼は、志文に迫った。

志文は、大崩と聞閉と露鴈の隊が精強なため、周翼軍を心配した。

「周翼....そなたたちは、大丈夫なのか....!大崩らの隊は、精強だ....!」

周翼は、静かに笑った。

「心配は無用だ....!この周翼が.....必ず護り抜いてみせよう!」

張勇ちょうゆう李芳蘭りほうらんは、志文の不安を打ち消すように、静かに言った。

「志文....任せて....!貴方は....磐虎殿の援軍に....!」 芳蘭が言うと、張勇もそれに続いた。

「志文殿、私は、あなたを信じています。貴殿は如何(いかが)ですか」

志文は、二将の覚悟を感じ取り、静かに頷いた。

「信じよう!任せたぞ!」

志文は、配下の将たちの中から、夜叉やしゃ宋燕そうえん羅清らせい姜雷きょうらい林業りんぎょう衛射えいしゃ、の六人を連れ、五百騎を率いて、磐虎のもとへ向かった。

志文が、磐虎のもとへ着くと、左翼の戦況は、既に深刻なものであった。

磐虎は、傷が悪化したのか、戦列の後方に下がり、その顔は、苦痛に歪んでいた。最前線では、葉旋軍が、必死に槍を振るい、孟武と陳堅の隊の猛攻を受け止めていた。

葉旋は、戦列を立て直すために、孟武らの猛追を躱しながら、後方へと撤退している途中であった。

志文と、志文の配下の将たちは、迷わず、その凄まじい乱戦に入っていった。

志文の突入は、磐虎軍の士気を、一気に高揚させた。志文の薙刀は火花を散らし、友の窮地を救うべく、孟武と陳堅の隊の精鋭を次々に蹴散らしていった。

孟武らは、葉旋軍への猛追に苦戦していた。沈穆がいたからであった。葉旋の配下の名将、沈穆しんぼくは、主君を護るため、敵軍の隊長格である孟武隊の鋒矢と真正面から衝突していた。

沈穆は、まだ齢十六であったが、寡黙ながらも思慮深く、葉旋の軍において「静かなる盾」として信頼されていた。彼の武は派手ではなかったが、一度構えれば、その守りは鉄壁であった。

(葉旋様....あなたは、この衛国に必要なお方だ。この左翼を、一人で支えられる武を持つあなたは、まだ、この地で果てるべきではない....)

彼の脳裏には、数日前の、穏やかな葉旋の笑みが浮かんでいた。葉旋は、いつも彼のことを「ぼくちゃん」と呼び、からかった。それは、戦場では決して見せない、心優しい一面だった。

「穆ちゃん、今度の戦が終わったら、新しい鎧を仕立ててあげるわね。その黒い鎧、そろそろ穴だらけでしょう?」 「....御心遣い、感謝いたします。ですが、この鎧は、私にはちょうど良いのです。貴方様の盾となるには、これ以上のものはありませぬ」

その約束を果たせぬことを悟りながら、沈穆は、すべてを懸けて、孟武の猛攻を受け止めた。

「衛国軍の雑兵が!道を空けろ!」

孟武の薙刀が、沈穆の持つ薙刀と激しく交錯する。沈穆の薙刀は、既に幾度となく打ち合わされ、刃こぼれしていたが、彼は、歯を食いしばり、必死に持ちこたえた。

(あと一瞬....あと一瞬で、葉旋様は戦列を離脱できる....!)

沈穆は、渾身の力を込めて、孟武の斧を押し返そうとする。だが、その力の差は、如何(いかん)ともし難かった。孟武の剛力に、沈穆の薙刀は、ついに音を立てて打ち砕かれた。

「くっ....!」

沈穆は、最後の力を振り絞り、砕けた柄を剣のように突き出した。しかし、孟武は、その一瞬の隙を見逃さなかった。

「終わりだ!」

孟武の薙刀が、沈穆の胸を深く、そして正確に貫いた。

「葉....旋....様....」

沈穆は、最後の言葉を絞り出すように言うと、そのまま、馬上から崩れ落ちた。彼の瞳は、隊列を立て直し、また前線へと戻ってくる葉旋の姿を、捉えていた。

「沈穆....!沈穆ーっ!」

(葉旋様....御武運を...)

葉旋は、沈穆の壮絶な戦死を見て、悲痛な叫びを上げた。

彼女の心は、友の死により、深く抉られたが、沈穆が命を懸けて開いた戦列の隙間を、無駄にすることはできなかった。

彼女は、さらに激しく槍を振るい、沈穆の仇を討つべく、孟武の隊に突撃した。

志文らの奮戦により、左翼の戦況は、再び膠着状態に戻ったが、いまだにその兵力差は圧倒的であった。凄まじい乱戦の中で、志文の配下の将たちにも、疲弊の色が見え始めた。

宋燕そうえんは、敵の重装歩兵の固い隊列に囲まれ、抜け出す際に、数人の一般兵の突き出す槍を脚に受け、深手を負っていた。彼女は、持ち前の速度を失い、隊の戦列の維持が困難となっていた。

夜叉やしゃもまた、乱戦の中で、敵を討ち取ろうと懐に潜り込んだ際、別の方向から来た敵兵の振り下ろした刃を背中に受け、大きく体勢を崩していた。

そして、羅清らせいは、乱戦の最中、敵の精鋭の騎隊馬に深く切り込まれ、左肩に重傷を負っていた。

血が噴き出す中、彼はそれでも剣を握りしめていたが、最早、戦力としては機能しなかった。

志文は、三人の負傷を視界の端で捉えていた。既に、志文の軍も皆、限界が来ていた。

士気を爆発的に上げる必要があった。

と同時に、志文は、これ以上、犠牲を出すわけにはいかなかった。

(李岳....)

「宋燕....夜叉....羅清....!後方に下がれ!命は、ここで散らすものではない!」

志文は、怒号と共に、三人を強制的に後方に下がらせた。

三人は、志文の命令に、悔しさと自責の念を抱きながら、後方に下がった。

彼らの心には、戦場で役目を果たせなかったことへの、深い悔恨が刻まれていた。

志文は、宋燕らが後方に下がったことを確認すると、数騎を伴って、葉旋の援護に向かった。

志文の薙刀は、血の霧を巻き上げ、孟武・陳堅軍の精鋭を次々と打ち倒していった。

その武は、まさに鬼神の如く、疲弊していた磐虎ばんこ軍・葉旋軍に新たな活力を与えた。

しかし、この突入が、軍を率いる『魏五虎ぎごこ』の一角、孟武もうぶ陳堅ちんけんの平静を完全に奪った。

彼ら二人にとって、志文は単なる敵将ではなかった。

彼らは、主君である魏鉄山ぎてつざんの、志文への深い憎悪を知っていた。なにより、前『魏五虎』であり、戦友であった馬徳・李彪・宋良の仇であった。

魏鉄山は、志文への復讐の念から、あえて孟武と陳堅を、志文がいない左翼へとぶつけた。それは、志文と直接対峙することを避けさせ、冷静に中央軍を打ち破るための戦略的配置であった。

だが、今、その憎悪の対象が、白昼の戦場に現れたのであった。

「志文....志文めが....!」

孟武は、その場で怒号を上げた。彼の顔は、激情によって朱に染まり、理性を完全に失っていた。彼は、積年の恨みを晴らすことだけを考え、自らが率いる隊列の堅固な陣形を顧みることなく、数騎の親衛隊と共に、志文のいる最前線へと向けて、無謀な突出を敢行した。

一方、弓の名手である陳堅は、孟武とは異なる形で我を失っていた。彼は、接近戦に持ち込む孟武と違い、遠距離から志文を射抜くことに固執した。

「距離だ....!射線さえ通れば....あの首を....!」

陳堅は、乱戦の中でもがいていた。彼は、弓で志文を射抜ける位置まで進出するために、自らの隊列を、乱雑に、そして性急に動かした。

彼の焦りが、精鋭であるはずの陳堅隊の連携を、内側から崩壊させていった。

彼らのこうした個人的な激情と、それに基づく隊列の乱れは、衛国軍の将たちにとって、戦況を覆すための、決定的な「隙」となった。

この隙を見逃さなかったのが、志文の配下、林業りんぎょう姜雷きょうらいであった。

林業は、卓越した知略と冷静な判断力を兼ね備えていた。彼は、孟武と陳堅の「乱心」を即座に見抜いた。

「姜雷に合図を送れ。狩りの時間だ」林業は、冷静沈着な指示を姜雷に送った。

姜雷は、その大柄な体躯とは裏腹に、俊敏な動きと鋭い直感を持つ武人であった。彼は、林業の指示を待つまでもなく、敵軍の乱れた隊列の隙間へと、自らの大槍を突き込んでいた。

「孟武隊は、突出した先頭の数騎と、本隊との間に、大きな穴が空いている!突っ込むぞ!」

姜雷は、乱れた隊列の隙間から、指揮系統を担う下級将校たちを次々と薙ぎ倒した。孟武の本隊は、先頭を失い、指揮系統が麻痺したことで、まるで舵を失った船のように、戦場で右往左往し始めた。

陳堅隊もまた、例外ではなかった。弓で志文を射抜こうと、無秩序に進出した精鋭たちが、林業隊によって側面からの奇襲をうけていた。

林業は、陳堅隊の精鋭たちを、一人また一人と、確実に馬から叩き落としていった。

孟武軍・陳堅軍は、多くの犠牲を出し続けていた。

一方、志文が磐虎の援護に向かってしばらくした頃、右翼の戦場は、再び悲劇的な様相を呈していた。

周翼しゅうよく芳蘭ほうらん、そして張勇ちょうゆうが率いる右翼は、玄岳軍の『魏五虎』の、大崩だいほう聞閉ぶんぺい、そして露鴈ろがんの猛攻を受け、瓦解寸前の状態に陥っていた。

特に、大崩の剛力と聞閉の知略、そして露鴈の獰猛な武は、衛国軍の兵士たちの士気を、根底から蝕んでいた。

周翼は、必死に自らの隊を統制し、防衛線を維持しようと奮闘していたが、その顔には、深い疲労と焦燥の色が浮かんでいた。

「くそ....このままでは....右翼は....完全に崩壊する....!」周翼は、歯を食いしばりながら、敵将の猛攻を受け止めていた。

芳蘭は、周翼を護るように、自らの槍を振るっていた。彼女の槍術をもってしても、三将の武は、あまりにも強大であった。

その時、張勇は、乱戦の中で、静かに周囲を見渡していた。

(このままでは....周翼殿も....芳蘭殿も....そして....この衛国軍全体が....危ない....!)

張勇は、これまでの戦いを冷静に分析していた。連合軍の勢いは、単なる兵力差ではない。それは、『魏五虎』という、五つの強大な柱によって支えられていた。

「どんなに敵を倒しても....『魏五虎』がいる限り....その勢いは....なくならない....」

張勇は、自らの命を賭けた、唯一の解決策を見出した。

それは、魏五虎の中で最も討ちやすい、露鴈を討つことであった。

張勇は、周翼に静かに近づき、その耳元で、自らの決意を囁いた。

「周翼殿....私は....露鴈を....討ちに行きます....」

周翼は、張勇の言葉に、驚きを隠せなかった。

「張勇....何を言っているのだ....!貴殿の武では....露鴈には....勝てぬ....!」

張勇は、静かに首を横に振った。

「それでもやらねばなりませぬ.....後を頼みます」

その言葉は、張勇の、武人としての深い覚悟を示していた。彼は、自らの命と引き換えに、衛国軍に勝利をもたらそうとしていた。

張勇は、周翼に、深く一礼をすると、自らの隊を率い、露鴈のいる戦場の深奥へと、突撃を敢行した。彼の背中は、衛国軍の未来を背負う、武人としての、最後の輝きを放っていた。

張勇が率いる隊は、露鴈のいる戦場の深奥へと、猛然と突き進んでいった。露鴈は、その獰猛な武で、衛国軍の兵士たちを次々と打ち倒し、その勢いを、誰にも止められないでいた。

露鴈は、張勇の突入を見て、燦然たる笑顔を見せた。

「来たか....!衛国の鼠め....!この露鴈が....貴様の首を....刎ねてくれるわ!」

露鴈は、その薙刀を振り上げ、張勇に向かって、猛然と突撃した。

張勇は、露鴈の武を、冷静に分析していた。露鴈の武は、剛猛で、その一撃は、大地を揺るがすほどの威力を持っていた。正面から受け止めれば、張勇の命はない。

(相討ちだ....!相討ちしか....活路はない....!)

張勇は、自らの剣を、露鴈の大刀の切っ先に合わせ、受け流そうと試みた。しかし、露鴈の剛力は、張勇の予想を遥かに超えていた。薙刀の一撃は、張勇の剣を躱し、そのまま、張勇の胸へと迫ってきた。

「ぐっ....!」

張勇は、必死に体を捻り、その一撃を避けたが、大刀は、張勇の左肩を深く切り裂いた。鮮血が噴き出し、張勇の顔は、苦痛に歪んだ。

「まだだ....まだ....終わらせはしない....!」

張勇は、血を吐きながらも、再び剣を構えた。彼は、自らの命が、残りわずかであることを悟っていた。彼は、この一撃に、すべてを懸ける覚悟を決めた。

露鴈は、張勇の頑強さに、怒りを覚えた。彼は、自身が英雄になると信じていた。彼は、再び薙刀を振り上げ、張勇に向かって、渾身の一撃を放った。

その一撃は、風を切り裂き、張勇の首を刎ねるべく、迫ってきた。

張勇は、その一撃を、敢えて受け流さなかった。彼は、露鴈の刃を受け止める代わりに、自らの全身を、露鴈の懐へと投げ込んだ。

(相討ちだ....!ここで....終わらせる....!)

張勇は、自らの剣を、露鴈の胸へと、深く突き刺した。同時に、露鴈の大刀もまた、張勇の体を、深く切り裂いた。

二人は、馬上で、静止した。露鴈は、自らの胸に突き刺さった剣を見て、驚きと、そして、深い絶望の表情を浮かべた。

「ば....か....な....」

露鴈は、最後の言葉を絞り出すように言うと、そのまま、張勇と共に、馬上から崩れ落ちた。

張勇と露鴈の相討ち。張勇は、自らの命と引き換えに、連合軍の柱の一角を崩した。彼の忠義と武人としての覚悟は、この戦場に、深く、そして永遠に刻み込まれたのであった。

張勇と露鴈の相討ちによる戦死は、右翼の戦況に、決定的な波及をもたらした。

兵士たちは、露鴈という、彼らの精神的な支柱を失ったことで、戦意を完全に喪失した。彼らの瞳には、恐怖と、そして、深い絶望の色が浮かんでいた。

露鴈の隊は、その場で全滅した。

残された大崩だいほう聞閉ぶんぺいの隊もまた、瓦解寸前まで追い込まれていた。大崩は、露鴈の死を見て、激昂し、無謀な突撃を敢行したが、聞閉は、この状況を見て、冷静に包囲するよう指示した。

しかし、聞閉の指示も、もはや、兵士たちの心には響かなかった。

彼らは、露鴈の死という、あまりにも大きな喪失を前に、混乱していた。

一方、衛国軍の兵士たちは、張勇の壮絶な戦死を見て、その心に、新たな覚悟を刻みつけた。張勇が、自らの命を懸けて、露鴈を討った。その忠義と武人としての誇りは、衛国軍の兵士たちの士気を、一気に高揚させた。

周翼の隊や芳蘭の隊は、張勇の戦死という悲しみを、胸の底にそっとしまい、猛烈な反撃を繰り出した。彼らは、張勇の死を無駄にしないために、玄岳軍を打ち倒すことだけを考え、戦場を駆け抜けた。

大崩と聞閉の武では、もはや、どうにもならないほど、露鴈という『魏五虎』の死は、右翼に大きく波及した。玄岳軍の右翼は、完全に崩壊し、大崩と聞閉の隊は、戦場から撤退していった。

右翼の戦況は、張勇の壮絶な相討ちにより、衛国軍の勝利に終わった。しかし、その勝利は、あまりにも代償が大きかった。

中央での乱戦は、永遠に続くように思われたが、夜が訪れ、闇の帳が下りた頃に、その終結を迎えた。

中央戦線で、張江軍を釘付けにしていた厳冰げんひょう魏鉄山ぎてつざんの隊も、両翼の戦況の悪化を知り、静かに本陣へと戻っていった。彼らは、中央への猛攻を維持していたが、両翼の敗北は、連合軍全体の敗北を意味していた。

連合軍の本陣へと戻った魏鉄山は、露鴈の戦死を知ると、激昂し、その場で怒号を上げた。

「ば....か....な....!露鴈が....討たれただと....!誰に....誰に討たれたのだ....!」

伝令役の将は、震える声で、張勇ちょうゆうという衛国軍の副将との相討ちであったことを伝えた。

魏鉄山は、その場で剣を抜き、再び突撃しようとした。露鴈は、魏鉄山にとって、かけがえのない友であり、武の同志であった。彼の死は、魏鉄山の心を深く抉り、その理性を完全に奪った。

「許さぬ....!衛国軍....貴様らを....一人残らず....皆殺しにしてくれる....!」

魏鉄山は、怒号と共に、天幕を飛び出そうとしたが、配下の将たちに阻止された。

「魏鉄山様!お止めください!今は....夜です....!無闇な突撃は....更なる犠牲を出すだけです....!」

配下の将たちは、必死に魏鉄山を押し留め、冷静になるように促した。

厳冰は、静かにその様子を見ていた。

「魏鉄山....貴殿の気持ちは....理解できる....だが....今は....冷静になるべきだ....明日の戦いで....露鴈の仇を討てばよかろう....!」厳冰は、静かに魏鉄山に語りかけた。

厳冰の言葉に、魏鉄山は、剣を鞘に収めた。彼の顔は、怒りによって歪んでいたが、その瞳には、明日への復讐の誓いが宿っていた。

「この魏鉄山....明日の戦いで....必ずや....露鴈の仇を討つ....!衛国軍を....一人残らず....地獄へと突き落としてくれる....!」

魏鉄山の心には、露鴈の死という、あまりにも大きな喪失と、それに基づく、衛国軍への深い憎悪が刻まれていた。連合軍の将兵たちもまた、露鴈の死を悼み、明日への復讐を誓ったのであった。

衛国軍の本陣へと戻った志文は、右翼の戦況を聞き、張勇ちょうゆうの壮絶な戦死を知った。

志文は、その場で言葉を失った。張勇の死は、彼の心を再び、深い悲しみの淵へと突き落とした。

張勇は、志文にとって、単なる同僚ではなかった。

彼は、志文がまだ若輩であった頃から、常に志文を支え、その冷静な判断力と統率力で、志文軍の屋台骨を支えてきた存在であった。

志文は、天幕へと戻ると、静かに座り込み、張勇との日々を思い出した。

(張勇....お前は....なぜ....なぜ....自らの命を....)

志文は、張勇の静かな笑顔、そして、戦いの前に交わした、短い会話を思い出した。

「志文様、ご無理なさらず。我々が、必ずや、貴方様を護り抜きます」

張勇は、いつも、そう言って、志文を支えてくれた。彼の存在は、志文にとって、心の拠り所であり、武人としての成長を支える、大切な友であった。

志文は、自らの剣を握りしめ、静かに慟哭した。彼の慟哭は、戦場の静寂を打ち破り、周囲の将兵たちの心を揺さぶった。

「張勇....!張勇よ....!なぜ....なぜ....お前まで....!」

志文の涙は、止まることを知らなかった。彼は、張勇の死という、あまりにも大きな代償を、受け止めることができなかった。

周翼しゅうよく芳蘭ほうらんは、志文の慟哭を聞き、静かに涙を流した。彼らもまた、張勇の死という、悲劇的な現実に、深く打ちのめされていた。

「志文殿....張勇殿は....衛国のために....散ったのです....その死を....無駄にしてはなりません....」周翼は、静かに志文に語りかけた。

志文は、周翼の言葉に、静かに顔を上げた。彼の瞳は、涙で濡れていたが、その奥には、張勇の死を無駄にしないという、強い決意が宿っていた。

一方、野戦病舎の奥深くでは、葉旋ようせんが、沈穆しんぼくの遺体を前に、号泣していた。

沈穆の遺体は、血に塗れ、その胸には、孟武もうぶの薙刀が深く突き刺さった、壮絶な傷が残されていた。葉旋は、沈穆の遺体を抱きしめ、その冷たくなった頬に、自らの涙を落とした。

葉旋の号泣は、野戦病院全体に響き渡り、周囲の負傷兵たちの心を揺さぶった。彼らは、葉旋の深い悲しみを見て、沈穆の壮絶な戦死を、改めて痛感していた。

沈穆は、寡黙ながらも思慮深く、葉旋の軍において「静かなる盾」として、葉旋を支え続けてきた存在であった。彼の存在は、葉旋にとって、戦場での安寧であり、心の拠り所であった。

(穆ちゃん....あなたは....いつも....私のことを....護ってくれたのに....!)

葉旋は、沈穆の壮絶な戦死を、自らの責任だと感じていた。彼女が、もっと早く戦場を離脱していれば、沈穆は、死なずに済んだかもしれない。その後悔が、葉旋の心を深く抉っていた。

葉旋は、沈穆の遺体を前に、自らの不甲斐なさを深く反省した。彼女は、沈穆の死を無駄にしないために、明日への戦いを、勝利に導くことを決意した。

葉旋は、涙を拭い、沈穆の遺体に、最後の別れを告げた。彼女の瞳には、沈穆の忠義と覚悟を胸に、明日への戦いに立ち向かう、武人としての強い決意が宿っていた。

夜が深まり、衛国軍の本陣は、静寂に包まれていた。将兵たちは、それぞれの想いを胸に、軍舎で眠りについた。


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