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#1-43 終焉への道

時は、少し遡る。

汪盃が八千の精鋭を率いて飛砂関へ向け、決死の突撃を開始してから、およそ半刻後。

白狼山脈、右翼の本陣は、巨大な軍団の離脱によって、一時的な静寂に包まれていた。

しかし、その静寂は、迫り来る嵐の前の静けさであり、大地は二つの巨大な勢力の緊張によって、微かに震動していた。

衛国軍の残された兵力は、総大将荀厳じゅんげんのもと、寧武ねいぶ清流せいりゅうを擁する一万余騎。

彼らは、玄岳軍総大将厳冰げんひょう率いる二万余騎の黒波と、堅固な陣形で対峙していた。兵力差は、二対一。衛国側にとっては、絶望的な劣勢であることは明白であった。

衛国の本陣中央、荀厳は、剣を、まるで神殿の柱のように馬の鞍に立てかけ、不動の姿勢を保っていた。

彼の全身の鎧は、玄岳兵との激戦で深く抉られ、無数の血痕が、乾いた砂塵に覆われていたが、その表情には、一切の動揺が見られなかった。

彼の視線は、遠く、二万の精鋭の中心に立つ、銀色の鎧の男、厳冰ただ一点に集中していた。

それは、伯明の仇である厳冰を、この場で討ち取るという、生涯の宿願であった。

彼の内面には、過去の激戦で散っていった友たちの亡骸が、次々と蘇り、その全ての怨嗟と、武人としての業が、剣を振るう力へと変換されていた。

厳冰を前にして、彼の理性の全ては、憎悪と復讐心によって、焼き尽くされていた。

その傍らで、寧武と清流は、己の感情を、硬い鎧の中に閉じ込めていた。彼らの瞳は、時折、遠くの飛砂関の方角へと向けられる。

「寧武....汪盃将軍の突撃は、既に成功しているだろうか....」清流が、短く息を吐いた。

寧武は、その巨大な拳を握りしめ、長槍を握り直した。

「成功しているはずだ、清流。汪盃将軍の忠義は、冥禰の策など、遥かに凌駕する。しかし、俺たちが今すべきは、その成功を無駄にしないことだ。張江様の厳命は、この本陣を、荀厳殿と共に死守せよ、だ」

彼ら二人の心は、汪盃の背中を追いたいという衝動と、総大将張江から課せられた、「右翼本陣の維持」という重い責務との間で、激しく揺れ動いていた。

(もし、俺たちがここを離れれば、荀厳殿の隊だけで、この二万の猛攻を受け止めなければならない。衛国の未来は、汪盃将軍の犠牲だけでなく、俺たち一万の兵の堅牢さによって、繋がれるのだ)

彼らの不安の種は、冥禰の不在にもあった。

冥禰がこの本陣にいないということは、彼は飛砂関にいるということであり、汪盃と冥禰という、衛国と沙嵐国の二大巨星が、その関で激突していることを意味していた。

そして、彼らの対峙は、唐突に、そして激しい形で破られた。

二万の玄岳本軍が、まるで巨大な津波のように、一斉に、衛国軍めがけて押し寄せてきたのだ。それは、智謀に優れた厳冰らしからぬ、策の介在しない、純粋な「力と質量による圧殺」であった。

「殺せ!殺せ!衛国の残党どもを、質量で圧し潰せ!」

玄岳国兵たちの咆哮が、大地を揺らし、衛国軍の堅陣に、凄まじい轟音と共に激突した。衛国軍の最前線は、瞬く間に血の海と化し、凄惨な肉弾戦が繰り広げられた。

「構えろ!一歩も引くな!荀厳軍の誇りを、奴らに思い知らせろ!」

荀厳の怒号が、戦場に響き渡る。衛国兵たちは、数で圧倒されながらも、一人一人が、武人としての意地と、主君への忠義を炎に変え、玄岳兵に立ち向かった。

厳冰は、その猛攻を、馬上で静かに見つめていた。彼の表情は、冷徹そのものであったが、その瞳の奥には、深い苛立ちと違和感が渦巻いていた。

(この戦は、既に終結しているべきだ....)

彼の計算では、この連合軍戦は、右翼から飛砂関を攻め落とし、その勢いで中央軍が崩壊することで、短期決戦で決着しているはずだった。

彼の策は、常に敵の思考の一歩先を行き、勝利を確実なものとしてきた。

しかし、目の前の現実は、彼の緻密な計算を、根底から崩していた。

「飛砂関の旗が、なぜまだ上がらぬ....冥禰め、あの老いぼれを前にして、一体何を誤った....」

厳冰は、飛砂関の旗が、依然として衛国の色であることに、深い焦燥を覚えた。

彼の脳裏には、この戦で起こった、一連の「計算外の出来事」が、まるで走馬灯のように、次々と呼びおこされていった。

彼の違和感の正体。それは、衛国軍の兵力差を凌駕する、将たちの「忠義」と「非合理的な粘り強さ」に他ならなかった。

(全ては、馬淵の敗北から始まった)

厳冰は、自らの思考の中で、左翼の戦況を思い返した。

兵力で優位に立っていたはずの馬淵ばえん軍は、磐虎と志文・葉旋の巧妙な「罠」と「忠義」の前に、精神的にも兵力的にも疲弊し、最終的に壊滅した。

そして、その馬淵軍の崩壊に先立つ、衛国側による、意図的な業髄ぎょうずいへの奇襲。業髄は、馬淵の腹心であり、その死は、魏鉄山軍の中央の指揮系統に、決定的な空白を生んだ。業髄を討ち取った衛国の将の判断の正確さは、厳冰の予測を超えていた。

さらに、方陸ほうりくが、あまりにも簡単に討たれたこと。方陸は、守備に長けた将であったが、「罠」に、対応できなかった。

そして、極めつけは、伯志文はくしぶん。『双龍の番人』であり、『最後の番人』と称された伯明の息子。

厳冰は、伯志文との対峙を思い出した。あの若造は、父の仇の一人である厳冰を前にして、恐怖や憎悪に駆られることなく、ただ淡々と、自らの持ち場を離れず、戦を長引かせた。伯志文の戦い方は、父である伯明の「粘り」と「堅牢さ」を、そのまま受け継いでいるかのようであり、彼の存在は、衛国兵にとって、精神的な防波堤となっていた。

(将の質の逆転が、起こっている....)

厳冰は、自身の目を細め、戦場全体を見渡した。

兵数だけを見れば、依然として玄岳軍が有利である。しかし、将の質はそうもいかなかった。

連合軍は、馬淵、楽愁、呈威、業髄、方陸を失い、さらに飛砂関で冥禰が戦死した可能性高かった。

一方、衛国軍は、張江、荀厳、寧武、清流、そして伯志文。そして、死を賭して関へ向かった汪盃。衛国側の将たちは、伯明という偉大な師の教えを受け、忠義という、計算不能な強力な精神的支柱で結ばれている。

「衛国の将たちは、一人一人が、二、三の兵の役割を果たしている....そして、彼らの忠義という狂気が、我が軍の理性を蝕んでいる」

厳冰の策は、常に「理性」に基づいていた。しかし、衛国側の「忠義」と「執念」という感情は、理性の及ばぬ、極めて非合理的な領域で、厳冰の計算を狂わせていたのだ。

この非合理性こそが、この戦役を長引かせている、厳冰の最大の誤算であった。

厳冰が、自らの思考の深部に沈んでいる間にも、戦場では、衛国将たちの奮戦が、玄岳軍の将たちを次々と討ち取っていた。

荀厳軍の堅陣の最前線で、清流は、飛砂関への焦燥と、武人としての怒りを、剣の閃光に変えていた。

彼の相手は、厳冰の副将の一人、雪忠せっちゅうであった。

雪忠は、太刀を構え、清流をめがけて、まるで雪崩のような連続攻撃を仕掛けた。彼の剣術は、美しくも冷たい氷のようであり、正確無比な太刀筋で、清流の周囲の衛国兵たちを次々と討ち取っていた。

清流は、雪忠の剣の速度に、目を見張った

。雪忠の剣は、まるで雪の結晶のように、予測不能な軌道を描く。しかし、清流は、その美しさの中に、雪忠自身の体勢のわずかな隙を見出していた。雪忠は、常に攻撃を優先するため、防御が疎かになる瞬間があるのだ。

清流は、全身の神経を研ぎ澄まし、雪忠の太刀筋を、紙一重でかわし続けた。彼の剣は、雪忠の太刀を受け流した。

雪忠は、清流の防御の堅さに、わずかに焦燥を覚えた。彼の計算では、既に清流の剣は折れ、その体は地に伏しているはずであった。

雪忠の武にはキレがなくなっていた。

清流は、その好機を逃さなかった。彼は、敢えて雪忠の太刀を、自らの体勢を崩すような形で受け流し、その反動を利用して、一気に雪忠の懐へと飛び込んだ。

彼の動きは、まさしく、「剣の閃光」そのものであった。

「遅い!」

清流の剣は、雪忠の顔面を捉えた。雪忠は、その閃光に目を見開き、回避しようとしたが、清流の剣の速度は、彼の予測を遥かに上回っていた。

清流の剣は、雪忠の兜の隙間を深く貫いた。雪忠は、声にならない叫びを上げ、その場で絶命した。

彼の体は、馬から崩れ落ち、その銀色の鎧が、砂塵の中に血を吸い込んでいった。

清流は、剣についた血を払い、すぐに次の敵へと向かった。

清流が雪忠を討ち取った頃、その傍らでは、寧武の雄叫びが、戦場に轟いていた。

彼の相手は、雪忠配下の二人の猛将、昌鉄しょうてつ冬賢とうけんであった。

昌鉄は、巨大な戦斧を操る豪傑。冬賢は、連弩を操る射撃の名手であった。

二人は、連携して寧武を討ち取ろうと、猛攻を仕掛けていた。

「寧武!貴様の巨体など、我々の連携の前では、無力だ!」

昌鉄が、戦斧を振り上げ、寧武めがけて、まるで鉄塊のような一撃を叩き込んだ。その一撃は、大地を揺るがすほどの重さであった。

寧武は、その一撃を、愛用の長槍の柄で受け止めた。

ドォン!

衝撃音が、戦場全体に響き渡り、寧武の体は、わずかに揺れたが、その足は、大地に根を張ったかのように、微動だにしなかった。

「ふん!貴様の力など、まるで赤子同然だ!」

寧武は、その圧倒的な膂力で、昌鉄の戦斧を跳ね返すと、長槍を、昌鉄めがけて突き出した。昌鉄は、長槍の速度と、寧武の膂力に、驚愕の表情を浮かべた。

(馬鹿な....この一撃を、正面から受け止めただと....!この老いぼれの膂力は、まるで鉄壁か!)

昌鉄は、長槍の直撃を避けるため、身を翻したが、長槍の先端は、彼の肩の鎧を深く抉り、血飛沫が舞い上がった。

その隙を突いて、冬賢が、連弩の矢を、寧武めがけて一斉に放った。矢は、まるで雨のように寧武に降り注いだが、寧武は、動じることなく、長槍を回転させ、その矢のほとんどを弾き飛ばした。彼の長槍の回転は、まるで巨大な竜巻のようであり、矢は、その竜巻に触れると、無力化された。

「矢など、まるで意味をなさぬ!」

寧武は、長槍を再び構え、昌鉄と冬賢を同時に相手にするため、その視線を、鋭く二人に向けた。

(このままでは、俺の体力が先に尽きる。一気に、二人を仕留める必要がある!)

寧武は、一瞬の思考の後、狂気の突進を開始した。

彼は、足元に落ちている剣を数本、昌鉄と冬賢に向かって、蹴り上げた。

彼らは避けようとした。しかし、寧武が、避けた隙を狙って、仕留めようとしていることも読んでいた。

彼らは最小限の動きで、剣を交わしたはずだった。

しかし、剣は、昌鉄と冬賢の胸に深く刺さっていた。

「馬鹿な...槍で、剣の軌道を変えるなど....」

昌鉄と冬賢は、地に崩れ落ちた。

清流、寧武が、厳冰の副将たちを討ち取ったことで、玄岳軍は、指揮系統に大きな空白を生じた。

しかし、二万の黒波は、その損害を無視し、まるで無尽蔵のエネルギーで、衛国軍へと押し寄せてきた。総大将厳冰の「質量で圧し潰す」という単純な指示が、玄岳兵たちの戦意を、極限まで高めていたからだ。

荀厳は、本陣の中央で、剣を振り回し、玄岳軍の突入を食い止めていた。

「衛国の地に、一歩も足を踏み入れさせるな!」

荀厳の咆哮は、衛国兵たちの士気を鼓舞し、彼らは、その主君の背中を見て、死を恐れることなく、玄岳軍へと立ち向かっていった。

彼らの結束は、まるで鋼鉄の城壁のようであり、二万の猛攻を、奇跡的に食い止めていた。

しかし、兵力差は、あまりにも圧倒的であった。荀厳の周りの衛国兵は、まるで砂時計の砂のように、次々と命を落としていった。

(伯明様....)

荀厳は、剣を振るう中で、亡き友の名を、心の中で呟いた。彼の武功は、伯明への忠義に支えられていた。

彼の脳裏には、厳冰の姿が、伯明の亡骸を前に、冷酷な笑みを浮かべていた、あの憎悪の光景が焼き付いていた。

「厳冰!貴様の命は、この荀厳が、必ず討ち取る!」

荀厳の剣は、憎悪と執念の塊であり、玄岳軍の堅陣を、わずかながらも、内側から破壊していった。彼の存在そのものが、衛国軍の「最後の砦」となっていた。

厳冰は、その壮絶な光景を、馬上で見つめていた。

雪忠、昌鉄、冬賢を失ったことは、彼の冷徹な心に、「焦燥」という、最も嫌う感情を芽生えさせていた。

「雪忠まで討たれたか....衛国軍の将の質は、予想以上だ。このままでは、兵力を消耗するばかりで、決着がつかぬ」

厳冰の思考は、再び飛砂関の不確実性へと戻った。

(冥禰の報告がない。指揮を執れない状況に陥っている可能性が高いか....)

厳冰は、自らの薙刀の柄に手をかけた。

彼は、この戦の勝利の鍵は、もはや策ではなく、「将の命の重さ」にあると悟った。

衛国側の将たちは、命を惜しまず、次々と敵将を討ち取っている。ならば、彼らを凌駕する「命の重さ」を、自らが示すしかない。

「これ以上、我が軍の将を失うわけにはいかない。そして、荀厳という最大の障害を、ここで排除しなければ、衛国の希望を、打ち砕くことはできぬ」

厳冰は、自らの冷徹な心を、武人としての本能に預けた。

「荀厳を討つ。数騎来い」

厳冰は、自らの陣営を離れ、荀厳の堅陣をめがけて、静かに、しかし、圧倒的な殺意をもって突入していった。

玄岳国兵たちは、総大将自らの出陣に、狂喜した。

彼らは、厳冰の背中を追うことで、自らの忠誠と勇気を証明しようと、一斉に荀厳の堅陣をめがけて、殺到した。

「総大将....厳冰が....乱戦に入ってきたぞ!」

寧武は、その場で長槍を大地に突き立て、全身を震わせた。清流もまた、雪忠を討ち取ったばかりの疲労を無視し、荀厳を護ろうと、馬を駆った。

荀厳は、その瞳を、厳冰の冷徹な瞳と合わせた。

(厳冰....貴様を、ここで討ち取る。それが、私の生涯の最後の責務だ)

厳冰は、乱戦に身を投じた。

その瞬間に、玄岳国軍の士気は、底知れぬ熔岩(まぐま)のように、地表を割り、爆発した。

二万の兵たちは、自らの総大将が、策という名の皮衣を脱ぎ捨て、血と砂塵に塗れることを選んだ事実に狂乱した。

彼らにとって、それは、自らもまた命を賭けることを意味していた。

厳冰の薙刀は、冷徹な知略の裏に隠されていた、猛き武の業そのものだった。

彼が、衛国軍の堅陣へと切り込む様は、静かであったが、その威力は、凄まじいものであった。

一振りごとに、衛国兵の血飛沫が舞い上がり、彼の銀色の鎧に、新たな赤色の模様を描いていった。彼の薙刀の軌道は、精密で無駄がないにもかかわらず、そこに込められた力は、獰猛な獣のそれだった。

衛国兵たちは、その圧倒的な武の前に、一瞬、足を止めた。

彼らは、厳冰という男を、常に陣の後方で策を巡らせる「智将」として認識していた。しかし、目の前の厳冰は、紛れもなく、彼らの持つあらゆる猛将の概念を上回る、「破壊者」であった。

「玄岳四堅」——その堅守の代名詞は、彼の薙刀の前に、音を立てて崩れた。

彼がもし、堅守の重い鎧をまとっていなければ、その名は、既に西域の地で、猛将の烙印を押されていたはずだった。

しかし、彼は、智将としての地位を選び、自らの武を、理性の鎖に繋ぎ止めていた。しかし、その鎖から、厳冰は解き放たれたのであった。

厳冰の武は、ただの武ではなかった。それは、「知略を極めた者が、自らの身体という名の道具で、効率的に命を刈り取る行為」であった。衛国兵の動きの予測、防御の癖、互いの動きの隙。全てを見抜き、最も効果的な一撃を、最小限の動きで、確実に叩き込む。それは、完璧なる殺戮の美学であった。

彼の周りには、瞬く間に、巨大な空白地帯が形成された。その空白は、衛国兵たちの死と、彼らの流した血によって築かれていた。

荀厳は、その光景を、本陣の中央で無言で見つめていた。彼の全身は、既に疲労の極致にあったが、その視線は、憎悪と無力感に彩られていた。

(厳冰....貴様は、その武を、なぜ今まで隠していた.......いや、貴様にとって、武は、知の奴隷でしかなかったということか....)

寧武と清流は、その厳冰の前に、今、立ちはだかろうとしていた。

寧武と清流は、厳冰の猛攻の前に、敢えて馬を躍らせた。

彼らは、総大将荀厳を護るという、「忠義の重さ」を、自らの命に背負っていた。

飛砂関へ向かうという衝動は、既に理性によって抑え込まれていた。今、彼らに残されたのは、厳冰を討ち、後続の兵たちに活路を開くことだった。

「清流!互いの動きを合わせろ!奴には、個の武ではかなわぬ。だが、我々が力を合わせれば、必ず、隙が生じるはずだ!」寧武が、荒い息を吐きながら、長槍を構えた。

「わかっている、寧武。奴を討つぞ!」

清流の薙刀は、既に血で濡れていたが、その瞳は、覚悟の炎で燃えていた。

二人は、左右から厳冰めがけて突っ込んだ。

寧武の長槍は、大地を揺るがす轟音と共に、厳冰の防御を崩そうと、その全身めがけて叩き込まれた。清流の薙刀は、その長槍の隙間を縫うように、厳冰の首筋を狙った。

厳冰は、その動きを見て、一瞬、興味を示すかのように、口元をわずかに歪ませた。

(忠義、か....貴様らの命を、自らの希望の鎖に繋ぎ止める、愚かな美学だ)

厳冰の動きは、人間業ではなかった。

彼は、まず、寧武の長槍の軌道を、一歩の体勢移動だけで、完全に受け流した。その槍の威力を、自らの体を回転させることで、完全に相殺したのだ。

そして、その反動を利用し、清流の薙刀めがけて、自らの薙刀を、稲妻のような速度で突き出した。清流は、その速度に、目を見開き、回避しようとしたが、厳冰の薙刀は、清流の薙刀を、紙一重でかわし、その腹部に深く突き刺さった。

「ぐっ....!」清流は、声にならない呻き声を上げた。彼の体は、その場で硬直した。

寧武は、清流の悲鳴を聞き、怒りに駆られた。彼は、長槍を厳冰めがけて叩き込んだ。

「厳冰!貴様だけは....!」

しかし、厳冰は、清流の腹部に突き刺さった薙刀を、支点として利用し、清流もろとも、寧武めがけて投げ飛ばした。

清流の体は、血飛沫を上げながら、寧武の巨体に激突した。寧武は、その衝撃で、一瞬、体勢を崩した。

その一瞬。僅か、呼吸一つ分の隙。

厳冰は、清流から薙刀を引き抜き、その体勢を崩した寧武めがけて、再び薙刀を突き出した。

厳冰の薙刀は、寧武の心臓を、正確に貫いた。寧武の巨体は、その場で硬直し、その瞳は、遠く飛砂関の方角を、最後の希望として見つめたまま、絶命した。

二人は、寄り添うように、大地へと崩れ落ちた。

彼らの死は、荀厳軍の士気を、一気に奈落の底へと突き落とした。

荀厳は、自らの剣を、まるで自らの命を振り絞るかのように、玄岳兵めがけて振るった。彼の剣は、既に重く、その一撃一撃には、武人としての限界が刻まれていた。

厳冰は、寧武と清流を討ち取った後、すぐに本陣の指揮へと戻ろうとはしなかった。彼は、自らの武を、再び兵たちに見せつけることで、衛国兵たちの抵抗の心を、完全に打ち砕こうとしていた。

しかし、荀厳は、厳冰の意図を正確に読み取っていた。

(厳冰は、今、自らの武に酔い、指揮を疎かにしている。しかし、その背後には、参謀・寒策かんさくがいる。あの男こそが、この乱戦を統率し、我が軍を殲滅しようとしている、知略の根源だ)

荀厳は、厳冰を討つことは、もはや不可能であることを悟っていた。厳冰の周りには、精鋭が、鉄壁の守りを築いていた。

参謀・寒策。彼は、厳冰の知略を補完する、冷酷な戦場指揮官であった。寒策を討てば、厳冰は、戦場を統率する知の柱を失い、再び自ら指揮を執らざるを得なくなる。それは、この乱戦における、玄岳軍の勢いを削ぐ、最大の成果となる。

林堅りんけん....」荀厳は、傍らに控える、古参の将に、最後の命令を下した。

「私は、参謀・寒策を討つ。援護を頼む」

林堅は、既に満身創痍であったが、その瞳には、武人としての覚悟が宿っていた。

言葉は、もはや必要なかった。彼らの間に流れるのは、伯明への忠義という名の、血よりも濃い絆であった。

「行くぞ!」

荀厳は、林堅と共に、玄岳兵の最も分厚い壁をめがけて、狂気の突進を開始した。その突進は、既に死を前提とした、非合理的な暴力であった。

荀厳の突進は、凄まじかった。彼の一撃は、玄岳兵の鎧を、まるで紙くずのように粉砕した。

しかし、玄岳兵たちは、すぐにその空白を埋めた。彼らは、荀厳を討ち取れば、この右翼が崩壊することを理解していた。

「荀厳を討て!あの老いぼれを、生かして返すな!」

無数の刃が、荀厳めがけて降り注いだ。

荀厳は、その全てを、避けることも、防御することも、しなかった。彼は、ただひたすらに、馬を駆った。

彼の鎧は、瞬く間に、無数の刃によって貫かれた。矢は、彼の肩、背中、足に深く突き刺さり、剣は、彼の脇腹を抉った。彼は、全身から、血の雨を降らせながら、しかし、その足は、一歩も止まることはなかった。彼の武人としての業が、その肉体を、無理矢理に突き動かしていたのだ。

「寒策は、そこだ!」

林堅は、荀厳の前に立ち塞がり、玄岳兵の最後の一団めがけて、自らの体ごと突っ込んだ。彼は、数騎の玄岳兵を、道連れにするように、その場で絶命した。

林堅の戦死。それは、荀厳が、寒策へと到達するための、最後の道標となった。

荀厳は、林堅の亡骸を乗り越え、ついに寒策のいる場所へと辿り着いた。

寒策は、乱戦の指揮を執っていたが、荀厳の狂気の突進と、その全身に突き刺さった無数の刃を見て、一瞬、恐怖に固まった。

「馬鹿な....あの傷で、なぜ....!」

寒策は、剣を抜こうとしたが、その動きは間に合わなかった。

ゴォン!

荀厳の剣は、寒策の心臓を、容赦なく貫いた。寒策は、声にならない悲鳴を上げ、その場で絶命した。

寒策を討った後、荀厳は、その場で、血の海の中に立ち尽くした。彼の体は、既に、無数の刃と、自らの血によって、巨大な鉄の塊と化していた。

荀厳は、その場で、厳冰のいる場所へと、視線を向けた。厳冰は、寒策が討たれたことに気づき、一瞬、動きを止めていた。

「厳冰......」

荀厳は、最後の死力を尽くし、厳冰めがけて、馬を駆ろうとした。しかし、その動きは、既に限界を超えていた。

厳冰の周りを固めていた、数百の玄岳国兵が、一斉に、荀厳めがけて剣を突き出した。

ドスッ!ドスッ!ドスッ!

無数の刃が、既に致命傷を負っていた荀厳の体を、さらに深く貫いた。

荀厳は、声を発することなく、その場で地に伏した。

荀厳の死は衛国右翼の終焉を、静かに告げていた。

厳冰は、荀厳が討たれたことを確認すると、すぐに自らの武を収め、再び冷徹な知略の仮面を被った。

(荀厳軍は、殲滅した。しかし....)

厳冰の視線は、周囲に散乱する玄岳国兵の亡骸に向けられた。荀厳軍一万余騎を殲滅するために、彼らは、同数以上の代償を支払っていた。

厳冰軍は、この戦いで、兵数を一万まで減らしていた。

「中央へ行く」

厳冰の判断は、冷静であった。

残された一万の兵力で、飛砂関を攻略することは不可能だと考えた。飛砂関は士気が高く、なにより、魏鉄山がいる中央が苦戦していると読んだからだ。

厳冰は、自らの兵を整え、中央の戦場へと馬を駆った。

中央へ移動する厳冰のもとに、一騎の伝令兵が、砂塵を巻き上げながら、駆け込んできた。それは、飛砂関からの伝令であった。

「冥禰様からの伝令でございます!」

厳冰は、馬を止め、伝令兵の報告を静かに聞いた。伝令兵の顔色は、蒼白であり、その報告は、厳冰の予想を遥かに超えるものであった。

「冥禰様は....汪盃将軍との激戦の末、重傷を負われました。指揮を執ることが不可能となり、また、冥禰様の状態は一刻を争うため、沙嵐国へ帰還いたします。故に、沙嵐国は、これ以上の連合軍戦への参加は....不可能であると....」

その報告を聞いた瞬間、厳冰の配下の将、氷虎ひょうこ雪忍せつにんは、怒りに震えた。

「沙嵐国め!この期に及んで、裏切るか!冥禰殿の重傷など、言い訳に過ぎぬ!我々が、どれほどの犠牲を払ったと思っている!」氷虎が、憤怒の声を上げた。

「厳冰様!沙嵐国軍を呼び戻すべきです!彼らの兵力は、まだ残っているはず!」雪忍もまた、厳冰に迫った。

しかし、厳冰は、ただ静かに、頷いた。

「わかった。冥禰殿の忠義に、偽りはない。彼が重傷を負ったというならば、それは、汪盃の忠義が、冥禰殿の知略を上回ったということだ」

厳冰は、沙嵐国の離脱を、「計算外の必然」として、受け入れた。

彼の知略は、既に、「忠義」という非合理的な力に、何度も敗北していた。冥禰の離脱は、その非合理性の、最終的な証明であった。

(沙嵐国が離脱したことで、この戦役は、玄岳国・魯国と衛国の決戦となった。もはや、他の変数は存在しない)

厳冰は、自らの薙刀を握り直すと、中央の戦場めがけて、再び馬を駆った。

厳冰が、中央の戦場に辿り着いたのは、既に夜であり、両軍は、それぞれの本陣に帰還し、一時的な静寂に包まれていた。闇の中、魏鉄山軍の本陣の巨大な篝火が、厳冰の到着を、静かに照らしていた。

厳冰は、総大将魏鉄山ぎてつざんの本陣へと向かった。

魏鉄山の本陣は、闇の中でも、巨大な威容を誇っていた。しかし、厳冰は、その威容の中に、新たな違和感を覚えていた。

(魏鉄山軍は、まだ、五万近くの兵力を有していたはずだ。それほどの兵力をもって、なぜ、張江という一人の将を、突破できなかった....?)

張江は、確かに智勇兼備の名将であった。しかし、圧倒的な兵力差があったにもかかわらず、戦役を長引かせている事実は、厳冰をもってしても理解できなかった。

魏鉄山の本陣の幕舎に入ると、そこには、巨大な体躯の魏鉄山と、その腹心である『魏五虎』が、静かに控えていた。彼らの顔は、疲労の色を隠せなかったが、その瞳には、武人としての誇りが宿っていた。

「厳冰殿!よく戻った。右翼の終結、まことにご苦労であった」魏鉄山が、厳冰を迎え入れた。

厳冰は、座ることもせず、魏鉄山に、単刀直入に尋ねた。

「魏鉄山。単刀直入に聞く。貴軍の兵数は、今、どれほどか」

魏鉄山は、一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐに答えた。

「厳冰殿の言われる通り、予想以上の損害が出た。張江の粘りと、衛国将の意地が、凄まじかった....兵数は、三万に減じた」

厳冰は、その言葉を聞き、わずかに目を見開いた。五万近くから、三万へ。一日で、二万近い兵力を失ったのだ。その事実は、衛国軍の粘りが、彼の想像を遥かに超えていることを示していた。

厳冰は、さらに尋ねた。

「衛国軍の損耗は、どれほどか」

魏鉄山は、重い口を開いた。「衛国軍は、総大将張江のもと、将は、磐虎ばんこ志文しぶん葉旋ようせん周翼しゅうよくの五将だけとなった。そして、兵数も、一万まで減らした」

厳冰は、その報告を聞き、心の中で、「矛盾」を感じていた。

(魏鉄山軍は、三万。衛国軍は、一万。なぜ、魏鉄山軍は、張江を突破できていない....?)

その違和感の正体は、依然として、「衛国の将の質」にあった。

張江、磐虎、志文、葉旋、周翼。彼らは、衛国の最後の希望であった。彼らの粘りと忠義が、魏鉄山軍の三万の兵力を、足止めしていたのだ。

しかし、その違和感と同時に、厳冰の心に、微かな希望の光が差し込んだ。

「魏鉄山殿。『魏五虎』は、全員健在か」

「うむ。全員健在だ。彼らは、明日も、衛国軍の堅陣を打ち破るために、命を賭けるであろう」

厳冰は、その言葉に、静かに頷いた。

(魏五虎が健在....。ならば、飛砂関を落とす可能性は、まだ残されている)

冥禰が離脱し、沙嵐国が戦役から手を引いた今、飛砂関を落とすには、魏鉄山軍の「武の象徴」である魏五虎の力が必要不可欠であった。

彼らが健在であれば、中央の戦場を維持し、飛砂関へと、新たな攻撃部隊を派遣する余地が生まれる。

厳冰の冷徹な知略は、再び動き始めた。

彼の心の中には、荀厳の死も、冥禰の離脱も、既に過去の変数となっていた。彼の脳裏には、「いかにして、この一万の衛国軍を、最小の損耗で殲滅し、飛砂関を落とすか」という、ただ一つの目的だけが、刻まれていた。

厳冰は、宵闇の中で、静かに、新たな計算を始めていた。


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