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#1-42 散華

飛砂関の城壁から、厳冰の副将である岳鋼らが撤退していく光景を、汪盃は、静かに見つめていた。

彼の体には、既に致命傷であろう無数の刃の痕があり、全身の鎧は、玄岳兵と衛国兵、そして彼自身の血で、深い赤黒い色に変色していた。

馬の蹄の下に広がるのは、彼が率いた八千の精鋭の、無数の亡骸であった。

「見たか....魏明....悌需....雲暁....」

汪盃は、その場に散った愛する配下の将たちの名を、乾いた唇で呟いた。

彼の声は、既に戦場の喧騒にかき消されるほどにか細いものであったが、その瞳に宿る光は、未だ衰えていなかった。

(城壁は、落ちていない....朱威殿と関泰が、我が命を賭した突撃を、無駄にはしなかった....)

この瞬間、汪盃は、生涯で最も深い「誇り」を感じていた。その誇りは、肉体の痛みや、死の恐怖を、遥かに凌駕するものであった。

しかし、その誇りと引き換えに、彼に残された兵は、千騎あまり。

八千の精鋭は、冥禰の冷徹な知略と堅陣の前に、その九割近くを散らしていた。

そして、汪盃自身も、既に肉体の限界を遥かに超え、彼の巨体を支えているのは、もはや「忠義」という名の、最後の気力だけであった。

彼は知っていた。

この突撃を開始した時点で、撤退の退路は、もはや存在しないことを。そして、自身が、この日没を見ることなく、死を迎えるであろうことを。

死の予感は、彼に恐怖を与えるどころか、清々しいほどの安堵をもたらした。

長く、過酷であった武人としての生涯を、愛する衛国のために、最も意味のある形で終えることができる。

彼は、静かに目を閉じ、そして再び開いた。その瞳は、覚悟を定めた武人の、澄み切った光を宿していた。戦い続けること。それが、彼に残された、最後の忠義であった。

汪盃の周囲は、玄岳兵の遺体で埋め尽くされていたが、その背後に広がる冥禰の陣営は、その傷跡を隠すかのように、再び静謐を取り戻しつつあった。

冥禰軍の迎撃部隊は、途紀、雨宣、量映という三将を失い、さらに汪盃の激しい突進によって、兵力を三千騎まで減らしていた。これは、冥禰にとって、大きな誤算であり、予想外の損耗であった。彼の冷徹な策は、汪盃の忠義という、計算不能な激情によって、大きく狂わされていた。

しかし、冥禰は、その悔恨を表情に出すことなく、ただ静かに、飛砂関攻めに割いていた兵力の合流を待っていた。

やがて、遠くの城壁から、新たな砂塵が舞い上がった。朱威と関泰によって城壁上から押し返され、攻城を諦めた二千の兵が、続々と冥禰の本陣へと戻りつつあったのだ。

「二千の精鋭が、戻りつつあるか....」

冥禰は、合流する兵の数を数え、静かに頷いた。

迎撃で疲弊し、指揮系統が乱れかかった三千の兵に、関攻めから戻った二千の兵が加わる。その総数は五千。一方、汪盃の残る兵は、満身創痍の千騎あまり。

この兵力比は、まるで巨大な荒波に立ち向かう一艘の小舟のようであった。

五倍の兵力差は、もはや武力衝突ではなく、一方的な掃討戦の始まりを意味していた。

汪盃の忠義が、どれほど凄絶な輝きを放とうとも、この数字の前では、生還は完全に絶望的であった。

(冥禰よ....貴様の策は、私を討ち取り、衛国を滅亡へと導く。しかし、貴様もまた、この戦いで、大切なものを失ったのだ。貴様の冷徹な心に、わずかでも、衛国の忠義という火種を植え付けてやった。それが、私の最後の武功だ)

汪盃は、眼前の冥禰の姿を捉えた。

彼が立っているのは、鉄壁の堅陣の後方、最も安全な場所であった。武人として、冥禰のその立ち位置は、卑怯極まりないものであったが、策士としては、これ以上ないほどに合理的であった。

汪盃は、剣を抜き、残された千騎の精鋭に、最後の、そして最も重い命令を下した。

「衛国の勇士たちよ。我々に、退路はない。生きて帰ることも、もはや叶わぬであろう。しかし、我らの死は、決して無駄ではない!城壁は、我々の命と引き換えに、護られた!衛国の未来は、繋がったのだ!」

汪盃の声は、深く、戦場に響き渡った。

「我々が今から果たすのは、我らの矜持を、忠義を、そして誇りを、この地に轟かせることだ!冥禰を討ち、この関での戦いを終わらせる!」

汪盃は、そこで言葉を区切った。

「皆、疲れたであろう。しばし瞳を閉じよ」

千騎の兵は、皆、その瞳を閉じた。

冥禰は、殲滅の命令を下さなかった。彼もまた、静かにその瞳を閉じていた。

「冥禰様!なぜ突撃しないのですか!」そばにいる兵の一人が言った。

「貴様には、なにもわかっておらぬ。武人としての誇りとは何か、生き様を刻むとは何かをな」 加蛇沙が静かに言った。

「汪盃は死ぬ。それは変わらぬ。だが、死の覚悟を踏みにじる行為は、恥じるべきだ」卓選が冷徹に言った。卓選は、悌需との戦いで、武人の矜持を垣間見ていた。

冥禰は、ゆっくりと目をあけた。

「今、突撃すれば、容易く討てるであろう。ゆえに、そなたの言う通り、今を逃すは愚策。だが、俺は、感情や忠義などという理性の邪魔でしかないものを、今、初めて、羨ましいと思った。ゆえに、これは、我欲だ、許せ」

「目をあけよ」汪盃は、静かに言った。

「皆の(まなこ)には何が映った?私は、父に会ってきた。父は男手一つで私を育ててくれた。父は寡黙で厳しい人だった。そんな、父が笑っていた。「お前を誇りに思う」と言ってくれた!だから、あえて口にしよう!私は、そなたたちを誇りに思う。共に歩めて幸せだった。最後まで、共に歩んでくれるか?」

千騎の兵は、その主君の言葉に、一人の例外もなく、目を見開き、そして深く頷いた。

彼らの瞳には、恐怖ではなく、武人として、主君と共に死ねるという、静かな、純粋な喜びが宿っていた。

「もちろんです!汪盃将軍と共に!」

「衛国の未来に、我らの魂を捧げん!」

彼らの咆哮は、冥禰の陣営に、地響きとなって響き渡った。

千騎の兵の魂が、一つに溶け合い、死を賭した最後の突進が始まろうとしていた。

「友に()くぞ!」

汪盃は、先鋒に立って、愛馬を駆った。

その姿は、既に満身創痍でありながら、かつての「荒鷲」と呼ばれた勇猛さを取り戻していた。彼の剣が、冥禰の堅陣の最前線に、火花を散らした。

冥禰は、汪盃の最後の突進を、冷徹に見つめていた。

「止めよ。一歩たりとも進ませるな。最後の意地だ。加蛇沙、卓選。そなたらの出番だ。奴らを、討ち取れ」

二将は、冥禰の命を受け、堅陣の兵を割って、汪盃の前に立ちはだかった。彼らの武功をもってすれば、既に気力だけで立っている汪盃など、赤子の手をひねるようなものであった。

「汪盃よ!冥禰様のご慈悲だ!この加蛇沙の棍棒の贄となれ!貴様の忠義は、ここで潰えるのだ!」

加蛇沙は、棍棒を地面に打ち付け、地を鳴らした。その轟音は、千騎の兵の進軍を、わずかに躊躇させた。

「汪盃。無駄な抵抗はやめろ」

卓選は、剣を構え、汪盃の動きの隙を探っていた。

汪盃は、二人の猛将を前に、わずかに微笑んだ。

(二人がかりで来るか....冥禰よ。私一人の命に、二人の将を割くとは....光栄なことだ)

ドォン!

加蛇沙の棍棒が、汪盃めがけて振り下ろされた。その衝撃は、大地を揺らし、砂塵を巻き上げた。

汪盃は、棍棒の直撃を、わずかに傾いた馬の体勢と、自らの剣で受け流した。棍棒が地面に叩きつけられ、加蛇沙の体勢が、一瞬だけ不安定になった。

「今だ!」

汪盃は、その一瞬の隙を逃さず、剣を逆手に持ち、加蛇沙の巨体の懐へと潜り込んだ。彼の動きは、老齢を感じさせない、驚くほどの速さであった。

「なっ....速い!」

加蛇沙は、自分の体勢が崩れていることに焦り、棍棒を振り上げようとしたが、その動きは間に合わなかった。

ザシュッ!

汪盃の剣は、加蛇沙の脇腹の鎧の継ぎ目を深く捉えた。その剣は、既に幾多の血を吸い、重く、鈍い輝きを放っていたが、汪盃の執念が、その刃に最後の鋭さを与えていた。

加蛇沙は、激痛に呻き声を上げ、その巨体を大きく傾けた。

「ぐぅ....この....死にぞこないが....!」

彼は、激怒の咆哮と共に、棍棒を汪盃へと振り回した。しかし、その一撃は、既に冷静さを欠いており、汪盃は、身を屈めてその攻撃を躱した。

その瞬間、汪盃の背後から、神速の剣が迫った。卓選の剣であった。

「脇が甘いぞ!」

卓選の剣は、汪盃の背中の鎧のわずかな隙間を正確に捉え、深く突き刺さった。

「ぐっ....!」

汪盃は、口から血を噴き出し、その場で大きくよろめいた。

彼の体は、既に限界を超え、この一撃で、地に伏すはずであった。

しかし、汪盃の忠義は、彼の肉体をも凌駕した。

汪盃は、その背中に刺さった剣の激痛を無視し、自らの背中を利用して、卓選の剣を固定した。

「逃がすか!若造!」

汪盃は、加蛇沙の巨体を馬で押し込み、その体勢をさらに崩すと、剣を一閃させた。剣は、加蛇沙の喉元の防御の薄い部分を深く捉えた。

ゴボッ....

加蛇沙は、言葉にならない音を上げ、彼の巨体は、馬から崩れ落ちた。

卓選は、自身の剣が汪盃の背中に刺さったまま、加蛇沙が倒れたのを見て、戦慄した。

(あり得ない....背中に剣を刺されながら....しかも、あの加蛇沙を討ち取っただと....!この老いぼれは....人間ではない!)

卓選は、背中に刺さった剣を引き抜き、汪盃から距離を取ろうとした。

「逃がさぬ!」

汪盃は、背中の傷の激痛を無視し、卓選の動きを予測して、馬の体勢を急旋回させた。その動きは、卓選の予測を遥かに上回るものであった。

卓選は、その場で身軽な動きで回避しようとしたが、汪盃の剣は、既に彼の喉元に迫っていた。

シャキン!

剣閃が一閃し、卓選の喉元を深く捉えた。卓選は、静かに地に崩れ落ちた。

二将を討ち取った汪盃は、すでに死に体であった。背中から流れ出る血と、全身の激痛は、彼の意識を何度も奪おうとした。

しかし、彼の視線は、、遠くの堅陣の後方に立つ、冥禰へと向けられていた。

冥禰は、加蛇沙と卓選が討ち取られたのを見て、一瞬、顔色を変えた。彼の冷徹な策が、再び、汪盃の忠義によって狂わされたのだ。

「馬鹿な......加蛇沙...卓選...!」

冥禰は、信じられないという表情で、汪盃の姿を見つめた。彼の心に、初めて、恐怖という感情が芽生えた。

(このままでは、奴が本陣に突っ込んでくる....!)

冥禰は、周囲の兵に、さらに堅陣を厚くするように命じた。

その時、汪盃は、最後の力を振り絞り、剣を握りしめた。彼の周りには、残された千騎の兵が、冥禰の堅陣に突入し、血と肉の塊となって、次々と倒れていくのが見えた。

「友よ....あとは....私に任せよ....」

彼は、愛用の剣を、血と砂塵で汚れた右手で、渾身の力を込めて、握りしめた。その剣は、もはや武器としての役割を終えようとしていた。

(冥禰よ....貴様の息の根を....ここで、止める!)

汪盃は、全ての力を、その右手に集中させた。

彼の体内から、最後に残った「忠義」という名の炎が、彼の剣へと流れ込んだ。

「衛国の....未来に....!」

彼は、渾身の力を込めて、遠くの冥禰めがけて、愛用の剣を放った。

それは、武人としての最後の魂の叫びであった。

剣は、空気を切り裂き、冥禰の堅陣の兵たちの頭上を、唸りを上げて飛んでいった。

兵たちは、その剣の速度と、汪盃の狂気にも似た闘気に、一瞬、身を竦ませた。

冥禰は、頭上を飛んでくる剣を、目を見開いて見つめた。その剣は、彼の予想を遥かに超える速度と正確さで、彼めがけて飛んできた。

「ぐっ....!」

剣は、冥禰が身を躱す間もなく、彼の心臓近くの鎧を貫いた。

その衝撃は、冥禰の全身を駆け抜け、彼はその場で、膝をついた。

(馬鹿な.....)

冥禰の口から、血が溢れ出した。

彼の冷徹な顔に、初めて、死への恐怖と、そして汪盃の忠義への畏怖の念が浮かび上がった。

汪盃は、剣を投げ終えた瞬間、全身の力が抜け落ちるのを感じた。

彼の忠義は、最後の力を使い果たした。

冥禰の堅陣の兵たちは、将である冥禰が倒れたのを見て、一瞬、動揺したが、すぐに我に返り、最後の力を振り絞った汪盃めがけて、一斉に刃を向けた。

「汪盃を討て!」

無数の刃が、汪盃の巨体を容赦なく貫いた。

彼は、痛みを感じる間もなく、静かに目を閉じた。

彼の脳裏には、亡き主君、伯明の笑顔と、愛する衛国の平和な風景が浮かんでいた。

(父上...伯明様....私は、立派でしたか....?)

汪盃は、討ち取った冥禰の生死を知ることなく、無数の刃に貫かれ、愛馬から崩れ落ちた。

彼の体は、砂塵の中に横たわり、その忠義の炎は、静かに、しかし、衛国の未来への希望を残して散っていった。

飛砂関の城壁上では、満身創痍の朱威と関泰が、平原での戦いの推移を見つめていた。

「朱威殿....汪盃将軍が....」関泰は、声が震えるのを抑えられなかった。

朱威は、その場で静かに立ち尽くし、遠くの平原で、無数の刃に貫かれて倒れた汪盃の姿を、目に焼き付けていた。

彼の心は、友であり、忠義の士であった汪盃の死を、深く悼んでいた。

「わかっておる....我らが見捨てたのだ....背負うべき業がまた一つ増えた.....汪盃殿の忠義は、衛国の未来を繋いだ。彼の死を、無駄にしてはならない」朱威は、かすれた声で言った。

朱威の視線は、倒れた汪盃の亡骸の向こうに、膝をつき、兵に囲まれている冥禰の姿を捉えていた。剣が心臓近くに刺さっていることは、遠目にも見て取れた。

「関泰。冥禰は瀕死だ。そして、岳鋼らは、城壁攻めを諦め、冥禰の増援に回った兵を率いて、今まさに撤退を始めようとしている」

「岳鋼を討ち、冥禰の息の根を止めよ」

「関泰。この関に残された最後の兵、五千を率いよ。城門を開け。岳鋼を討ち、その後、冥禰を討て。彼らを討ち取れば、この戦は優位に立てる!」

関泰は、全身の疲労と、右手の激痛に耐えながら、朱威の命令を、深く受け止めた。

朱威の顔は、既に死人のように蒼白であり、彼自身、最早、剣を振るうことさえできない状態であった。

「御意!関泰、命に代えても遂行いたします!」

関泰は、残された精鋭の兵たちを集めた。

彼らは、疲弊していたが、朱威と関泰の壮絶な戦いと、汪盃の忠義の散華を見たことで、その士気は、極限まで高まっていた。

「全軍!城門を開け!我々の忠義を、冥禰とその配下に思い知らせるのだ!」

関泰は、そう叫ぶと、先頭に立って、関門から出撃していった。

飛砂関の巨大な城門が、重々しい音を立てて開いた。

その音は、衛国軍の反撃の狼煙であり、冥禰・岳鋼軍への死の宣告であった。

関泰は、五千の兵を率い、撤退する敵軍へと突進した。

彼の視線は、遠くの平原で、冥禰の堅陣から離脱し、撤退を始めようとする岳鋼らの姿を捉えていた。

岳鋼は、山磊と岩風を失い、さらに冥禰が瀕死の重傷を負ったことで、既に戦意の限界を超えていた。

彼の頭の中には、厳冰への報告の重圧と、この戦いの失敗による、恐ろしい結果の予想しかなかった。

(失敗だ....このままでは、全てが終わる。冥禰を連れ帰らねば....厳冰様に....顔向けができぬ....!)

「急げ!これ以上の消耗は無駄だ!冥禰を連れて、一刻も早く、ここを離れるのだ!」岳鋼は、配下に撤退を急がせた。その命令は、焦燥とかすかな恐怖に満ちていた。

しかし、その撤退の道は、容易ではなかった。

彼らの退路を、汪盃軍の残党、数百騎が、自らの体で塞いでいたのだ。

彼らは、既に指揮官を失い、武器も尽きかけていたが、それでも、彼らは、立っていた。

汪盃軍の誇りを、そして最後の忠義を示すためであった。

「ここからは通さぬ!」

汪盃軍の残党は、無数の刃に貫かれながらも、一歩も退かず、撤退を妨害し続けた。彼らの亡骸は、撤退の道を塞ぎ、彼らの進軍を、わずかながら、しかし確実に停滞させていった。

岳鋼は、この壮絶な光景に戦慄した。

(あの老いぼれめ....死んでもなお、我々の道を塞ぐか....!何という、狂気だ!衛国の忠義というものは....これほどまでに、恐ろしいものなのか....)

岳鋼は、焦りから、自ら剣を振るい、汪盃軍の残党を蹴散らし、強引に退路を確保しようと手間取っていた。

その時、背後から、地響きと共に、新たな敵の波が、嵐のように押し寄せた。それは、関泰率いる、五千の精鋭であった。

「岳鋼!貴様の命はここで潰える!衛国の未来を、貴様の血で贖え!」関泰の咆哮が、岳鋼の背後に響き渡った。

関泰は、岳鋼らを背後から襲撃し、冥禰の軍を、一瞬にして壊滅へと追い込んだ。五千の兵の勢いは、岳鋼軍の動揺と、汪盃軍残党の封鎖によって、最大限に活かされた。冥禰・岳鋼軍は、前後の挟撃を受け、完全に崩壊した。

関泰は、渾身の力で、岳鋼めがけて、剣を振り下ろした。岳鋼は、背後からの急襲に、対処しきれなかった。彼の剣は、関泰の剣によって、無残にも弾き飛ばされた。

「死ねぇぇえ」

関泰の剣は、岳鋼の胸板を深く貫いた。

その瞬間、岳鋼の視界から、戦場の喧騒が消えた。全身を貫く激痛の中で、彼の脳裏に、かつての光景が鮮明に蘇った。

(ああ....厳冰様....)

それは、まだ彼が若き武官であった頃、厳冰に初めて仕えた日。厳冰は、まだ少年であったが、その瞳には、すでに並々ならぬ覇気が宿っていた。

「岳鋼よ。私と共にくるか?」

彼は、気づけば、厳冰の手を取っていた。なぜかは自分でもわからなかった。

ただ、厳冰と共に、馬を駆ける時間が、岳鋼は好きだった。

戦場での血戦の日々も、厳冰を信じ、耐え抜いてきた。冥禰の冷徹な策を、常に陰から支えてきたのも、全ては厳冰の理想のためであった。

(私は....貴方の盾となることが....できなかった....冥禰様も....連れ帰ることが....できぬ....)

彼の口から、血と共に、嗚咽にも似た声が漏れた。それは、敗北の悔しさではなく、主君への忠義を果たせなかったことへの、深い悲哀であった。

「....厳冰....様.......」

岳鋼は、主君の名を、心の中で叫んだ。

彼の魂は、忠義の鎖に繋がれたまま、遠く離れた厳冰の元へと、旅立っていった。彼の巨体は、砂塵の中に横たわり、冥禰の軍の壊滅は、決定的なものとなった。

関泰の猛攻により、冥禰軍は、完全に壊滅状態に陥った。冥禰の精鋭たちは、将を失い、指揮系統を失ったことで、次々と関泰軍の前に倒れていった。

しかし、戦場は、冥禰軍に味方した。

冥禰の側近である、わずか百騎の兵が、瀕死の冥禰を連れて、包囲を突破していた。

彼らは、冥禰の側近として、彼の命を守ることを、最後の使命としていた。

関泰は、冥禰を追撃しようと、馬を駆ったが、その体は、既に限界を超えていた。

(追撃を....せねば....冥禰の息の根を....ここで止めねば....)

しかし、彼の体は、彼の命令を聞かなかった。彼は、馬上で、深く息を吐き、追撃を断念した。

「....全軍。追撃を止めよ....これ以上の消耗は、無意味だ....」

関泰の言葉に、兵たちは、安堵の表情を浮かべた。彼らもまた、極限の疲労に達しており、追撃をするほどの体力と気力は、残されていなかった。

関泰は、剣を収め、平原の中央に立つ、汪盃の亡骸へと目を向けた。

「全軍。汪盃将軍と、散っていった衛国の忠義の士たちの遺体を、丁寧に回収せよ」

関泰は、自らも馬から降り、汪盃の亡骸へと近づいた。彼は、静かに膝をつき、汪盃の亡骸に深く頭を下げた。

「汪盃将軍。貴方の忠義、不肖関泰、しかと見届けました。安らかにお眠りください」

関泰は、深く悼みながら、汪盃の亡骸を抱き上げた。

その亡骸は、彼の忠義の重さを物語るかのように、重く、そして静かであった。

関泰は、残された兵たちと共に、汪盃軍の遺体を運びつつ、静かに飛砂関へと戻った。城門が再び閉じられる頃には、

西の空は、既に陽が落ちかけており、戦場全体が、深い夕闇に包まれようとしていた。

その頃、中央戦線はまだ激闘の最中(さなか)にあった。

飛砂関の防衛成功と、汪盃軍の壮絶な突撃、そして厳冰配下の二将が討ち取られたという報は、張江らの本陣に、驚きと、そして深い感動をもって伝えられた。

「汪盃将軍....!感謝します...!」 張江は、涙を流しながら叫んだ。

その報は、衛国兵たちの士気を、一気に高揚させた。彼らは、自分たちの戦いが、決して無駄ではないことを確信し、勝利への希望を、再び取り戻していた。

一方、その報を聞いた魏鉄山軍は、飛砂関での玄岳軍の壊滅的な損耗を知り、これ以上の攻勢は無意味と判断した。

「飛砂関は、落ちなかった。そして、我が軍の損害も大きい....全軍、本陣に撤退せよ!」

魏鉄山は、苦渋の決断を下し、その日のうちに、全軍を本陣に撤退させた。

飛砂関の戦いは、衛国軍の勝利に終わった。

しかし、その勝利は、あまりにも大きな犠牲の上に成り立っていた。

夕闇に包まれた平原に、静かに、忠義の残響が横たわっていた。


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