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#1-41 衛国の忠義

飛砂関の白狼山脈側の側面、冥禰が指揮を執る二万騎の陣営。

その静寂を切り裂いたのは、地平線の彼方から響き渡る狂乱じみた喚声と、地を這うような砂塵の唸りであった。

冥禰は、突進してくる汪盃軍八千余騎の砂塵の渦を、何の感情も含まない、冷徹な眼差しで見つめていた。彼の隣には、厳冰から借り受けた一万の精鋭が、鉄の規律をもって静かに待機していた。

「やはり来たか、汪盃。貴様の忠義は、貴様自身の首を絞める鎖となる」

冥禰は、低く呟いた。

彼の策は、汪盃の「忠義」という感情を計算式に組み込んだ、冷酷な戦術であった。

厳冰は、冥禰に兵を渡す際、ただ一言、冷徹に告げた。

「自由に使え。ただし、飛砂関を落とせ」

その言葉には、一切の期待も、信頼も、感情も含まれていなかった。

ただ、冥禰は、厳冰が自身の智謀と忠義を試している、そう感じていた。

冥禰にとって、眼前の八千の兵は、勝利という結果を得るための、単なる数字でしかなかった。

冥禰は、その一万の兵力のうち、七千騎を飛砂関の攻城に割き、残りの三千と自身の配下を合わせて、汪盃の迎撃態勢を整えていた。この配置こそが、彼の非情さを示すものであった。

「途紀、雨宣、量映。貴様らは、まず汪盃の突進を止めよ。奴らの勢いをわずかでも削ぐのだ。時を稼げばよい。その一刻一刻が、我が勝利の布石となる。殲滅せよ」

冥禰の配下である三将、途紀、雨宣、量映は、深く頭を垂れた。

「御意!」

三将は、それぞれ二千騎ずつ、合計六千騎の隊を率い、汪盃軍の突進を迎え撃つべく、地響きを上げて進んだ。

汪盃率いる精鋭八千の軍と、冥禰配下の六千騎が、正面から激突した。その衝突は、まさに鉄と肉の巨大な壁がぶつかり合うような、凄まじい衝撃であった。

冥禰の迎撃は、汪盃の勢いをわずかに止めることに成功した。

しかし、彼らの目の前に立ちはだかった衛国兵は、恐怖も痛みも感じていないかのようであった。

彼らを突き動かすのは、ただ一つの、「忠義」という名の、狂気の炎であった。

無数の刃がその体を貫いても、誰一人として後退せず、ただ前へ、前へと、関を目指し、進み続けた。その壮絶な光景は、冥禰の迎撃隊の兵士たちに、初めて本能的な恐怖を抱かせた。

途紀は、最前線で剣を振るいながら、全身に戦慄が走るのを感じていた。

眼前の衛国兵の瞳に映るのは、生への執着ではなく、諦観と、燃え盛る忠誠心であった。

(何という執念だ....これこそが、国を護る者の魂か....)

冷徹な策と勝利の効率を旨とする途紀にとって、汪盃軍の純粋な激情は、理解を超えた異様な力であった。彼は、この力を止めるには、ただ己の命を投げ出すしかないことを悟った。

汪盃軍の先鋒、魏明は、全身を敵の血で濡らし、最早、人というより修羅の形相であった。魏明の剣は、衛国の忠義の重さを伴い、途紀の首を狙った。

「ここで、止まるわけにはいかぬ!....」

途紀は叫んだが、その剣の動きは、迷いなく死に向かう魏明の剣速に一歩及ばなかった。

魏明の剣が、途紀の首筋を一瞬で切り裂いた。

途紀の脳裏に、厳冰の冷徹な顔と、冥禰の無表情な顔が浮かび上がった。解した。

「殿....我が命....貴方様に....」

途紀は、愛馬から崩れ落ち、その命は、砂塵の中に消えた。

魏明は、討ち取った途紀を顧みることなく、牙を剥いた獣のように、さらに前へと突き進んだ。彼の忠義は、一人の将の命と引き換えに、数歩前進した。

また別の場所では、雨宣が、汪盃軍の猛将、悌需と激突していた。雨宣は、巧みな槍術で悌需の動きを封じようとしたが、悌需の剛力と、仲間を次々と失うことへの悲憤の怒りには抗えなかった。

激しい戦闘の最中、雨宣の心は、激しく揺れていた。彼は、戦場に出る前、故郷の村で、幼い弟と交わした最後の約束を、鮮明に思い出していた。

「兄上。必ず生きて帰ってくれ。兄上の武功を、村の皆に聞かせてやりたい。兄上は、村の希望なんだ」

弟の言葉が、耳の奥で、戦場の喧騒よりも大きく響いた。生きるという約束、故郷の希望という重圧。それが、雨宣の槍を、一瞬だけ鈍らせた。

しかし、その一瞬の迷いこそが、彼の命取りとなった。

悌需は、愛用の巨大な斧を、怒りのままに振り下ろし、雨宣の槍の柄を、砕けた村の希望のように叩き割った。

「この先は、一歩たりとも進ませぬ!衛国の命脈は、我々が護る!貴様のようなどこの馬の骨かも知らぬ雑魚に、我々の魂は止められん!散れ、玄岳の雑魚が!」

悌需は、怒号を放ち、斧を雨宣の頭上へと振り下ろした。

雨宣は、ただ目を閉じ、弟の顔を思い浮かべながら、静かにその剛撃を受け入れた。

「....兄の武功は....届かぬか....弟よ....せめて....平和な世で生きろ....」

雨宣は、叫び声を上げる間もなく、その場で粉砕された。

悌需は、血に濡れた斧を肩に担ぎ、慟哭にも似た叫びを上げた。

彼の怒りは、衛国の運命が瀬戸際にある悲憤そのものであった。

量映は、精鋭の兵を率いて、汪盃軍の側面を打ち破ろうと試みたが、雲暁の剣の前に、その試みは阻止された。

量映は、雲暁の若さを見て、一瞬、剣を引いた。

彼はかつて、故郷の戦で散った自分の息子と、雲暁の姿を重ねていた。息子が生きていれば、雲暁とさほど歳は変わらなかっただろう。

(この若さで、これほどまでの剣を振るうか。惜しい。この戦がなければ、良き友となれたものを....この少年は、生きるべきだ)

量映は、雲暁を討ち取ることに、ためらいを感じていた。玄岳の将としての使命と、昔日の息子との日々が、彼の心の中で激しくせめぎ合った。

量映は、雲暁の剣の鋭さに驚愕したが、その隙を突き、量映の兵が雲暁の隊列の隙に斬りかかった。彼は、自分の兵を助けようとした。

「殿!後ろに!」

雲暁は、兵の叫びを聞き、振り返ると、量映の剣が彼の胸を浅く切り裂いた。その痛みは、雲暁の迷いを一瞬で吹き飛ばした。

雲暁は、血を噴き出しながらも、愛用の剣を逆手に持ち、渾身の力を込めて、量映の胸を深々と貫いた。

量映は、最後の瞬間、雲暁の瞳の中に、殺意ではなく、悲しみと、それでも忠義を貫こうとする決意を見た。

「よくやった....」

量映は、絶命の声を上げ、馬から落ちる直前、静かな笑みを浮かべた。

その笑みは、武人として、立派な若者に討たれたことへの満足と、息子への懺悔の念の入り混じったものであった。

(息子よ...来世があるならば....父として、そなたと向き合おう..すまない.....)

量映の亡骸は、砂塵の中に横たわった。

雲暁は、討ち取った量映を見つめ、静かに涙を流した。その涙は、散っていった多くの友への追悼と、敵将にも存在する、武人としての、そして人としての共感からであった。

冥禰配下の三将を討ち取った汪盃軍であったが、その消耗は激しかった。

八千の精鋭は、この激戦により、五千騎へとその数を減らしていた。

冥禰は、本陣から、この激戦の推移を冷徹に見つめていた。

彼の顔には、一瞬、悔恨の色が浮かんだ。

(途紀、雨宣、量映を討ち取るとは....汪盃の忠義は、私の予測を遥かに超えていた。私が、奴の力量を見誤った....しかし、私の計画通り、奴らの勢いは完全に削がれた)

冥禰はすぐに冷静さを取り戻した。五千に減ったとはいえ、このまま汪盃を関の城壁に到達させてはならない。

冥禰は、すぐに次の手を打った。攻城に割いていた兵力を一部引き抜き、七千騎で、汪盃軍の進行方向に、長槍と大盾を幾重にも重ねた、鉄壁の堅陣を組ませた。

冥禰の七千騎の堅陣は、長槍と大盾を幾重にも重ね、まるで動かぬ山脈のようであった。

汪盃の五千騎の突進を完全に受け止め、文字通り、針の穴を通さない防御を構築していた。

汪盃たちは、その堅陣の前に、傷つき、多くの将兵が倒れていった。

彼らの攻勢は、次第に弱まっていった。この鉄壁の防御は、忠義の火を、確実に、そして冷徹に沈めていった。

この堅陣の突破を試みる汪盃軍の猛将たちに、冥禰の配下である、加蛇沙と卓選が立ちはだかった。

汪盃軍の先鋒を切り開いてきた魏明は、加蛇沙の前に立ちはだかった。

加蛇沙は、その巨躯と巨大な鉄の棍棒を地面に打ち付け、地を鳴らした。

「衛国の忠義など、この加蛇沙が、叩き潰してくれる!貴様の忠義は、関には届かん!無駄死にだ!」

魏明は、血に濡れた剣を高く掲げ、叫んだ。彼の全身は、既に限界を超え、骨の軋む音さえ聞こえてきそうであった。

彼の存在は、主君である汪盃を、たった一歩でも関に近づけるための、「最後の盾」であった。

「我らは、主君の命を護る最後の盾だ!貴様のような獣に、我々の忠義は理解できまい!我々の忠義は、この剣と、この血に刻まれている!衛国は、まだ終わらん!」

魏明は、そう叫ぶと、最後の力を振り絞り、加蛇沙の巨大な棍棒へと、真っ直ぐに、一歩も退かずに突進した。それは、素早い突きであった。しかし、加蛇沙の棍棒は、魏明の突きを凌駕した。

加蛇沙の棍棒が、魏明の剣と体を無残にも叩き砕いた。

その衝撃は、大地を震わせ、辺り一面に血しぶきが舞った。

魏明は、意識が途絶える寸前、遠くの関の城壁を幻視した。

「汪盃様....御武運を....」

魏明は、その場で忠義を貫き散った。

彼の肉体は砕けたが、その魂の叫びは、後続の兵たちの心に、深く刻み込まれた。

魏明の戦死に、悌需の怒りは頂点に達した。彼は、血で汚れた愛用の斧を、地面に突き立て、天に向かって咆哮した。

「魏明....!」

彼は、愛用の斧を振り回し、怒りのままに加蛇沙へと突進しようとしたが、冥禰配下の卓選が、その行く手を遮った。

卓選は、その身軽さと、神速の剣で、悌需の動きの隙を冷徹に探っていた。

彼の目には、一切の感情がなく、ただ「敵を排除する」という機械的な意思だけが宿っていた。

「退け、衛国の将よ。無意味な抵抗だ。貴様の死は、何の意味もなさない。忠義とは、無力な者の自己満足だ」卓選は、冷たく告げた。

「黙れ!仲間を殺し、忠義を笑う貴様らに、衛国の魂はわからぬ!我々は、決して死なぬ!魂は、衛国の未来に残る!我らの魂は、永遠に断ち切れん!」

悌需は、怒りの雄叫びを上げ、渾身の力を込めて斧を卓選へと振り下ろした。それは、彼の全てを賭けた、最後の一撃であった。

しかし、卓選の剣は、その剛力な動きの後の、一瞬の隙を冷徹に見抜き、彼の心臓を正確に貫いた。

「ガハハハッ....」 悌需は、声を出して笑った。

「我は死なぬのだ!」 悌需は、一歩ずつ前に進んだ。

「死...死ね......なぜ死なぬのだ...」卓選は、理解できなかった。彼の剣は、正確に、悌需の心臓を貫いていた。

彼の進軍を、数多の槍が盾となり、その刃を立てていた。

「貴様にはわからぬ....国を護る意味が...!我らが戦う意味が...!護るべき者が我らにはあるのだ...!」

悌需は、歩をさらに進めようとした。しかし、彼の身体は、もはや彼の命令を聞かなかった。

彼は、周囲の兵に、斧を振るった。 彼らは、宙に舞った。

それを見て、卓選の兵が、さらに刃を立てようとする。

「やめよ!」卓選はそう言うと、堅陣を組みなおすように指示した。

悌需は、立ったまま、眠っていた。

彼の怒りと忠義は、戦場の砂塵の中に溶け消えていった。

雲暁は、目の前で次々と仲間が倒れていくのを見て、全身が震えていた。

彼は、量映を討ち取った時の後悔と、魏明や悌需の壮絶な最期を目の当たりにした悲痛な感情で、心が引き裂かれそうであった。

彼は、剣を握りしめ、自分に言い聞かせた。

(兄貴たちが行ったんだ。僕も行かなきゃ。僕の命は、僕のものじゃない。衛国の未来に使うんだ...!)

彼は、衛国が好きだった。母が笑うと、父も笑う、そんな衛国がすきだった。

彼は、そんな衛国の未来を、主君である汪盃に託すことこそが、今、自分に残された唯一の使命だと悟った。

「僕の命が、主君を、あと一歩でも前に進めるのなら、本望だ!」

雲暁は、そう叫ぶと、愛用の剣を逆手に持ち、加蛇沙へと向かって最後の突進を敢行した。彼の眼差しは、最早、恐怖ではなく、覚悟に満ちていた。

加蛇沙は、その若者の無謀な突進を、豪快に撥ね退けた。棍棒が、雲暁の華奢な全身を、容赦なく打ち砕いた。

雲暁の体は、宙を舞い、地面に叩きつけられた。彼の視界は、赤く染まり、徐々に闇に包まれていった。

「頑張った....きっと衛国の役に立つ.....十分生きた....父上、母上...お許しを...」

雲暁は、最期にそう呟き、砂塵の中に散った。

彼の剣は、力なく地面に落ちた。それは、忠義の戦いの終焉を告げるかのような、重い音であった。

魏明、悌需、雲暁の三将が散ったことで、汪盃軍の隊列は完全に崩壊寸前であった。

五千の兵力は、今や二千五百までその数を減らし、汪盃自身も、波のように押し寄せる刃によって、深手を負っていた。

冥禰は、堅陣を組む自軍の兵を見据え、静かに頷いた。

「これで、汪盃の突進は、完全に止まった。奴らが、関に到達するのを阻止したのだ」

冥禰は、勝利を確信した。衛国の忠義は、凄絶を極めたが、冥禰の知と用兵が、その全てを上回ったのである。

彼の心に、散っていった玄岳三将への哀悼の念は、微塵もなかった。

陽が高く昇り始めるころ、衛国の命運を賭けた絶望的な突進は、冥禰の鉄壁の堅陣の前に、その勢いを完全に失っていた。

残されたのは、血と砂塵に塗れた、衛国兵たちの亡骸だけであった。

飛砂関の城壁は、既に血と泥のまみれた、惨憺たる地獄と化していた。

兵士たちは、ただ「関が落ちれば、内地の家族が死ぬ」という純粋な恐怖と、将である朱威と関泰への、絶対的な信頼だけで刃を振るい続けていた。

衛国軍の将、朱威は、愛用の重厚な薙刀を片手に、城壁の最前線に立っていた。

彼の全身の鎧は、数知れない敵の血と煤で汚れていたが、その薙刀を振り回す動きには、武人の老獪さが宿っていた。

副将、関泰は、常に冷静で緻密な剣技を持つ将として知られていた。

彼の耳には、城壁の下から絶え間なく響いてくる、玄岳兵の不気味な歓声と、巨大な梯子を懸ける轟音が響いていた。門を叩く破城槌の音は、もはや遠い過去の記憶のようであった。攻撃の焦点は、完全に城壁の登攀に移っていた。

「朱威殿....」関泰は、かすれた声で言った。

「わかっている、関泰」

朱威は、関泰の言いたいことを理解していた。

汪盃軍が、冥禰の陣に突っ込んでいた。その戦闘は、遠目にも、砂塵が渦巻く凄惨な光景が見て取れた。

「汪盃将軍の突撃のおかげで、敵の攻勢が、わずかに緩んでいるのは確かです....」関泰が呟く。

事実、冥禰は、汪盃の突撃に対応するため、城壁への攻撃部隊の一部を、汪盃軍へと割いていた。

そのおかげで、城壁の守備兵たちは、束の間の休息を得ていたが、それは「休息」というよりも、「死を待つ間」の静寂に近かった。

しかし、その静寂は、すぐに破られた。敵は、体力の限界に達した衛国兵をあざ笑うかのように、次々と城壁をよじ登ってきていた。

関泰と朱威の周りには、衛国の精鋭兵数十名が、既に城壁を乗り越えてきた玄岳の先鋒兵たちを相手に、死闘を繰り広げていた。

「第二隊、押し返せ!一歩も退くな!」関泰は、冷静に指示を飛ばしながら、自らも剣を振るった。

しかし、衛国兵は、疲弊の極みに達しており、一人の兵が敵を討ち取る間に、二人の兵が倒れていく。城壁の制圧は、時間の問題であった。

朱威は、遠方の砂塵を見つめた。

(汪盃将軍。貴方の忠義、しかと見届けた。貴方の突撃は、我々に時間を与えてくれた。しかし、その代償は....)

朱威は知っていた。汪盃が、この関を守るために、どれほどの犠牲を払っているかを。そして、今、自分たちが、その犠牲を無駄にしてはならない、最後の砦であることを。

「関泰。踏ん張るぞ。汪盃将軍の命を賭した忠義を、我々が裏切るわけにはいかない」

朱威の言葉に、関泰は深く頷いた。

その時であった。城壁の下から、地響きと共に、新たな敵の波が、信じられない速度で押し寄せてきた。

城壁を登ってくる兵の波の先頭にいる三つの影は、他の兵とは一線を画す、圧倒的な威圧感を放っていた。

彼らは、朱威や関泰の精鋭兵の反撃によって、城壁の制圧が進まない状況を打開するため、自ら登攀してきたのであった。

その巨大な影は、厳冰の副将、岳鋼、そしてその配下の山磊と岩風であった。

岳鋼は、厳冰の副将であり、その配下の山磊と岩風は、精鋭であった。

彼らが現れると、城壁を既に登っていた兵は、一斉に歓声を上げ、彼らに道を譲るように、後方に下がった。

岳鋼は、岩のようにごつごつした体躯を持ち、全身を黒い重厚な鎧で覆っていた。彼の瞳は、獲物を前にした鷹のように鋭く、朱威と関泰を射抜いた。

「これより、城壁を完全に掌握する。衛国の将どもに、厳冰様の武力の恐ろしさを、思い知らせてやれ」岳鋼は、配下に命じた。

岳鋼らが乗り越えてきた部分の衛国兵は、彼らが城壁に到達するまでの間、必死に抵抗を続けていたが、彼らの尋常ではない気迫と、次々と倒れていく味方の姿に、恐怖と絶望が広がり、ついにその防衛線は崩壊寸前であった。

岳鋼は、関泰を一瞥し、そして朱威を見た。

「貴様らが、この関の将か。貴様らの精鋭は、我々の兵をよく食い止めた。だが、もう終わりだ。無駄な抵抗はやめろ。厳冰様の天下は、既に決まっている。貴様らの忠義など、砂上の楼閣に過ぎん」

「山磊、貴様は薙刀の将を討て。岩風、貴様は残りの剣の将を叩き潰せ。私は、個々を制圧する」

「御意!」

山磊は、その巨体に見合った、巨大な大錘を片手に、兵を蹴散らしながら、朱威へと迫ってきた。山磊の周りの衛国兵は、その大錘の風圧に恐れをなし、後ずさりした。

「朱威とやらよ!俺様の雷光大錘の贄となれ!」

山磊の咆哮が、城壁に響き渡った。その声は、恐怖に震える衛国兵の魂を、さらに深く突き刺した。

山磊の大錘は、純粋な破壊力を具現化したものであり、その一撃は、城壁の石をも砕くほどの凄まじい威力を秘めていた。

朱威は、その圧倒的な質量と、山磊から発せられる闘気を前に、武人としての本能が警鐘を鳴らすのを感じた。

(まともに受ければ、骨まで砕かれる....速さで躱し、一点を突くしかない!この巨体、この武力....衛国では、類を見ぬ剛の者....!)

朱威は、愛用の薙刀を構えた。

その刃は、長く、山磊の巨体に対して、優位性を見出せる唯一の武器であった。

朱威は、その長さを最大限に活かし、山磊の動きを牽制しようと試みた。

山磊が、雄叫びと共に、第一撃を振り下ろした。大錘が空気を切り裂き、その風圧が朱威の頬を強く叩いた。

ドォン!

大錘は、朱威が立っていた場所の城壁の石を粉砕し、辺り一面に破片を撒き散らした。

朱威は、寸でのところで後方に跳び退き、その衝撃から逃れた。

大錘が石壁に当たった時の、体の奥底から響くような激しい衝撃音は、朱威の疲弊した全身に、強い戦慄をもたらした。

「速いな、老いぼれ!だが、その薙刀の長さも、俺様の破壊力の前では無力だ!一撃で仕留めてやる!」

山磊は、続けざまに大錘を振り回した。それは、破壊の嵐であり、朱威は、ただ防御と回避に徹するしかなかった。彼の脳裏には、亡き主君、伯明への誓いが、強く、深く焼き付いていた。

「朱威よ。お前の薙刀は、民を護る盾となれ。決して、無駄な血を流すな」

(伯明様、御存知でしょう。無駄ではないのです。この戦いは、未来を護るための、必要な戦いなのです。私の薙刀は、民を守る最後の盾になります。貴方を護れなかった...今度は護ってみせる....)

朱威は、山磊の猛攻の中で、一瞬の隙を見つけた。

大錘が地面に叩きつけられ、山磊が次の攻撃に移るために体勢を立て直す、わずかな隙であった。

それは、武人としての経験と直感が、極限の状況下で掴み取った、唯一の好機であった。

「今だ!」

朱威は、全身の力を薙刀に込め、山磊の鎧の継ぎ目を狙って、袈裟懸けに薙ぎ払った。

薙刀の刃は、山磊の肩の分厚い鎧に深く食い込んだ。しかし、その鎧はあまりにも分厚く、致命傷には至らなかった。

「小賢しい!」

山磊は、痛みを感じながらも、逆に朱威へと突進し、至近距離から大錘を振り上げた。その速度は、朱威の予測をわずかに上回っていた。

朱威は、躱すことができなかった。薙刀を盾にして、大錘の直撃を防ごうとした。

ズゥンッ!

大錘の直撃を受け、薙刀は凄まじい音と共に、朱威の手から弾き飛ばされた。そして、大錘の衝撃は、朱威の右肩にまともに食い込んだ。

「ぐっ....!」

朱威は、体の奥底から響くような激しい痛みに呻き声を上げ、城壁の石壁に背中から叩きつけられた。彼の右肩からは、骨がきしむような激痛が走り、完全に感覚を失った。

(終わりか....ここで....私の忠義は....)

朱威は、視界が白くなるのを感じた。彼の忠義と武功も、この圧倒的な暴力の前では無力なのか。

山磊は、朱威が薙刀を失い、地に伏したのを見て、勝利を確信し、冷酷な笑みを浮かべた。

「終わりだ、老いぼれ!お前の忠義も、衛国も、全て俺様の雷光大錘で砕け散る!」

山磊は、大錘を再び振り上げた。

その時、朱威の脳裏に、関泰の顔と、城壁の下で必死に戦う衛国兵たちの顔、汪盃軍の姿、そして今は亡き伯明の姿がよぎった。

(今度は...今度こそは...護らねばならぬのだ...!!)

朱威は、砕けた右肩の激しい痛みを無視し、左手で、地面に落ちていた自分の薙刀を拾い上げた。その薙刀の柄は、大錘の衝撃で、わずかに曲がっていたが、朱威の命を賭した執念の重さで、なおも耐えていた。

「衛国は、まだ終わらん!」

朱威は、左手一本で薙刀を構え、山磊の足元を狙って、低く素早い一撃を繰り出した。

山磊は、朱威が立ち上がったことに驚き、その一撃を躱そうとしたが、大錘の重さと、度重なる攻撃の反動で動きが鈍かった。

バキッ!

薙刀の柄が、山磊の足首の鎧の隙間を、正確に捉えた。山磊の体勢が、完全に崩れた。

「ぬっ....がぁああっ!」

山磊が、体勢を立て直そうと、一瞬、大錘を振り上げるのをやめた。その一瞬こそが、朱威の最後の勝機であった。それは、死を賭した武人の、極限の集中力が生み出した、わずかな時間の裂け目であった。

朱威は、左手で薙刀の柄を強く押し上げ、薙刀の刃を、山磊の腰の鎧と胴体の鎧を繋ぐわずかな隙間に、全力を込めて突き刺した。

グシャリ!

薙刀の刃は、山磊の心臓に達した。

「ばか....な....俺様が....こんな....老いぼれに....厳冰様....」

山磊は、その巨体を崩し、城壁の上に、巨大な肉の塊として、横たわった。

朱威は、崩れ落ちる山磊の亡骸から、左手一本で薙刀を引き抜いた。彼の全身は、血と汗と、極度の疲労で震えていた。右肩は、最早、動かすことさえできなかった。

(討ち取った....山磊を....衛国の、命脈を繋いだ....)

朱威は、その場で膝をついた。勝利の代償は、あまりにも大きかった。彼の意識は、遠のきかけていた。

朱威が山磊と死闘を繰り広げている間、関泰は、岩風と戦っていた。

岩風は、山磊とは対照的に、獰猛で素早い動きが特徴であり、巨大な戦斧を武器に、関泰を追い詰めていた。

関泰は、緻密な剣技で、岩風の斧の猛攻を躱していた。彼の剣は、岩風の鎧の継ぎ目や、防御の薄い部分を、正確に狙っていた。

「小賢しい!ちょこまかと、剣で小突くな!男らしく、真正面からぶつかってこい!貴様の剣など、俺様の斧でまとめて叩き潰してやるわ!」岩風は、関泰の剣技に苛立ち、罵声を浴びせた。

「武人にとって、勝利こそが全てだ」関泰は、冷静に言い返した。

岩風は、関泰の言葉に激怒し、渾身の力を込めて、戦斧を振り下ろした。その一撃は、関泰の剣技の予測を遥かに超える、速さと重さであった。

キィン!

関泰の剣は、岩風の斧によって、弾き飛ばされた。関泰の命綱である剣は、城壁の上に転がり、岩風の足元近くで止まった。

関泰は、素手となった自分の両手を見つめ、全身が冷たくなったのを感じた。

(しまった....これで、終わりだ....)

彼の脳裏に、幼い頃、朱威に剣を教わった記憶が鮮明に蘇った。朱威は、武人として、彼にとって父のような存在であった。

「関泰。剣は、お前の命だ。それを失えば、お前はただの、無力な兵士となる。命より大切にしろ。そして、必ず、お前の剣で、衛国の民を護れ」

しかし、その命綱は、今、敵の足元に転がっていた。

岩風は、関泰が剣を失ったのを見て、勝利を確信し、獰猛な笑みを浮かべた。

「終わりだ!貴様も、俺様の斧の錆となるがいい!俺様の武功の踏み台となれ!」

岩風は、勝利の雄叫びと共に、その戦斧を、関泰の頭に振り下ろした。その斧は、関泰の命を、衛国の希望と共に断ち切ろうとしていた。

関泰は、死を覚悟し、目を閉じた。

ズンッ!

岩風の体が、一瞬、硬直した。彼の脇腹に、鋭い痛みが走った。それは、岩風の鎧の継ぎ目、わずかな隙間を正確に捉えた、重い衝撃であった。

岩風は、痛みによって、一瞬動きが鈍くなり、意識も後方に向いた。彼が振り下ろそうとしていた斧の軌道が、わずかに逸れた。

「ぐっ....何だ....!」

岩風が振り向くと、そこには、右肩を押さえ、左手で剣を投擲した朱威の姿があった。

朱威は、山磊を討ち取った直後、岩風と関泰の窮地を察知し、極限の疲労と激痛の中、山磊の亡骸のそばに落ちていた衛国兵の剣を拾い、渾身の力を込めて、岩風めがけて投げたのであった。

朱威の忠義と、関泰への絶対的な信頼が、生み出した一瞬の機転。その一瞬の光こそが、関泰に最後の勝機を与えた。

関泰は、地面に転がっていた自身の剣を素早く拾い上げた。岩風の意識が、脇腹の痛みに向かい、体勢が崩れたその一瞬の隙を突いた。

「衛国の未来に、貴様の命を捧げろ!忠義の刃を受けよ!」

関泰は、そう叫ぶと、神速の剣を繰り出し、岩風の心臓へと、一文字に斬り込んだ。

シャキン!

剣閃が一閃し、岩風の心臓を深く捉えた。

岩風は、巨大な戦斧と共に、城壁の下へと崩れ落ちた。彼の獰猛な魂は、関泰の冷静な剣技と、朱威の執念によって、打ち破られたのである。

関泰は、勝利の余韻に浸る間もなく、朱威へと駆け寄った。

「朱威殿!ご無事ですか!?」

朱威は、左手で関泰の肩を叩き、静かに言った。

「....なんとか、な。山磊は、強敵であった....。お前が無事で、よかった....」

朱威の顔色は、蒼白であった。彼の右肩の傷は深く、出血が止まらなかった。

関泰は、すぐに自身の内服を破り、朱威の傷口を強く縛った。二人の将の絆が、この極限の戦場で、さらに深まった瞬間であった。

厳冰の副将、岳鋼は、眼前の光景を信じられずにいた。

彼は、山磊と岩風が、この関の将ごときを討ち取れないなど、夢にも思っていなかった。

山磊の圧倒的な破壊力と、岩風の獰猛な戦技があれば、城壁上の兵士など、塵芥同然だと考えていたからだ。

何より、彼の目の前で、朱威と関泰の精鋭兵が、命を賭して岳鋼の配下を跳ね返している状況が、岳鋼の苛立ちを募らせていた。

(何という、執念だ....!あの老いぼれの薙刀は砕け、あの細身の将は剣を落とした...それでも、我が配下を討ち取っただと....!)

岳鋼は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。彼らは、単なる武人ではない。彼らを突き動かすのは、平原の汪盃と同じ、「衛国への忠義」という、狂気にも似た、強固な精神力であった。その忠義は、山磊と岩風の武功を上回り、彼らの命を断ち切ったのだ。

このまま、岳鋼自身が戦いを続ければ、朱威と関泰を討ち取ることは可能であろう。しかし、その代償は大きすぎる。岳鋼が討ち取ったとしても、その忠義の炎は、他の衛国兵に受け継がれ、関の制圧は、さらに遅れるだろう。

厳冰から預かった精鋭兵を、これ以上消耗させるわけにはいかなかった。

岳鋼の脳裏に、厳冰の冷徹な顔が蘇った。

「岳鋼。無駄な損耗は避けよ」

配下の将、二人を失ったという事実。

岳鋼は、その報告を厳冰にすることを想像するだけで、全身の血が凍るのを感じた。このまま無駄な消耗を続ければ、厳冰の怒りが、自分へと向けられることは明白であった。

「撤退だ....!全軍、城壁を降りろ!これ以上の消耗は、厳冰様の命に背く!」

岳鋼は、苦渋の決断を下した。

彼の命令に、周囲の玄岳兵は驚いたが、岳鋼の威圧感に逆らうことはできなかった。彼らは、岳鋼がこれほどまでに、戦意を失ったのを見たことがなかったからだ。

岳鋼は、山磊と岩風の亡骸に、一瞥もくれることなく、配下に守られながら、城壁をくだり、冥禰のもとへ向かうことを決意した。彼の心は、厳冰への報告の重圧と、衛国将の忠義の重さで、押し潰されそうであった。

城壁の上には、静寂が戻った。

朱威は、薙刀を杖にして立ち上がり、関泰と共に、遠くの平原を見つめた。汪盃将軍の突撃は、既にその勢いを失い、冥禰の堅陣の前に、多くの兵が倒れているのが見て取れた。しかし、その突撃が、城壁の危機を救ったのは、紛れもない事実であった。

「関泰....私たちは、勝ったのだな....」朱威は、震える声で言った。

その声には、勝利の喜びよりも、深い悲痛さが滲んでいた。

「はい....朱威殿。彼らを退けました...」

彼らは、城壁の上に立ち尽くし、遠くの戦場を見つめていた。

そこには、さらなる忠義の炎が燃え盛っていた。


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