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#1-40 違和感の正体

方陸は、狂気にも似た、凄まじい速度で、眼前の周翼軍へ突撃を敢行していた。

彼の心を支配するのは、厳冰の策を水泡に帰そうとする志文への憎悪と、討たれた紋甫の魂を弔う使命感だけであった。

その苛烈な決意が、方陸の全身の血を煮えたぎらせていた。

「全軍、一歩も引くな。周翼の雑魚どもを、即座に粉砕せよ。殲滅次第、白狼山脈へ向かうぞ。衛国の命脈を、ここで断つ」

彼の怒号は、砂塵を突き抜け、兵士たちの魂を揺さぶった。

周翼は、方陸軍の異常な突進の速度と、その猛烈な攻撃に舌を巻いていた。方陸の判断は、常識から逸脱しており、非情なほどに速かった。

「ここは、踏ん張らねばならぬ....!!」

周翼は、鋼の剣を閃かせ、自ら馬を進ませ、乱戦の渦中へと躍り出た。

方陸軍は、周翼軍の隊列を紙の如く引き裂き、戦場は一瞬で血と泥の乱戦へと変貌させた。方陸の武は、制御できぬ怒りによって鬼神の域に達していた。

彼は、愛用の長柄の槍を天に向かって掲げ、一気に振り下ろす。その一撃は、岩盤を砕く轟音を伴い、衛国の兵士たちを無残に薙ぎ倒していった。

「殲滅せよ!」方陸は声を張り上げた。 その時であった。

ドォォォオ。

大地の底から響くような、重々しい馬蹄の振動であった。

方陸は、本能的に背後を振り向いた。彼の視界を埋め尽くしたのは、整然たる陣容を保ち、砂塵を巻き上げながら接近する、志文の本隊であった。

「....まさか....志文め....撤退の隊列は、全て我々を欺くための、偽りであったというのか」

背後に現れた志文の軍は、方陸軍の退路を完全に封鎖し、絶望の淵へと突き落とした。

志文の黒い瞳は冷徹で、感情の起伏を一切感じさせなかった。

方陸は、志文の謀略の深淵に、底知れぬ恐怖を覚えた。

(最小の犠牲で最大の結果を生み出す智謀....紋甫を討ったのは、我々の判断を狂わせ、この場で足止めするための布石であったのか....)

方陸は、志文の掌中で踊らされていたことを悟った。彼の焦りと憤怒は、全て志文の冷徹な計算の内にあったのだ。

方陸は、歯を食いしばった。心臓は激しく鼓動していたが、既に戦場は彼の退路を断っていた。

志文の軍と周翼の軍による完璧な挟撃に、方陸軍は為す術もなく瓦解を始めた。

方陸軍は、玄岳国の名に恥じぬよう、最後の一兵となるまで抵抗した。方陸の武も、凄絶を極めていたが、二軍の猛攻に、抗い続けることは不可能であった。

方陸の脳裏に、ふと厳冰の毅然とした表情が浮かんだ。

(厳冰様....貴方の策を....この方陸は守りきることができませんでした....玄岳国の未来は....貴方の知略に全て託します....貴方様ならば....衛国の野望など....必ず打ち砕ける)

方陸は、愛馬を一気に駆り、志文の本陣へと最後の突進を敢行した。彼の目は、死を恐れぬ狂気に満ちていた。

「玄岳国のために散る。我が忠義に一片の悔いもない」

方陸は、全ての力を込めて最後の一撃を放った。その槍は、志文の心臓を正確に貫くことを目的としていた。

その時、志文の隣に控えていた黒漆の面の男が動いた。

林業であった。

林業は、志文の精鋭の一人であり、その感情を一切覗かせぬ寡黙な将であった。音もなく志文の隣に控えるその静寂さは、林の奥底のように深かった。

方陸が狂気を滲ませた最後の突撃を志文へ向けて放った、その瞬間、林業は動いた。

音はしなかった。砂塵と怒号の渦巻く戦場で、林業の一歩は大地を叩く音をたてなかった。

風が枝葉を揺らすかの如く、方陸の長槍の軌道を僅かに逸らし、黒漆の面の下で光る鋭い瞳は、方陸の肉体の隙を見抜いていた。

林業の長大な薙刀が、方陸の全てを懸けた攻撃を受け止めた。金属と金属がぶつかり合う、耳を劈く轟音が響き渡り、その衝撃が方陸の腕の骨を軋ませた。

林業は、一切動揺せず、ただ、薙刀を引くことなく、重々しい力を込めて押し込んだ。

彼の口から漏れた声は、砂塵を撫でる風の音と混ざり合い、短い一言であった。

「眠れ」

林業の薙刀が、静かに、しかし正確に、方陸の脇腹を深く捉えた。

それは、鬱蒼とした林の中で獲物を仕留める、獰猛な獣の一撃のように非情であった。

方陸は、血を噴き出しながら、愛馬から力なく崩れ落ちた。彼の目は、青い空を見上げていた。

(厳冰様....)

方陸の意識は、舞い散る砂塵の中に永遠に消えた。

志文は、林業の働きを見届けると、静かに手を挙げ、方陸の亡骸に敬意を払った。

志文は、方陸軍の完全な瓦解と殲滅を確認すると、躊躇なく次の戦場へと部隊を進めた。

すなわち、志文は、方陸軍を殲滅した勢いのまま、中央の激戦区へと向かったのである。

周翼らの猛将と共に、魏鉄山軍の側面を突くためであった。

「中央へ急行せよ。魏鉄山の側背を叩き、張江将軍の軍を援護するのだ!」

志文の号令は、砂塵と熱気のなかで、確固たる響きを放った。

中央戦線の張江らは、連日の激戦により劣勢に立たされていた。

磐虎が深い傷を負い、雷剛が戦死したことは、衛国軍の士気を著しく低下させていた。

魏鉄山軍が圧倒的な圧力で張江の陣を攻め立てていた。

魏鉄山は、勝利を目前に確信し、張江の首を獲ることで、この戦いを終結させるべく、全身全霊を込めた猛攻を仕掛けていた。

その時、魏鉄山の耳に届いたのは、中央に迫る、新たな地鳴りであった。

「報せにございます。右翼より志文、周翼両将軍の軍が突撃。方陸軍は、既に全滅したとの報」

伝令兵の声は、恐怖に震えていた。方陸の死は、連合軍にとって計り知れない痛手であった。

魏鉄山は、静かに本陣の椅子から立ち上がった。彼の威圧的な巨躯から放たれる静かな怒りは、周囲の空気を凍りつかせた。

「方陸め....厳冰の命に背き、私情を挟みおって....志文の策に、易々と嵌るとは。愚の極みだ!」

魏鉄山は、荒々しい怒りを胸に秘めつつ、冷静に戦況を分析した。

志文の突然の突撃は、中央の戦況を一気に逆転させる可能性を秘めていた。

魏鉄山は、すぐさま本陣に待機させていた精鋭を率いて、自ら出馬した。彼の出陣は、魏鉄山軍の士気を火の如く燃え上がらせた。

「『魏五虎』に命ず!志文の首を獲り、この戦いを終わらせるのだ!衛国の夢を、ここで断ち切れ!」

魏鉄山は、鉄の塊のような巨大な大刀を片手に突撃した。その威圧感は、大地を震わせた。

志文と周翼の軍が、魏鉄山軍の側面を打ち破ったことで、中央戦線は想像を絶する壮絶な乱戦へと突入した。

魏鉄山は、自ら敵の渦中に飛び込み、志文の軍へと突進した。

彼の武は、もはや人間の域を超えていた。彼の一閃は、全てを薙ぎ払い、衛国の兵士たちを何十と空へと吹き飛ばした。

「志文はどこだ!この魏鉄山が、貴様の存在を消し去ってやる!」

魏鉄山の怒声は、戦場の喧騒を一瞬で静まらせるほどの迫力であった。

志文は、魏鉄山の圧倒的な武に驚きと警戒を抱いたが、冷静さを失わなかった。彼は、魏鉄山の猛烈な動きを見極め、的確に策を講じた。

「周翼殿、芳蘭、張勇。魏鉄山は面倒だ。一騎打ちは避けろ。複数人で囲み、連携でその巨体を崩すのだ」

志文の指示は、即座に実行された。衛国の猛将たちは、三人一組となり、魏鉄山の周りを取り囲んだ。

周翼、芳蘭、張勇が、魏鉄山の全身へと波状攻撃を仕掛けた。

魏鉄山が、三人の猛将に怯むことはなかった。彼は、大刀を盾として使い、三人の攻撃を豪快に撥ね返した。

「小賢しい。多勢に無勢とは、笑止千万。衛国の将も、落ちたものよ」

魏鉄山は、そう嘲笑を放ったが、彼の目は、戦いの歓喜に燃えていた。

強敵との死闘こそが、彼の生き甲斐であった。

この凄絶な乱戦は、夕暮れが大地を赤く染めるまで続いた。両軍の兵士たちは、体力も精神力も限界に達し、指揮官たちの決断により、夕闇と共にそれぞれの陣へと引き上げることとなる。

その壮絶な乱戦の最中、連合軍の今は亡き業髄の参謀、覇萬が戦死した。

覇萬は、かつて戦死した業髄の懐刀であり、深遠な知略と、主君への絶対の忠義を併せ持つ男であった。

業髄が、志文に討たれた後も、覇萬は悲しみを乗り越え、業髄の残した軍の再編と撤退に全てを捧げていた。彼は、魏鉄山の指揮下で参謀の役割を果たし、最後の戦場に立っていた。

彼は、剣を振るう武人ではなかったが、業髄から託された兵を守り抜くという重責を果たすため、なにより、沙嵐国の戦場に残る最後の将として、撤退しないことを決めていた。

(業髄様....貴方が愛したこの軍は、この覇萬が、必ず、最後まで護り通します。貴方の志と遺訓は、私が確かに継いでいます...)

覇萬は、業髄が戦死したときに、心のなかで静かにそう誓った。

乱戦の渦中、覇萬はいつしか衛国の兵士たちに完全に囲まれていた。彼の周囲には、もはや味方の姿はなかった。

彼は、逃げ場がないことを、静かに受け入れた。

「参謀殿。降伏すれば命は助ける。大人しく武器を捨てよ」

張勇が、馬上から覇萬に向かって声をかけた。張勇は、覇萬の忠義を知っており、彼の死を望んではいなかった。

覇萬は、張勇を見上げ、清々しい笑みを浮かべた。その笑みは、悟りを開いた者のようであった。

「張勇殿。貴殿の温情、心より感謝する。しかし、私は、逃げることはできぬ。業髄様に誓った。その忠義を貫き、最後まで戦場に立つと」

覇萬は、握りしめていた剣を構えた。彼の目には、生への執着も、死への恐怖も、なかった。

「沙嵐国業髄将軍参謀 覇萬、ここにあり!」

覇萬は、そう叫ぶと、剣を片手に、張勇へと向かって突進した。

張勇は、覇萬の悲痛な覚悟に言葉を失ったが、将として手加減はできなかった。

彼の兵の槍が、次々と、覇萬の細い体を容赦なく捉えた。

覇萬は、血を吐き出しながら、愛馬の足元に静かに倒れた。

(業髄様....貴方の大義は、この世に残りました....我が魂は....貴方の傍に....永遠に....)

彼の意識は、遥か遠い、業髄のいる世界へと消えていった。

張勇は、馬から降り、覇萬の亡骸に深い礼をした。

一方、白狼山脈の入口に位置する右翼の戦線は、緊迫した状態にあった。

荀厳と汪盃は、山中の要害に本陣を築き、堅牢な守りを固め続けていた。

彼らの責務は、衛国の生命線ともいえる飛砂関への道を、何としても死守することであった。

汪盃が構築した堅守の陣は、一枚岩の如く鉄壁であった。地形の利を最大限に活用し、盾と長槍を幾重にも重ね合わせ、敵に突破の糸口を一切与えなかった。

荀厳は、盟友であった陳毅の死を乗り越え、その悲憤を闘志へと昇華させ、最前列に静かに立っていた。

「汪盃殿。敵の猛攻は、必ず来ます。厳冰と冥禰の本隊が、我々の陣を強引に叩き割る瞬間が来るはずです」

荀厳は、確信に満ちた声で言った。彼の眼差しには、散っていた友の分まで戦い抜くという強い決意が宿っていた。

「ああ、来るであろうな」

汪盃は、そう答えながら、自身の腰に下げた剣に触れた。

夕暮れが迫る頃、山中の谷を揺るがす地鳴りが響いた。

厳冰の軍と冥禰の軍が、山の稜線を埋め尽くすほどの大群で出現した。

その規模は、衛国軍の右翼を数で圧倒していた。

厳冰は、愛馬の蹄を進め、山中の陣を見据えた。

「存分に狩れ」

冥禰は、厳冰の冷徹な命令に従い、総攻撃の号令を発した。

「全軍、進め。荀厳と汪盃の堅陣を、力で打ち破り、その防御の根幹を砕くのだ」

厳冰と冥禰の軍の攻撃は、凄絶を極めた。

その攻撃は、これまでの戦闘で見せた慎重な、策謀を主とする動きとは打って変わり、全てを押し潰すかのような力を以て、衛国軍の堅守へと叩きつけられた。

山中は、瞬時に地獄と化した。玄岳国と沙嵐国の兵士たちは、狂乱の雄叫びを上げ、衛国軍の盾の壁へと肉弾を投じた。

汪盃の剣は、飛来する矢や、敵の槍の穂先を全て叩き落とし、荀厳の槍は、敵の突進の先端を的確に穿った。

孫毅は、荀厳の長年の副将であり、右腕として最前線を統率していた。

孫毅の心のなかには、遠い故郷に残してきた、間もなく嫁ぐ娘の顔があった。

彼は、この戦いを生き延び、娘の晴れ姿を見ることを、何よりも楽しみにしていた。その約束が、彼を戦場に立たせていた。

(千花よ....父は必ず帰る。そなたの、この世で一番美しい姿を....この目に焼き付けるのだ...)

孫毅は、剣を振り続けた。

その時、数部隊が、側面の堅陣の隙を縫うように突進してきた。

孫毅が、気づいた時には、彼の背は、数本の槍に貫かれていた。

「ガハッ」 孫毅は最後の力を振り絞って、体を捻り、敵を斬った。

「ここで倒れてはならぬ....帰らなければならぬのだ....」

「グフッ」 数本の刃が、続けざまに、孫毅を襲った。

孫毅は、その場に血を噴き出しながら倒れた。

「お父様~!どうかしら?私、綺麗でしょ?」 千花は笑っていた。

「ああ....きれいだ....幸せになるのだ....」

孫毅は、静かに瞳を閉じた。

「孫毅....!!」 荀厳は叫んだ。 しかし、彼にもまた、無数の刃が迫っていた。

彼は、ただ友の死を前に、自身に迫りくる刃を払いのける以外に、活路はなかった。

孫毅の死は、奇しくも、衛国右翼軍の士気を爆発的に高めた。

(ちっ...孫毅を討ったのは、愚策だったか....我らも、損害を出したな...) 冥禰は、心の中で、舌打ちした。

「冥禰。もうよい。そなたは、離脱せよ。事は終わったのだ」厳冰は、静かに言った。

冥禰は頷き、後方へとその姿を隠した。

汪盃と荀厳は、孫毅の死を力に変え、凄まじい敵の猛攻を、何とか夕暮れまで耐え抜いた。陣の崩壊は免れたが、その犠牲は甚大であった。

陽が山の向こうに沈み、厳冰と冥禰の軍は、一斉に撤退を開始した。

山中の陣には、戦いの痕跡だけが残り、静寂が戻っていたが、汪盃の心は、その静寂とは裏腹に、激しく波立っていた。

汪盃は、敵の猛攻の凄まじさに、尋常でないものを感じていた。

これまでのどの戦闘とも比べ物にならない、猛攻であった。

「理解できぬ....なぜだ。厳冰は、何を、どう画策しているというのだ....」

汪盃は、強い違和感に囚われていた。

厳冰や冥禰は、戦を力の消耗戦とすることを避ける、策略を旨とする将であった。

真正面から力で押すつもりならば、開戦時に全兵力で右翼を叩いてきたはずであった。

策を好み、最小の犠牲で勝利を得ようとしてきた、彼らの戦いぶりを知っているからこそ、この突然の、全てを薙ぎ倒すかのような力の行使が、汪盃を、深い疑念の渦へと引きずり込んでいた。

「間違いがない。これは、何かの策だ。単なる士気の低下を狙った攻撃ではない。恐らく、明日の大きな布石だ....だが、その布石が何を意味するのかが、全く読めぬ」

汪盃は、深い溜息をついた。厳冰の智謀は、彼の全ての戦の経験を以てしても、真の狙いを掴むことができなかった。

荀厳は、戦友を失った怒りと疲労で、思考が麻痺していたが、汪盃の言葉に耳を傾けた。

「汪盃殿。それは、どういうことですか。奴らは、我々の守りを崩せず、力を使い果たした。それだけのことでは?」

「いや、厳冰は、決して、無意味な犠牲を払う男ではない。今日の猛攻は、我々の注意を引きつけるための偽装。彼は、この間に、何か、我々の予想を遥かに超えるものを準備しているのやもしれぬ」

汪盃は、深い溜息をついた。厳冰の真の狙いは、依然として、深い闇の中に包まれていた。

「汪盃殿。我々のなすべきことは変わらぬ。堅守をより一層、強固にする。敵の真の意図が読めぬ以上、不用意に動くことは、危険だ。飛砂関への道を護り抜く、その一点に集中せねば」

荀厳は、そう言うと、疲弊しきった兵士たちに、夜を徹した陣の再建を指示した。

しかし、汪盃の顔には、深い憂慮の影が落ちていた。

この凄絶な一日の終焉、戦場には、死者たちの魂が彷徨う静寂だけが残された。

衛国は、方陸を討ち、中央の劣勢を挽回した一方、右翼では、かけがえのない忠臣を失い、厳冰の意図が読めない、極度の緊張状態に追い込まれていた。

夕暮れが、鮮やかに地を染め抜いていた。


四日目の開戦は、夜明けと共に、始まった。

戦いの火蓋は、右翼の後方から、突如として切られたのであった。

飛砂関の方角から、甲高く、そして狂乱じみた喚声が響き渡った。

その喚声は、まるで山脈全体が揺れているかのような、異常な響きを伴っていた。

「何事だ!」

荀厳が、即座に立ち上がった。彼の顔には、警戒の色が濃く浮かんでいた。

直後、一人の伝令兵が、息を切らせて本陣に駆け込んできた。その顔は、恐怖に歪んでいた。

「報せにございます!飛砂関が....飛砂関が、三千の兵に攻められています!すでに、後方の防御壁に梯子がかけられたとの報!」

この報せは、右翼の陣営全体に、大きな動揺をもたらした。飛砂関は、衛国の生命線であり、そこが破られれば、全軍の退路は完全に断たれる。

荀厳は、感情を抑え込み、伝令の言葉を厳冰の謀略として分析した。

「落ち着け。これは罠だ。厳冰の策に決まっている」

荀厳は、鋭い眼光で、汪盃に視線を送った。

「考えてもみよ、汪盃殿。厳冰は、我々をここで釘付けにすることが、最も重要なはず。なぜ、飛砂関などという、本陣から離れた場所へ、わずか三千の兵を割く必要がある。我々をおびき出すための、陽動以外の何物でもありません」

荀厳の分析は、兵法の理からすれば、極めて正しかった。彼は、厳冰の智謀を知っているからこそ、兵力を無意味に分散させるような愚行は犯さないと確信していた。

「それに、三千の寡兵で、堅牢な飛砂関を落とせるはずがない。落とす気がなく、ただ我々の目を背けさせるための、偽りの報せと見るべきです。ここで動けば、手薄になった我々の陣を、厳冰の本隊が一気に叩き割るでしょう」

しかし、汪盃の心中は、荀厳の論理とは全く異なっていた。彼の脳裏には、昨日からの、胸を締め付けるような「違和感」の正体が、一気に氷解していくのを感じていた。

(違う。三千ではない。厳冰の策は、そんな単純なものではない)

汪盃の思考は、狂気にも似た速度で回転した。

(昨日の猛攻は、単に我々を疲弊させるためではないはずだ...真の目的は、注意を眼前の激戦に集中させ、その右手に広がる広大な森を行軍する軍の音と気配を隠すためではないか....それに、厳冰が撤退したとき、冥禰は既にいなかった....)

昨日の猛攻は、我々の兵数を減らし、この本陣から、飛砂関への兵を割くことを不可能にするための布石。そして、この「三千」という初報は、我々の警戒心を緩ませるための、巧妙な偽装である。

汪盃はそう思った。

(三千では落とせない、と我々が判断する時間を稼ぐためだ。そして、この報が我々に届く頃には、飛砂関は、すでに落城寸前の兵数に囲まれているに違いない)

汪盃は、次報を待つという行為が、衛国の滅亡を意味することを瞬時に悟った。

厳冰は、その次報が届く前に、飛砂関を落とし、衛国の退路を完全に断ち切るつもりであると。

汪盃は、静かに立ち上がった。彼の全身からは、重々しい決意が立ち込めていた。

「荀厳殿」

汪盃の声は、低く、そして揺るぎないものであった。

「私は、飛砂関へ向かう。私の違和感は、そう告げている」

「何だと!」荀厳は、顔色を変えた。「汪盃殿!それは、厳冰の策に、自ら飛び込む行為だぞ!動いてはならぬ!」

「貴殿の理は、正しい。だが、将は、時として、理を捨て、直感に従わねばならぬ時がある。飛砂関が落ちれば、我々の堅陣も、いずれは孤立無援で崩壊する。衛国の命脈は、飛砂関にある」

「荀厳殿。貴殿の軍は、ここに残ればよい。私は、精鋭八千を連れて、飛砂関へ急行する。どちらが罠だとしても、飛砂関へ私はいかねばならぬ」

「行けば、我らの命は....そして貴殿の命も、厳冰の策の餌食となる!ここで、軍を分けるのは、愚策なのだ!」

荀厳の悲痛な叫びを、汪盃は背中で受け止めた。彼は、もはや振り返らなかった。

「荀厳殿。貴殿の忠義は、この汪盃、よく存じておる。それでも、我が魂は、飛砂関にある」

汪盃は、そう言い放つと、精鋭八千の兵士たちに、出陣の号令を下した。

「飛砂関へ急行せよ!一刻を争う!」

八千の兵士たちは、主君の狂気にも似た決意に応え、白狼山脈の脇道へと、一斉に馬を飛ばした。

それは、衛国の命運をかけた、絶望的な疾走であった。

荀厳は、その場に立ち尽くし、砂塵を巻き上げて遠ざかる盟友の背中を見つめていた。

彼の心中には、どうすることもできない無力感と、そして、厳冰の策の真の深淵への、底知れぬ恐怖が渦巻いていた。

その頃、中央戦線は、すでに壊滅的な状況に瀕していた。

魏鉄山軍の猛攻は、極限にまで達していた。

特に、魏鉄山の武は凄まじく、彼の巨大な大刀は、衛国軍の兵士たちの血を吸い、その威圧感は、大地を震わせるほどであった。

「厳冰の策など、この中央で打ち砕く。志文の首は、この魏鉄山の獲物だ。衛国などここで塵と化してくれるわ!」

魏鉄山の怒号は、衛国軍の兵士たちを恐怖のどん底に突き落とした。

中央を守る衛国軍の張江と周翼・志文の軍は、兵数で大きく劣勢であった。

魏鉄山軍五万に対し、彼らの兵力は二万。その上、連日の激戦により、士気は低下の一途を辿っていた。そして、なにより、飛砂関が攻められていた。

「飛砂関が攻められているだと....!援軍を送らねばならぬ....」

周翼は、愛用の鋼の剣を血で濡らしながら、焦燥の声を上げた。

張江は、苦渋の表情で首を横に振った。

「無理だ、周翼。魏鉄山の猛攻は、今が頂点だ。我々が、飛砂関への入り口を開け、兵を割けば、魏鉄山の五万が一気に、なだれ込んでくる。そうなれば、中央は一瞬で崩壊する。我々は、ここで踏ん張るしかない。右翼の援軍に賭けるしかないのだ」

張江は、歯を食いしばった。

彼らの選択肢は、飛砂関を見殺しにし、自らが盾となるか、それとも、全軍の瓦解を招くか、という絶望的な二択しかなかった。

しかし、その望みも、魏鉄山配下の猛将たちによって、次々と打ち砕かれていった。

魏鉄山配下の中核をなす「魏五虎」の一人、聞閉の槍は、人並外れた正確さを持っていた。

彼は、衛国軍の隊列の隙を冷徹に突き、周翼軍の中核部へと突進した。

周翼配下の里忠は、主君を守るため、聞閉の前に立ちはだかった。

里忠は、俊敏な動きと、巧みな剣術を誇る将であったが、聞閉の洗練された槍術の前には無力であった。

「雑魚が。邪魔だ」

聞閉は、槍を一気に突き出した。 その槍は、彼の肩を浅く切り裂いた。

「グッ....!」

里忠は、血を噴き出し、よろめいた。

聞閉は、一歩踏み込み、槍の刃先を、里忠の胸へと容赦なく突き立てた。

「貴様の忠義は、感嘆する。だが、貴様では我を止めれぬ」

(周翼様....お許しを....この里忠....貴方様をお守りすることができませんでした....衛国の未来を....)

里忠の死は、周翼軍の隊列に、深い亀裂を生じさせた。

里忠の戦死の裏で、「魏五虎」の一人、大崩が、周翼軍の別の側面を打ち破っていた。大崩は、その名の通り、山を崩すかのような力を持つ、豪放な将であり、巨大な鉄棍を武器としていた。

周翼配下の誼固は、大崩の突進を阻止するため、自ら槍を構えて挑んだ。誼固は、隊列の再編を担う、冷静な指揮官であったが、大崩の圧倒的な武力の前には、その知略も通用しなかった。

「吼えろ!大崩の鉄棍が、貴様らの生ぬるい戦意を、叩き潰してくれるわ!」

大崩は、そう叫び、鉄棍を頭上で一回転させ、誼固へと振り下ろした。その重圧は、周囲の兵士たちの動きを止めた。

誼固は、槍を突き出し、鉄槌の衝撃を分散させようと試みたが、その重さは、想像を遥かに超えていた。鉄槌が槍の柄を直撃した瞬間、誼固の腕の骨は、悲鳴を上げた。

「くそ....何という....力だ....!」

誼固は、槍を手放し、後退を試みたが、大崩はそれを許さなかった。大崩は、鉄棍を地面に叩きつけ、巻き上がった土埃で誼固の視界を奪った。

そして、その土埃の中から、大崩の鉄棍が、容赦なく誼固の頭上へと振り下ろされた。それは、避けようのない、宿命の一撃であった。

「沈め、衛国の将よ!」

鉄棍は、誼固の兜を叩き割り、彼の全身を粉々に打ち砕いた。

誼固は、一瞬の苦痛すら感じることなく、戦場に散った。

大崩は、勝利の雄叫びを上げ、周翼軍の兵士たちを恐怖のどん底に突き落とした。

周翼軍は、指揮系統が次々と破壊され、もはや隊列を保持するのがやっとの状態であった。

そして、最も激しい死闘は、張江軍の中核で起こっていた。

魏鉄山は、自ら、張江軍の最も強固な部分へと突進し、その力で、衛国軍の陣をこじ開けようとしていた。彼の行く手には、血の道が築かれていた。

今は亡き中央軍副将 高遠の配下、孫賢は、魏鉄山の突進を阻止すべく、単騎で魏鉄山に挑んだ。

「魏鉄山!貴様を通すわけにはいかぬ!張江様をお守りするのだ!」

孫賢は、剣を抜き放ち、魏鉄山の巨体へと、連突を繰り出した。

彼の剣は、光の筋のように、魏鉄山の全身を襲った。

しかし、魏鉄山は、その全ての突きを、まるで木の葉を払うかのように、巨大な大刀で弾き飛ばした。彼の防御は、鋼鉄の壁のように堅固であった。

「小癪な。その速さだけでは、我の鎧を穿つことはできぬ。貴様のような若造に、この戦場の重みがわかるか」

魏鉄山は、孫賢の攻撃を全て受け止め切ると、大刀を横に一閃した。その一閃は、神速の孫賢の動きを遥かに超える、重々しい、それでいて致命的な一撃であった。

大刀は、彼の胴体を、鎧ごと両断した。

「ウ、ア....」

孫賢は、血を噴き出し、愛馬から崩れ落ちた。彼の剣は、力なく地面に落ちた。彼の視界は、赤く染まっていた。

魏鉄山は、討ち取った孫賢を一瞥することなく、大刀を血で濡らしながら、張江の本陣へと進んだ。

孫賢の死によって、張江軍の隊列は、完全に崩壊寸前していた。

兵士たちは、もはや戦意を失い、恐怖に怯えながら、ただ後退するしかなかった。

張江は、周翼と共に、必死に兵士たちを鼓舞し、隊列を立て直そうとしたが、その努力も、魏鉄山の圧倒的な猛攻の前には、水泡に帰すようであった。

(くそ....もう限界だ。飛砂関さえ守られれば....我らの士気も高まるのだ....衛国の未来は、荀厳、汪盃、そなたらにかかっている...)

張江は、血を吐きながら、心の中でそう叫んだ。

中央戦線は、もはや絶望的な状況にあった。飛砂関の入り口を開け、援軍を送るなど、夢のまた夢であった。

その頃、汪盃率いる精鋭八千の軍は、白狼山脈の脇道を超え、飛砂関へと急行していた。

兵士たちの喉は渇き、疲労は極限に達していたが、主君の狂気に近い決意と、衛国の存亡をかけた使命感が、彼らを突き動かしていた。

脇道を超え、飛砂関の全景が眼下に広がった瞬間、汪盃の目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景であった。

飛砂関の周囲は、玄岳国軍の兵士たちによって、完全に包囲されていた。その兵数は、初報の三千どころではなかった。汪盃の直感は、最悪の形で的中していた。

「あれは....二万騎....」

汪盃は、声を絞り出した。

飛砂関を囲む玄岳国軍は、約二万騎。飛砂関に配備されている衛国軍の兵数と、ほぼ同数であった。

さらに、衛国軍は、城壁に籠っているとはいえ、連日の戦闘で精神的に疲弊しきっていた。

すでに、関には、数本の梯子がかけられ、玄岳国軍の兵士たちが、まるで蟻の群れのように、城壁を登り始めていた。

城壁の上では、衛国軍の兵士たちが、必死に抵抗していたが、その勢いは、すでに尽きかけているように見えた。

「厳冰め....やはり、策であったか。初報を三千と偽り、二万の兵を森の中に隠し、ほどなくして、ここに送り込んだのだ。なにより、冥禰....やはり貴様か...」

汪盃の顔には、激しい怒りと、そして、絶望の色が浮かんだ。

彼の予感は、最悪の形で現実のものとなった。

汪盃軍八千対冥禰軍二万。さらに、城壁を登り始めた敵兵は、城内の兵士たちを内側から崩壊させようとしていた。

「汪盃殿....我々の数は、八千。敵は二万....正攻法では、勝ち目はありません。我々が突撃しても、敵の数の前に、すぐに押し潰されます」

将の一人が、悲痛な声で汪盃に訴えた。

汪盃は、長大な剣を抜き放った。彼の瞳には、もはや迷いはなかった。

「勝ち目など、初めからなかった。厳冰の策は、完璧であった。我々が、冥禰の軍を潰すのだ。それ以外にもはや、衛国の未来はない」

汪盃の言葉は、彼の最後の決意であった。

「飛砂関が落ちれば、衛国は終わりだ。我々は、ここで、最後まで踏ん張る。それが、我々に残された、唯一の道である!衛国の忠義を、敵に見せつけてやれ!」

汪盃は、そう叫ぶと、愛馬を一気に走らせた。

「全軍、突撃!敵の背後を突き、関を解放せよ!」

八千の兵士たちは、悲壮な覚悟をもって、二万の玄岳国軍の背後へと、向かって行った。

絶望的な戦いの火蓋は、今、切って落とされた。

汪盃軍が、冥禰軍を殲滅し、かつ飛砂関を守り切ることが前提であった。そして、それまで、魏鉄山軍の猛攻に、張江らが耐え続けることもまた、前提であった。

陽が高く昇り始めるころであった。衛国の未来は、この激闘に委ねられていた。


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