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#1-39 謀将達の罠

二日目の魏鉄山軍・方陸軍の猛攻は、衛国軍を壊滅の危機に陥れていた。

しかし、中央戦線は、連合軍の波状的な総攻撃を左翼からの援軍として、突如、魏鉄山軍の側面を急襲した葉旋のおかげでなんとか戦線を保っていた。

葉旋の槍は、凄まじく、魏鉄山軍の猛攻の気勢を、確実に削いでいった。

張江軍の左方にいた、周翼の率いる部隊は、芳蘭と張勇の隊の鬼気迫る武働きによって、なんとか、夜明けまで陣容を保っていた。

三日目の朝が訪れた。中央軍本陣の天幕は、勝利の熱狂ではなく、重く冷たい空気で満たされていた。

「志文、まだ()れるか?」張江は、志文を気遣うように尋ねた。

「李岳は、きっと、ここで止まることを望みませぬ。お気遣いいただき感謝します」志文は、力強く言った。

張江は深く頷くと、話を続けた。

「左翼は、馬淵軍を完全に壊滅させた。まずは、そのこと、誠に感謝する」

張江は静かに言葉を発した。彼の声は、本陣の隅々まで響き渡った。

「この戦場において、魏鉄山が取るであろう選択肢はただ一つ。戦局を打開し、衛国の心臓を叩くこと。すなわち飛砂関を落とすことだ」

飛砂関は、衛国の心臓を守る最後の門である。

これを破られれば、衛国の首都は致命的な危機に瀕する。張江は、乾いた唇を噛み締めた。

彼は、卓上に広げられた戦域の地図を指差した。

「磐虎の軍を、天狼山脈の飛砂関側に近い入り口に配置する。敵は、我らの軍を殲滅せんがために、飛砂関近くまで押し寄せてくるだろう」

張江は続けた。その言葉には、一切の迷いがなかった。

「敵が飛砂関近くまで来たところで、磐虎の軍と我らの軍で、挟撃をかけるのだ。魏鉄山にこの策が露見したとしても、飛砂関を落とすという目的のために、挟撃を甘んじて受け入れ、我らの軍を殲滅する以外に、奴に手立てはないはずだ」

しかし、同時に、張江は、この策が、両刃の剣であることを誰よりも理解していた。

敵は、挟撃されるという最悪の状況を承知の上で、張江の中央軍を、飛砂関の目前で、完全に叩き潰すことを選ぶのだ。

それは、衛国中央軍にとって、文字通り、自らの生死を分ける賭けであり、敵は死をも恐れぬ覚悟で来ることを意味していた。

「仮に、奴らが、天狼山脈を抜けて、飛砂関へ行こうとしても、飛砂関側に近い天狼山脈の入り口には、すでに磐虎がいる。磐虎に先回りさせ、天狼平野で戦を仕掛ければ、山脈を抜けて左翼から飛砂関に回られる可能性は低いだろう」

張江の戦略は、敵の行動を極限まで制限し、戦闘の場所と時を強制するものだった。

魏鉄山は、最も不利な状況下で、衛国軍と戦うことを強いられることになる。

次に、張江は軍の再編について言及した。二日目の激戦を経て、数多の将兵を失った今、中央軍の再編は急務であった。

「中央副将は、志文と周翼に任せる。志文、そなたには、周翼の軍との協同で、方陸軍と対峙してもらいたい。頼めるか?」

「拝命いたしました」 志文は、武人の礼をとった。

そして、張江は、右翼の荀厳を見据えた。

張江は力を込めて言った。

「友よ。ここまで、よく耐えてくれた。相手は、我らの仇でもある厳冰だ。奴は強い。我々の想像よりも何倍もな。だが、そなたは、汪盃を呼び寄せることに成功した。今は、さらに防御を固めるのだ。いかなる事態に陥っても、防御に専念せよ。右翼が崩れれば、飛砂関への道は、開かれてしまうのだ。信じているぞ、友よ」

荀厳は、微かに頷いた。彼はまだ、陳毅の死から立ち直れていないようだった。

張江は、何も言わなかった。どんな言葉をかけても、今の荀厳には届かないような気がした。

陳毅の戦死は、右翼の守りに大きな穴を開けていた。

張江は、荀厳に、この戦場で最も困難で、泥臭い役割を担わせることを理解していた。

「ただ、白狼山脈を越えて、敵が中央を挟撃する可能性も捨てきれぬ。だが、白狼山脈の入り口に兵を割いて、飛砂関を攻められる、あるいは、中央が崩れる事は許されぬ。ゆえに、その可能性は、頭の片隅にとどめ置き、兵はそこには割かないこととする。皆、辛い戦ではあるが、ここで踏みとどまり、衛国と、そして、散っていった友と、共に歩みを進めてほしい」

張江は、深々と頭を下げた。

軍議は、張り詰めた空気の中で終わりを告げた。

張江の決意は固かった。彼は、この戦いの先にある、衛国の未来を繋ぎ止めようとしていた。

一方その頃、連合軍中央本陣は、総大将魏鉄山の抑えきれない怒りに包まれていた。

魏鉄山は、衛国中央軍の予想以上の奮戦により、中央総大将である張江の首をいまだに取れずにいることに、激しく憤慨していた。

彼の威圧的な巨体が、本陣の天幕の中で、静かな怒りを放っていた。

その場に、沙嵐国の馬淵軍副将呈威の配下、静音が現れた。彼女は負傷しており、その顔色は優れなかったが、まっすぐに魏鉄山を見据えた。

「魏鉄山様。左翼の馬淵軍は壊滅しました。馬淵様からの伝言です。左翼からの急襲に備えるように、と」

静音は、簡潔に、そして無駄なく伝言を告げた。

「馬淵が壊滅した?(まこと)か?」

魏鉄山は、静音を射抜くような眼差しで睨みつけた。

「真にございます。私が天狼山脈を去ったのは、呈威様が討たれ、馬淵様が後方の隘路へ撤退される時でした。しかし、馬淵様は私に仰いました。左翼からの急襲に備えよと。恐らく馬淵様は....」

「急報!」その声は、静音の伝言を打ち消した。

「何事だ!」魏鉄山は、静かに怒号を放った。

伝令兵は、静音の姿を見て、少し会釈をした。

「馬淵軍壊滅!馬淵将軍は討ち死にされました!」

魏鉄山の幕舎は静寂に包まれていた。

「下がれ...」魏鉄山の声は、重々しかった。

静音は、徐に口を開いた。

「私は、これにて沙嵐国へ帰還します。残された兵は、三十騎ほど。この戦局には、影響を与えませぬ」

静音は、そう言い残すと、静かに本陣を去った。

魏鉄山は、彼女を止めなかった。彼女の傷が深く、また、その言葉通り、彼女の隊は戦局に影響を与えないと判断したからである。

静音が去って間もなく、一人の男が姿を現した。

目は冷徹だが、どこか飄々としている男であった。

「厳冰....貴様...!!」 魏鉄山の言葉を遮るように、厳冰は一方的に告げた。

「四日目に飛砂関を攻める」

厳冰は、軍の序列や慣習に囚われず、常に己のペースで行動する男であった。

彼は魏鉄山に対し、恭しい態度を全く取らない。

そして、彼の言葉には、一切の迷いがなかった。それは、彼の中で、既に、決定事項と化していた。

魏鉄山は、怒りを抑えきれず、立ち上がった。

彼の怒号が、天幕を大きく揺るがしていた。

「馬淵の軍は壊滅したのだぞ!我らは兵を失い、さらに奴ら、中央軍は挟撃の構えをとるぞ!それなのに、飛砂関を攻めるだと!正気か!」

「荀厳が汪盃を呼び込むことは予想していた。誤算があったとすれば、予想より、冥禰の離脱が早かった、それだけだ。結果は変わらぬ」

厳冰は、淡々と説明した。彼は、ただ事実だけを述べた。

魏鉄山は、冥禰という将を知らなかった。彼は、厳冰に尋ねた。

「冥禰とは、どのような男だ?何故、飛砂関を攻めることができるのだ?」

「冥禰は、馬淵軍の壊滅を予測していた。楽愁が討たれたときからな。ゆえに、奴は、右翼から天狼山脈を抜けて、飛砂関へ突破するために、精鋭を連れて離脱した。奴は、全軍を俺のもとによこしてはおらぬ。どこか山中で待機させ、荀厳と汪盃の焦燥を利用し、奴らが、本陣に帰った後、飛砂関へ向かうのだろう。三日目に待機させるのは、中央の戦況を見るためだ。中央が危険になれば、奴は中央に援護へ行くはずだ。ゆえに、中央が崩れれば、この策は成功せぬ」

厳冰は、さらに続けた。

「あれは、まだ青いが、その智謀は、中々だぞ」

厳冰は、そう言うと、幕舎を後にしようとする。

魏鉄山は、眉間に深く皺を寄せた。

「なぜ、離脱後、そのまま飛砂関を攻めなかった?」

純粋な疑問であった。

厳冰は、嘲笑も驚嘆もしなかった。ただ、その瞳は冷たかった。

「攻めているうちに、荀厳たちが追い付き、背後から挟撃されるからだ。奴は、飛砂関を攻める前に、荀厳軍と汪盃軍を飛砂関から引き離し、ある程度、叩く必要があると判断した。陳毅らを討ち取った今、奴が飛砂関を攻めると同時に、俺の軍が、荀厳らを叩けばよいだけだ」

厳冰は、そう言うと、静かに去っていった。

魏鉄山は、厳冰の後ろ姿を、しばらく見つめていた。

彼の心は、厳冰の非情な才能に対する警戒と、その策がもたらすであろう勝利への期待が複雑に絡み合っていた。

「大崩、孟武、聞閉、露鴈、陳堅、そなたらは、全力で攻撃せよ。奴らに、反撃の隙を与えてはならぬ。方陸にも同じように伝えよ。張江の首を取るのだ。我らの大義のために、この戦いに終止符を打つのだ。四日目まで待たずとも、張江の首をとれば、飛砂関は落ちたも同然だ!」

魏鉄山は、そう命じると、自らは本陣に残り、配下に、張江の軍へ猛攻をかけさせた。

彼の眼には、すでに飛砂関陥落の未来が映っていた。

三日目の戦いは、夜明けと共に、中央戦線から始まった。

魏鉄山軍の猛攻は、これまで以上の凄まじさであった。勝利への執念と焦燥が込められていた。

張江は、堅陣を組み、磐虎は、側面からの突撃の機を待っていた。

「雷剛。祇雄や邑鵬、風烈らの分まで、俺たちは戦うぞ。衛国を護り抜くのだ。()くぞ!」

磐虎は、そう言うと、静かに愛馬を駆った。彼の声は低く、決意に満ちていた。

磐虎軍の突撃は、魏鉄山軍の側面を、まるで巨岩が叩きつけるように襲った。

その一撃は、凄まじいものであり、連合軍の側面を一気に崩壊させた。

張江は、磐虎の突撃に合わせて、全軍に突撃を命じた。

「全軍。突撃せよ。磐虎の武に続け。今こそ、敵を挟み潰すのだ」

中央戦線は、瞬く間に大規模な乱戦となった。

挟撃を受けた魏鉄山軍は、一時的に大混乱に陥る。

しかし、魏鉄山の配下は、その混乱の中でも、強靭な統制を保っていた。

彼らは、魏鉄山自らが鍛え上げた精鋭であり、戦場の混乱の中でも、その牙を研ぎ澄ませる。

彼らは、『魏五虎』と呼ばれる猛将たちであった。

磐虎は、そのうちの一人、孟武と対峙していた。

孟武は、圧倒的な武を持ちながら、常に冷静であった。

その巨体から繰り出される薙刀の一撃は、正確無比であった。

磐虎は、愛用の薙刀を振るった。

その一撃は、孟武の鎧の脇腹をかすめたが、決定的な傷を与えるには至らなかった。

孟武は、静かに、磐虎の胸を狙って、薙刀を横にはらった。

磐虎は、体をそらして、何とか躱したが、それこそが孟武の狙っていた隙であった。

孟武は、自身の持つ薙刀を、渾身の力で振り下ろした。

その一撃は、磐虎の薙刀を弾き飛ばした。磐虎の手首に衝撃が走る。

磐虎は、その力の絶対的な差に驚愕した。

「貴様...何者だ。この世に、これほどの剛力を持つ者がいたとは」

孟武は答えなかった。

孟武の猛攻は続いた。磐虎は、腰に下げていた剣を抜き、その猛攻を、必死に受け止めるが、その剛力に圧倒され、次第に後退を強いられた。彼の体勢は、大きく崩れていた。

磐虎配下の猛将、雷剛が、主君の危機を見て、叫びをあげた。

「殿!お下がりを!磐虎旗下第一将 雷剛参る!」

雷剛は、愛馬を孟武に向けて駆り、猛然と突進した。

彼の武は、磐虎の右腕と称されるほどのものであり、その忠義は、主君に深く根ざしていた。

窮地に立たされた主君を救う、ただその一心であった。

雷剛は、力の限り、薙刀を孟武に向けて振るった。

その一撃は、孟武の側頭部を捉えるはずであった。

孟武は、人間離れした静かな動きで、体をそらした。

その動きは、雷剛の予想を遥かに超え、まるで、そこに初めからいなかったかのようであった。雷剛の薙刀は、空を切った。

孟武は、一瞬にして体勢を立て直すと、自身の薙刀を、雷剛の胸に向けて突き出した。

その一撃は、雷剛の胸部を深々と捉えた。

雷剛は、薙刀を手放し、静かに地に倒れた。

彼の意識は、もはや戦場になかった。

(殿...どうか...ご無事で。この命、衛国のために、尽くすことができた....これほどの、喜びがあろうか....)

彼の胸中には、二人の子供の、無邪気な笑顔が浮かんだ。

彼は、この戦場に来る前、必ず生きて帰ると、固く誓っていた。だが、その誓いは、もはや、果たすことは叶わなかった。

(すまぬ....沁爛...。耀....尚...。父は、お前たちを、二度と抱きしめることはできぬ....しかし、常に側にいる....幸せに生きるのだ....)

血の味と共に、彼の視界は、徐々に白く霞んでいった。

最後に彼が見たのは、主君である磐虎の、怒りに満ちた顔であった。

彼の命は、主君を護るための、最後の盾となった。雷剛は、静かに、地に伏した。

「雷剛!」

磐虎は、激しい怒りに燃えていた。彼の武は、友の死の怒りによって、さらに増幅された。

彼は、理性を失い、孟武に猛然と突進した。

その一撃は、孟武の頬をかすめ、一筋の血が流れる。

孟武は、静かに、しかし、冷徹な笑みを浮かべた。

「怒りという感情だけは、この場において抱くべきではなかったな」

『魏五虎』の一人、陳堅が、磐虎の背後から、静かに、そして確実に迫っていた。

陳堅は、武の隙を的確に突く、冷酷な技を持つ男であった。

陳堅は、静かに愛用の弓を構えた。その一撃は、磐虎の背中を貫いた。正確無比な一撃であった。

「ぐっ....」

磐虎は、静かに苦悶の声を漏らしたが、愛馬から崩れ落ちることはなかった。

彼は、必死に愛馬に留まり続けた。彼の体は、瞬く間に流れ出る血に染まっていた。

その痛みは、肉体的なものではなく、友を失い、自らも、無様に傷を負ったことへの無念であった。

磐虎は、押し寄せる敵をなんとか押しのけ、後方へと撤退した。

魏鉄山軍は、勝利の歓声をあげた。

雷剛の死と磐虎の負傷により、中央軍の士気は一気に地に落ちた。

魏鉄山軍の優勢は、もはや決定的であった。

張江は、遠くでその光景を見ていた。

彼の心は、磐虎の負傷と、兵士たちの士気の低下により、絶望に満たされていた。

「磐虎.....李岳、陳毅に続き、衛国の柱が、次々と倒れていくのか....磐虎....逝ってはならぬぞ...」

彼は、静かに剣を抜き、自ら前線に向かった。彼の武は、衛国のためにあった。

その頃、中央戦線右翼では、志文と周翼が、方陸の軍と激しい攻防を繰り広げていた。

彼らは、目の前の戦闘に集中しており、雷剛の戦死や磐虎の負傷を、知る由もなかった。

陽はすでに高く昇っていた。灼熱の陽光が、戦場の熱に拍車をかけていた。

中央戦線右翼は、三日目の開戦以来、異様な静寂に支配されていた。

灼熱の陽光が、天狼平野の砂塵を照りつけ、乾いた風が吹き抜けていた。

志文・周翼の軍が対峙する方陸軍は、一切の動きを見せず、ただひたすらに堅守を固めていた。

方陸の陣は、まさに鉄壁であった。兵士たちは、盾と槍を重ね合わせ、隙間一つない壁を作り上げていた。その陣容は、衛国軍のどの猛攻をも撥ね返す、強固な意志の表れであった。

「志文、どうするつもりだ」

周翼が、隣で言った。彼の声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。

中央での激戦の報は、まだ彼らの耳に届いていなかった。しかし、この膠着が、中央の戦況を悪化させていることは、彼にも明白であった。

「方陸は、動かぬほうが得策だと思っているのです、周翼殿」

志文は、愛馬の首を優しく撫でながら、静かに答えた。彼の瞳は、方陸の陣の奥を見据えていた。李岳を失い、さらに中央で仲間が戦っている今、志文の表情は、冷徹な仮面を被っているかのようであった。

「中央の魏鉄山は、今、張江将軍と磐虎の挟撃に遭っているはずです。魏鉄山は、ここで中央を叩き潰すか、あるいは飛砂関を攻めるかの決断を迫られている」

「飛砂関を攻めるにせよ、中央を叩くにせよ、方陸は我々を無視することはできぬはずだ」

周翼は、剣の柄に手をかけ、怒りを堪えていた。彼の武は、この待機という状況を最も嫌っていた。

「通常ならばそうなります。しかし、方陸は動かない。それは、きっと彼が飛砂関が必ず落ちると確信しているからです。それ以外にあり得ませぬ」

志文は、馬上で静かに目を閉じた。風が、彼の頬を撫でていった。

「己の軍を動かし、無駄な損耗を出す必要はないと、彼は判断している。飛砂関が落ちれば、我らの軍は、自ずと崩壊する。彼は、そう読んでいるのです」

「飛砂関が落ちる。しかし、中央の挟撃が成功している以上、魏鉄山が攻める確信はないはずだ」

周翼は、疑問を呈した。その疑問は、この戦場の大局を捉えていた。

「魏鉄山の猛攻が、飛砂関に届くかどうかは、方陸にとっても確信が持てないでしょう。しかし、彼が信じているのは、厳冰の言葉です。玄岳国の『玄岳四堅』、その第一堅 厳冰の言葉です」

志文は、そう結論づけた。

「方陸は、厳冰と同じ玄岳国の将です。厳冰が仮に、『飛砂関を落とす』と言えば、方陸は無条件にそれを信頼する。厳冰の智謀は、それほどの絶大な信頼を、同国の将に与えているのです」

周翼は、無言で頷いた。その信頼こそが、衛国軍にとって、最大の障害であった。

「我らが為すべきことは、方陸のその確信を、打ち砕くことです。方陸を討たない限り、彼はここで動かず、軍の損耗を最小限に抑え、厳冰が飛砂関を攻めるときに、我らを襲う最後の楔となるでしょう」

志文の瞳に、冷たい決意の光が宿った。

「しかし、厳冰の動きをどう読むのだ。彼の策は」

周翼は、警戒を緩めなかった。厳冰の存在は、衛国軍にとって、最大の脅威であった。

「厳冰が飛砂関を攻めるには、白狼山脈の入り口を固める荀厳軍と、それに合流した汪盃軍を突破しなければなりません。荀厳軍は、友を失った怒りで、現時点では、士気が非常に高いはずです」

志文は、確信を持って言った。

「そして、汪盃軍の堅守の固さは、先の雷鋒での戦いで、我々も骨身に染みて知っていますが、あの堅守を崩すには、厳冰も、それ相応の策と時間を要するはずです」

「では、少なくとも、今日は持つと?」

「ええ、今日は持ちます。厳冰は、荀厳軍を突破する策を練るでしょう。しかし、荀厳軍は、仲間の死により、厳冰軍と冥禰軍に恨みを抱き、士気が高い。突破するには、それ相応の犠牲を払う必要があります。そして、厳冰は、それを嫌うはずです」

志文は、そう結論づけた。彼の冷静な判断は、李岳を失った悲しみを、一瞬たりとも行動に滲ませることはなかった。

「周翼殿。貴殿は、この後方で、方陸の動向を監視してもらいたい。我らが方陸軍の堅守を崩したのち、彼らが動揺し、こちらに猛攻を仕掛けてくるかを見極めてほしいのです」

「志文。そなたの軍だけで行くというのか....」

「私は、李岳を失った。この戦場において、これ以上の犠牲は許されません。この私が許しません。方陸を討つ。そして、衛国の未来を護る。それが、李岳への弔いだと、今は信じることにします」

志文は、静かに愛馬を駆り出した。彼の背中には、李岳の重い魂が乗っていた。

志文が率いる軍は、その数、わずか千騎。

だが、その練度は、衛国軍の中でも群を抜いていた。

芳蘭と張勇、そして、李岳の精鋭たちが、志文の背後に続いた。

彼らの目には、死を恐れる感情はなかった。あるのは、友の死を無駄にしないという、鋼のような意志だけだった。

「芳蘭、張勇。行くぞ。魚鱗の陣で狩る。方陸軍の堅守を、一気に叩き割る!」

志文の号令が、砂塵の中を静かに響いた。

志文は、魚鱗の陣の尖頭となって、方陸軍へと突撃した。その速度は、まるで飛矢のようであった。

方陸軍の堅守は、易々とは崩れなかった。

彼らの将兵は、一人一人が、精鋭中の精鋭であった。彼らの槍の穂先は、志文軍の突進を、寸前で止めようと、無数に突き出されていた。

志文は、愛用の薙刀を振るった。その一撃は、大地を切り裂くかのようであった。

薙刀が交錯するたびに、血飛沫が舞い、肉が裂ける音が響いた。

彼は、一人で、方陸軍の最前線を切り開いていた。その武は、鬼神をも凌駕する、そんな武であった。

方陸軍副将、紋甫は、最前線で指揮を執っていた。

紋甫は、まだ齢三十を過ぎたばかりの若き将であったが、その武と智は、方陸に次ぐものであった。

彼は、玄岳国の南方の貧しい村の出身で、幼い頃から武を磨き、その才能だけで、この地位まで上り詰めた。

彼は、故郷に残してきた妻と、まだ幼い息子のために、この戦いに全てを賭けていた。

彼の家族は貧しかった。玄岳国で起きた局地的な洪水により、すべてを彼は失っていた。

(この一戦を耐え抜けば、息子は、飢えを知らずに育つことができる。妻は、安穏な生活を送ることができる。そのためならば、この命など塵に等しい)

紋甫は、そう心に誓い、愛用の長柄の鉞を構えた。

彼の鉞は、その重さゆえ、並の兵士には扱えない代物であったが、紋甫の手にかけられた鉞は、まるで紙のように軽やかであった。

「志文め、突撃してくるとはな。しかし、この紋甫、貴様を、そう易々とは通さぬ」

紋甫は、志文の突進を、長柄の鉞で受け止めた。金属同士がぶつかり合う、凄まじい音が響いた。

「紋甫か....貴様の武、見事だ....だが、ここで、退いてもらおう」

志文は、そう言うと、薙刀を一瞬で回転させ、紋甫の鉞を弾き飛ばした。

紋甫は、その力の差に、驚愕した。彼は、自らの武に、絶対的な自信を持っていたからだ。

「貴様....」

その一瞬の隙を、芳蘭は見逃さなかった。芳蘭は、志文の隣を駆け抜け、紋甫の側面に回り込んだ。彼女の槍は、まるで一筋の光のようであった。

「その首、もらった!」

芳蘭の槍が、紋甫の鎧の隙間を正確に捉えた。

紋甫は、血を吐きながら、静かに、そして力強く叫んだ。

「貴様は...貴様は、誰だ...我が鉞を越えた武を持つ者よ...」

「名乗る気はないわ。ただ貴方は強かったわ」

芳蘭の言葉を聞き終える前に、紋甫の意識は途絶えた。

彼の脳裏に、最後に浮かんだのは、故郷の村の、陽光の下で笑う、幼い息子の無邪気な姿であった。

(息子よ...妻よ...どうか...幸せに....父は、武人として散る。悔いはない....ただ、貴様らの笑顔が、二度と見られぬことが、唯一の心残りだ....)

紋甫は、愛用の長柄の鉞を手放し、静かに、馬から崩れ落ちた。

彼の体は、故郷から遠く離れた、異国の地で、永遠の眠りについた。彼の死は、貧しい村の家族の希望を、一瞬にして打ち砕いた。

紋甫の死は、方陸軍の堅守の最前線に、大きな動揺をもたらした。

「副将、紋甫様が討たれた」

その声は、瞬く間に方陸軍全体に広がった。

志文は、その動揺の機を逃さなかった。

「全軍。撤退。周翼の陣へ戻る」

志文は、紋甫の首を、討ち取らなかった。彼は、無駄な残虐行為を嫌った。

志文軍は、紋甫を討ち取ると、すぐに撤退を始めた。

その撤退を見て、方陸は訝しんだ。

その動きは、迅速であったが、どこか不自然であったからだ。

魚鱗の陣を解き、撤退する軍容は、横に広がり、隊列が乱れて見えた。

彼らの練度から考えれば、撤退時でさえ、整然とした隊列を保つことができるはずであった。

彼の顔には、焦燥の色が濃く出ていた。志文の撤退の違和感に加え、紋甫の死が彼を焦燥に陥れていた。

「紋甫が....討たれただと。あの剛毅な紋甫が」

彼は、信じられないという表情を浮かべた。

紋甫は、彼の右腕であり、彼と同じように、次期『玄岳四堅』の候補と目されていた男であった。

方陸は、紋甫の死に、動揺したが、それは、次期『玄岳四堅』候補として、排除すべき感情であった。

彼は、常に冷静でいることの必要性を、誰よりも理解していた。

(冷静になれ、方陸。この戦場において、感情は最大の敵だ。紋甫の死は痛いが、それによって、この戦いの大局を見失ってはならぬ。紋甫の死を、無駄にしてはならぬ)

方陸は、深呼吸をした。彼の心臓は、激しく脈打っていた。彼の額には、冷たい汗が滲んでいた。

紋甫を討たれたことよりも、方陸の頭を悩ませていたのは、紋甫を討ち取った後の、志文の不可解な撤退であった。

「なぜだ。なぜ、撤退したのだ。あれほどの勢いで、我らの堅守を容易に崩したというのに、なぜ、そのまま猛攻を仕掛けなかった」

方陸は、卓上に広げられた地図を、じっと見つめていた。

彼の思考は、極限まで加速していた。志文の行動には、必ず理由がある。その理由を解明せねば、この戦いに勝ち目はない。

志文が一気に、自身の軍の堅守を崩した後、その勢いのまま、猛攻を仕掛けなかったのは、二つの可能性があった。

一つは、無駄な犠牲を生むのを嫌ったか。

二つは、犠牲を生まずに、自身の軍を壊滅させる手段を持っているか。

方陸は、後者を選択した。

(前者ならば、そもそも猛攻をしかけず、さらに防御を固め、中央の戦況を見守ったはずだ。わざわざ、紋甫を討つという危険な選択肢をとらなかったはずだ。無駄な突撃はせずに、防御を固める、それをしなかったということは...)

志文の知は、李岳の知を引き継いでいるように見えた。

李岳は、常に最小の犠牲で、最大の効果を上げることを信条としていた。

そして、それは、志文も、同じはずであった。

(志文は、無駄な突撃はしない。ならば、奴は、犠牲を生まずに、我らの軍を壊滅させる手段を持っている。そうでなければ、紋甫を討ち取っただけで、満足するはずがない)

方陸の心臓は、さらに激しく脈打った。彼の額には、冷たい汗が滲んでいた。彼の思考は、一筋の答えを求めていた。

その時、方陸は、恐ろしいことを思い出していた。それは、志文たちが突撃してきたときの隊列であった。

「そうだ。魚鱗の陣であった。志文を先頭に、隊列を整え、我らの堅守を叩き割った。その練度は、完璧であった」

そして、紋甫を討ち取ると、彼らは撤退した。

「撤退時...隊列が...乱れていた。横に広がり、練度から考えられないほど、不自然に乱れていた。あれは、偽装だ」

方陸は、その不自然さが、罠であることを悟った。彼の心臓は、警鐘を鳴らしていた。

(あれだけの練度と士気を持った軍が、撤退時に横に広がり、隊列を乱すことはありえない。あれは、何かを隠すための、偽装だ...)

方陸は、志文の姿を、撤退する軍容の中に、見つけられなかったことを思い出した。彼の直感が、警告を発していた。

「まさか....志文は...右翼の厳冰様たちのところへ向かったのではないか」

方陸は、その推測に、鳥肌が立った。

志文の目的は、方陸を討つことではなかった。厳冰の策を狂わせることであった。

厳冰の策は、冥禰が天狼山脈で待機し、中央が崩れるのを見計らって、飛砂関へ突入することであった。そして、方陸の軍は、志文軍を抑え込み、厳冰の背後を護ることが、その策の要であった。

(志文め....厳冰様の策を読んでいるのか....奴は、厳冰様の策を阻止するために、右翼へ向かったのだ....もし、奴が右翼に到着し、厳冰様と冥禰の軍に奇襲をかけたら、厳冰様の策は、一瞬にして崩壊する...)

方陸は、もはや冷静ではいられなかった。

彼の焦燥は、魏鉄山の怒りにも似た、激しい感情へと変わっていた。

「伝令兵。右翼へ急行せよ。厳冰様に御伝えしろ。志文が右翼へ向かった。最大限の警戒をせよ、と」

伝令兵は、すぐに馬を駆った。

方陸は、自らの剣を抜き放った。

彼の瞳には、志文への怒りと、厳冰の策を守らねばならぬという使命感が混ざり合っていた。

「志文め、厳冰様の策を狂わせるなど、断じて許さぬ。紋甫の死を、無駄にはせぬ。玄岳国の名誉にかけて、貴様は、俺が討ち果たす!」

方陸は、眼前の周翼軍に、突撃を敢行した。

「全軍、突撃せよ!周翼の軍を、速やかに殲滅せよ!殲滅し次第、右翼へ向かうのだ!」

方陸軍は、志文の策に気づき、その意図を読み解いた。

彼らは、紋甫の死の悲しみを乗り越え、志文を猛追するために、狂気とも言える速度で、眼前の周翼軍へと向かった。

周翼は、志文の軍が右方の白狼山脈に消えてから、方陸軍の動向を監視していた。

「まさか....これほど早く、方陸が動くとは...」

周翼は、方陸軍の猛攻に驚愕した。

方陸軍の突撃は、予想をはるかに超える迅速な決断を、方陸が成したことを意味していた。

「志文殿...頼みましたぞ...!!」

周翼は、方陸軍の猛攻に恐怖を感じていたが、それでも今は、方陸軍の猛攻を防ぎきることに、全力を尽くすしかなかった。

方陸の心は、怒りと使命感で燃え上がっていた。

(厳冰様の策を狂わすことは、誰にもさせぬ...!!)


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