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#1-38 永遠の別れ

馬淵は、既に隘路の深淵に消えていた。

麗牙と嵐迅も逃した。さらに、八千余騎を逃していた。それに麗牙と嵐迅の隊を合わせれば、兵数は、一万騎を超えていた。

「馬淵を逃した」

磐虎が吐き捨てるように言った。彼の双眸には抑えきれぬ怒りが宿っていた。

馬淵は宿敵ではない。しかしこの戦況を打開し、特に中央戦線に一刻でも早く参戦するためには、馬淵を討ち取る必要があった。逃した兵数が一万弱であるがゆえに、この左翼から飛砂関へ抜けられるのは、厄介であった。

志文と磐虎は隘路の深奥を見据えた。

「やはり行かなければならないようだな....」

志文は微かに頷いた。

馬淵軍の残党の正確な位置を捕捉できなければ、志文と磐虎は中央戦線へ向かうことはできない。見失うことは致命的な脅威となる。志文は即座にそう判断した。

「邑鵬!風烈!そなたたちは、この天狼平野に待機せよ!馬淵の残党が出てくるやもしれぬ!残りは、俺と共に、隘路に入る!」

志文は、磐虎の言を静かに聞いていた。

「殿、何を迷っておられるのですか?左翼総大将が自身の隊をここに残すのです。我らも残すのは当然のこと」

志文はただ怖かったのだ。馬淵の軍が、万が一、隘路を通って、この天狼平野に戻ってくれば、十中八九、天狼平野の軍は全滅する。

「馬淵がここに戻ってくるとは思えませぬ。一万騎余騎が健在とはいえ、隘路から、中央へ援軍として参戦する方が、連合軍にとっては効果的です。殿もわかっているはずです。ここに馬淵軍が戻ってくる確率よりも、入り組んだ隘路で、奇襲・分断される確率の方が高いでしょう。これ以上、隘路に入る兵数を減らすことの方が危険です」

李岳の言は、的を射ていた。しかし、馬淵軍が戻る可能性がわずかでも存在する以上、志文は友をここに残したくなかった。

「慧遠殿は仰いました。殿は一人で背負いすぎると。私もそう思います。背負うものは大きい方がよいでしょう。しかし、それは一人で背負うものではありませぬ。皆で背負うものです。そしてそれは、軽くなることはありませぬ。遺された者にとっては、重みを増すばかりです。ですが、同時にそれは力となります。その力は武であり、知であり、忠であり、義であり、なにより皆で背負うものです。殿を護る為なら、私は、鬼神となれます。きっと、慧遠殿は殿に仰りたかったのです。この戦乱の世で最も尊く最も難きは、信ずるということだと」

李岳はそこで一呼吸置いた。

「殿、私にお任せを。私も含め、私の隊は武働きより、援護の方が得意なのはご存知でしょう?隘路の中で、お役に立てるとはあまり思えませぬ」

志文は微かに頷いた。

「そなたに任せる....ただ死なれては困る....(めい)より(いのち)を優先せよ.....」 それは消え入りそうな声だった。

李岳は笑った。

「お任せを!必ずや護り抜いて見せましょう!」

李岳が笑うのは初めてであった。

「では、隘路に向かうぞ!必ずや磐虎の首を取るのだ!」磐虎の声を合図に、軍は隘路へと入っていった。

「馬淵を討ったら、すぐ戻る!」 志文はそう言うと、馬に跨った。

「殿、御武運を」李岳は穏やかな笑みを浮かべていた。

隘路の中は狭かった。両脇は切り立った岩壁が迫る。

馬を駆るにも一列縦隊がせいぜいだった。まるで岩に食い込まれるような狭さだった。

志文と磐虎は、馬淵の残した痕跡を追った。

進むにつれて隘路の道幅は徐々に広くなった。岩壁の圧迫感は和らいだが緊張感は高まる。

馬蹄の音は聞こえない。だが地面に残された蹄の跡は鮮明だった。

乾燥した土の上に刻まれた跡は彼らが急いでいる証だった。

道の先は二つに分かれていた。隘路はそこで鋭角に分岐した。

左の隘路は馬蹄の跡が多くその跡は深かった。多くの騎馬が通った証だった。土が深く掘られている。

右の隘路は馬蹄の跡が少なくその跡は浅かった。少数の騎馬が通ったに過ぎない。刻まれた跡は微かなものだった。

磐虎は志文に尋ねた。その声は低い唸りのようだった。

「志文、どう見る?」

志文は分岐路を凝視した。

(馬淵軍には、馬淵のほかに麗牙と嵐迅という二将の部隊がいた...中央の戦場へ向かうなら、わざわざ隊を分ける必要はない....つまり、馬淵は、我らをこの隘路に沈めるつもりか...)

「馬淵軍は、ここで我らを討つつもりでしょう....」

「俺は左に行こう。二将が左、一将が右。隘路の先がどうなっているかわからない以上、兵数がわずかに多い、俺の隊が左に行く。志文、そなたは右の隘路を頼む」

磐虎は自嘲気味に言うと。馬首を左の隘路へ向けた。

「磐虎将軍、一刻後に、ここで落ち合いましょう」

「承知した」 磐虎軍は左の隘路へ入っていった。

磐虎は、馬蹄の跡を頼りに、左の隘路を進んでいた。

馬蹄の跡は深く、道は狭いが直線的だった。

「雷剛!祇雄!警戒を怠るな!」

半刻ほど行くと、軍が布陣しているのが見えた。

どうやらそこが、隘路の最奥で、袋小路のようであった。

「軍旗は見えるか?」磐虎は静かに聞いた。

「麗と嵐の文字が微かに.....」雷剛が答えた。

「死を覚悟しているはずです。自ら退路を断っておりますから。慎重にいかねば...」祇雄が、冷静に言った。

眼前の、麗牙と嵐迅の軍は、堅陣を組んでいた。

彼らは隘路の奥で静かに磐虎を待ち構えていたようだった。

「やはり罠か...だが、退路を断つとは、愚の骨頂!貴様らは.....」 磐虎は、そこまで言うと、考え込むように、声を発するのを止めた。

彼は、違和感を感じていた。馬淵のもとへ行かせないために、囮を使った。

しかし、なぜ、後方の退路が断たれたこの隘路を選んだのか。そして、なぜ、馬淵の軍だけが、右の隘路を選んだのか?

(仮にも、奴は総大将だ....配下の隊と分かれ、馬淵本軍八千騎....麗牙と嵐刃の隊は五千騎。配下を連れて行けば、中央への援軍としては、十分戦力になる....しかし、配下を囮にして、八千騎でなにを...)

(まさか....馬淵は...奴は...諦めてなどいなかった...奴は飛砂関を狙うつもりか....兵数の多い我が軍をここに縛り、志文の軍が、右方の隘路を進んでいる間に、天狼平野の駐屯軍を撃破し、飛砂関を急襲する。中央の総大将は魏鉄山。奴なら、その好機を見逃すはずがない!総攻撃を仕掛けるはずだ...!!)

「磐虎様!先にお戻りください!奴らは我々にお任せを!」 雷剛と祇雄が言った。

「そう易々と逃すわけにはいかぬ!全軍!突撃!」 嵐刃の声を合図に、麗牙と嵐刃の隊は、突撃をかけた。

「殿に近づけるな!全軍!突撃!」雷剛と祇雄の隊もまた、突撃を敢行した。

(いや....ここで退くことはできぬ...そのために、配下二将の隊をここに置いたのだ。無視できぬ兵数と士気。なにより、俺の本軍が撤退すれば、雷剛と祇雄は、全滅するやもしれぬ....しかし、今、戻れば、邑鵬と風烈を救えるやもしれぬ....)

磐虎が迷っている間も、時は、無情にも過ぎていった。

(李岳。伯志文が最も信頼する謀将。あれを信じるしかあるまい....少なくとも、俺には、今、眼前で奮戦している友を見捨てることはできぬ...馬淵の思い通りに動くのは、癪だが、馬淵の想定を上回る速度で殲滅すれば問題ない....)

「磐虎本軍!突撃だ!」磐虎は、そう吠えると、自身の馬を疾駆させた。

麗牙は、冷静に戦場を見ていた。

退路を断った影響か、士気は、異様に高かった。

(我が軍の方が、優勢だ....しかし、磐虎が来たことで、いずれ奴らに勢いは傾く....狩るならば、磐虎が、乱戦の中心に入っていない、今しかない....)

麗牙は、先陣で、薙刀を振るう、祇雄に狙いを定めていた。

「数騎、私と来い!祇雄を討つ!援護しろ!」

麗牙は、疾風の如く、乱戦の中を駆け抜けていった。

「祇雄、冥土の土産にもらっていくぞ」麗牙は、薙刀を横に振った。

「祇雄!」 前方から雷剛の声がした。

磐虎が、顔を上げると、ゆっくりと、馬上から崩れ落ちる祇雄が見えた。

「貴様!よくも!」磐虎は、薙刀を振るい、眼前の敵を蹴散らした。

その時であった。

「その首、もらった!」 嵐刃の槍であった。

磐虎は、その槍を、すんでのところで体をそらして躱した。

「邪魔をするな!」 磐虎は、怒号と共に、嵐刃にその薙刀を振り下ろした。

嵐刃は、馬上から崩れ落ち、地に伏した。

彼は、ただ友のもとへ駆けた。 

「祇雄!」 磐虎は、友のもとへ駆け寄った。 その瞳はすでに閉じられ、その体は動かなかった。

磐虎は大粒の涙を流した。

「殿を護れ!俺は、あの女を討ちに行く!」 雷剛は吐き捨てるように言うと、ただ単騎、麗牙を目指して、馬を走らせていった。

「麗牙様!雷剛が来ます!我らにお任せを!」

「無理よ。祇雄は、私の接近に気がつかなかった。だから討てたのよ。それに雷剛は、祇雄よりはるかに強いわ。あなたたちが盾になったところで、ここは袋小路。運命は変わらないわ」 麗牙は、朗らかに笑うと、鬼気迫る勢いで向かってくる雷剛に馬首を返した。

「貴様!よくも!」 雷剛の怒号と共に、二人の薙刀が交差した。

麗牙は、雷剛の刃をなんとか押し返すと、薙刀を横に振った。その刃は、わずかに雷剛の腹に傷をつけた。

(浅い....) 雷剛の刃は、躊躇なく振り下ろされた。

(ここまでね....馬淵様....御武運を...)

麗牙は、静かに、地に伏した。

ほどなくして、麗牙と嵐刃の隊を殲滅すると、馬淵軍は、すぐに天狼平野へと向かった。

彼の心には祇雄の死という重い代償がのしかかっていた。しかしその代償は馬淵を討ち取ることでしか報われない。彼はそう知っていた。

その頃、志文は右の隘路を進んでいた。

馬蹄の跡は少なく、隘路は複雑に入り組んでいた。行軍は、慎重を期す必要があった。

彼の神経は研ぎ澄まされていた。

しかし馬淵軍の気配が一向になかった。馬蹄の跡は続くが兵の気配が感じられない。

「馬淵はどこにいる...」

志文は眉をひそめた。

(馬蹄の跡は続く...だが馬淵軍の気配は微塵も感じられない....道は入り組み、先が見えない...)

志文は立ち止まった。

周囲の地形を観察する。隘路は静かだった。不気味な静寂だった。

「馬淵は、まさか.....これは、ただの陽動ではない」

志文は一つの推論を得た。それは恐ろしいものだった。背筋に冷たいものが走っていた。

(この隘路は天狼平野に続いているのではないか...)

そんな予感が、彼にはあった。

馬淵がこの隘路を通って天狼平野へ逆行し李岳らを殲滅。

そして李岳らを殲滅した後に飛砂関を攻めるのではないか。

そんな可能性が脳裏をよぎっていた。

馬淵の行動は志文の予想のさらに上を行っていた。

「馬淵...貴様は、最初から飛砂関を狙っていたのか.....李岳...」

志文は全軍の行軍を早めた。

志文の推論が正しければ李岳らは今危機に瀕していた。既に、一刻の猶予もなかった。

志文は奥歯を噛み締めた。

彼はすぐに伝令役を呼んだ。

「お前はすぐに磐虎に伝えろ。合流場所ではなく天狼平野の出口に急ぐようにと!」

志文は、先の見えない隘路に、ただ馬を走らせた。彼の心は焦燥に駆られていた。

「間に合え...李岳...持ちこたえろ...」

彼の薙刀は鞘の中で静かに唸っていた。

(戦場に身を置けば置くほど、護るべき者は増えていく。そしてそれは、いずれ、護れきれないほど大きくなる。その時、そなたは、自然と天下を見据えるはずだ)

あの時、志文は慧遠の言葉を否定した。

「俺は、天下統一などどうでもいい。愛する者たちにのみ、火の粉がかからなければよい。俺の目的は、天下ではない...」

天下.....衛国を、誰も手出しのできぬ強国にすれば....愛する者を護れるのか?

その問いの答えは、まだわからなかった。しかし、彼には、道筋のようなものがなにか見えた気がした。

志文は馬の速度をさらに上げた。

天狼平野。

志文と磐虎の馬蹄の音は、既に遠い隘路の奥深くへと吸い込まれていた。

天狼平野には、重い静寂だけが残されていた。 しかし、その静寂は永遠には続かなかった。

馬淵の本軍八千余騎が、砂塵を巻き上げながら、天狼平野に現れた。

一糸乱れぬ隊列は、馬淵の精鋭軍を意味していた。

李岳は馬上で動かなかった。

(邑鵬殿と風烈殿の隊を合わせても、我らは三千余騎...さらに馬淵の軍は、精鋭...)

李岳の顔には、諦めや恐怖の色はなかった。

ただ深く静かな光を宿していた。 それは、忠誠の灯であった

「馬淵....ここを突破して、飛砂関を狙うつもりか....殿の読みの中で、最も恐れていた行動を取ってくるとは...」

李岳は邑鵬と風烈に馬首を向けた。 彼は二人に対し深く頭を下げた。

「邑鵬殿、風烈殿。 貴方たちに切なるお願いがございます」

李岳は丁寧な口調で続けた

「隘路へ抜けるこの道を、我らは、死守せねばなりません。しかしこの兵力では、不可能に近いでしょう。ただそれでも、磐虎殿と我が主君が戻るまで、馬淵軍をここで足止めしなければなりませぬ」

李岳の双眸には一点の曇りもなかった。それは、もはや自身の運命を悟り、主君の信に応え、忠を示す決意の表れであった。

邑鵬は無言で頷いた。彼の目もまた、既に未来を知っていた。

「李岳殿。承知いたしました。共に最後まで参りましょう」

「磐虎様と共に戦えぬのが心残りだが、武人としては、戦場で命を散らすのは、本懐を遂げたも同然。磐虎軍風烈の武威、この一戦に捧げよう」

風烈が、嬉しそうに言った。 その顔は笑顔に満ちていたが、それが空元気であることは誰もが肌で感じていた。

「感謝します。貴殿らのような誉れ高き名将と轡を並べられること、光栄の至りです」

李岳は、もう一度、深く頭を下げると、二将に、布陣と役割を説明した。

馬淵軍は、李岳らの眼前で止まっていた。 馬淵軍もまた、急行軍で疲れていたためであった。

三千という寡兵が、馬淵軍の心に、余裕をもたらしていた。

李岳の指示通り、邑鵬の隊と風烈の隊は、前衛を担い、横列で堅陣を組んでいた。

その後方に李岳の隊が配され、指揮を執った。

馬淵軍は、突撃の構えを見せ始めていた。

李岳は、自身の隊に静かに告げた。

「皆と、ここまで共に来れて、嬉しく思う。少し昔話をさせてくれ。私と志文様の出会いは、偶然だった。兵站の管理をする署の一兵卒であった私が、兵站の帳簿の間違いを報告したのが始まりだ。だが、私にとっては、その偶然が奇跡であった。皆が志文様をどう思っているかはわからぬ。だが、あの方は、孤独な方なのだ。そして、それを好もうとしてしまう方でもある。殿は、弱音を吐かぬし、常に冷静で、その武と知は、天下に比類なきものであろう。殿さえいれば、衛国は護られる。だが、私は知っている。殿は、戦をするたびに、孤独になっていく。孤独であろうとするのだ。我らに情を抱かないために。我らをいつでも捨て駒として使えるように。殿が私をどう扱おうと、私は変わらない。多くの時間を殿と過ごした。多くは、沈黙の時間だった。だが、私はその時間が、最も好きだった。ただ殿のそばにいる。それだけで私は満たされた」

李岳はそこで、一度、言葉をきった。

「葉迅を失った時、殿は、初めて我らに涙を見せた。私は、殿に何の言葉もかけられなかった。私は武人ではない。他将のように、武で殿を支えることはできぬ。それでも、そんな私に殿は言われた。「死なれては困る」と。私は嬉しかった。私は、ちゃんと殿の心にいたのだ。私は、ちゃんと、殿と共に戦場を駆けていたのだ。今、殿はそこまで来ているはずだ。なにより、殿は、我らのそばにいる。そうであろう!」

李岳は、自身の胸に手を当てた。

李岳の隊の面々もまた、自身の胸に手を当てていた。

「我らには、殿がついている!殿から頂いた恩は、いまここで返すのだ!皆、死力を尽くせ!」

李岳の声は、邑鵬と風烈の隊にも響いていた。

大きな喚声が、天狼平野に木霊する。爆発的な士気の高揚であった。

馬淵軍が突撃を開始した。

八千騎の精鋭の突進は、地震のように大地を揺るがした。

馬淵は、突撃しながら、李岳の布陣を一瞥する。

「李岳め....隘路へ続く一本道を盾で塞いだか....」

馬淵は静かに言った。 彼は李岳の覚悟を理解していた。

「見事だ。だがこの差は覆せぬ!大義の前に、信や忠など無意味なのだ!」

「全軍突撃! 李岳の盾を粉砕せよ! 情けは無用だ!」

馬淵軍の猛攻が始まった。 邑鵬と風烈の堅陣は、馬淵軍の波状攻撃を、辛うじて受け止めていた。

邑鵬は、最前列で、薙刀を振るっていた。

その一撃は、精鋭兵を次々に薙ぎ倒していった。

その横で、風烈は大矛で、迫りくる敵を次々と突いていった。その突きは、精確であり敵の突進を阻止していた。

しかし馬淵軍は、精鋭中の精鋭であった。

兵力の優位を活かし、堅陣を削り取るように、攻撃を継続する。

何刻経ったであろうか。

邑鵬の体は既に限界であった。

彼の視界は、砂嵐のように霞んでいた。無数の刃が既に刺さっていたが、彼は退かなかった。

彼が退くことは、堅陣が崩れることを意味していた。

ガキン。けたたましい音と共に、彼の薙刀は、無情にも折れた。

その機を逃さず、数多の刃が彼を貫いた。

(磐虎様.... 貴方の下で戦えた....この日々は楽しかった....先立つ不忠をお許しください...)

彼は凄まじい怒号をあげて、自身を貫く数多の槍をそのまま押し返した。

群がる敵兵を抱え、彼は息絶えた。

風烈は、邑鵬の姿を視線の端で捉えていた。

彼の心は、悲しみを抑え、それを闘志へと変えていた。

「邑鵬!」

風烈は叫んだ。 その声は天狼平野に響き渡った。

彼は大矛を振るい、ただ眼前の敵を、なぎ倒し続けた。

武人としての執念であった。

馬淵軍の精鋭兵が邑鵬を取り囲んだ。 彼らは風烈の武を恐れた。

風烈は静かに笑った。

「俺は磐虎様の武人だ。そう易々と討たれはせぬ!」

風烈は、大矛を振り続けた。 いつしか、彼の体は、無数の刃に貫かれていた。

風烈は、倒れなかった。ただ彼の瞳が、再び開くことはなかった。

三千の兵は既に全滅していた。地に伏す衛国軍の同胞は、皆、数多の刃に貫かれていた。

李岳は全てを見ていた。 邑鵬と風烈の壮絶な戦死に、彼の胸は、張り裂けそうであった。

(邑鵬殿... 風烈殿... 感謝します....)

李岳には、遠くから微かに響く、馬蹄の音が聞こえたような気がした。

李岳は、静かに剣を抜いた。

彼は馬淵軍の精鋭の波濤に、ただ一人対峙していた。

「不肖李岳、貴様らを通すわけにはいかぬ!」

李岳は叫んだ。 その声は空虚であった。 彼の周りには既に誰もいなかった。

李岳は馬淵軍の精鋭に突進した。

彼の剣は武人の剣ではない。しかしその一撃は決意に満ちていた。

馬淵は李岳の突進を見て笑った。

「覚悟は認めるが、謀将ごときが武人に勝てるなどと思うな!」

「李岳を討て!」馬淵の声を合図に、馬淵軍の精鋭が、一斉に李岳に襲い掛かる。

李岳は懸命に剣を振るった。 彼は、乱戦の中で、志文との日々を思い出していた。

(幸せだった...楽しかった...志文様...こんな私を信じてくださった..... )

李岳は剣を構えた。

しかし、既に満身創痍であった。

「ぐっ....」

十数本の槍が、彼を貫いた。彼の体は、一瞬にして血に染まった。

彼は、倒れなかった。

「通すわけにはいかぬ....!....貴様らを通すわけにはいかぬのだ....!」

李岳は吠えた。彼は、槍に貫かれながらも、剣を振るった。

周囲の精鋭が、波のように押し寄せ、李岳に無数の刃を立てていった。

馬淵は李岳の覚悟を見て静かに言った

「貴様は立派であった..... 志文の信頼を、貴様は護った.....志文への忠を、貴様は示した...静かに眠れ....『伯七狼』の筆頭よ.....」

馬淵は,自身の薙刀を振り下ろした。 その一撃は、李岳の体を深々と切り裂いた。

李岳の体は、ついに崩れ落ちた。それでも彼は、地に伏すことはなかった。

「我らの勝ちだ....」 李岳は、呟くように言った。

李岳が、崩れ落ちるその瞬間に、志文は、天狼平野の出口に現れた。

李岳の体が馬淵に斬られて地に崩れ落ちる瞬間、それは志文の目に焼き付いた。

「李岳!」

志文は叫んだ。彼の声は怒りを含んでいた。

志文は馬を駆った。 彼らは馬淵軍の包囲を切り裂いていった。

ちょうどその時、磐虎軍もまた、隘路から姿を現した。

磐虎は、地に伏す邑鵬と風烈を見ると、怒号を放った。

「死ねぇええ」 

磐虎の薙刀は火花を散らした。その一撃は馬淵軍の精鋭を蹴散らした。

志文は馬淵に突進した。

馬淵は志文の姿に驚いていた。彼の策は、李岳らの堅守の前に、敗れたのであった。

「志文.... 貴様が間に合うとはな...」

馬淵は馬首を返した。彼は、鬼気迫る表情の志文に、猛然と立ち向かった。

しかし、志文の武は、いまや馬淵の武とは、格が違った。

志文の薙刀は、馬淵を、一振りで地に沈めた。 その一撃は、刹那の出来事であった。

馬淵は静かに地に倒れた。 彼の瞳は、空を見つめていた。

(伯志文....一太刀も浴びせられぬとは.....)

馬淵は静かに笑った。その笑みは穏やかであった。

(『沙嵐六猛』....手が届かなかった頂....ふっ..奴らの顔が、最後に浮かぶとは....)

馬淵は、静かにその瞳を閉じた。

志文は馬淵を討つとすぐに、地に崩れる友の元へ駆け寄った。

彼の体は数多の刃に貫かれていたが、彼の顔は穏やかだった。

「殿...やり遂げました...馬淵軍を止めました...」 

「喋るな....!李岳、死ぬなと命じたはずだ...!目を閉じてはならぬ...!心配はいらぬ、そなたは助かる....!」

「殿.....あなたにお会いできて....私は....幸せでした...殿は....決して....独りではありませぬ....この李岳が....いつも....そばにおります.....」

「ああ...そうだ...!...その通りだ...!そなたは.....そなたは.....いつもそばにいるのだ....!逝ってはならぬ...!目を開けるのだ...李岳...」

志文の言葉は、もはや、李岳に届くことはなかった。李岳は、静かに、志文の腕の中で、息絶えた。

その顔は、穏やかな笑みを浮かべていた。その体は、ほのかな温もりを遺していた。

しかし、その瞳は、二度と開くことはなかった。

大粒の涙が零れる。その涙は熱かった。 彼の心は引き裂かれるようであった。

「李岳...!なぜだ....!なぜ俺を置いていった....!俺は....俺は...そなたがいてくれさえすればよいのだ....」

志文の慟哭が、重々しい空気の天狼平野に、虚しく響き渡った。

その声は悲しみに満ちていた。

「志文様....」宋燕が志文に駆け寄ろうとするが、羅清がそれを制した。

「今ではない....それに....我らも....我らも...心に余裕がないのだ...今は....」羅清の頬は、涙にぬれていた。

姜雷は吠えた。やりきれない気持ちであった。

林業は空をじっと見ていた。胸にぽっかりと穴が空くような、初めての気持ちであった。

衛射は、馬上から、李岳の遺体を、そして、泣き崩れる主の姿を、ただじっと見つめていた。

衛射は、友の死を、まだ受け入れられていなかった。

「我ら七人で殿を護るのだ!誰一人欠けることなく、常に殿のそばで、共に駆けるのだ!」

李岳の言葉だった。珍しく、李岳が気を吐いた言葉だった。衛射は嬉しかった。共に支えあい、共に助け合った、そんな仲間であり、友であった。

衛射は、ただ茫然と見つめていた。

夜叉もまた、李岳を抱えて涙を流す志文をじっと見つめていた。

彼は後悔していた。この時ほど、自身を役立たずだと罵ったことはなかった。

(俺が...俺が....隘路の構造に...もっと早く気づけていたら...主を....なにより...李岳を...こんな目に遭わせずに済んだ....)

夜叉は、目をそらし、じっと地を見つめた。

磐虎は静かにその光景を見つめていた。 彼の心にもまた、邑鵬と風烈の死という重い代償がのしかかっていた。

馬淵軍は、馬淵の死により、総崩れとなった。馬淵を討たれた彼らは戦意を喪失し、磐虎軍と志文の隊の怒りの矛先となり、すでに、皆、地に伏していた。

志文は李岳の亡骸を抱きしめていた。しかし、その体は冷たくなっていった。

慧遠の言葉が甦った。

(戦場に身を置けば置くほど、護るべき者は増えていく。そしてそれは、いずれ護れきれないほど大きくなる。その時、そなたは自然と天下を見据えるはずだ)

志文は天下統一を否定した。しかし護るべき者を失った今、その言葉の意味を理解し始めていた。

護るべき者を護るためには力が必要だった。誰も手出しのできぬような、強大な力が必要であった。

天下統一。それは、志文の頭の片隅に、初めて意味を為して、存在していた。

時は少し戻り、右翼本陣。荀厳と汪盃が合流し、本陣へと急行している頃。

右翼本陣にいた陳毅と寧武と清流は堅守を固め、じっとしていた。

彼らは、厳冰の居所をつかめるまま、前方の警戒を緩めずにいた。

しかし、それは、背後から迫る脅威に対応することには、役に立たなかった。

冥禰の軍、一万余騎が、静かに右翼本陣の背後をついた。

陳毅たちは混乱した。背後からの奇襲は彼らの想定外であった。

(背後をとられただと....ありえぬ...まさか、冥禰が来たのか....荀厳様はどうされたのだ....とりあえず今は、立て直さねば....)

しかし、陳毅たちは、すぐに兵士たちに指示を出した。

「落ち着け!陣形を整えろ!背後を護れ!」

陳毅の指示で兵士たちは陣形を整えようとする。しかし冥禰軍の奇襲は速かった。

そしてさらに、その混乱の中、厳冰の軍が正面から現れた。

彼はこの機を逃さなかった。

陳毅の軍は挟撃にあった。すでに、逃げ場はなかった。

「総員!殿が来られるまで、耐え抜くのだ!死力を尽くせ!もうすぐ、殿は来てくださる!」

陳毅は、そう叫んだが、確証はなかった。ただ、そうでも言わない限り、隊列が持たぬほど、いまや、右翼の衛国軍は混乱していた。

陳毅は、最前線で、剣を振るった。

彼の前に、厳冰軍と冥禰軍の精鋭たちは、次々と倒れていった。

しかし、その猛攻は、時が無情にも解決した。

陳毅は、包囲されていた。陳毅は、剣を振るい続けたが、背後から、彼の背を数本の槍が貫いた。

彼の視界は、急速に霞んでいった。

陳毅は、最後の力を振り絞った、眼前の敵に、剣を振るった。

彼の正面から、数本の槍が刺さる。

(荀厳様....申し訳ありませぬ....)

「陳毅様!」その一声が、さらに衛国右翼軍を混乱に陥れていた。

厳冰は、陳毅が討たれたのを見て、静かに笑った。

「陳毅を討ったか.... 冥禰もやりおる....」

厳冰は冥禰に馬首を向けた。

「好機ではあるが、撤退するぞ。斥候からの報告では、荀厳と汪盃がもうすぐ、ここへ到着する。奴らとここで交戦するのは得策ではない。奴らは、死を恐れぬ軍となるからな」

冥禰は無言で頷いた。彼らの軍は音を立てずに、白狼山脈の奥深くへと、撤退した。

ほどなくして、荀厳と汪盃が右翼本陣に到着した。

本陣は壊滅状態であった。寧武と清流も、傷つき、その体からは、血が流れていた。

そして、そのそばで、地に伏す陳毅の姿があった。

「陳毅!」

荀厳は叫んだ。

しかし、陳毅が答えることはことはなかった。

荀厳の目から、とめどなく涙があふれ出る。

陽が落ちかけ、闇が訪れようとしていた。

二日目は、深い哀しみをもって、その幕を下ろした。


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