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#1-37 忍び寄る罠

微かに差し込む陽光は、静かに夜明けを告げていた。

荀厳と汪盃が合流したころ、各戦線は、既に、戦端が開かれていた。

衛国軍右翼。白狼山脈の山中。

陳毅ちん きは、陣幕の中で、軍図を凝視していた。

彼の顔には、疲労が深くその姿を留めていたが、強い決意もまた同時に表れていた。

亡き自身の配下、魏烈の死は、まだ彼に重くのしかかっていたが、その悲しみを心の奥底にしまい、彼は、厳冰の策を見抜こうとしていた。

しかし、厳冰の位置すら掴めていない状況の中で、陳毅は頭を悩ませていた。

そんな陳毅に対して、清流は、冷静に自身の分析を述べた。

「厳冰軍の本軍の所在どころか、配下の軍の所在もわからぬ。我が主、張江様ですら、読めぬ男なのだ。少なくとも、ここを動かぬのが、最も安全であろう。さすれば、飛砂関の盾となれる」

寧武は、大斧を握りしめた。

「俺たちを無視して、中央を挟撃する可能性もあるが、俺にはどうも、荀厳の策を厳冰が看破しているような気がしてならん....」

陳毅は、首を強く振った。「だとしても、清流殿の言う通り、ここで堅陣を組み、荀厳様を待つしかありませぬ。ここで我々が動けば、右翼は、完全に崩壊するかもしれませんから」

陳毅らの右翼は、堅陣を組み、じっと荀厳の援軍を待っていた。

衛国軍左翼。天狼山脈の麓。

沙嵐国軍の総大将、馬淵ば えんが築いた堅陣は、まさに攻防一体の、非情なものであった。

この陣は、防御だけでなく、衛国軍の精鋭を、意図的に誘い込み、殲滅するために組まれていた。

磐虎ばんこと志文、葉旋の部隊は、堅陣に幾度となく挑んだ。

しかし、堅陣は、一部隊だけを、中深くまで通し、中の部隊を馬淵の精鋭が殲滅した。救援に向かおうとする外の部隊は、その堅守に阻まれ、外の部隊と隔絶した仲間の死をただ、見ているしかなかった。

加えて、特に、馬淵の隊は精強だった。寡兵で、中に援護に行こうものなら、すぐに中で包囲され、殲滅された。

それゆえに、寡兵で動くことができず、その機動力を奪われ、攻勢は、その威を失いつつあった。

突入した部隊は、馬淵の精鋭に、次々と薙ぎ倒される。

「馬淵め!姑息な手を使うな!」 磐虎の怒声が、天狼山脈の空に響いた。

彼の部隊は特に、堅固な防陣に阻まれ、援軍を送れず、外で消耗戦を強いられていた。

志文は、馬淵の堅陣を、静かに観察していた。

「磐虎様。これ以上は、無益な犠牲を生むだけです。そして、我々をここに留めることで、中央に援軍を阻止するつもりでしょう」

志文は、葉旋に向き直った。彼は、この左翼戦線は、自分の策と、磐虎の武で、十分に持ちこたえられると踏んでいた。彼の真の懸念は、圧倒的な兵力差に晒されている、中央の戦況であった。

「葉旋殿。中央の張江様の軍は、我ら以上に、兵力が不足しています。この左翼は、私と磐虎様がいれば、何とか持たせることができます。中央へ、一刻も早く、援軍をお願いしたい」

葉旋は、志文の言葉に、笑みを浮かべた。彼女の目は、優しさと信頼に満ちていた。

「志文殿の頼みだもの。断る理由なんてないわ。それに、中央が崩れたら、私たちの頑張りも無駄になるものね」

続けて、彼女は言った。「ただし、一つだけ条件があるの。王都に戻ったら、美味しい食事を、ご馳走すること。絶対よ」

志文は、微かに、笑って頷いた。「無論です。必ず、約束は守ります」

磐虎はそんな二人のやり取りをほほえましく眺めていた。

「葉旋...。無理はするなよ...」 磐虎の言葉に、葉旋は、振り返らずに、応えた。「心配は無用です!中央はお任せを!」

葉旋は、後方の隘路へと、姿を消した。

葉旋の背後から、配下の春蘭しゅん らんが、楽しそうに、茶々を入れた。

「葉旋様も、志文殿の前では、可愛いらしいお嬢さんですねぇ」

沈穆しん ぼくは、笑いを堪えきれず、吹き出した。

「春蘭!余計なことを言わないでちょうだい!」 葉旋は、顔を赤くして、一喝した。

葉旋軍が中央へと向かったのと同時に、磐虎軍も、馬淵軍の前から消えていた。

磐虎軍は、後方の隘路に身を隠しただけであった。

志文軍四千騎のみが、馬淵軍の眼前に残されたのであった。

馬淵と呈威は、衛国軍の動きが、突如として途絶えたことに、戸惑いを覚えていた。

前線の部隊からの報告は、葉旋と磐虎の軍が、完全に視界から消え、志文の軍、四千騎だけが、堅陣の眼前に残っているというものであった。

馬淵の軍と、呈威の軍は、合わせて二万余騎いた。

呈威が、冷静に分析した。「志文は、楽愁の軍を翻弄した策士です。何かしらの策があるはず。迂闊には動けませぬ」

しかし、馬淵は別の可能性を憂慮していた。

「しかし、磐虎と葉旋が、姿を見せぬのは、中央へ向かったからではないのか」

呈威が頷いた。「その可能性もあり得ます。志文が、我らの堅陣を前に、何もせずに立ち尽くしているのは、時間稼ぎのためです。我らが堅陣を解いても、攻めてこないのも、また時間稼ぎやも」

馬淵は、それでもなお、躊躇した。

「しかし、罠の可能性も捨てきれぬ。志文は、常識の通用せぬ男だ」

呈威は、馬淵に向き直り、強い口調で言った。

「ならば、私の軍が、行きます。罠であったとしても、挟撃はあり得ません。もし、磐虎や葉旋の軍が援護に来たとしても、その援軍が来る前に、志文の軍を殲滅できます」

呈威は、志文の軍が寡兵ゆえに、どんな状況でも殲滅できると思っていた。

馬淵は、呈威の決意に静かに頷いた。

「呈威。そなたには、私の五千騎も預ける。必ず生きて戻れ」

呈威は、軽く頷くと、突撃を敢行した。

呈威自身の隊と、馬淵の五千騎を合わせ、計一万騎。

その一万騎が、志文の軍、四千騎に向かって、突撃したのであった。

志文は、眼前に押し寄せる大軍を前に冷静であった。

それは、静かで、なにより冷徹な声であった。

「皆、三人殺れ。この地に奴らを沈める。貴様らが沈んではならん。沈みかけたら、俺のそばに来い」

「ガハハ!俺のそばでもよいぞ!!」 姜雷が、声を上げた。

皆が、大軍を前に笑っていた。 それは、異様な光景だったが、とても温かく、平和な空間であった。

「狩るぞ」 志文の言葉を合図に、彼らは、猛攻をかけた。それは、まさに、餌に飢えた虎のようであった。

志文軍の前に、呈威軍は、静かに瓦解していった。

呈威は、この反撃に、驚きを隠せなかった。

彼は、志文の策を見誤っていた。

「馬鹿な...。奴は、本当に戦うつもりなのか...時を稼ぐつもりではないのか....」

呈威は、突破口を探した。彼は、撤退しなかった。馬淵の命を忘れたわけではなかった。

ただ、彼は直感的に判断した。 伯志文、あの傑物は、ここで討たねばならぬと。

しかし、既に、志文と『伯七狼』の武が、戦場を支配していた。

志文は、薙刀を、まるで体の一部のように操り、呈威軍の中央を、鮮やかに切り裂いていた。 彼の薙刀が空を切り裂く軌跡は、まるで美しい舞のようであったが、その一撃一撃は、岩をも砕く剛力を伴い、呈威軍を宙に舞い上げていた。

その傍らで、夜叉が、敵の動きを、全て読み切り、その双剣で、正確に呈威軍の隊列を分断していく。

なにより、志文たちが包囲されないように、李岳の指示で、敵の連携の隙を的確につきながら、退路を確保していた。

後方では、羅清が、剣を振るい、乱戦の中で、味方の隊列を統制し、呈威軍の退路を巧妙に塞いでいた。

その羅清を支えるように、姜雷は、その薙刀で、山をも崩す勢いで、呈威軍の防御を力で打ち砕いていた。

彼の武勇は、戦場に轟音を響かせ、敵兵を震え上がらせていた。呈威軍は、怖気づき、後方への活路を見いだせずに混乱していた。

さらに、林業は、側面からの奇襲で、確実に呈威軍を削っていた。

林業の薙刀は、姜雷の豪快な武とは対照的に、緻密で、効率的な武であった。

敵の側面に、静かに回り込み、奇襲を仕掛ける。どこからともなく現れ、静かに消えていく。

呈威軍の士気は明らかに落ちていた。

そして、宋燕の紅槍が、疾風の如く乱戦を駆け抜け、呈威軍の混乱を広げていた。

彼女の紅槍は、素早く、その槍術を捉えることは、誰にもかなわなかった。

そして、後方の李岳の横で、衛射の隊は、次々と、呈威軍を射貫いていった。

特に衛射の弓は、正確無比そのものだった。

遠距離から、呈威軍の隊長格を、次々と射抜き、敵の指揮系統を乱していた。

どこにも、反撃の糸口はなかった。

「全軍!撤退しろ!!」 呈威は叫んだ。

屈辱だった。惜敗ではなく、惨敗であった。侮ってはいなかった。ただ、志文軍、そしてなにより志文と『伯七狼』が、想像を超える傑物だった。

(あれを討つのは無理だ...七狼すら討てぬ..一万が四千に惨敗するなど、誰が想像できるか....)

志文は、撤退する呈威軍にさらなる猛攻をしかけた。

馬淵が出撃したためだ。

(馬淵...援軍の判断が速い...間に合うか...)

その時、志文の軍の側を、大軍が追い越していった。

「任せろ!」 磐虎であった。

磐虎軍一万余騎は、馬淵軍二万余騎に、突撃していった。

志文は、呈威軍の中を、駆け抜けた。

呈威は、磐虎軍が馬淵軍に突撃を成功させたとき、自身の馬首を反転させた。

(自業自得か....このままでは、馬淵様が、私を助けるために、御身を危険に晒す....(まこと)の忠臣は、退き際が肝心...)

志文は眼前に迫っていた。

「ハアァァ」 呈威は吠えた。

呈威の薙刀が、志文の薙刀を受け止めた。

志文は、そのまま、薙刀を素早くずらした。呈威の肩から、血が迸る。

呈威は、体勢を崩した。その刹那、胸は、刃に貫かれていた。

彼は、痛みよりも、安堵を覚えていた。

(...やはり、私は、戦場には、向いていなかったのだな...)

志文の薙刀が、彼の体を貫く。

彼は、最後の力を振り絞り、叫んだ。

「大将軍 馬淵!撤退せよ!!」

(...馬淵様...貴方を最後まで守りたかった...しかし...この戦が...私が欲をかいたこの戦が...私の....最後の戦であったのだ...運命は変えられぬ....)

彼は、馬上で静かに、その目蓋を閉じた。

呈威の死は、呈威軍を完全に瓦解させた。

しかし、呈威の部下、石磊せき らいだけは退かなかった。

彼は、斧を手に、志文軍の猛攻を受け止めていた。 彼の隊は、混乱する呈威軍の最後の要であった。

彼の体は、既に、無数の刃に貫かれていた。

石磊は、呈威の静かなる理想に、深く共感していた。 呈威は、常に言っていた。「我らは、兵士の命を、何よりも重く見ねばならぬ。無駄な血は、流してはならぬ」  石磊は、呈威のその言葉を、信じていた。

石磊は、戦場で孤立無援の自分を、呈威が、自ら救援に来てくれた日を思い出していた。

呈威は、石磊に諭すように告げた。

「お前の命は、私にとって、何よりも重い。二度と無駄な血を流すな」

それは、家族もなく、独りで生きてきた石磊にとって、初めてかけられた温かい言葉だった。

(呈威様...俺は、今から、無駄な血を流します...。あなたを...かつての私のように、独りにはさせませぬ.....)

石磊は、双斧を振り続けた。彼は、ただ死に場所を求めていた。

「誰も手を出すな!俺がやる!」 姜雷は、そう叫ぶと、石磊の前に躍り出た。

「感謝する...」 石磊は武人の礼を取った。

姜雷もまた、武人の礼を取った。 

張り詰めた空気を切り裂いたのは、石磊であった。

石磊は、自身の体を回転させながら、その双斧を、姜雷に繰り出した。

姜雷は、自身の薙刀で、その双斧を受け止めたが、石磊の双斧は、姜雷の想像をはるかに超えるものであった。

石磊の双斧の片方が、姜雷の肩に浅い傷をつけた。

姜雷の肩が、微かに血で滲んでいた。

しかし、姜雷はその痛みを吹き飛ばすかのように、自身の薙刀を横に強く振った。

石磊が、その膂力で、後方に、わずかに仰け反る。

その瞬間、姜雷は、自身の体を回転させ、石磊の腹を深く切り裂いた。

石磊は、倒れなかった。それは、呈威軍第一将としての意地であった。

「なんのこれしき!」石磊は吠えたが、彼の体はすでに自由がきかなかった。

石磊は、怒号を上げ、眼前の姜雷に、双斧を投げた。

姜雷は、双斧を自身の薙刀で、素早く叩き落とした。

石磊はすでに、息絶えていた。 

「立死か....敵将ながら、その武、敬服する」 姜雷は、静かに武人の礼を取った。

石磊の死は、呈威軍の最後の抵抗の終焉を意味していた。

馬淵は、呈威の軍が瓦解したことを俄かには、信じられなかった。

「馬鹿な....一万もいたのだ!ありえぬ!」

「将軍、今は、そのようなことを仰っている暇はありませぬ!撤退を!我らが道を開きます!」 参謀の慧遠であった。

「赫牙、鬼斗、炎華!私と共に、殿の血路を開く!」

「赫牙、そなたは、磐虎軍の包囲網に穴を開けろ!」

「鬼斗、そなたは、赫牙がつくった突破口を、殿が撤退するまで、保たせよ!」

「炎華、そなたは、私と援護に回れ」

慧遠が隣で、各将に命を下している時、馬淵は、右方から、駆けてくる百騎程の部隊を凝視していた。

「静音か....生きていたのか...」

それは、呈威の配下の女将、静音せい おんであった。静音の軍は、その残存兵力を百騎に減らしながらも、その場を、なんとか離脱していた。

馬淵は、包囲の外にいる静音に向かって声を張り上げた。

「静音。そなたは、中央へ行け。魏鉄山に、左翼の戦況を報告し、左翼側の側面からの攻撃に備えるよう、伝えよ」

「そなたは、生きねばならぬ。共に死すことは忠だが、将として責を全うすることは義である。そなたは義を果たせ」

静音は、静かにうなずき、後方の隘路から中央へと向かっていった。その頬は、涙に濡れていた。

後方の隘路に静音の姿が見えなくなると、馬淵は静かに命を下した。

「赫牙、頼む。すまない....」

「なにを言われますか?『行け』、それだけご命令くださればよいのです」

赫牙は笑った。 主君の重荷になりたくなかった。

「赫牙隊!突撃!」 赫牙の声を合図に、包囲網の一点をめがけて、彼らは突撃した。

慧遠と鬼斗、炎華の隊も、赫牙に続いて、猛攻を仕掛けた。

しかし、疲弊する馬淵軍にとって、磐虎の包囲網を突破するのは、至難の業であった。

(崩れる気配すらない....時がかかればかかるほど、志文の隊が磐虎の包囲を固くするというのに....)

慧遠は、乱戦の中で、磐虎の包囲の穴を見つけていた。

それは、磐虎本人がいる、右方の最も兵数が多い部分。そこは、磐虎の性格ゆえか、攻勢が特に強いがゆえに、包囲する隊列の突出により、完全な隙が生まれている場所であった。

(あそこまで辿り着ければ、包囲を突破し、後方の隘路に撤退できる...だが...あそこは最も兵数が多く、攻勢が強い...馬淵様の身を危険に晒すことになる...)

「慧遠、すでにわかっているはずだ。あそこしか道はない。」 そばで、双剣を振るいながら、鬼斗が静かに言った。

「そうね。馬淵様のことが心配なのでしょ?心配はいらないわ。私たちがいる限り、馬淵様には、指一本触れることはできないわ!そうでしょ?」 

炎華は、嬉しそうに笑った。彼女は、既に、死を覚悟していた。そして、なにより彼女は、馬淵軍の将として、その威を示すことのみを考えていた。

ゆえにその笑みは、諦念と高揚という矛盾した感情が混ざりあった複雑な笑みであった。

「全軍!右方突撃!」 慧遠は、声を張り上げた。

赫牙の部隊が先陣を切り、それに続くように、鬼斗と炎華の隊が突撃した。

慧遠は、麗牙と嵐刃の隊を、磐虎の傍らに据え、自身の隊を殿とした。

「殿!今です!突破を!前だけを見てください!」 嵐刃の声が聞こえた。

慧遠は、少し、後ろを振り返った。 馬淵の姿が遠のいていく。

(無事に突破したか...麗牙、嵐刃....殿を頼む....)

「慧遠!こっちへ来い!」赫牙は、馬淵らが突破した部分のわずかに左方にいた。

慧遠の隊は、導かれるように、馬を走らせた。

そこには、赫牙、鬼斗、炎華らがいた。彼らの隊は、既に五十騎程しかいなかったが、馬淵が、突破したことによる、隙をついて、猛攻をかけていた。

すでに、眼前の包囲は、崩れつつあった。

「慧遠!突破するぞ!馬を駆ける準備をしておけ!」鬼斗が、嬉しそうに言った。

その時、ふと慧遠の目に、突破した先の景色が、微かに映った。

それは感覚的なものであった。しかし、慧遠は、確信していた。

「罠だ!突破してはならぬ!」 慧遠の叫びは、空を切った。

包囲は突破された。赫牙らの隊が、一気に包囲の外に流れ出る。

「なぜ..そんな馬鹿な..」

突破した先には、志文の隊が、完全な包囲を形成していた。

磐虎の軍が、それに呼応するかのように、距離を取り、それは一つの大きな円となった。

(伯志文....我らを偽の隙に集め、さらに包囲の突破に集中している頃に、突破口の先に、完全な包囲陣を布いたのか....化物め....)

「放て!」 志文の声を合図に、頭上に矢が降り注ぐ。逃げ惑うにも、退路は既になく、包囲を破る気力も、もはや残されていなかった。

「赫牙!やめろ!」 鬼斗の叫び声が聞こえる。

赫牙は、眼前の志文の隊へ、ただ一人、突進していた。

赫牙は、迫りくる矢を悉く躱し、志文の包囲網へと迫っていた。

一人の弓将が、包囲網の内から、さらに一歩前に出た。

弓を番えていた。 

「衛国の腰抜けどもの矢など当たらぬわ!」赫牙は叫んだ。

慧遠にはその先の未来が見えていた。

(番えているのは、ただの弓将ではない...衛射...あれは、『天下五矢』にいずれその名を連ねる....奴の矢は外れぬ...)

ヒュン。 風を切る音が聞こえた。赫牙は、一歩も動かなかった。ただ静かに崩れ落ちた。

「赫牙!」鬼斗が、赫牙に駆け寄る。 

ヒュン。 その音と共に、鬼斗は、赫牙の傍らで、地に伏した。

(赫牙...鬼斗.....)

「沙嵐国は負けない!馬淵様は、貴様らなどには負けていない!ただ....ただ天に見放されただけよ!我らが散っても、沙嵐国が消えることはないわ!」

慧遠は、今、この時ほど、自分を情けないと思ったことはなかった。

(私は、なぜ諦めている!私は、なぜ仲間の死を、茫然と見つめている!私は、沙嵐国将軍 馬淵軍 参謀 慧遠だ!)

「総員聞け!我らはここで散るだろう!愛する者たちに、その姿を見せることはできぬであろう!だが、我らの想いは、我らの覚悟は、なにより、我らの生き様は、この地に残り、この時に刻まれるのだ!我らは何者か!天下に名高き『沙嵐の黒豹』の精鋭部隊だ!顔を上げろ!前を向け!魂が天に還るその刹那まで、ただ剣を振れ!ただ槍を振れ!ただ立ち続けるのだ!愛するものを護るために!」

慧遠は、少し間を置いた。 久々の感覚であった。 戦場で死を覚悟したとき特有の高揚であった。

「総員!突撃!」

馬淵軍の残党は、志文の軍めがけて、突進した。その突撃は、地をうねらせ、気を震わせた。

「衛射、残党を射ろ!」「林業、夜叉、姜雷は防御を固めろ」「李岳、羅清、そなたたちは、包囲の前に、二重の堅陣を張れ。突破させてもよい。ただ消耗させろ」

「宋燕、炎華を討ってこい、俺は、慧遠を討つ。あの二人を討てば、すぐに残党は瓦解する」

宋燕は頷くと、紅槍を片手に、先陣で、凄まじい武を放つ炎華に向かって、馬を走らせていった。

宋燕の姿が、目に入ると、炎華は、嬉しそうな顔をした。

炎華は、先陣を離脱し、宋燕めがけて、自身の馬を走らせた。

互いの馬が交差した。 

(まったく、見えなかった....完敗ね....)

炎華は、静かに馬から崩れ落ちた。 

「炎華様!」 遺された沙嵐国兵は、既に戦意を失っていた。

炎華の戦死と時を同じくして、志文は、慧遠と静かに対峙していた。

「伯志文。そなたは何のために戦う?愛する者の為か?それとも武威を示すためか?」 慧遠は、静かに聞いた。

「愛する者を護るためだ」 志文は答えた。

「そうか....では、この天下を統一するのか?天下統一が成れば、愛する者は、戦火に怯えずに済む」 慧遠は、自分に言い聞かせるように言った。

「俺は、天下統一などどうでもいい。天下統一とは、己の欲が創り出す悪夢だ。天下統一を成せば、未来永劫、戦火に怯えることなく、その平和は恒久的に続くかもしれない。だが、俺は善人ではない。愛する者たちにのみ、火の粉がかからなければよい。迫る刃は祓うが、刃を()ずから振りかざすことはしない」

「ふっ」慧遠は、不敵に笑った。

「戯言を....心の底ではわかっているのであろう?戦場にその身を一度でも置けば、戦場に身を置き続けることになる。逃れられぬ宿命だ。何のために戦う?その答えは皆、本質的には同じだ。戦場に呼ばれるのだ。そなたの愛する者はどこにいるのだ?天都か?いや、ここにもいるはずだ。戦場にその身を置くということは、護るべき者が戦場にいるということだ。でなければ、誰も参軍などせぬ」

「そなたは天下統一を一蹴したが、それは、戦に身を置いた者、全員が背負わされる宿命だ。戦に身を置けば置くほど、護るべき者は増えていく。そしてそれは、いずれ、護れきれないほど大きくなる。その時、そなたは、自然と天下を見据えるはずだ」

「ゆえに、戦場の先達からの忠告だ。護るべき者に護られよ。そなたは、あまりに一人で背負いすぎる。それは、信頼していないのではなく、恐れているだけだ。その恐怖は、武器でもあるが、致命的な弱点でもある。失ったと思うのは、自惚れだ。失ったのではなく、護られたのだ。そなたは、常に支えられているのだ。それが、今のそなただ。そしてそれが、誰もが背負う運命なのだ」

慧遠は、静かに剣を構えた。

「参る!」 慧遠は、馬を駆った。勝負はすでに見えていた。

しかし、護るべきものがあった。 馬淵軍参謀としての意地などより、根源的で普遍的なものだった。

それは戦場からの解放、護られて生き残った自身の業からの解放であった。

志文は、薙刀を横に振った。 

(そなたは強い。だがその心は弱いのだ。心まで、強くあろうとするな。自惚れるな。将が護られるべきは、その身体ではない。心なのだ....友よ...私も...)

志文は、崩れ落ちる慧遠をじっと見ていた。

果たして慧遠が何を伝えたかったのか。わかっているはずなのに、わかりたくない、そんな複雑な心境だった。

その頃、馬淵は、隘路の中で、馬を飛ばしていた。

(慧遠....赫牙....鬼斗....炎華....すまない...俺が...俺が...)

その撤退の代償は、あまりにも大きかった。


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