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#1-36 新たな戦場

陽が西の地平線に沈み、戦場の空が、深い茜色に染まる刻限。

荀厳は、言いようもない自責の念に駆られていた。

それは、荀厳じゅん げんの心に、永遠に消えぬ傷跡を刻み込んだ、非情な瞬間であった。

荀厳が、衛国の右翼戦線、白狼山脈から、中央へと馬を駆ったのは、戦略的判断による苦渋の選択であった。

玄岳国総大将、厳冰げん ひょうの軍勢が、張江ちょう こうの守る中央本陣を魏鉄山ぎ てつざん軍と挟撃する動きを見せたためであった。

荀厳は、飛砂関の守りを朱鋒しゅ ほう魏烈ぎ れつに託し、中央へと向かった。

それは、必然の選択であったが、それゆえに、荀厳は苦しんでいた。

「朱鋒、魏烈。すぐに戻る。それまで頼む」

荀厳は、そう言い残した。

朱鋒は、豪快に笑った。魏烈は、確かな頷きを返した。

しかし、その戦略的判断こそが、厳冰の手のひらで踊らされていた証であった。

厳冰は、荀厳が、飛砂関という重要拠点の防衛を、配下に任せざるを得ないことを予見していた。そして、その手薄になった瞬間を逃さなかった。

飛砂関へ行軍を始めてまもなく、朱鋒と魏烈の一万騎にも満たない軍は、三万騎の玄岳国軍に、静かに、包囲されつつあった。

茂みの中から忍び寄る、微かな蹄の音は、朱鋒の胸に、不吉な予感を抱かせていた。

「魏烈。来たぞ。厳冰め、中央の挟撃は偽り...。奴の真の狙いは、俺たちだ...。衛国軍の将の殲滅...。そして、荀厳様の心を打ち砕くこと...」

朱鋒は、冷たい現実を受け止めながら、槍を固く握りしめた。彼の心には、故郷に残した、妻の面影が、浮かんでいた。

「生きて帰るぞ」

魏烈は、朱鋒の言葉に、無言で頷いた。彼の心にも、愛する娘の面影が浮かんでいた。

「生きて帰る....」 魏烈は、独り言のようにつぶやいた。

「ああ、そうだ!俺たちは、生きて帰れる!」 朱鋒は明るく言った。

「俺には、このお守りがあるからな!」朱鋒は錦袋を握りしめていた。

魏烈は、静かに笑った。 彼は、自身の幼い娘を思い出していた。

魏烈の巨大な体を「お馬さん」と呼んで遊ぶ娘。

魏烈が、戦場へと向かう直前、拙い文字で「おとおさま、はやくかえってきてね」と書かれた手紙を、魏烈の鎧にそっと忍ばせた娘。

(俺が、母親であり父親なのだ....。父は、必ず、そなたのもとへ帰る....)

包囲は既に完成されていた。

絶望的な兵力差。そして、厳冰の冷徹な指揮。

しかし、彼らは退かなかった。

「全軍!俺たちは、衛国の未来のために、生きて帰るのだ!我らの帰りを待つ者たちに、我らの名を馳せるのだ!」

朱鋒の熱情的な怒号が、森に響き渡った。

がむしゃらな突撃だった。 そこに、策や隊列などなかった。

生きて、愛する者のもとへ帰る、それだけであった。

その想いが、包囲する厳冰軍に猛攻を掛けていた。

しかし、厳冰は、冷静であった。厳冰は、遠距離からの矢雨を命じた。

「距離をとり、弓を放て」

厳冰の短い号令が、戦場に響き渡った。

玄岳国の精鋭部隊が、彼らに、一斉に襲いかかった。

朱鋒は、槍を手に、鬼神のように戦った。彼の武は、圧倒的であった。彼の槍の一振りが、数多の敵を薙ぎ倒した。

しかし、矢は、無情にも、朱鋒の背後から、降り注いだ。

「朱鋒!そなたは駆けろ!」

魏烈は、朱鋒の盾となった。彼の巨大な体は、全ての矢を受け止めた。

魏烈の体は、無数の矢に貫かれ、血が噴き出した。

(娘よ...父は...約束を...守れなかった...。...お前を守り抜くための力を使ったのだ...案ずるな...父は常にそなたのそばにいる.....)

魏烈は、静かに、膝から崩れ落ちた。

「魏烈....!!」

その隙を、厳冰軍は、見逃さなかった。

「一斉攻撃!」

厳冰軍が、朱鋒に、一斉に襲いかかった。

朱鋒は、魏烈の遺骸を、護るように、槍を盾にした。

彼の体は、数多の刃に貫かれ、血の華が咲いた。

(春琰よ...すまない...俺は......。...このお守りは、そなたに返そう.....兄者、春琰を頼む....)

彼の瞳は、空を見つめていた。その瞳には、妻への愛と友への感謝が、混ざり合っていた。

彼は、友である魏烈のそばで、静かに眠った。

荀厳が、本陣に戻ったのは、夕闇が完全な闇に変わりつつある刻。

(朱鋒、魏烈...)

多くの英雄が地に伏していた。一面が紅く染まっていた。

荀厳は、馬から飛び降り、駆け寄った。彼の足は、震えていた。彼の心臓は、激しい鼓動を打っていた。

「朱鋒....魏烈....」

荀厳は、震える声で、友の名を、呼んだ。

朱鋒の体は、無数の刃に貫かれ、血で染まっていた。

魏烈は、無数の矢に、その体を貫かれ、静かに横たわっていた。

荀厳は、膝から崩れ落ち、友の冷たい遺骸に触れた。

その冷たい感触が、彼に現実を、克明に突きつけた。

(私は一体..ああ...友よ....)

荀厳は、声を押し殺し、慟哭した。彼の慟哭は、大地に吸い込まれていった。

彼は、心の底から湧き上がる悲しみと自責の念で、全身を震わせた。

(私のせいだ...全て、この私の愚かな判断のせいだ...。私が中央へ向かわなければ...。厳冰の真の狙いを、見抜いていたら...)

彼の心は、絶望と憎悪の渦の中に沈んでいった。

彼は、涙を拭い、朱鋒と、魏烈の遺骸に、誓いを、立てた。

「朱鋒...魏烈...お前たちの死は、無駄にはしない...。俺が、厳冰を討つ...。そして、衛国の未来を守り抜く...。お前たちの魂を、安らかに、眠らせるために...」

荀厳の瞳には、復讐の炎が、静かに燃え上がっていた。

荀厳は、静かに立ち上がった。

夜明け前の暗闇が、彼の決意を際立たせていた。

彼の背後には、悲痛な面持ちで立ち尽くす、一万余騎の兵士たちがいた。

配下の林堅は、その荀厳の顔つきに、心配そうな目を向けた。

荀厳は、彼らに、静かに語りかけた。

「忘れるな。友は、衛国の未来のために、命を捧げた。我らは、友の遺志を継がねばならぬ」

荀厳の言葉は、力強かった。彼の悲しみは、既に、決意へと変わっていた。

その心は、冷たい憎悪で、満たされていた。

彼は、朱鋒と魏烈の隊の遺骸を、丁重に弔うことを命じた。

夜明けの薄い光が、砂塵の荒野を照らし始めた。その光は、衛国のわずかな希望を、示しているように見えた。

荀厳は、振り返ることなく、前だけを見つめていた。

「陳毅、そなたは、明朝の軍議で、策を張江に伝えよ。孫毅を借りるぞ」

陳毅は、静かに頷いた。荀厳を留めることはできなかった。

荀厳の選んだ道は、茨の道であった。しかし、それは同時に、厳冰の思考に、静かに、そして確実に棘を刺すものであった。

「行くぞ!」

荀厳の低い声が、夜明けの静寂を、切り裂いた。

残された一万騎の、兵士たちは、静かに、荀厳の後を追った。

彼らは、絶望の淵から立ち上がり、新たな戦場へと向かった。

絶望と希望が交錯する戦場で、新たなる戦いが、始まろうとしていた。

かくして、初日の激戦は終息した。

大地は冷たい朝霧に包まれていた。二日目の朝が静かに始まる。

衛国軍中央本陣。

総大将、張江ちょう こうのもとへ、各軍の将が集った。初日の戦いを終えての、今後の策の相談のためであった。

集ったのは総大将の張江。中央左翼総大将の周翼しゅう よく。戦死した高遠こう えんから指揮を引き継いだ中央右翼総大将の孫賢そん けん。飛砂関総大将の朱威しゅ い。飛砂関副将の関泰かん たい。左翼総大将の磐虎ばん こ。左翼副将の志文し ぶん。左翼副将の葉旋よう せん。そして、右翼副将の陳毅ちん きであった。

将の数は少ない。誰もが初日の損害の大きさを知っていた。彼らの顔には疲労と焦燥の色が濃く刻まれていた。

張江は、静かに口を開いた。「荀厳は?」

陳毅が応じた。「そのことで、御報告がございます」

張江は穏やかな目つきを保っている。彼はまず戦況報告がなかった右翼の状況から聞いた。「右翼の戦況から聞こう。報告がないが」

陳毅は声を絞り出した。「右翼は、すでに軍として壊滅に近い状態にあります」彼は一呼吸置く。

郭慎かく しん趙静ちょう せい周義しゅう ぎ、そして朱鋒しゅ ほう魏烈ぎ れつが、戦死いたしました」

会議室に沈黙が落ちた。将たちは言葉を失った。郭慎、趙静、周義、魏烈は名高い豪将であり、朱鋒は荀厳の腹心であった。

彼ら五将が一日にして失われた事実はあまりに重かった。

静寂が、本陣を包み込んでいた。

その静寂を切り裂くかのように、磐虎は声を荒げた。「何をやっているのだ!あ奴は、伯明様の仇の前に、我を忘れのか!」

彼の怒号が天幕を揺らした。

「数多の将兵を失い、かつ自身の腹心をなくし、あまつさえ軍議に自身が出ないとは、荀厳は何をしている!ふざけているのか!!」

磐虎は陳毅を睨みつける。その目は、炎を宿していた。

しかしそんな磐虎を制したのは、張江であった。張江は冷静に言った。

「どんな策だ?」

陳毅は顔を上げた。「右翼の指揮は、私が引き継ぎます。ですが荀厳様は....外に向かわれました」 陳毅は、淡々と言った。

張江は「そうか」とだけ返した。それ以上は何も言わない。彼は黙って軍図を見つめていた。

磐虎や葉旋、孫賢、関泰は顔を見合わせた。意味がわからないという顔をしている。朱威と張江、志文だけは、その意味を悟ったようであった。

「どういうことですか。外に向かったとは」

葉旋の問に志文が応じた。「右翼に、汪盃おう はい軍を引き込むつもりだ」

陳毅が頷いた。「その通りです。荀厳様は、もうすでに白狼山脈の本陣を発ち、汪盃軍と対峙する冥禰みょうねい軍を背後から討つつもりでいます」

磐虎は机を叩いた。「勝手すぎるぞ!軍全体を無視した独断専行ではないか!!」

張江は重々しく、口を開いた。

「厳冰の裏をかくにはこれしかない。裏をかけずとも、右翼は、兵が足りぬ。それゆえに、冥禰軍を殲滅し、汪盃軍を引き込むしかないはずだ」

張江は続けた。

「右翼は、陳毅の隊に加えて、飛砂関の精鋭と、私の副将、寧武ねい ぶ清流せい りゅうの軍、計一万五千騎とする」

飛砂関の朱威と関泰が静かに頷いた。朱威は、朱鋒の死に、涙を流す暇もなかった。彼は、亡き弟の遺志を継ぐ覚悟を決めていた。

朱威は朱鋒と兄弟であった。

朱鋒の妻が病に臥せったとき、朱威は自分の俸禄を削り薬代を工面した。

朱威が戦場へ向かう前夜。朱鋒は、朱威に酒を注ぎ続けた。

朱鋒は誓った。必ず生きると。必ず、愛する妻のもとへ帰ると。

しかし、その誓いは果たされなかった。

朱威の心は千々に乱れていた。ただ、今は戦う。それが朱鋒への唯一の弔いであるように思われた。

朱威は、深呼吸を一つして、関泰と共に、飛砂関へと戻っていった。

張江は、話を続けた。それは中央軍についてであった。

「中央は私の軍に、孫賢の軍を組み込み、周翼との二軍編成にする」

中央左翼の業髄ぎょうずいの軍は、志文の奇襲と周翼の挟撃により、もはや戦力になるような状態ではなかった。

すなわち、彼は、魏鉄山軍と方陸ほう りく軍の二つを相手にすればよいと考えたのだ。

張江は左翼へ目を向けた。「左翼の戦線をなるべく早く決着をつけてほしい。無茶な願いなのは、わかるが、私にはどうも、厳冰が、その荀厳の策すら見抜いているように思えてしまう....」

張江は続けた。「とにかく、右翼がいつ厳冰に破られてもおかしくない。左翼の勝利が、この戦の鍵となる。磐虎、志文、葉旋、よろしく頼む」

この再編成により、右翼は、寧武と清流、陳毅の二万騎弱、中央は、張江・周翼・孫賢の二万五千騎弱。そして左翼に磐虎と志文、葉旋の二万騎弱が布陣することとなったのであった。

その頃、荀厳は、背後にいる汪盃おう はい冥禰みょう ねいのもとへと密かに向かっていた。

しかし、汪盃の軍は、既に窮地に追い込まれていた。

汪盃軍は白狼平原に布陣し、冥禰軍は白狼山脈の入り口の一つに布陣していた。

初日は昼過ぎまで、両軍は小部隊をぶつけあっていた。

すなわち、お互いを探りあっているだけであった。

しかし、昼を過ぎると戦況は一変した。

冥禰軍が突如として、全軍で、総攻撃をかけてきたのだ。

冥禰は沙嵐国にあって、猛将ではなく、智将ではないか、汪盃はそう、判断していた。布陣は堅守を誇り、局地戦も、引き際を誤らず、決して無駄な犠牲を出さなかったからである。

ゆえに、汪盃は、何かの策であると踏んだが、堅守を固める以外に方法はなかった。

汪盃はその総攻撃に対し、徹底した堅守を固めた。

彼はついに、冥禰の猛攻を撃退した。そして、初日が終わり、夜が明けた。

汪盃は偵察隊から報告を受けた。

冥禰の軍は一万に減っていた。そして冥禰自身の本軍一万が、完全に姿を消していたのだ。全軍で初日の昼に突撃した人数から考えれば、減少しているのは一目瞭然だった。

汪盃は焦燥に駆られた。彼の任務は単に国境を防衛するだけではない。冥禰と厳冰の間にいる荀厳の隊を、挟撃させないための牽制役も兼ねていたからだ。

汪盃は考えた。

(冥禰の本軍が消えたじゃと....これは、罠の可能性もあるが、もし白狼山脈の左方の林の中に隠れているならば、迂闊に動けば背後を突かれる....)

汪盃は慎重な策を選んだ。彼は自身の配下の五将、魏明ぎ めい辛武しん ぶ鄭洪てい こう悌需てい じゅ雲暁うん ぎょうの計一万をぶつけることにした。

冥禰の残存軍は白狼山脈への正面からの唯一の入り口で必死に防御を固めた。しかし、汪盃の五将に率いられた部隊は、精鋭揃いであった。徐々に冥禰軍は削られていった。

汪盃はその様子を見て、判断を下した。

(罠ではない...冥禰の軍は、本当に、荀厳軍の挟撃に行ったのだ....)

彼はさらに左方に広がる林を探らせた。そこにも冥禰の軍はいなかった。

汪盃は自身の本軍と共に出撃した。

汪盃軍は、敵の防御を討ち破るために猛攻をかけた。

冥禰の残存軍は数に劣るとはいえ、兵の士気は高かった。

しかし、その数の差を前に、徐々に、堅守は綻びを見せ、汪盃軍は敵の防御線を破り、乱戦状態に突入した。

その瞬間、汪盃の本軍の背後で、どよめきが広がった。

冥禰の本軍が、汪盃軍の背後を急襲したのであった。

(まさか....白狼湿地に潜んでいたのか...)

冥禰を智将だと思っていた汪盃は、智将ゆえに、そして冷静故に、そのような狂気の沙汰に出るとは思っていなかった。

白狼湿地は夜の行軍には、危険を伴う場所だった。

ぬかるみに足を取られ、気づかれれば身動きできずに一網打尽にされる危険もはらんでいた。

それを知っていたからこそ、汪盃は白狼湿地の可能性を排除していたのだ。

だが冥禰はその狂気を選んだのだ。

汪盃の決断は一瞬であった。

「全軍、撤退じゃ!」

その声を合図に、汪盃軍は、反転し、冥禰の本軍を突破しようと試みた。

だが、冥禰の本軍は、完璧な包囲網を、既に完成させていた。

その完璧な包囲網は、確実に、汪盃軍を削っていった。

「汪盃様!こちらへ!」「我らが道を開きます!」

辛武と鄭洪は、そう言うと、自ら冥禰の本軍に切り込んだ。

辛武は玄岳国軍の猛攻の中で、この地で倒れた、桓策のことを思い出していた。桓策は、雷鋒との戦の前に、辛武に言った。桓策が他人に話しかけることは、滅多になかった。

「汪盃様は、御自身を凡庸だと言われるが、それは違う。あの方は、誰よりも、我らの重みを知っている。我らの想いを知っている。だが、それゆえに、迷われるのだ。そしてその迷いは、いつしか、我らを捨てる時の足枷となる。そうなったときは、我らがその枷を捨てるのだ」と。

辛武は武人だ。戦場が彼の生きる場所だ。だが、主君、汪盃のそばにいると、汪盃のそばが彼の生きる場所だと思えた。

桓策は、迷わず、汪盃の枷となる自身をこの地に捨てたのだ....あの時、俺は、何もできなかった...ただ枷のままであった....枷を捨てるか....)

辛武は槍を突き出しながら、微笑んだ。

(殿。俺はもっと貴方の力になりたかった....)

彼は、昔、汪盃がくれた不格好な木馬を肌身離さず持っていた。

皆は、「捨てろ」と言うが、あの木馬を見ると、汪盃が常に側にいるような気がして、辛武は持ち運んでいた。不格好なところが、よかったのかもしれない。

彼の前には、すでに道ができていた。鄭洪が、血路を開いていた。

だが、彼の体は、既に動けなかった。

無数の刃が貫いていた。

彼は声を発することなく、静かに、懐に入れた木馬と共に倒れた。

(汪盃様、お役に立てず、申し訳ありませぬ....不肖辛武、願わくば、もう一度、あなたのもとへ...)

鄭洪は、辛武が、地に静かにその身を委ねたのを、視線の端で捉えていた。

鄭洪は吠えた。友を失った悲しみではない。友の果たした責務への感謝であった。

汪盃たちは、すでに、自身と辛武が開いた血路を突破し、本陣へと撤退していた。

既に、鄭洪の体は、限界を超えていた。

彼は、傍らにある汪盃軍の旗を手に取り、地に立てた。彼の目が再び、開くことはなかった。

穏やかな笑みを浮かべた勇将は、軍旗を片手に、友のもとへと、還っていった。

汪盃軍は本陣へ戻った。しかし、汪盃軍は、開戦時の二万騎から、一万騎へとその兵数を大きく減らしていた。

そして、冥禰の本軍は完璧にその姿を消していた。

冥禰の残兵が、堅陣を組み、山脈の入り口に布陣しなおしていた。

汪盃は、迂闊に動けなかった。二人の将を失った。多くの兵も失った。

さらに、冥禰の本軍は、またも、その行方を晦ましていた。

そしてなにより、冥禰がどこへ向かったのか、それが汪盃の焦燥を深いものにしていた。

しかし、汪盃に選択の余地はなかった。

白狼山脈の正面から王都に行くには、いくつもの要塞を落とす必要があった。だが飛砂関を落とされれば、飛砂関から王都までは、要塞がわずか五つしかなかった。

汪盃は己の隊を失うことよりも、荀厳の隊を護ることをえらんだ。

飛砂関の右翼の通路を護る、荀厳軍の援護を優先したのだ。

汪盃は、全軍に突撃を命じた。

「全軍。死を恐れるな。衛国の未来は、我々の手にある!」

汪盃の軍は決死の覚悟で突撃した。

一万騎は眼前の堅陣に向かって、一直線に駆け抜ける。

その時であった。白狼山脈の入り口の堅陣は、突如として、崩れた。

崩れた堅陣の中から、新たな軍が現れた。それは荀厳軍一万騎であった。

汪盃は、荀厳軍の出現に戸惑ったが、その機を逃さなかった。

斯くして、冥禰の堅陣は破られ、ここに壊滅したのであった。

荀厳軍は、白狼山脈を、明朝から急行軍で駆けてきた。その速度は驚異的であった。多くの配下を失った荀厳の心には、迷いなど存在しなかった。ただ、厳冰への復讐、それだけを見据えていた。

荀厳軍は汪盃軍と合流した。

荀厳は、迅速に、汪盃軍と合流できたことを素直に喜んでいた。

しかし、汪盃は荀厳に言った。

「私と対峙していた総大将の冥禰とその本軍一万が消えた」

荀厳は、一瞬にして、その顔色を変えた。彼の心臓は、激しく脈打っていた。

荀厳は、陳毅らを思い出した。自身の策は、厳冰に見破られていたのではないか、そんな底知れぬ不安を、荀厳は覚えた。

(冥禰の狙いは、厳冰との右翼軍の挟撃か....)

「全軍、すぐに戻るぞ!」

日が昇りつつある。荀厳と汪盃は、急行軍で、白狼山脈の荀厳の本陣へと、馬を飛ばすのであった。

彼らの心には、新たな絶望と焦燥が、ゆっくりと、しかし確実に広がっていた。


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