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#1-35 昔日の邂逅

連合軍中央本陣の天幕は、夜の闇の中で、まるで巨大な獣の胃袋のように、重く、淀んだ空気を閉じ込めていた。

初日の激戦を終え、三国連合軍の主要な将たちは、それぞれの陣地から、中央本陣に集まり、戦況の報告と、今後の戦略を練るための協議を行っていた。

しかし、その雰囲気は、勝利の歓喜に満ちたものではなかった。

むしろ、不協和音と、将たちの間に横たわる、深い亀裂が、天幕全体を支配していた。

魯国の総大将、魏鉄山ぎ てつざんは、天幕の中央に置かれた巨大な地図の前で、苛立ちを込めて、怒号を飛ばした。

「右翼はどうなっておるのだ!なぜ、厳冰げん ひょうからの正式な戦況報告が、未だに来ぬのだ!」

彼の声は、鋼鉄の板を打ち鳴らすように響き、周囲の武将たちを、一瞬、たじろがせた。

魏鉄山は、高遠こう えんを討ち取ったという、初日最大の戦果を上げたにもかかわらず、その表情は、まるで、獲物を逃した猛獣のように、荒々しかった。

横では、魯国の精鋭部隊『魏五虎』の面々が、静かに控えていた。

大崩だいほうは、その巨体を揺らし、不満げに鼻を鳴らし、聞閉ぶんぺいは、無気力に虚空を見つめ、陳堅ちんけんは、冷徹な視線で、戦況図を睨んでいた。

魏鉄山の焦燥は、左翼と中央で、沙嵐国さくらんこく軍が被った、予想外の損害にあった。

左翼の天狼平野では、沙嵐国の副将、楽愁らく しゅうの軍が全滅した。しかし、残存兵力を考えれば、すぐに劣勢と断じるには早計であった。

沙嵐国の総大将、馬淵ば えんの本軍は、二万余騎が健在であり、呈威てい いの軍も、配下の三将を失ったとはいえ、五千余騎が残っていた。

対して、左翼の衛国軍は、初日の隘路での激戦で、高翔こう しょう周廉しゅう れんという、二人の将を失い、その兵数は、磐虎ばんこ軍の一万余騎、葉旋ようせん軍の三千余騎、そして、志文しぶん軍の四千余騎、合わせて、二万騎に満たない兵力であった。

数字の上では、左翼は、まだ連合軍に分があった。

問題は、中央戦線であった。

中央では、沙嵐国の副将、業髄ぎょうずいの軍が壊滅した。この損害は、連合軍にとっては、看過できない、戦略的な失敗であった。

しかし、衛国軍も、中央で、高遠と越憲えつ けんという、二人の剛将を失ったことで、戦果だけを考えれば、痛み分け、あるいは、連合軍側がやや優勢であった。

そして、その実情を、数字が後押ししていた。

衛国軍は、総大将の張江ちょう こうの本軍が二万余騎、左翼副将の周翼しゅう よくの軍が一万余騎、高遠に代わって指揮を執る孫賢そん けん軍が七千余騎。合計しても、三万七千騎程であった。

対する連合軍は、中央総大将の魏鉄山軍が六万余騎、玄岳国軍の中央副将、方陸ほう りくの軍が二万五千余騎。そして、業髄軍の参謀、覇萬は ばんを含む、残兵二百余騎ほどが残存兵力であった。

すなわち、中央の連合軍は、八万五千余騎という、圧倒的な兵力が、未だに残っていた。

この兵力差は、最早、決定的なものである、魏鉄山は、そう思っていた。

魏鉄山は、この圧倒的な兵力をもって、明日にも、張江の本軍を壊滅させ、衛国の総大将の首を獲ることを、確信していた。

だからこそ、魏鉄山は苛立っていた。

「右翼伝令!」

その声を聞くと、魏鉄山は、伝令兵が天幕に飛び込んでくるのを待たず、自ら怒号を放った。

彼の苛立ちは、この、巨大な勝利の機会を前にして、情報統制を続ける、玄岳国の総大将、厳冰に対する、強い不信感から来ていた。

「なぜ、こんなにも遅いのだ!初日の戦闘を終え、すでに夜半に入ろうとしている。連合軍の指揮系統として、右翼の状況は、最も重要な情報であろう!」

伝令兵は、魏鉄山の荒々しい怒号に、一瞬たじろぎ、言葉を失った。

魏鉄山は、即座に、自身の怒気が、無意味な威圧となっていることを悟り、怒りを抑えて、穏やかに言った。

「よい、そなたに言っても、仕方あるまい。戦況を報告せよ。厳冰からの、正式な伝令を、寸分違わず伝えよ」

伝令兵は、震える声で、厳冰からの短い、そして、冷たい、言葉を伝えた。

「厳冰様より…右翼は、明日、飛砂関ひさかんを攻めるとのことです…」

「それだけか」

魏鉄山は、低く唸るように、尋ねた。伝令兵は、微かに頷いた。

その瞳は、極度の疲労と恐怖で満たされていた。

厳冰の冷徹な雰囲気と、魏鉄山の激情。その両極端な緊張感に、彼は耐えられなかったのだろう。

「下がれ」

魏鉄山は、静かに言った。その声には、もはや怒りではなく、深い失望と諦念が混ざっていた。

伝令兵が天幕を下がると、魏鉄山は、そばにあった、簡素な木製の椅子を、思い切り蹴り飛ばした。椅子は、音を立てて倒れ、闇の中に、重い音を響かせた。

「厳冰め!なぜ戦況を報告せぬ!我らは今、衛国を滅ぼすという、最大の目的を共有する、連合軍なのだぞ!自国の利益だけを考えているとしか思えぬわ!」

彼の怒りは、厳冰という将の、あまりにも閉鎖的な、行動様式に対する、感情的な爆発であった。

『魏五虎』の一人、陳堅が、冷静に、魏鉄山を諫めた。

「殿、厳冰殿は、そういうお方だと、公孫穆こうそん ぼく軍師が仰っていたではありませぬか。『決して手を見せぬ』と。そして、『その手は、必ず、最も冷徹で、確実なものだ』と」

「それにしても、明日、飛砂関を攻めるとは....右翼の決着が、既に、ついたということでしょうか?」

聞閉が、天幕の隅で、無気力に聞いた。彼にとって、戦況の分析は、意味のない、退屈な作業でしかなかった。

「そういうことだろう....」

魏鉄山は、深い溜息をついた後、まるで、自身に言い聞かせるように、呟いた。

「あれは…化け物だからな...」

魏鉄山の口から出た、その言葉は、天幕に、重い沈黙を広げた。

魏鉄山は、魯国軍の総大将であり、『魯三傑』の一角、稀代の猛将である。その彼が、「化け物」という言葉を、他の将軍に対して使うことは、異例であった。

「殿にそこまで、言わせるとは、あの『玄岳四堅』厳冰とやらは、そこまで強いのですか?」

『魏五虎』の中でも、最も、豪快で、武勇を好む、大崩が、目を丸くし、驚いているようだった。

大崩にとって、天下に、魏鉄山以上の武勇を持つ者がいるという事実は、受け入れがたいものであった。

魏鉄山は、大崩の問いに対し、静かに、そして、重々しく、語り始めた。

それは、武将として、この乱世を生き抜いてきた、彼の経験と、厳冰という存在に対する、深い畏敬の念から来る、告白のようなものであった。

「『玄岳四堅』が強いのではない。厳冰が強いのだ。そもそも『玄岳四堅』とは、玄岳国と国境を接する、沙嵐国・魯国・景国・衛国から、国境の要所を防衛するために、つくられた、四人の武将の役職だった」

魏鉄山は、戦況図の上で、玄岳国の、四つの国境線を示す印を指差した。

「彼らは、皆、守戦に長け、堅守を誇り、奴らに勝つことは、至難の業であった。いつしか、奴らは、『負けない戦をする者』となり、その名は、天下に、あまねく轟いた。その名が、すなわち、『玄岳四堅』よ」

魏鉄山の説明に、露鴈ろがんが、目を輝かせながら、口を挟んだ。

露鴈は、武勇よりも、その背景にある、英雄譚や、物語を好む男であった。

「ですから、他国が、手を出さなくなったのでしょう?『負けない将』がいる国に、攻め入るほど、愚かな者はいませんからね!」

露鴈は、英雄譚に登場する数々の異名に、深い憧れを抱いていた。

彼にとって、『魏五虎』や『魯三傑』、『天下三賢』、『玄岳四堅』、『沙嵐六猛』、『南黎双璧』、『天下五矢』、『五武帝』、『双龍の番人』、『景七師』、これらはすべて憧れであり、自らの武勇を試すための倒すべき相手でもあった。

彼の視線は、常に、物語の頂点に向けられていた。

しかし、魏鉄山は、露鴈の無邪気な言葉を一蹴した。

「『玄岳四堅』など、名ばかりだ」

その言葉に、露鴈は、一瞬、苛立ちを覚えた。彼が憧れる英雄の異名を、魏鉄山が、まるで、価値のないもののように断じたからである。

だが、魏鉄山は、そんな露鴈を一瞥もせずに、話を続けた。

彼の視線は、遠い過去と、厳冰という、巨大な影に向けられていた。

「たしかに、『玄岳四堅』は強い。他の三堅も、それぞれが、一国を支えるほどの実力を持つ。だが、『玄岳四堅』を、天下が最も恐れる最大の理由は、『玄岳四堅』の第一堅、厳冰がいるからだ。あれが、玄岳国を一国として、保たせている。あれがいる限り、玄岳国が、他国に後れを取ることはない」

魏鉄山の言葉は、厳冰という存在が、玄岳国という枠を超えた、軍事国家そのものの象徴であることを示していた。

「そこまでの者なのですか....」

孟武もうぶが、独り言のように、つぶやいた。

孟武は、普段、無口で、感情を表に出さない男であったが、魏鉄山の尋常ではない厳冰に対する評価に驚きを隠せなかった。

魏鉄山は、少し遠い目をした。

「この乱世に名を残したい者ならば、『天下最強が誰か』を考えたことが、一度はあるだろう?」

それは、この場にいる、すべての武将に向けられた問いであった。武人として頂点を極めること。それは、彼らの根源的な願望であった。

「今、国として、天下最強なのは、間違いなく、『景七師』や『天下五矢』、『五武帝』、『天下三賢』がいる、景国であろう。景国の兵力、そして、武将の層の厚さは、他国の追随を許さぬ」

魏鉄山は、そこで、言葉を切った。

「しかし、彼ら、景国の将をもってしても、あの厳冰がいる限り、容易に玄岳国に手が出せぬのだ....玄岳国と景国の国境線は、難攻不落の要衝ばかり。厳冰は、その要衝を自らの『堅守』という、一つの力で、完璧に守りきっている。景国が、最も攻略を諦めているのが玄岳国、そのものであろう」

魏鉄山の言葉は、厳冰の持つ、堅守の力が、武力としての攻撃力よりも、はるかに恐ろしい政治的な力を持っていることを示唆していた。

「されど、個としての天下最強は、紛れもなく、『双龍の番人』の光龍、伯明はくめい様ですね!」

露鴈が、少し嬉しそうに、言った。彼の心の中には、既に、一つの理想の英雄像が確立されていた。

「伯明将軍は、なにせ、『景七師』や『玄岳四堅』、『沙嵐六猛』を同時に相手にして、一歩も退かなかったのですから!その伝説は、今も、衛国の兵士たちの間で、語り継がれていると聞きます!」

露鴈は、無邪気に、口にした。彼にとって、伯明は、この乱世が生んだ最大の英雄であった。

しかし、その言葉は、天幕の空気を、一瞬にして凍り付かせた。

魏鉄山の表情は、一瞬にして、怒気と強い警戒心に変わった。

「やめよ。その名は、禁句だ、露鴈。沙嵐国や、特に、この連合軍にいる、玄岳国の者に、聞かれたら、貴様の首が飛ぶぞ!」

魏鉄山は、静かに、しかし、強い怒りを込めて、声を荒げた。

伯明の名は、連合軍、特に、玄岳国と沙嵐国にとっては、決して触れてはならない、最大の禁忌であった。

伯明は、衛国が、未だに国として、存在し続けられた最大の理由であり、同時に、どの国にとっても、最も屈辱的な敗北の記憶、そのものであったからだ。

大崩が、間髪を入れずに、魏鉄山を、賞賛した。

「天下最強は『魯三傑』の一人、我が殿であろう!殿の豪胆さと、その武勇は、天下に並ぶ者なし!」

大崩の言葉は、魏鉄山の、自尊心を慰撫するとともに、露鴈の軽率な発言によって生まれた、緊張感を、打ち消すための機転でもあった。

魏鉄山は、大崩に向かい、静かに笑った。その笑みには、自嘲と武人としての深い諦念が混ざっていた。

「ふっ。俺など、奴らに比べれば、ただの凡将よ.....」

彼の言う「奴ら」が、厳冰であり、そして、既に、この世にいない、伯明であることをその場にいるすべての将が理解していた。

魏鉄山は、再び、戦況図に目を落とした。

彼の脳裏には、数々の戦場での、伯明の鬼神のような武勇が、甦っていた。

伯明という将は、武勇、知略、そして、何よりも、その人間的な魅力で、衛国の将兵を一つにまとめ上げていた。

(しかし、伯志文....あれもまた、傑物の類であろう....あの武と知は、まさしく、伯明の若き日の面影を見た....伯明...天下があの時、最も恐れた男、そして、衛国を強国たらしめていたのは、間違いなく、あ奴がいたからだ....)

魏鉄山の心の中には、伯明という、偉大な将に対する、武人としての、純粋な敬意が宿っていた。そして、その敬意は、伯明の子、志文に対する、警戒心へと繋がっていた。

魏鉄山は、過去の影を振り払うように、己の感情を、押し殺した。

「過去は過去だ....現在(いま)、我らが成すべきは、『双龍の番人』の片割れ、影龍、張江の首をとることよ!高遠と越憲を討った今、衛国の将兵の士気は、底を打っている。明日は、総力戦で、一気に、張江を討ち取るぞ!」

魏鉄山は、力強く言った。

彼の怒号は、天幕全体に響き渡り、連合軍の将兵の心を再び、戦へと駆り立てた。

陽はすでに落ち、空には、冬の星が、冷たく、燦然と輝いていた。

夜の静寂は、訪れるであろう、血嵐を予兆するかのように、大地を覆っていた。

魏鉄山は、天幕の隅に置かれた粗末な椅子に、乱暴に腰を下ろした。

彼の目の前には、夜食として出された、冷たい肉と酒が置かれていたが、それらに手を付ける気にはなれなかった。

彼の頭の中は、厳冰の不可解な行動と、衛国軍の将、特に、志文の存在で、満たされていた。

「殿、酒をどうぞ。冷えた体には、これが一番です!」

『魏五虎』の一人、露鴈が、心配そうに、酒の入った杯を、魏鉄山に差し出した。露鴈は、英雄譚を好む、感情豊かな男であり、魏鉄山の内に秘めたる苛立ちと孤独を感じ取っていたのだろう。

「露鴈。貴様は、まだ、伯明のことが、頭から離れぬようだな」

魏鉄山は、杯を受け取り、一口で飲み干すと、露鴈に、静かに尋ねた。

「はい。武人として、あそこまでの伝説を残した者は、後にも先にも、伯明様だけではないかと...。そして、その伯明様の息子である、伯志文...彼は、いったい、どのような者なのでしょうか...」

露鴈の瞳には、武人としての強い好奇心が、混ざっていた。

魏鉄山は、再び、酒を呷った。その味は、苦く、冷たかった。

「伯明は...強かった。武勇においては、俺ら『魯三傑』や『景七師』、『沙嵐六猛』を凌駕していた。知略においても、公孫穆や、いまでいう『天下三賢』と拮抗していただろう...。そして、何よりも、その『人望』が、恐ろしかった。伯明の時代は、まだ『五武帝』や『天下三賢』、『天下五矢』といった呼称は存在しなかったからな。ただ、各国の柱石の将たちに、まとめて呼称がつけられていた。それだけだ.....」

魏鉄山は、天幕の天井を見上げ、遠い日の、伯明との戦を思い出していた。

「伯明と対峙した時、俺は、『負けるはずがない』と思っていた。しかし、戦が始まると、俺の兵は、伯明の兵の三倍であったにもかかわらず、その士気と練度の差で、まるで、蟻の群れのように踏み潰された。あれこそが、『人望』を持つ伯明という将の最大の力であった....」

魏鉄山の、その言葉は、彼自身の武人としての誇りを、一時的に放棄した告白であった。

「では、志文は、その伯明の再来なのでしょうか?」

露鴈は、身を乗り出し、魏鉄山に尋ねた。

「いや...」

魏鉄山は、静かに、首を横に振った。

「志文は、伯明ではない。伯明は『光』であった。その存在だけで、衛国の将兵を、勝利へと導く、太陽のような存在であった。しかし、志文は、『影』だ」

「影...ですか?」

「そうだ。奴は、常に、戦場の暗闇に潜み、最も、相手が油断している刹那を狙う...。その冷徹な判断力と迅速な行動力は、伯明の豪快な武勇とは、対極にある。奴は、『最も確実な勝利の形』を知っている...。業髄ぎょうずいが、奴に討たれたのは、奴が、志文を『影』の将であることを、見誤ったからだ。あ奴の武は、冷静で正確だ。鋭いとも言えるだろう。伯明の武は柔らかいのだ。すべてを流し、自然の摂理かのようにねじ伏せる。伯明の知は、軍として成り立つが、あ奴の知は、個として成り立つ」

魏鉄山は、そう言うと、天幕の隅に置かれた戦況図を、再び、睨みつけた。

「業髄は、高遠こう えんを討ち取った、俺の勝利の余韻に酔いしれていた...。そして、志文の奇襲を、『些細な抵抗』と軽視した...。その慢心こそが、奴の命取りとなった...。志文は、その慢心という、『隙』を見逃さなかった...」

魏鉄山は、立ち上がると、天幕の中央を、ゆっくりと、歩き始めた。

「衛国軍は、高遠、越憲という、二人の剛将を失い、中央戦線は壊滅寸前...。しかし、左翼の『影』の将が、業髄を討ち取り、左翼にすらも、軽視できぬ痛手を与えたことで、衛国軍の士気はわずかに回復した...。この、『かすかな希望』こそが、衛国軍の最大の武器となる...」

魏鉄山は、そう言うと、自身の本営にいる他の将たちを、一瞥した。

彼らは、兵力差という『絶対的な勝利の数字』に酔いしれており、志文という将を軽視していた。

「殿は、志文という若き将を、そこまで恐れているのですか?」

陳堅が、冷静に魏鉄山に尋ねた。

陳堅は、魏鉄山の、感情的な爆発を、冷静に受け止める、理知的な男であった。

「恐れてなどおらぬ。伯明の方が、よほど恐ろしかった。奴の場合は、軍を壊滅させねば終わらぬ。将を討っても、無限に将が出てくる。志文の場合は、奴を討てば、軍として終わる。ただ、その存在を『警戒』するに越したことはない...」

魏鉄山は、陳堅に、冷たい視線を向けた。

「陳堅。貴様は、数字を信じる男だ。だが、戦場というものは、数字だけでは、決まらぬ...。『士気』や『練度』、『感情』という、目に見えぬ力が、戦局を一瞬でひっくり返す...。そして、志文は、その『士気』や『感情』という、目に見えぬ力を操る『影の将』なのだ...」

魏鉄山は、再び、天幕の中央で立ち止まった。

「我らが、明日、衛国を、滅ぼすためには、この『影』を、完全に、断ち切らねばならぬ...。さもなくば、衛国は、必ず、この『影』の力で、我々に牙を剥き続けるであろう...」

魏鉄山の言葉は、彼の武人としての直感と経験から来る、『警告』であった。

魏鉄山は、天幕から、白狼山脈を眺めていた。

「厳冰め...。右翼で何をしたのだ...。明日、飛砂関ひさかんを攻めるという、その『結果』だけを、我々に伝えてきた...。その『過程』を一切、明かさぬ...。これこそが、奴の最も恐ろしいところだ...」

魏鉄山は、深い溜息をついた。厳冰の行動は、連合軍としての協力体制を、完全に無視したものであった。

「殿、厳冰殿は、常にそういうお方でございましょう。公孫穆軍師も彼の『孤高の策略』を、最も警戒されていました...」

陳堅が、再び、冷静に、魏鉄山に、語りかけた。陳堅は、厳冰という将の、本質を、理解していた。

「孤高の策略...。そうであろうな...」

魏鉄山は、自嘲気味に笑った。

「奴が、飛砂関を攻めるということは、右翼の衛国軍の抵抗を、完全に排除したということ...。そして、その過程で衛国軍の、『何らかの重要な要素』を、壊滅させたということ...」

魏鉄山は、伝令の報せを思い出していた。右翼の荀厳じゅん げんが、初日の戦闘で中央の戦場に姿を現したという『不自然な事実』。

「まさか...厳冰め...奴は...」

魏鉄山の顔が、たちまち、朱色に染まった。彼の武人としての直感が、厳冰の『冷徹な、一手』の真の狙いを捉えたからであった。

「厳冰め!奴は端からこの中央戦線の勝利など眼中に無かった...。奴の目的は、衛国の『兵站線へいたんせんを切断すること』...。飛砂関を落とし、衛国への補給路を完全に断つこと...。そして、そのために、荀厳という『邪魔な将』を右翼から排除したのか...」

魏鉄山は、天幕の隅に置かれた、軍図の飛砂関の位置をじっと見た。

「飛砂関が落ちれば、衛国軍は、この戦場で孤立する...。つまり、兵糧と援軍の補給路が完全に断たれる...。そうなれば、我々が張江の首を獲るまでもなく、衛国軍は『自滅』する...。これこそが、奴が描いた確実な勝利の形...。公孫穆が、最も恐れる厳冰の『手』だ...」

魏鉄山の声は、震えていた。

それは、怒りではなく、厳冰という将の『非人間的な冷徹さ』に対する、強い畏怖の念から来ていた。

「我々は、高遠こう えんを討ち取った。だが、きっとそれすらも.....。我々は、奴の『手のひらの上』で踊らされていたに過ぎぬ...」

「では、殿。我々は、明日どう動くべきでしょうか?」

聞閉が、無気力に尋ねた。。

「どう動くべきか...」

魏鉄山は、再び、天幕の中央に立ち止まった。

「我々は、公孫穆の厳命を、守らねばならぬ...。『最小限の損害で、衛国を壊滅させること』...。その目的は、厳冰の戦略によって、達成されようとしている...」

魏鉄山は、深呼吸をした。彼の武人としての魂は、厳冰の冷徹な策略に従うことを、拒んでいた。

しかし、魯国の総大将としては、厳冰に従うことが『責務』であった。

「全軍に告ぐ!明日は、総力を挙げて、張江本軍を攻める!飛砂関が落ちるまで、衛国軍の『意識』を中央戦線に釘付けにするのだ!厳冰の『手』を、助けるのだ!」

魏鉄山は、力強く、怒号を飛ばした。

彼の心の中には、厳冰に対する、強い不信感と武人としての屈辱が渦巻いていた。

しかし、彼は、その感情を押し殺し、魯国の総大将として、『勝利』という『責務』を果たすことを誓った。

魏鉄山は、再び、天幕の椅子に座り込み、残りの酒を、一気に飲み干した。彼の心の中の葛藤は、誰にも理解されぬ、孤独なものであった。

彼の周りには、『魏五虎』の面々が、静かに、控えていた。

「俺は、お前たちを『凡将』などとは、思わぬ...。お前たちは、魯国が誇る、『猛虎』だ...。その武勇と忠誠心は、天下に、並ぶ者なし...」

魏鉄山は、そう言うと、静かに、笑った。

彼の脳裏には、再び、『天下の異名』が甦っていた。

『魯三傑』、『天下三賢』、『玄岳四堅』、『沙嵐六猛』、『南黎双璧』、『天下五矢』、『五武帝』、『双龍の番人』、『景七師』...。

これらの異名は、武将たちの『運命の交差点』を示していた。

彼らは、それぞれの『異名』に縛られ、そして、その『異名』を背負って、戦場を駆け抜けていた。

『異名』とは、武将たちの『誇り』であり、同時に、彼らの『重荷』でもあった。彼らは、その『異名』に相応しい『生』を全うするために、戦場を駆け抜けていた。

魏鉄山は天幕の隅に置かれた、自身の巨大な大刀を手に取った。その鋼鉄の冷たさが、自身をこの戦場に縛り付けていた。

陽は、すでに落ち、空には、星が燦然と輝いていた。夜の静寂は、次の日、訪れるであろう、血の嵐の前の、不気味な、予兆のように、大地を覆っていた。


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