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#1-34 絶望の連鎖

衛国中央軍と三国連合軍が対峙する戦場に、一時的な静寂が訪れていた。

それは、巨大な鉄の熔鉱炉が、次の溶解の瞬間を待つような不気味な沈黙であった。

張江の本軍は、魯国軍の猛攻と、右翼を襲った、玄岳国軍の挟撃を辛うじて、凌ぎきった。兵士たちの全身は、泥と血と汗で塗れ、その瞳には極度の疲労と死への恐怖が宿っていた。彼らは、死闘の末の休息に、わずかな安堵を覚えていた。

しかし、その、わずかな緩みこそが、魯国の猛将、魏鉄山ぎ てつざんが狙っていた、決定的な、刹那であった。

魏鉄山は、高台に築かれた本営から、戦況を冷徹に観察していた。

彼の武人としての直感は、今、この時こそ、最大の好機であると叫んでいた。

(衛国軍め…!僅かな休止で、全てを忘れたか…!今こそ、右翼の総大将、高遠こう えんを討ち取らねば、衛国は再び、牙を剥く!)

魏鉄山は、魯国の軍師、公孫穆こうそん ぼくの厳命を守り、今まで兵力の消耗を抑えていたが、高遠を生かしておけば、戦線の再構築を許すことになる。それは、公孫穆の戦略に反する、最大の、愚行であった。

「全軍!号令!再度、総攻撃を開始する!『魏五虎』よ、我に続け!目標は、右翼の総大将、高遠の首だ!」

魏鉄山の声は、乾いた、戦場の空気を切り裂いた。

彼の周囲に控えていた、魯国の精鋭部隊、そして、『魏五虎』である、大崩、孟武、聞閉、露鴈、陳堅が、咆哮を上げた。

彼らは、まるで、巨大な鋼鉄の鎌のように、静寂を破り、衛国軍の右翼へと猛進した。

衛国軍の予想を遥かに超える猛烈な突撃は、戦線を再構築する暇を与えず、衛国軍を一瞬にして崩壊の危機に立たせた。

「魏鉄山が来た!奴を止めろ!」

高遠は、自らの剣を抜き放ち、魏鉄山を迎え撃とうとした。彼の傍らには、副将の孫賢そん けんが、蒼白な顔で立っていた。

「高遠将軍!無謀です!魏鉄山は猛将!ここは、私が…」

「孫賢!貴様は指揮を執れ!越憲えつ けんの二の舞はさせぬ!俺は、これ以上、友を失いたくないのだ!俺が奴を食い止める!」

高遠は、越憲の最後を思い出し、全身を奮い立たせたが、彼の体は、既に、限界を超えていた。

魏鉄山の突進は、まるで、山を穿つ、巨大な、岩のようであった。

彼の豪快な大刀は、高遠の細身の剣を容易に弾き飛ばした。

「高遠よ。貴様の武勇は認める。だが、時は貴様に味方しなかった!」

魏鉄山は、高遠の防御を一撃で破ると、自らの大刀を振り下ろした。その一撃は、地獄の業火のように高遠の全身を襲った。

「ぐっ…!」

高遠は、避けきれなかった。刃が彼の、右肩から胸へと深く、食い込んだ。

高遠の肉体は、まるで、紙屑のように宙を舞い、泥の上に叩きつけられた。

高遠は、全身から大量の血を流し、最後の力で魏鉄山を睨みつけようとしたが、視界は急速に暗転していった。

「…越…憲…すま…ぬ…」

その、微かな、謝罪の言葉を最後に、高遠は静かに、息を引き取った。

衛国の右翼を支えていた、一人の、剛将が、この、一瞬で散ったのだ。

魏鉄山は、高遠の遺体を見下ろし、冷たい、嘲笑を浮かべた。

「脆い…!衛国の将は斯様に脆かったか…!」

彼は、高遠の首を獲るという目的を達成すると、無駄な戦闘を続行することはしなかった。

彼の頭の中には、公孫穆の戦略と、最小限の損害で衛国を壊滅させるという冷徹な計算しかなかった。

「全軍!目的は達成した!本陣へ撤退!堅陣を組め!」

魏鉄山は、まるで、嵐のように現れ、嵐のように去っていった。彼の本軍は、高遠の遺体が横たわる、血の海を踏み越え、迅速に本陣へと戻り、再び、鉄壁の防御陣を築き上げた。

魏鉄山が撤退を完了すると、白狼山脈の麓から現れ、高遠隊を挟撃した、玄岳国軍の隊も迅速に動き出した。

彼らを率いるのは、厳冰げん ひょうの二人の副将、岳鋼がく こう雪忠せつ ちゅうであった。彼らは、来た時と同じ、猛烈な速度で白狼山脈の深くへと帰っていった。

(軍団長の厳冰様は、我々に長居を許さなかった…!この地は、あくまで、囮であるということか…!)

岳鋼と雪忠の心には、厳冰の戦略の深さと、自身の役割の重要性が刻み込まれていた。

彼らの役割は、魏鉄山の総攻撃の布石を打ち、衛国軍に致命的な損害を与えること。そして、衛国の将軍たちに強烈な心理的な揺さぶりをかけることにあった。

衛国の総大将、張江ちょう こうは、中央の本陣で、高遠の戦死の報を受け、静かに瞑目していた。

彼の心は、氷のように冷たかったが、その、内側では怒りと悲哀が渦巻いていた。

「…高遠…越憲…。貴様らの死は、決して、無駄にはさせぬ…」

張江は、怒りを胸に秘めながら、冷徹な理性で戦況を分析していた。

彼の脳裏には、二つの、不自然な事実が、まるで、鋭利な針のように突き刺さっていた。

一つは、挟撃に加わった玄岳国軍の兵力の規模であった。伝令の報では、彼らは二万に満たない、規模であった。

(玄岳国軍が全力で動けば、最低でも四万は下らないはず…!この、二万という数は、あまりにも、少なすぎる…!)

もう一つの不自然な事実は、荀厳じゅん げんの隊の不在であった。荀厳は、張江の命で白狼山脈の守りに向かったはずである。彼が無事であれば、玄岳国軍の進撃を許すはずがない。

(荀厳…貴様の隊は、なぜ、機能していないのだ…!貴様は、厳冰の罠に嵌ったのか…!それとも、伯明はくめいの仇討ちに狂い、自ら、深くへと踏み込みすぎたのか…!)

張江は、荀厳の知略を知っていたが、彼の持つ、強い復讐心と、一時の感情的な判断の傾向も知っていた。

彼の心は、荀厳が、厳冰の用意した巧妙な罠に嵌り、全軍が機能していないのではないかという疑念で満たされていた。

しかし、張江が抱く、その冷徹な疑念をよそに、戦場は再び、新たな、血の嵐へと突入しようとしていた。

高遠を討ち取った魏鉄山は、本陣に戻り、堅固な防御陣を築いたが、その真の狙いは、衛国の中央軍を殲滅することにあった。

高遠の死によって、右翼は崩壊寸前。その右翼に援軍を送った、総大将、張江の本軍は手薄になっていた。そしてなお、張江は、右翼を捨てきれず、寧武の隊を送り、孫賢を補佐させていた。

(今、この時、総攻撃を仕掛け、張江の首を獲れば、衛国軍の士気は完全に、崩壊するだろう....)

「全軍!我らの勝利は目前!張江の首を獲り、衛国を滅ぼせ!」

魏鉄山は、自らは堅陣に留まり、魯国の精鋭、『魏五虎』と、同盟軍の中央軍総大将、沙嵐国の業髄ぎょうずい、そして、玄岳国軍の方陸ほう りくに総攻撃を命じた。

業髄と方陸は、自らの全軍を率い、張江の中央軍、そして左翼の周翼の軍へと猛進した。彼らの軍勢は、まるで、大地を覆う、巨大な、津波のようであった。

高遠を失い、副将の孫賢が指揮を執る右翼は、高遠の死という重い事実と、度重なる、戦闘の疲弊で、もはや戦意を喪失していた。

孫賢は、必死に兵士たちを鼓舞したが、その声は虚しく、戦場に消えていった。

「高遠将軍の死を無駄にするな!衛国のために、踏みとどまれ!」

しかし、右翼の戦列は、方陸の玄岳国軍の圧力で、まるで、砂の城のように崩れ落ちていった。

中央では、魯国の『魏五虎』が、鬼神の如き、武勇を発揮していた。

特に大崩の巨大な、鉄棍は、衛国兵を一撃で粉砕し、その血肉を大地に叩きつけた。彼の武勇は、魏鉄山に勝るとも劣らない、凄まじいものであった。

張江は、中央で自ら、剣を振るい、魯国兵を押し戻していたが、その、勢いは、『魏五虎』の猛攻の前に、まるで、蝋燭の火のように揺らいでいた。

(もはや…限界か...!荀厳…貴様の援軍は、こないのか…!)

張江の心は、絶望と怒りで満たされていた。

高遠と越憲という二人の、剛将を失った衛国中央軍の命は、今まさに、風前の灯火であった。

この怒涛の勢いは、もはや、誰にも止められないように見えた。

中央戦線が絶望的な状況に陥った、その時、戦場の左翼で、突如として、些細な、それでいて、確固たる異変が起きていた。

左翼の最前線で、衛国の副将、周翼しゅう よくと対峙していたのは、沙嵐国軍の総大将 業髄であった。

業髄は、魏鉄山の総攻撃に呼応し、周翼の隊に猛烈な圧力をかけていた。

「周翼め…!貴様も高遠と同じ、運命を辿るが良い!」

業髄が咆哮を上げたその時、彼の背後、天狼山脈の深くから、突如として地鳴りのような馬蹄の音が響き渡った。

「何だ…!何が起こった!」

業髄が驚愕して振り向いた、その、視界に飛び込んできたのは、天狼山脈の急峻な斜面をまるで、鳥のように駆け下りてくる、一隊の騎馬軍であった。

「報告!天狼山脈より奇襲部隊が出現!沙嵐国軍の側面を突きます!」

伝令の叫びは、業髄の心臓を鷲掴みにした。

奇襲部隊は、僅かに三千騎ほどの規模であったが、彼らの進撃の勢いは、まるで、巨大な岩が斜面を転がり落ちる、怒涛の勢いであった。

(この、奇襲は…!いや...我らの軍はまだ二万余騎...今は、周翼の軍を潰し、この中央の戦場を確定させるのが、先だ...!!)

対して、周翼は、この、予想外の展開に驚き、戸惑ったが、彼の理性は一瞬で状況を把握した。

(援軍が来てくれたのか!しかし、数が少なすぎる....それだけ、左翼の天狼山脈も厳しい状況ということか....しかし、それでも....)

「全軍!号令!奇襲部隊と呼応せよ!業髄の隊を挟撃する!」

周翼は、即座に命令を下した。

周翼の隊は、奇襲部隊の進撃と連携し、業髄の沙嵐国軍に猛烈な反撃を開始した。

奇襲部隊は、三千騎という少数であったため、業髄の精鋭隊の抵抗を受け、損耗したが、業髄の沙嵐国軍は、奇襲と挟撃によって、一瞬にして大混乱に陥っていた。

業髄の軍は、総勢、二万余騎の兵力であったが、奇襲部隊の練度が高く、その力は、拮抗していた。 そのことが、より混乱の渦を広げていた。

「覇萬!貴様は何をしている!中央を優先しろ!」

業髄は、自身の、副将に怒号を浴びせ、中央への進撃を続行させようとしたが、彼は油断しすぎていた。

彼は、奇襲部隊の規模が小さいことを見下し、自らの安全を軽視していたのだ。

「将軍!」

その、声に振り向いた、業髄の視界に飛び込んできたのは、まるで、地獄の底から現れた、冷徹な瞳で、自身を見つめる、一人の武将の姿であった。

彼の薙刀は、血を滴らせていた。

その武将こそが、天狼山脈から奇襲を仕掛けた張本人、伯志文、その人であった。

志文の出現は、あまりにも唐突であった。

彼は、業髄の本陣の混乱を突いて、一瞬にして業髄の眼前に現れたのだ。

「貴様は…誰だ…!」

業髄は、驚愕のあまり、言葉を失った。彼の心は、死の恐怖で満たされていた。

志文は、業髄の問いに答えることなく、冷徹な視線を投げかけた。

彼の細い薙刀が振り上げられた瞬間、戦場の全ての音が消え失せた。

志文の刃は、まるで、光速の如く、業髄の首へと振り下ろされた。

「ぐっ…!」

業髄の肉体は、その一撃でまるで、豆腐のように両断され、血の噴水が宙を舞った。

沙嵐国軍の総大将、業髄は、一瞬のうちに、その命を散らした。

志文は、業髄を討つと、業髄の本軍へと突進し、混乱する沙嵐兵を次々と刈り取っていった。

彼の刃が振るわれるたびに、沙嵐国兵の肉体が宙を舞い、大地は血で深く、染まっていった。

しかし、志文は長居をしなかった。

彼の目的は、業髄を討ち、中央の圧力を弱めることにあった。彼は、業髄の軍を壊滅的な状況に追い込むと、音もなく、天狼山脈の深くへと戻っていった。

志文の奇襲は、まるで、夜空を切り裂く、一筋の閃光のように短く、鮮烈であった。

左翼で起こった、沙嵐国軍の総大将、業髄の戦死と、軍の壊滅という劇的な事実は、その、隣で猛攻を続けていた、中央の張江や魏鉄山、右翼の方陸の軍には、まったく、気づかれなかった。

戦場は、あまりにも、巨大であり、中央の激戦の怒号と鉄の打ち合う音が、左翼の全てを覆い隠していたからだ。

周翼しゅう よくは、この、天が与えてくれた奇跡的な機を無駄にはしなかった。

彼は、業髄の軍が壊滅し、左翼の圧力が完全に、消え失せたことを確認すると、自らの隊を率い、中央の魏鉄山の軍の側面へと、猛烈な勢いで突進した。

「全軍!反撃だ!高遠と越憲の仇を討て!中央の敵を側面から叩き潰すのだ!」

周翼の反撃は、魏鉄山にとって、完全に、予想外の出来事であった。彼は、中央の張江を押し潰すという目的に集中し、左翼の業髄の軍が健在であると信じ込んでいたからだ。

「何だと…!左翼からの側面攻撃だと!?業髄め、何をしている!」

魏鉄山は、周翼の猛攻に驚愕し、自軍の戦列が側面から崩壊し始めるのを、目の当たりにした。

彼は、即座に判断を下した。

(業髄が敗れたのか.....俄かには、信じられんが....左翼が崩壊した今、この場で戦闘を続ければ、我が軍は無駄な損害を出すことになる..あと一歩だったが、仕方あるまい....)

「全軍!直ちに撤退!方陸ほう りくの軍にも撤退を要請しろ!本陣へ戻り、体勢を立て直す!」

魏鉄山は、歯ぎしりながら、撤退を命じた。

彼の本軍と、方陸の玄岳国軍は、周翼の猛攻から逃れるように本陣へと戻り、再び、堅陣を組んだ。

魏鉄山は、本営に戻ると、怒りで全身を震わせた。彼の武人としての誇りは、周翼の反撃に撤退を余儀なくされたという事実に、激しく、傷つけられていた。

厳冰げん ひょうめ…!あいつは、何を考えているのだ!挟撃の部隊に、なぜ、貴様が来なかったのだ!)

魏鉄山の苛立ちは、厳冰の不在にあった。

もし、厳冰が自ら、玄岳国軍の本隊を率いて、白狼山脈から挟撃に加わっていたならば、方陸の隊を含め、全軍の士気は何倍にも跳ね上がり、張江の首を獲ることも可能であった。

魏鉄山は、厳冰の力を知っていた。彼の持つ、『玄岳四堅』という異名は、伊達ではない。なにより、厳冰自身が率いる、玄岳国軍の精鋭部隊の力があれば、この周翼の反撃など、容易に押し潰せたはずである。

「…厳冰…!貴様は、何を企んでいるのだ…!」

魏鉄山の心は、公孫穆の戦略の成功と、厳冰の不可解な行動の間で、激しく、揺れ動いていた。

魏鉄山の撤退によって、戦場に再び、一時的な静寂が訪れた時、白狼山脈の深くから、一隊の騎馬軍が現れた。

彼らは、泥と血と汗で塗れ、その、全身からは、極度の疲労と焦燥が滲み出ていた。

その先頭で馬を走らせる人こそが、荀厳じゅん げんであった。

荀厳は、白狼山脈の死地を血に塗れて越え、中央の戦場へと辿り着いたのだった。

彼の目に映ったのは、高遠と越憲の遺体が横たわる、血の海と、疲弊しきった衛国兵の姿であった。

「…間に合わなかった…!」

荀厳の心は、絶望の淵に沈んだ。

彼の、贖罪の行軍は、親友、高遠の死を防ぐことができなかったのだ。

中央の本陣にいた、総大将、張江は、荀厳の隊の出現を一瞬で察知した。彼の冷徹な頭脳は、荀厳の隊の疲弊と、彼の行動の全てを理解した。

(荀厳め…!やはり、厳冰の罠に嵌り、飛砂関へ向かっていたか…!)

張江は、すぐに伝令兵を呼んだ。

「荀厳に伝えよ!すぐに、白狼山脈へと、戻れ!」

張江は、言葉を区切ると、冷徹な視線を白狼山脈の深くへと向けた。

「厳冰の罠だ。白狼山脈からの挟撃は、厳冰自身ではなく、厳冰の副将部隊、岳鋼と雪忠の隊のみ。これは、白狼山脈を素通りするための、巧妙な罠だ」

張江は、荀厳の隊が白狼山脈を越えてきたという事実から、厳冰の真の目的が飛砂関にあることを、確信した。

彼は、荀厳の愚かな行動を咎めることなく、その情報を利用し、最悪の事態を防ごうとした。

張江は、伝令兵をもう一人、呼んだ。

「直ちに飛砂関の総大将、朱威しゅ いに伝えよ!厳冰の本体は、今まさに、飛砂関へ向かっているはずだ!白狼山脈からの攻撃に、万全の備えを整えよ!」

張江の冷静な判断は、衛国に残された希望であった。

高遠と越憲の死、そして、志文の奇襲による一瞬の勝利、そして、荀厳の失敗…全ての情報を総合し、張江は厳冰の真の狙いを見抜いたのだ。

(厳冰は....奴は、端から、誰も信用していなかった....中央の戦場がどうなろうと、己自身で、飛砂関を落とすつもりであったのか....)

衛国の運命は、今、張江の一言と、飛砂関の総大将、朱威の判断に懸かっていた。


ここで、時は、わずかに、遡る。

中央の戦場で、高遠の部隊が、挟撃をうける、その悲劇的な刹那より、ほんのひと時前のこと。

衛国軍の左翼を担う、天狼山脈の深奥。

その巨大な岩肌に囲まれた、静寂の陣地で、志文は、一人、物思いに耽っていた。彼の前には、天狼山脈の、冷徹な風が、音もなく吹き抜けていた。その風は、戦場の血の匂いと土埃を、わずかに運んできていた。

志文は、ただ、遠く、中央の戦場へと、視線を向けていた。

彼の瞳は、その静寂の奥に、何か、決定的な異常を、見つけ出そうと、冷徹に、光っていた。

副将の李岳り がくが、静かに、志文の傍らに歩み寄る。

李岳の顔には、この不気味な戦場全体の沈黙に対する、深い戸惑いが、滲んでいた。

「殿。開戦より、既に、半日が過ぎようとしています。山脈の外、中央の戦場を、気にされているのですか?」

李岳の問いに、志文は、ゆっくりと、体を向けた。

その、細い体躯からは、想像もできぬ、強烈な緊張感が、周囲の空気を、張り詰めさせていた。

「李岳。戦の本質は、音に宿る。開戦の怒号と馬蹄の音は、確かに、断続的に聞こえてはくる。しかし、その音が、それ以上大きくならぬことが、どうにも、腑に落ちぬ」

志文の言葉に、李岳は、眉根を寄せた。

中央の戦場は、衛国軍の総大将、張江の本軍が、魯国軍の総大将、魏鉄山と、対峙する戦線であった。魏鉄山の剛直で、攻撃的な性格ならば、初日は、激戦となり、その響きは、大地を揺るがす、轟音となって、この山脈の奥深くまで、響き渡るはずであった。

志文の思考は、既に、中央の戦場の静寂の裏に潜む、魏鉄山の冷徹な策謀を、穿とうとしていた。

「俺の見立てでは、中央こそが、最も崩れやすい。張江殿の、本軍は、強固なれど、魯国軍の猛将、魏鉄山は、その豪胆な性格も相まって、初日に、全てを、賭けてくる。少なくとも、俺は、そう踏んでいた」

魯国との龍牙関の激戦を、志文は、思い出していた。

「あの時、魏鉄山は、初日に、相手の士気や練度を計り、その度胸を試す、凄まじい突撃を、仕掛けてきた。大地が、割れるかのような、轟音を伴って、だ」

「だが、まだ、その轟音が、聞こえてこぬ。李岳。魏鉄山という将は、そなたから見て、どういう武人であったか」

「魏鉄山…でございますか。確かに、感情的で、攻撃を好む、猛将。しかし、彼の上には、魯国の軍師、公孫穆が控えております。公孫穆の厳命であれば、彼は、その熱情を抑え、動かない、ということもあり得ましょう」

李岳の、理性的な、分析は、正しかった。

しかし、志文の、武人としての直感は、それを、否定していた。

「いや。魏鉄山は、何かを、待っている。奴は、練度や士気など、測る必要のない、何か、決定的な、布石を、あてにしている。俺には、どうにも、そう思えて、仕方ないのだ。そうでなければ、あの激情の将が、この不気味な静寂を、許容するはずがない」

志文は、魏鉄山が、自分たち、衛国軍を試す必要がないほどに、既に戦局が、連合軍に、有利に傾いている、その可能性に、戦慄していた。

彼の心は、中央戦線に潜む、暗い深淵を、見つめていた。

その強烈な疑念の渦の中で、志文は、幼き日の、父、伯明との会話を、思い出していた。戦場の冷徹な現実が、父の言葉の真意を、今、この時、彼に、深く、深く、理解させていた。

遠い記憶の、彼方。故郷、清風村に広がる、青い空の下での、穏やかな会話であった。

「父上。衛国で、一番、強いのは、父上なのですか?」

幼い志文の素直な問いに、伯明は、穏やかに、微笑んだ。その微笑みは、山脈の陽光のように、温かかった。

「強いにも、色々あるのだ、志文よ。攻に長けた将もいれば、防に長けた将もいる。主君への忠に長けた将も、皆、強い。皆、衛国を支える柱なのだ」

「では、父上は、何に、長けているのですか」

伯明は、少し、考え込む。その、武人の厳めしい顔に、一瞬、照れくさそうな、影が落ちた。

「そうだな…あえて、言うなら、私は、生に長けた将、だな」

父の死後、志文は、その言葉の、真の意味を追い求め、戦場を、駆け抜けてきたのかもしれない。今は、そんな気がしていた。

元絨や葉迅、桓策、周廉といった、衛国を支えた勇将が、いとも容易く、散ってゆく、この苛烈な現実。

どんなに、攻守に優れ、どんなに揺るぎない忠義を、持とうと、死は、唐突に訪れる。父は、それを、知っていた。だからこそ、父は、武人として、どう生き抜くか、そして、どう生を全うするかを、教えようとしたのではないだろうか。

生き様。それは、ただ命を長らえることではない。

己の心に、一片の後悔も残さぬという、強烈な覚悟であり、武人としての本懐を遂げるという、確固たる決意であった。

父は、無念の戦死を遂げたのだろうか。それとも悔いのない戦死であったのだろうか。

志文は、父の最期を確かめる術を、持っていなかった。

しかし、この中央の不気味な静寂は、志文の、武人としての魂を、激しく揺さぶっていた。

(このまま、ここで、磐虎将軍や葉旋殿の指示を、待っていては、俺の『生』に、悔いを残すだろう....)

(動かねばならぬ。自らの判断で、自らの命を賭して、この戦場の暗闇に、光を投げかけねばならぬ)

志文は、思考を、瞬時にまとめ上げた。

その決断は、疾風の如く、一切の迷いを、含まなかった。

彼は、李岳と羅清ら せいを連れて、天狼山脈の本営に近い中央で指揮を執る、磐虎と右翼の葉旋のもとへと、向かった。

磐虎と葉旋は、志文の突然の訪問に、緊張の色を隠せなかった。

「志文。どうしたのだ?そろそろ、我らも天狼平野に向かおうと思っていたところだ」

葉旋が鋭い視線で、志文を射る。

中央の布陣の要である、磐虎軍と左翼の要である、志文軍が、互いに、連携を取り合う、この厳重な状況で、志文の行動は、あまりに異例であった。

志文は、頭を、垂れた。

「両将軍。お願いがございます。この、李岳と、羅清を、一時いっとき、両、将軍に、お預かりいただきたく。私は、他の五将を率い、中央の戦場へと、向かいたく思います」

志文は、敢えて、中央の崩壊の危機を、口にしなかった。

確たる根拠もないまま、自身の勘だけをあてにして、無為に、士気を下げるような真似はできなかった。

葉旋は、逡巡していた。しかし、磐虎の返事は、志文の決意を後押しする、力強いものであった。

「認める」

磐虎は、ただ一言、静寂の中に、深く響いた。彼の短く重い一言は、志文の武人としての勘への、絶対的な信頼を示していた。

志文の勘と読みによって、命を救われた磐虎の判断は、衛国軍の運命を繋ぐ、希望となったのであった。

「磐虎将軍…」

志文は、深々と、頭を下げた。この一瞬の信頼が、どれほど重い意味を持つか、志文は、痛いほどに、理解していた。

志文が、李岳と羅清に、後を託し、陣を去ろうとした、その時。

磐虎が、彼の背に、力強く、声をかけた。

「志文よ。そなたの勘を、信じる。こちらは、李岳と羅清そして葉旋と私で、必ず、持ちこたえる。隘路での戦闘で、楽愁と呈威は、既に、三将も、失った。そなたが戻るまで、天狼平野は崩れぬ。心置きなく行け」

磐虎の豪快な笑い声が、山脈の静寂に、響いた。

志文は、再び、深く礼をすると、姜雷きょう らい衛射えい しゃ夜叉や しゃ宋燕そう えん林業りん ぎょうの五将と、彼らの精鋭と自身の精鋭、総勢、三千余騎を率い、天狼山脈の中央の戦場へと続く、隘路に向かった。

進軍は、静かで速く、まるで、山脈の奥に潜む獣のようであった。

志文が、天狼山脈の出口に近づいた、その瞬間。

彼の全身の細胞を揺さぶる、凄まじい轟音と大地を砕く馬蹄の音、そして、幾千もの絶叫が混ざり合った怒号が、耳に飛び込んできた。

「これだ…!」

志文は、戦慄した。

これこそが、彼が魏鉄山に求めていた真の戦の音であった。

全ての希望を打ち砕く絶望の叫び、そのものであった。

天狼山脈の、複雑な隘路は、音を吸い込む。ゆえに、志文は中央の戦場の激戦が、既に、最高潮に達していたという、決定的な事実を、悟ることができなかったのだった。

志文は、隘路を抜け、中央の戦場へと、視線を向けた。広がっていた光景は、地獄の業火のようであった。

中央の左翼で指揮を執る、周翼しゅう よくの軍は、既に、壊滅寸前。沙嵐国軍の総大将、業髄ぎょう ずいの猛攻の前に、衛国兵は、次々と散ってゆき、その戦列は、まるで、水に溶ける氷のように、崩れ落ちていた。

「全軍!魯国軍は、我々の奇襲を、全く予想していない!目標は、沙嵐国軍の総大将、業髄の本陣、その首を獲るのだ!」

志文は、自らの隊を率い、業髄の沙嵐国軍の側面へと、猛烈な勢いで、突撃した。

業髄は、周翼の軍を追い詰める、その歓喜の中にいた。彼の心は、既に、勝利の美酒に、酔いしれていた。

(高遠は、魏鉄山が討ち取った…!次は、周翼だ!衛国の左翼と右翼を潰せば、張江の首を獲るのは、容易い…!)

業髄は、自らの武勇を、過信していた。中央の戦場の激戦の怒号が、戦の終結を予感させていた。その事実が、彼の慢心を、さらに深いものにしていた。

彼は、天狼山脈の奥から、敵の奇襲が来るなど、想像もしていなかった。

志文の奇襲への、業髄の対応は、志文の予想を遥かに超えて、遅かった。その鈍重さと慢心こそが、志文に決定的な好機を与えた。

志文は、姜雷、衛射、夜叉、宋燕、林業の五将と共に、業髄の本陣へと、怒涛の如く、突進した。

「報告!天狼山脈より奇襲部隊!我が軍の側面を突きます!」

伝令の叫びは、業髄の耳に届いたが、その時は、既に手遅れであった。志文の隊は、既に、業髄の本陣の外周に到達していたのだ。

業髄は驚愕して振り向いた。

彼の視界に、飛び込んできたのは、まるで、地獄の底から現れたかのような冷徹な瞳で自身を見つめる、一人の武将の姿であった。

その、武将こそが、志文、その人であった。

「貴様は…誰だ…!」

業髄は、驚愕のあまり、言葉を失った。

志文は、業髄の問いに答えることなく、ただ冷徹な視線を投げかけた。彼の細い薙刀が振り上げられた瞬間、業髄の前から、戦場の全ての音が消えた。

志文の刃は、光速の如く、業髄の首へと振り下ろされた。

「ぐっ…!」

業髄の肉体は、たった一撃で両断された。鮮血が空高く、噴き上がり、業髄の命は、一瞬のうちに散った。

沙嵐国軍の総大将、業髄は、その命を失った刹那、走馬灯のように、愛する娘の姿を思い出していた。

業髄には、わずか五歳の娘がいた。娘は、いつも彼の巨大な薙刀の柄にしがみつき、屈託のない笑顔で言ったものだ。

「父様は、大きなお星様みたい!一番、強いの!」

業髄は、娘のその言葉を聞くたびに、武人としての誇りを感じた。彼は、娘のために、戦っていた。娘のために、故郷の平和を守ろうと、この戦場へと赴いていた。

(娘よ…!すまぬ…!父は、そなたの笑顔を、もう見ることができぬようだ…!沙嵐の空の下で、健やかに育ってくれ…!)

彼の意識は、急速に、闇へと沈んでいった。その最期の瞬間、彼の心に残されたのは、娘への愛と、この戦場での勝利を見届けられないという、武人としての無念、そのものであった。

業髄の肉体は、泥の上に叩きつけられ、その鮮血は、大地を静かに染めていった。

志文は、業髄を討ち取ると、業髄の本軍へと突進し、混乱する沙嵐国兵を、次々と刈り取っていった。彼の刃が、振るわれるたびに、沙嵐国兵の肉体が、宙を舞い、大地は、血の海へと、変わっていった。

しかし、志文は、長居をしなかった。彼の目的は、業髄を討ち、中央への圧力を弱めること。その目的は、果たされた。

志文は、業髄の軍を、壊滅的な状況に追い込むと、音もなく、天狼山脈の深くへと引き返していった。彼の奇襲は、まるで、夜空を切り裂く一筋の閃光のように、迅速で鮮烈であった。

志文は、奇襲を成功させ、天狼山脈の奥へと戻ってきた時、天狼平野では、初日の最後を飾る、壮絶な総力戦が始まろうとしていた。

幾度か、乱戦を繰り広げるも、未だに、両軍は決め手を欠いていた。

戦場は、夕暮れの帳が下り始め、鉛色の空と、血の赤が混ざり合い、不気味な色彩を放っていた。

志文の到着を見届けると、衛国軍は迅速に、布陣を再構築していった。

衛国軍は、中央で磐虎が、鉄壁の堅陣を組み、左翼の志文の隊、右翼の葉旋の隊それぞれが、突撃の構えを示していた。

対する沙嵐国軍は、中央で馬淵ば えんが突撃の構えを示し、左翼の楽愁らく しゅうの隊、右翼の呈威てい いの隊それぞれが、堅陣を組んでいた。

沙嵐国軍の総大将、馬淵の焦燥は、極限に達していた。中央の戦況は、まだ、左翼の天狼平野の将兵には、伝わっていなかった。しかし、馬淵は、自身の軍が、中央の磐虎の堅陣を崩せなければ、左翼における、沙嵐国軍の初日の勝利は、無に等しいという事実を、理解していた。

「突撃!全軍、突撃せよ!磐虎の首を獲れ!我が軍の勝利は、この一撃にかかっている!」

馬淵の咆哮が、静寂を切り裂いた。

その咆哮を合図に、志文と葉旋もまた、それぞれ、楽愁と呈威の堅陣に向かい、猛突を開始した。

左翼の沙嵐国軍、楽愁と呈威の軍は、既に、疲弊しきっていた。隘路での戦闘や志文の奇襲によって、その兵力と精神は、著しく損耗していた。

彼らが、隘路で、衛国のしゅう 周廉れん高翔こう しょうを、討ち取った戦果も、既に、相殺されたも同然であった。

楽愁と呈威は、必死に、兵士たちを鼓舞し続ける。

「踏みとどまれ!ここで、崩れれば、故郷に、帰れぬぞ!家族の顔を忘れたか!」

しかし、兵士たちの瞳には、次なる戦闘への強い意欲ではなく、極度の疲労と絶望が、宿っていた。

中央では、馬淵の軍が、磐虎の鉄壁の堅陣を、ものともせず、ただ、一点、磐虎の首をめがけて、突撃していた。馬淵の豪快な薙刀は、衛国兵を次々と斬り伏せ、その勢いは、嵐のようであった。

しかし、勝利の女神は、馬淵に、微笑まなかった。

左翼の最前線では、志文の精鋭隊が、楽愁の堅陣を穿とうとしていた。

楽愁軍の副将、影斬えい ざんと、宗禁そう きんは、楽愁の忠実な腹心であった。二人は、幼い頃から、故郷の沙嵐国で、共に武術を学び、戦場を駆けてきた、盟友であった。

影斬は、常に冷静沈着な、剣士であった。彼には、故郷に残してきた幼馴染の恋人がいた。宗禁は、豪快な性格で、戦斧を振るう武人であった。彼には、故郷に残してきた病弱な母がいた。

彼らは、大切な人のそばに居続けるために、戦っていた。

しかし、彼らは、楽愁が志文に向かい一騎打ちの構えを示したその瞬間、既に、自らの死を覚悟していた。

「宗禁…。俺は、楽愁将軍を一人にはさせぬ。おまえも…」

影斬が、静かに宗禁に語りかけた。影斬の瞳には、故郷の恋人の面影が浮かんでいた。

「当たり前だ、影斬!俺たちは、楽愁将軍の下に集い、沙嵐国のために、戦ってきた!ここで、楽愁将軍を置いて帰れるか!俺は、母に誇れる死を遂げるのだ!」

宗禁は、豪快に笑い、自らの戦斧を高々と掲げた。

志文の七将の一人、姜雷きょう らいの薙刀が、宗禁を狙っていた。

宗禁は、姜雷を見据えた。 「あの覇気、敵ながら、見事!だが、我は倒れるわけにはいかぬ!母上、御力をお貸しください!」

宗禁の戦斧と姜雷の薙刀が、激しく衝突した。火花が散り、大地に重い音が響いた。

「衛国の将よ!貴様も、我が沙嵐の豪斧を受けてみよ!」

宗禁は、姜雷に向かい、咆哮した。彼の戦斧は、まるで、嵐のように、姜雷の全身を襲った。宗禁の武勇は、姜雷を凌駕していた。

しかし、姜雷は、冷静だった。彼の薙刀は、宗禁の戦斧の合間を縫うように、一瞬の隙を、突いて、宗禁の胸へと、深く、食い込んだ。

「ぐっ…!」

宗禁は、鮮血を吐き出した。彼の瞳は、大きく見開かれ、その視線は、遠く、故郷の空へと、向けられていた。

(母上…!この親不孝者をお許しを…!貴方を…置いてゆく…この愚息を…お許しを...)

彼の肉体は、力尽き、泥の上に崩れ落ちた。 その顔は、ほのかな涙に濡れていた。

宗禁の死を、目の当たりにした。影斬の瞳から、一筋の涙が、流れ落ちた。しかし、彼は、その悲しみを押し殺し、衛射に向かい、剣を構えた。

「悪いな…。そなたには、この慟哭の糧になってもらう。私は、楽愁将軍を最後まで、お守りしなければならぬ」

影斬の剣は、冷静沈着。衛射の弓も、冷静沈着であった。

時が止まったかのような静寂が、二人の間を流れる。

勝負は、一瞬であった。影斬は、一気に、衛射との距離を詰め、その喉元に、刃を突き立てようとしたその瞬間、衛射は、後方に、跳びながら、弓を引き絞り、一矢を放った。

(間に合わなかったか....仕方あるまい....運がなかったのだ....)

影斬の左胸に、衛射の放った一矢は、深々と突き刺さった。

影斬は、ゆっくりと、その場に崩れ落ちた。

「ねえ、本当に行かなければならないの?」

「ああ、それが私の責務だからな」

「わかってるわ。でも、無事に帰ってくる、それを約束して。その約束を守ってくれれば、私は、いつまでも、貴方を待つわ」

彼女は、華やかな笑みを見せた。 しかし、その瞳に、儚い寂しさと底知れぬ不安が隠されていたことを、影斬は知っていた。

筝藺(そうりん)、私の愛しい人よ…。君の隣に、一生、居たかった…。あの約束は守れそうにないようだ…私など忘れてくれ…君の....君の幸せを....いつでも....願っている.....)

影斬の手から、剣が、滑り落ちる。

その瞳は、穏やかに閉じられていたが、一筋の涙が、流れていた。

影斬と宗禁の戦死を、楽愁は、ただ、静かに、見つめていた。

楽愁は、悔いていた。 楽愁は、己を知っていた。 自身が、凡将であることを、知っていた。

散っていった配下が、友が、彼を、将軍にした。 その友を、彼は失った。

彼を将軍に押し上げた友たちは、英雄であった。彼などより、今の、沙嵐国に、なくてはならない存在だった。

だが、英雄たちは、凡将を生かすために、凡将と最後を共にするために、果てていった。

きっと、自分の配下でなかったら、きっと、沙嵐国の柱石になっていた...、楽愁は、そう思っていた。

(なぜ....なぜ....天は、彼らを、自分に預けたのか.....彼らには、帰りを願う人がいた....帰りたい理由があった...自分には、それがない....なぜ、こんな自分のために....)

楽愁は、薙刀を、高々と掲げ、志文に向かい、最後の一騎打ちを挑んだ。

彼の全身を、凄まじい殺気と深い哀しみが、逃れられない宿命のように、包み込んでいた。

楽愁は、なにも、言わなかった。ただ、志文に、自身の薙刀を、懸命に突き出した。

それが、今の、楽愁にできる、唯一のことだった。

志文は、楽愁と、薙刀を交わしながら、その姿を、自身に重ねていた。

なにも護れないと、自身の無力を悟り、それでも、戦うしかなかった。

他の居場所は、自分に与えられていないと思った。

誰かに支えられながら、自身は、誰も支えられず、そうして歩んできた日々を、その惨めさと虚しさを、志文は、怜士は、知っていた。

楽愁は強かった。

彼は、沙嵐国軍の武人としての誇り、そして、散っていった英雄たちへの責任を、なにより、彼の生き様を、全て、その刃に込めていた。

(ああ...!自分は...自分は..愚か者だ!...己を凡将と知りながら、支えてくれた友を、英雄を、自身の欲で、死地に招いたのだ...)

楽愁の刃は、まるで、山を穿つ岩のようであった。

志文の、細い薙刀は、その豪快な一撃を、受け止めるたびに、激しく軋んだ。

志文は、楽愁の動きの全てを読み切っていた。

楽愁の武勇は、誰かに護られた武であった。しかし、それは、この死地にあって、誰かを護る武へと、変わっていた。

(自分は、護られていた....護られた分、護るべきものは多いのだ...!!)

一進一退の攻防が続いていた。

楽愁の刃が、志文の、体勢を、微かに崩した。

楽愁は、その隙を逃さず、志文へと、あと一歩のところまで、迫った。しかし、志文は、その最後の一歩を、与えなかった。

体勢を崩した志文の背には、彼の薙刀が、眠っていた。楽愁の視界からは、志文の薙刀は、消えていた。

楽愁は、罠だとわかっていた。しかし、彼は、その一瞬の速さに、全てを賭けたのだ。

志文は、体勢を崩したその刹那に、楽愁の死角から、楽愁の左胸を突いた。

志文の薙刀は、楽愁の心臓へと、突き刺さった。

「ぐっ…!」

楽愁は、鮮血を、吐き出した。彼の瞳は、大きく見開かれ、その視線は、志文を見つめていた。

楽愁の刃は、志文の左胸の寸前で、止まっていた。

(ふっ... わかっていた..奴は、本物の天才だ..武や知、人望、そしてなにより、誰かを護り続けてきた..自分は、最後まで、凡将だった...友よ、いまから、この愚か者も、そっちにいく..また、相手をしてくれ....)

「将軍!将軍は、将軍でいいのですよ!胸を張っていてください!我らがおります!そして、我らには、将軍がいます!」 

雷樹の豪快な笑い声や影斬の冷たい声、風刃の楽しそうな声、宗禁の騒がしい声、護砲の落ち着いた声が、聞こえたような気がした。

(そうか...自分を待ってくれる友がいたのだ....独りではなかった...)

楽愁の意識は、急速に、闇へと沈んでいった。

安らかな面持ちであった。

(楽愁....貴方は強かった...) 志文は、横たわる楽愁を、ただ見つめていた。

楽愁の戦死により、沙嵐国軍の左翼は、一瞬で、崩壊した。

兵士たちは、戦意を喪失し、ただ、逃げることだけを考えていた。

中央の馬淵は、左翼の楽愁の戦死の報を受け、撤退を決断した。

彼は、これ以上、この天狼平野で、無駄な損害を出すことは、得策ではないと、冷徹な判断を下した。

「全軍、撤退。本陣へ戻れ。ここは、一旦、引く」

馬淵は、静かに、撤退を命じた。彼の軍は、磐虎の堅陣を崩すことができなかった。

(俺は、どこで間違えたのだ...) 沙嵐国の左翼は、撤退していった。

既に、陽は、沈みかけていた。

天狼平野は、それぞれの想いが宿る、まるで、巨大な、墓場のようであった。

撤退の合図は鳴らなかった。

ただ、沈みゆく陽と共に、両軍は、お互いの深い疲労と限界を悟り、静かに引き揚げていった。

衛国軍の、将兵の心には、極度の疲労が、のしかかっていた。

しかし、もう一方の肩には、左翼の勝利という、かすかな安堵と希望が、宿っていた。

対して、沙嵐国軍の将兵の心には、無念と後悔が浮かんでいた。そして、なにより、左翼副将 楽愁軍の全滅という、決定的な絶望が、重く、深く、のしかかっていた。

初日の、左翼での激戦は、両軍に、深すぎる傷跡と、複雑な感情を残して、終わりを告げたのであった。


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