#1-33 二重の罠
飛砂関の門前は、夜明け前の静寂に包まれていた。
荀厳は、馬上で身動き一つせず、巨大な城壁を見上げていた。
彼の視線の先には、激しい戦闘の痕跡など、微塵も存在しない。あるのは、固く閉ざされた鉄の門と、その上を警備する、緊張感のない衛国兵の姿のみであった。
荀厳は、未だに、飛砂関に留まっていた。
怒号を発し、進発しようとした荀厳を、自身のもう一人の副将、林堅が制止したためであった。
林堅は、裏の裏をかかれることを恐れ、飛砂関の周囲をの偵察を、荀厳に進言した。
荀厳は認めた。 彼には、まだほんの微かに、自身の判断を信じたいという欲が、のどにつっかえた魚の小骨のように、残留していた。
「…斥候は、まだか」
荀厳の声は、冷たい霧のように虚しく響いた。彼が連れてきた全軍は、疲労と焦燥で、その場に立ち尽くしていた。
彼らは、一万の仲間を本陣に残し、国家の危機を救うべく、死に物狂いでここに駆けつけたのだ。しかし、そこにあったのは、完全な虚無であった。
衛兵長は、困惑の表情を浮かべたまま、荀厳に再三尋ねた。
「将軍、まさか、玄岳国軍が関所を狙っているという偽報であったのですか?我々には、何も情報が入ってきておりませんが…」
衛兵長の言葉一つ一つが、鋭利な刃となって、彼の自尊心と知性を切り裂いていった。
「静かにせよ」
荀厳は、衛兵長を一瞥し、その言葉を遮った。彼は、自らの内に湧き上がる後悔の念を、必死に抑え込んでいた。
(厳冰め…!これほどまでに、俺の焦燥と大義を読み切っていたというのか…!飛砂関が落ちれば、衛国は終わりだと考える俺の心を…完全に利用された....)
彼は、全身の血の気が引いていくのを感じた。一万の兵を置いてきた本陣は、今頃、地獄と化しているかもしれない。
その時、林堅が、狂ったように馬を走らせて、荀厳の元へ駆けつけた。彼の顔は、泥と汗と涙で汚れ、もはや人相と呼べるものではなかった。
「将軍!敵は…敵は、飛砂関にはいませんでした!我々が関所へ向かう途中の山道に、玄岳軍の足跡が、不自然に多く残されていました!…行軍を偽装するための、意図的な痕跡だと考えるのが妥当です!」
林堅の報告は、荀厳が恐れていたことの確固たる証明であった。
すなわち、それは、本陣の危機と、自身の判断の誤りを示していた。
「…分かっている」
荀厳は、震える声で答えた。
「俺は…二度も、厳冰の掌の上で踊らされた。一度目は、隘路の森で時間を浪費し、二度目は、飛砂関という囮に、一万の兵を賭けてしまった」
荀厳は、大きく、息を吐いた。
「…全軍、反転!」
荀厳は、白狼山脈の静寂を打ち破るかのように、怒号を上げた。
「これより、全速力で本陣へ戻る!一刻を争う!一兵たりとも、立ち止まることを許さぬ!衛国のために、そして…郭慎のために!」
荀厳軍は、飛砂関の城壁を背後に、絶望的な帰路へと、再び馬を走らせた。彼らの馬蹄の音は、後悔と悲哀の鎮魂歌のように、夜明け前の山間に響き渡った。
荀厳軍の帰路は、地獄への行軍であった。
兵士たちの目には、疲労や恐怖よりも、一万の仲間を見捨てたという自責の念が宿っていた。彼らは、誰一人として不平を漏らさず、ただただ、馬を走らせ続けた。彼らの沈黙は、慟哭よりも重かった。
荀厳の心は、千々に乱れていた。
(郭慎…趙静…周義…。俺は、お前たちを死地に置き去りにした。俺の功名心と復讐心が、一万の兵を見殺しにしたのだ…!)
荀厳は、冷たい汗を流しながら、自分の愚かさを呪った。
(俺は、厳冰の単純な罠を見破れなかった..!俺は、将としての資格を失った…!)
白狼山脈の森は、陰鬱な影を深く落としていた。道の脇には、昨日の戦闘で倒れた衛国兵の遺体が、そのまま放置されていた。その遺体を見るたびに、荀厳の心臓は、氷の刃で突き刺されるように痛んだ。
「将軍…あと、二刻ほどで本陣です」
朱鋒は、憔悴しきった声で、荀厳に告げた。朱鋒もまた、自身の警告が聞き入れられなかったことへの無念と、仲間への心配で、狂乱寸前であった。
その時、風に乗って、遠い怒号と鉄の打ち合う音が、微かに聞こえてきた。
「…聞け!まだ戦っている!」
荀厳の顔に、一筋の希望が走った。
「朱鋒!まだ、郭慎は…郭慎は持ちこたえている!全速力を維持せよ!一人の命も無駄にはさせぬ!」
希望は、絶望よりも残酷であった。その微かな戦闘音は、一万の兵が壊滅寸前で最後の抵抗を続けている、悲痛な叫びであった。
一刻半後、荀厳の軍は、開戦時の本陣へと辿り着いた。
彼らの眼前に広がっていたのは、戦場というよりも、地獄の残骸であった。
本陣を囲んでいたはずの堅固な柵は、まるで巨大な獣に噛み砕かれたかのように、粉々に打ち砕かれていた。地面は、泥濘ではなく、血の海と化し、無数の遺体が、折り重なるように散乱していた。
荀厳の頭の中から、全ての音が消え失せた。
馬蹄の音も、兵士たちの息遣いも、風の音すら、聞こえなかった。彼が聞いたのは、己の心臓が絶望的な速度で打つ、鈍い鼓動の音だけであった。
「…馬鹿な…」
荀厳は、虚ろな声で呟いた。一万の兵が、全滅していた。
衛国軍の兵士たちは、誰一人として逃げることなく、その場で、玄岳軍と刺し違えていた。彼らの遺体は、敵の遺体と絡み合い、最後の抵抗を物語っていた。
朱鋒は、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「ああ…郭慎将軍…!趙静…周義…!」
荀厳は、馬を降りることすら忘れて、戦場の中心を見つめた。
そこには、玄岳軍の鋭利な刀傷を全身に受けた、二人の武将の遺体が横たわっていた。趙静と周義であった。
趙静は、壮絶な表情を浮かべたまま、槍を両手で握りしめ、まるで最後の敵を突き刺しているかのような体勢で息絶えていた。その体には、数えきれないほどの刀傷があり、彼の忠義が、肉体を限界まで突き動かしたことを示していた。
周義は、趙静の背後を守るように、盾を両腕で抱きかかえて、倒れていた。彼の盾は、玄岳軍の武器によって、無数の穴が開き、原型を留めていなかった。彼の胸元からは、大量の血が流れ出し、土を深く赤く染めていた。
荀厳は、馬から飛び降りると、血の海の中を、よろめきながら二人の遺体へと近づいた。
「…趙静…周義…!」
荀厳は、声を上げることもできず、ただ、涙を流し続けた。
彼の涙は、後悔と絶望の熱い雫となって、二人の傷だらけの遺体の上に零れ落ちた。
「すまぬ…!俺の…俺の愚かさが…!お前たちを…見殺しにした…!」
荀厳の慟哭は、地獄の戦場に虚しく木霊した。彼は、二人の将の壮絶な死に、将軍としての己の罪と責任を深く実感した。
その時、一筋の微かな呻き声が、荀厳の耳に届いた。
「…ぐ…ん…」
荀厳は、ハッと顔を上げた。声の主は、趙静と周義の遺体の少し奥に、巨大な岩にもたれかかるようにして、座っている武将であった。
「郭慎…!」
郭慎将軍は、全身が血に塗れ、その鎧は原型を留めていなかった。彼の顔面は蒼白で、虫の息であったが、その瞳には、微かな光が残されていた。
荀厳は、駆け寄り、郭慎の肩を優しく抱きかかえた。
「郭慎!生きていたのか!すまぬ…俺のせいで…!」
郭慎は、荀厳の言葉を遮るかのように、微かに口元を動かした。
「…ぐん…げん…さま…」
彼の声は、風に消え入りそうなほど微弱であった。
「話すな!今、手当てを…!」
「…いいえ…。も…う…じき…」
郭慎は、己の死期を悟っていた。彼は、最後の力を振り絞って、荀厳の袖を強く握った。
「…き…け…。敵…は…玄岳の…寒策…という…将が…率いて…い…た…」
「寒策…!厳冰の参謀か!」
荀厳は、緊張で全身が硬直した。厳冰自身ではなく、その参謀が、この地獄を設計し、実行したのだ。
郭慎は、血を吐き出しながらも、重要な情報を伝え続けた。
「…寒策…の…部…隊…は…わ…れ…ら…を…全…滅…し…終え…て…撤…退…する…と…き…に…」
郭慎は、途切れ途切れの言葉に、全ての命をかけていた。
「…ちゅ…う…おう…の…張江を…そく…めん…か…ら…き…しゅ…う…し…」
荀厳の心臓が、激しく打った。
「…そして…ぜん…ぐん…で…う…ち…に…い…く…と…いっ…て…い…た…」
その言葉は、地獄の底から響く、最後の警告であった。
寒策は、郭慎軍を殲滅することで、右翼の兵力を大幅に削った。
そして、その勢いのまま、衛国の中央で指揮をとる張江に、側面から奇襲を仕掛けるつもりであったのだ。
(まさか....全ては、中央戦線を優位に進めるための、壮大な準備であったというのか…!)
荀厳は、厳冰の冷徹な知略に、畏怖すら感じた。
「…郭慎…!その情報は…真実なのだな…!」
郭慎は、最後の力を振り絞って、かすかに頷いた。
「…ぜ…ひ…とも…ちゅ…う…おう…へ…い…け…」
郭慎の目から、一筋の涙が流れた。それは、荀厳への最後の忠告であり、衛国の未来への切なる願いであった。
「…お…つ…か…え…で…き…こ…う…え…い…で…し…た...」
その言葉を最後に、郭慎の瞳から、微かな光が完全に消え失せた。彼の全身の力が抜け、荀厳の腕の中で、静かに息を引き取った。
荀厳は、郭慎の遺体を強く抱きしめ、声にならぬ慟哭を上げた。彼の親友は、命と引き換えに、中央戦線の危機を伝えたのだ。
郭慎の遺体を、静かに土の上に横たえた荀厳は、立ち上がった。彼の顔から、涙の痕跡は消え、鋼鉄のような決意が宿っていた。
「朱鋒!」
朱鋒は、絶望の中で、主君の決断を待っていた。
「郭慎は、命を賭けて、中央の危機を伝えた。寒策の部隊は、必ずや中央の張江を側面から奇襲する!我々は…郭慎の死を無駄にはできぬ!全軍、中央の戦場へ急行する!」
荀厳の決断は、迅速であった。しかし、それは理性的な判断というよりも、親友の死に対する贖罪と、衛国への忠義に基づく、感情的な選択であった。
「お待ちください、将軍!これこそ、罠です!」
朱鋒は、血の気の引いた顔で、主君の前に立ち塞がった。
「将軍!郭慎将軍の最後の言葉は、寒策が意図的に流した、最も巧妙な偽報かもしれません!寒策は、郭慎将軍の忠義と、将軍の贖罪の念を、最後の最後まで利用しようとしているのです!」
朱鋒は、涙を流しながら、必死に荀厳を説得しようとした。
「郭慎将軍の遺言を信じれば、将軍は再び本陣を空け、中央へ向かうことになる!しかし、もし、寒策の部隊が中央へ向かわず、引き返してきたらどうなるのですか!飛砂関へ続く、唯一の道が、再び空いてしまうのです!」
荀厳の心は、朱鋒の言葉と、郭慎の遺言の間で、激しく揺れ動いた。
(郭慎の命と引き換えに得た情報が、罠だと…!?そんな非道なことが、武人として許されるのか…!)
「朱鋒!貴様は、死んだ者の言葉を疑うというのか!」
「死んだ者ではありません!将軍!厳冰と寒策の知略を疑っているのです!彼らの目的は、中央の勝利だけではありません!右翼の完全な崩壊と、飛砂関の確保こそが、彼らの真の目的です!」
朱鋒は、指を震わせながら、戦況図を広げた。
「将軍!もし、寒策の部隊が中央へ向かったとしても、それは時間稼ぎです!彼らは、飛砂関の道を空けさせ、別の部隊に関所を落とさせるつもりかもしれません!飛砂関への道は、空けられません!」
朱鋒の論理は、冷徹であった。しかし、荀厳の心は、郭慎の最後の願いに強く囚われていた。
(郭慎は、俺の親友だ。郭慎は、嘘を言わぬ。郭慎は、衛国を思って、命を賭けたのだ。俺がここで躊躇すれば、中央の張江が壊滅し、郭慎の死は、完全に無駄になる…!)
荀厳は、自らの良心と大義に、最後の賭けをすることを決意した。
「朱鋒。貴様の言は、理に適っている。だが、俺は、郭慎の忠義を信じる。そして、中央の危機を見過ごすことはできぬ」
荀厳は、自らの剣を抜き、地面に突き立てた。
「だが、貴様の警告も、無駄にはせぬ。飛砂関の道を空けるわけにはいかぬことも、重々承知している」
荀厳は、苦渋の決断を下した。それは、部隊を分断し、二つの地獄に兵を賭けるという、極めて危険なものであった。
「朱鋒!そなたの隊と、陳毅直属の副将、魏烈の隊を合わせ、計四千を、飛砂関の前に布陣せよ!」
朱鋒は、愕然として、顔を上げた。
「将軍…!四千では…!もし、寒策の部隊が引き返してきたら…!」
「四千で、数日は持ちこたえろ!中央の状況が落ち着き次第、全速力で戻る!そなたは、衛国の最後の砦を守るのだ!魏烈は、剛直な男だ。貴様の知略と、魏烈の武勇があれば、四千で一万を防げぬ道理はない!」
荀厳は、魏烈という武勇に秀でた将を、朱鋒の知略と組み合わせることで、最悪の事態に備えることにしたのだ。
「朱鋒!これは、俺の命令だ!死守せよ!」
荀厳の決意は、揺るがなかった。朱鋒は、涙を拭い、主君の覚悟を理解した。
「…御意!将軍の大義、この朱鋒、必ずや守り抜いて見せます!飛砂関は、私が死なぬ限り、誰にも通させません!」
朱鋒は、力強く頷くと、四千の兵を率い、飛砂関へと行軍した。
一方、荀厳は、本陣に残された、僅かな兵を掻き集め、残りの全軍と共に、中央の戦場へと馬を向けた。
彼の背中には、郭慎の遺言という重い十字架と、朱鋒の命を懸けたという最後の重石が乗せられていた。
白狼山脈の微かな陽光は、血に塗れた本陣を静かに照らし、中央の戦場へと向かう荀厳の孤独な姿を、悲劇的な影絵のように、大地に長く落としていた。
彼は、親友の死を無駄にしないという強い意志と、再び罠に嵌っているかもしれないという微かな不安を抱えながら、第三の戦場へと絶望的な行軍を開始した。
その頃、白狼山脈の麓、魯国と衛国が対峙する中央戦線は、巨大な鉄の熔鉱炉と化していた。
大地は、無数の血と泥で深く濡れ、両軍の兵士たちは、生命の限界を超えて互いの肉を削り合っていた。
衛国の中央軍を率いるのは、総大将たる張江であった。
彼の本軍は、飛砂関へと続く唯一の平原に堅固な陣を築き、魯国軍の猛攻を粘り強く、獅子奮迅の武勇で耐え凌いでいた。
左翼は、副将の周翼が、沙嵐国軍、業髄の軍を相手に防御を固め、一歩も引かず、耐え抜いていた。
右翼には、もう一人の副将、高遠が配され、玄岳国軍の方陸が織りなす、波状攻撃を必死に食い止めていた。
この三国連合軍の中央戦線全体の指揮を執るのは、魯国の猛将、魏鉄山であった。
魏鉄山は、高台に築かれた本営から戦場を睥睨していた。
彼の瞳からは、苛立ちが、見え隠れしていた。
彼の軍は、緩やかな攻勢に終始していた。
中央に陣取る張江の衛国軍を正面から押し込めることは可能であった。
にも関わらず、魏鉄山は、兵力の消耗を最小限に抑えるかのように、一進一退の戦いを繰り返していた。
(公孫穆の厳命…!無駄な血を流すことは許されぬ…!)
魯国軍師である公孫穆は、魯国を出立する前に、魏鉄山に鉄の規律を課していた。
「鉄山よ。衛国を討つことは、容易い。だが、国力をこれ以上、消耗してはならぬ。長引く戦いは、他国に隙を与える」
公孫穆の戦略は、衛国の戦力を徐々に削りつつ、白狼山脈を越えてくる、厳冰の玄岳国軍の到着を待つという、冷徹なものであった。
「玄岳国軍が、白狼山脈の右翼を突破し、衛国軍の側面を突く。その時こそ、総攻撃を仕掛け、最小限の損害で、張江の首を獲るのだ」
魏鉄山は、公孫穆の知略に全面的に従っていた。彼の武人としての血は、今すぐにでも衛国の総大将たる張江を討ち取れと叫んでいたが、魯国の大義が、彼の両手を縛り付けていた。
この膠着状態は、実際は、魏鉄山による巧妙な罠、挟撃のための時間稼ぎであった。
(厳冰よ。貴様は、いつ、この地獄へ辿り着くのだ…!)
魏鉄山の焦燥は、戦場の風のように冷たく、鋭利であった。
そして、ついに、彼が、最も、待ち望んでいた、運命の時が来た。
「報告!高遠軍の隊の右側面、山脈より玄岳国軍の大部隊が出現!猛烈な速度で突進してきます!」
伝令の叫びが、本営の静寂を切り裂いた。
魏鉄山は、戦況図を一瞥すると、歓喜に似た、冷たい笑みを浮かべた。
「来た…!厳冰め、約束を違えなかったか…!」
それは、玄岳国軍の精鋭部隊であった。
彼らは、長距離の行軍と激戦の疲労を微塵も見せず、衛国の右翼の最も、脆弱な箇所へと、鉄の槍のように突き刺さってきたのだ。
高遠隊は、方陸軍からの攻撃に耐え、既に、限界の淵にあった。
そんな危機的な状況での、新たな精鋭の側面からの突きは、致死的な一撃となった。
「ぐわあああ!側面を突かれた!崩れるぞ!」
高遠隊の右翼は、その鋭利な一撃によって、まるで、ガラスのように粉砕された。
玄岳国軍は、衛国兵を次々と刈り取り、高遠隊の戦列を内側から引き裂いていった。
「魏将軍!挟撃が成功しました!」
魯国の『魏五虎』の第一虎、大崩が、興奮を隠しきれずに叫んだ。
魏鉄山の瞳に、武人の血が宿った。公孫穆の束縛から解放される瞬間が来たのだ。
「全軍!号令!総攻撃を開始せよ!」
魏鉄山の声は、雷鳴のように戦場に響き渡った。
「魯国軍!今こそ、衛国の総大将、張江を討ち取れ!中央の圧力を強めるように、孟武、陳堅、聞閉、露鴈の各『五虎』に伝えろ!大崩は、自身の隊を、率いて、高遠の隊を、殲滅しろ!」
彼の号令と共に、彼の親衛隊である、『魏五虎』が、怒涛の勢いで各戦線へと猛進していった。
中央の連合軍は、今までの緩やかな攻勢とは打って変わり、地鳴りを起こすほどの猛烈な勢いで、衛国軍へと襲いかかった。
張江は、魏鉄山の猛攻と、右翼の崩壊の危機に接し、蒼白な顔をした。
(魏鉄山め…!今までの攻勢は、全て、この、挟撃のための、布石だったというのか…!)
中央で孟武、陳堅、聞閉、露鴈の隊、計三万余騎が猛攻を仕掛け、右翼では、玄岳国軍が、挟撃を行い、右翼は、今まさに、壊滅の危機に瀕していた。
衛国中央軍は、一瞬にして、地獄に晒された。
戦況は、完全に、三国連合軍へと傾いていた。
「高遠将軍!持ちこたえられません!戦線が千切れます!」
高遠隊の副将、越憲が、血を吐きながら叫んだ。彼は、豪放磊落な武人であり、高遠の軍にあって、最も、武勇に秀でた、剛将であった。
高遠は、全身が傷だらけであったが、冷静な判断力を失わなかった。
「越憲!貴様の隊を率い、進撃を食い止めろ!何としてでも、この場で楔となれ!張江総大将の援軍が来るまで、一歩も引くな!」
高遠の命令は、越憲に死を命じる、非情なものであった。
「御意!!殿は、残存兵力をまとめ、戦列を再構築なさいませ!」
越憲は、高遠に深く一礼すると、自らの隊、僅かに残された、三千余りの兵を率い、玄岳国軍の怒涛の波へと、逆流するかのように突っ込んでいった。
「者ども!越憲がいる!衛国の誇りを示すのだ!寒策め、貴様に衛国の血の重さを教えてやる!」
越憲は、巨大な鉄槌を両手に持ち、鬼神の如き、武勇を発揮した。彼の鉄槌が振り下ろされるたびに、玄岳国兵が鎧ごと粉砕され、血煙が舞い上がった。
越憲の奮戦は、凄まじかった。
彼は、まるで、地獄から蘇った、阿修羅の如く、玄岳兵の群れを引き裂いていった。玄岳国軍の進撃は、越憲の隊の前で、一時的に完全に、停止した。
(高遠様…!この時間で必ず、立て直していただく…!俺の命は、そのための、楔だ!これこそ、本望!)
しかし、援軍として現れた玄岳国軍の隊は、今まで、相手にしていた玄岳国軍の隊とは格が違った。
彼らは、越憲という一人の猛将に固執せず、越憲の隊を避けるように左右へと展開し、包囲網を築き始めた。
越憲は、自らが包囲されることを覚悟していた。彼の目には、絶望はなかった。あるのは、武人としての純粋な歓喜と、祖国への尽忠の念だけであった。
「来い!玄岳国の雑魚ども!越憲が、貴様らの死に場所となる!」
越憲は、全身に無数の傷を負い、血が滝のように流れていた。彼の鎧は、もはや、血で完全に、赤黒く、染まっていた。
玄岳兵の槍と刀が、越憲の肉体を容赦なく貫いた。彼は、最後まで、鉄槌を手放さなかったが、数には抗えなかった。
越憲は、最後の力で、傍らにあった隊旗をしっかりと、握りしめた。
「…衛…国…に…栄…光…を…」
その言葉を最後に、越憲の全身の力が抜け、彼の肉体は、玄岳兵の波の下へと沈んでいった。彼の隊旗は、彼の手に握られたまま、血と泥に塗れて、大地に横たわった。
越憲の壮絶な戦死は、高遠隊が壊滅するのを防ぐ、決定的な時間を稼いだのであった。
越憲の死という巨大な犠牲を前に、高遠隊の兵士たちは一時的に戦意を喪失しかけたが、高遠は必死に叫び続けた。
「越憲の死を無駄にするな!衛国のために、再び、立て!」
その時、遠くから地鳴りのような馬蹄の音が聞こえてきた。
「援軍だ!張江総大将の援軍が来たぞ!」
中央戦線の本軍から、張江の直属の副将、寧武が率いる、一万の精鋭部隊が怒涛の勢いで右翼へと駆けつけた。
張江は、魏鉄山の猛攻に晒されながらも、冷静な判断力で右翼の危機を察知し、寧武を分派したのであった。
「寧武が来たぞ!玄岳国軍を食い止めろ!」
寧武の隊は、越憲の遺体が横たわる、血の海を踏み越え、玄岳国軍の進撃を真っ向から受け止めた。寧武は、圧倒的な武勇で玄岳兵を押し戻し、玄岳国軍と衛国軍の間に、鉄壁の壁を築いた。
「高遠!そなたの傷は深い!指揮を寧武に任せ、後方へ退け!」
寧武の声は、戦場に轟いた。
高遠は、寧武に深々と頭を下げた。
「感謝する…寧武!越憲の命と引き換えに得た、この場を守り抜いてくれ!」
高遠は、残存兵力を集め、部隊を立て直すために後方へと下がった。彼の傍らには、高遠隊のもう一人の副将、孫賢が立っていた。
孫賢は、越憲の死による兵士の動揺を最小限に抑え、寧武の援軍と連携して、新しい、強固な防衛線を構築し始めた。
「寧武将軍の到着で、敵は完全に、足止めされました!高遠将軍!今こそ、戦線を再構築する時です!」
孫賢の冷静で的確な指示は、混乱した高遠隊を束ねる、唯一の綱であった。
越憲の壮絶な死、寧武の決死の援軍、そして孫賢の知略によって、衛国の右翼は、なんとか、壊滅を免れた。
しかし、中央では、魏鉄山が猛攻を続けていた。張江は、寧武を分派したため、兵力が手薄になり、魏鉄山の圧力に晒され、戦線を後退させざるを得なかった。
張江は、歯を食いしばり、自らが剣を振るい、魯国兵を押し戻していたが、彼の心には、深い、焦燥が渦巻いていた。
(荀厳…!貴様はなにをしている!よもや、伯明の仇の前に、散ったのではあるまいな!右翼は崩壊寸前だ!貴様は、いつ、この地獄へ辿り着くのだ!衛国は、今、貴様の援軍を必要としているのだぞ!)
中央戦線は、魏鉄山の総攻撃と、寧武の決死の防衛によって、再び、血と泥の膠着状態に陥った。しかし、この膠着は、衛国軍にとって有利ではなかった。
張江軍は兵力を消耗し、周翼の左翼も沙嵐国軍の圧力で疲弊していた。高遠の右翼は、越憲の命と引き換えに辛うじて、戦線を維持しているに過ぎなかった。
魏鉄山は、本営の高台から、戦況を冷徹に分析していた。
「寧武め…張江が動かすとは思わなかったが、これも、計算の内か…」
魏鉄山は、魯国の軍師、公孫穆の戦略を忠実に実行していた。
衛国の総大将たる張江に猛攻を仕掛け、奴の兵力を分断させ、右翼に釘付けにする。その結果、張江は中央で手薄になり、魯国軍の突破を許すことになる。
(張江よ。貴様は総大将でありながら、部下を見捨てることができぬ、甘い男だ。その優しさが、貴様の命取りとなるだろう…!)
魏鉄山は、次の一手を打つために、全軍に休息を命じた。魯国軍とて、総攻撃の疲労は大きかった。
戦場に訪れた、一時的な静寂は、衛国兵たちに更なる、絶望をもたらした。彼らは、越憲の遺体が横たわる、血の海を見つめ、自らの運命を呪った。
高遠は、治療を受けながら、孫賢に尋ねた。
「孫賢…越憲の隊の生存者は…何人だ…」
孫賢は、苦渋に満ちた、顔で答えた。
「…越憲将軍の隊は…ほぼ、全滅です。彼が率いた、三千余りの兵は…全て、この場にその命を捧げました」
高遠は、目を閉じ、無言で涙を流した。一人の将軍の命だけではない。三千人の兵士の命が、この、一瞬の挟撃で消え失せたのだ。
中央戦線の戦いは、魯国と玄岳国の冷徹な武力と巧妙な知略によって生み出された、衛国の将軍たちの血と涙が彩る悲劇であった。
魏鉄山は、公孫穆の戦略の成功を確信していた。
衛国の兵力は削られ、総大将の張江は孤立しつつある。次の総攻撃で、全てが終わるだろうと。
(だが、右翼を再構築されては、面倒だ....奴を狩るか...)
しかし、彼は知らなかった。もう一人の将軍が、この地獄へ向かっていることを。




