#1-32 血戦の左翼
天狼山脈の北端。
志文の布陣した盆地は、先ほどまでの激戦の熱がまだ冷めやらぬまま、静寂を取り戻していた。
志文軍は、楽愁の配下である護砲隊を全滅させ、風刃の隊を半壊に追い込み、隘路の安全ルートを、その報酬として獲得したばかりであった。
しかし、志文は、冷静に、そして迅速に、李岳から得た情報と、戦況の全体的な流れを分析していた。
「馬淵軍の正面攻勢は、まるで本気ではないかのように単調で、磐虎将軍の戦力に対して、その攻めは緩やか過ぎるように思います。馬淵は、攻撃の名将と聞きます。磐虎将軍の軍も精強ではありますが、馬淵の軍が、容易に何度も、殲滅されるとは思えませぬ。ましてや、天狼山脈は、沙嵐国の庭のようなもの。隘路など、とっくに把握しているはずです」
「すなわち、あの馬淵が、未だに、何もせぬのは、罠か...」
志文は迷っていた。
(呈威の軍が、自身の軍をも罠にかける偽報かもしれないと思っていたからであった。
(どちらの状況にせよ、動くしかあるまい....)
姜雷と羅清は、既に、磐虎の本陣と推測する場所に、向かっていた。
「李岳、衛射、宋燕。お前たちの隊は、風刃らが逃げた後方の隘路から進軍せよ。まだ新しい馬蹄の跡が残っているはずだ。それを辿り、楽愁の本隊に奇襲を仕掛け、足止めせよ」
李岳は驚きに目を見開いた。「楽愁の本隊を…足止めですか?」
「そうだ。楽愁は、護砲と風刃を失った報告を受けて、必ずや我らを攻撃するか、あるいは総大将馬淵との合流を急ぐはずだ。楽愁は、馬淵と合流するなら、奥の開けた天狼平野を選ぶはずだ。少なくとも、後方の隘路からなら、馬淵と行き違いになることはあるまい。お前たちは、その動きを、足止めせよ。磐虎将軍への援護は、我々に任せよ」
李岳は、小さく頷くと、衛射と宋燕と共に、部隊を率いて隘路の奥へと消えていった。
志文は、自らも馬に跨った。
「林業、夜叉!俺と共に、馬淵の本陣に向かうぞ!」
夜叉は、志文のその恐るべき知略と迅速な決断力に、武人として鳥肌が立っていた。
志文の指示は、一瞬の判断で、磐虎と馬淵、楽愁の軍に、柔軟に対応できる策をうったのであった。
こうして、志文軍は三つに分かれ、磐虎の救出と楽愁の足止めという二つの重大な任務を負い、天狼山脈の迷宮へと、それぞれ進軍を開始した。
その頃、天狼山脈と平地の境界線では、磐虎軍が馬淵軍との膠着状態に、苛立ちを募らせていた。
「馬淵め!何故攻めてこぬ!隘路の中で何を遊んでいる!」
磐虎は、自らの薙刀を地面に突き刺し、怒りを露わにした。
開戦してから、磐虎は、すぐに、正面のたった一つの隘路に入り、馬淵の本陣を探していた。
馬淵の軍は、時折、小規模な騎馬隊を突撃させては、すぐに隘路の影へと撤退していく。 その繰り返しであった。
「馬淵は、俺の突撃を警戒しているのか?それとも…」
磐虎の心には、燻るような焦燥感と、武人としての慢心があった。
磐虎軍は、幾度となく小規模な奇襲や伏兵に遭ったが、そのすべてを剛腕で撃退し、壊滅させていた。
「周廉!奇襲の数と、その位置から見て、馬淵の本隊が隠れている場所は、ここから南東に伸びる隘路のどこかに違いない!」
磐虎は、軍師としての側面も持つ参謀の周廉に問いかけた。
周廉は、その剛直な主君に冷静な声音で答えた。
「将軍の推測通り、馬淵の本隊は、この隘路の地形を最も効率的に利用できる南東の隘路の奥にいるでしょう。しかし、将軍。我々の最大の敵は、馬淵ではなく、隘路そのものです。深追いは危険です」
「分かっている!だが、この膠着を破らねば、中央の張江や右翼の荀厳に遅れを取る!俺は、戦場で功名を立てなければならないのだ!」
磐虎は、自らの功名心と、馬淵への苛立ちを抑えきれずにいた。
その時、磐虎の眼前に、隘路の影から、馬淵の本隊が突如として姿を現した。
「馬淵だ!本隊が動いたぞ!」兵士たちが色めき立った。
「周廉!見ろ!俺の読み通りだ!馬淵は追い詰められ、最後の攻勢に賭けるつもりだ!」
「将軍!お待ちください!何かがおかしい…!」
周廉は、馬淵軍が突撃の態勢ではなく、撤退の態勢をとっていることに気づき、制止しようとした。
だが、磐虎は周廉の言葉を聞き入れなかった。彼の脳裏には、功名の二文字しかなかった。
「全軍、突撃!馬淵を討ち取るぞ!」
磐虎は、自らの薙刀を掲げ、功名心に駆られた猛々しい突撃の号令を出した。
周廉の制止の声は、馬蹄の轟音に掻き消された。
磐虎軍は、馬淵軍を猛追した。
磐虎の勢いは凄まじく、彼の薙刀は馬淵軍の兵を次々と討ち倒していった。
磐虎自身、その勢いに酔いしれていた。
「馬淵め!所詮は、俺の敵ではない!」
馬淵は、隘路を一つ右に曲がった。磐虎軍も、その隘路を勢いのまま右に曲がる。
隘路の先で、馬淵は突如として撤退を止め、突撃態勢をとった。磐虎は、完全に慢心していた。
「追い詰められ、最後の攻勢か。哀れな…」
磐虎は、全軍に突撃の態勢を改めさせた。
その瞬間、磐虎軍の後方、彼らが曲がってきた隘路の出口から、一人の将校が叫んだ。
「将軍!退路が!」
声の主は副将の風烈であった。
磐虎が、驚愕して後ろを振り返ると、そこには、右翼で葉旋と対峙しているはずの、呈威の本軍が、厳重な堅守の布陣をもって、退路を完全に塞いでいた。
「な、なに…!?呈威!?何故ここに!?」
状況が理解できず、混乱に陥る磐虎。
眼前に馬淵、背後に呈威。磐虎軍は、天狼山脈の隘路という地獄の罠に、完全に囚われていた。
参謀の周廉は、もはや躊躇する暇はないと悟った。周廉は、すぐに磐虎に進言した。
「将軍!馬淵は、隘路の中で防御と包囲に長けた呈威の策に賭けたのです!馬淵と戦えば、呈威に背後を突かれ、呈威と戦えば馬淵に呑み込まれます!ここは…本陣に帰還するのが、先決です!呈威の隊を突破し、撤退するしかありません!」
周廉の冷静な判断に、磐虎は頷くしかなかった。
「全軍!呈威の隊を突破するぞ!道を開けろ!」
磐虎軍は、死地に活路を見出すべく、呈威軍へ猛突撃を仕掛けた。
しかし、呈威軍の防御は、砂岩のように堅かった。
呈威は、この挟撃のために、軍の練度を極限まで高めていた。
突撃を仕掛ける磐虎軍に、馬淵軍も左右から突撃を仕掛け、隘路の中は、激しい乱戦となった。
数多の兵が討ち取られていく。
しかし、磐虎軍は強かった。誰一人として、剛直な主君と共に、包囲を脱出するために、諦めずに戦っていた。
「くそ…!この磐虎、まさか隘路の中で…!」
馬淵は、周廉の隊の粘り強い奮戦に、厄介さを感じていた。
周廉の隊が、磐虎の隊の盾となり、呈威軍への突破口を開こうと、必死に戦っていたからだ。
「あの軍師め…!討ち取らねば!周廉を討ち取れば、磐虎の勢いは必ずや衰える!」
馬淵は、配下の精鋭に、周廉を狙うよう命じた。
周廉の心は、乱戦の中でも、どこか澄み切っていた。
彼は、幼い頃から磐虎に仕え、知略と武勇の両面で支え続けた腹心であった。
(将軍…!貴方は、武人として、いずれ中央に立つべき方だ。ここで命を落とすわけにはいかない…!)
周廉の脳裏には、故郷の村、そして七年前の夏、戦火から逃がしたことをきっかけに婚儀を挙げた妻と幼い娘の笑顔が鮮明に浮かんでいた。彼は、妻から贈られた小さな琥珀の飾りを、首元の内側に感じていた。
「娘よ、父さんの、この命、殿のために使う時がきたようだ...お前の未来を、この命と引き換えに守ることにもなる…!許せ....」
周廉は、愛用の剣を振り回し、次々と馬淵軍の兵を薙ぎ倒した。
彼の剣筋は、軍師とは思えぬほど鋭く、馬淵の精鋭を驚かせた。
「周廉!貴様、ここまでか!」
馬淵は、自ら薙刀を手に取り、周廉に襲いかかった。
周廉は、その猛烈な突撃を辛うじてかわすが、馬淵の配下の槍隊に囲まれ、孤立した。
「殿のために…!」
周廉の雄叫びが、乱戦の中に木霊する。
しかし、彼の奮戦も、時間の問題であった。馬淵が放った、渾身の一撃が、周廉の胸を貫いた。周廉は、愛用の剣を地に落とし、膝から崩れ落ちた。
「将軍…!生きて…!必ず、衛国を…」
周廉の最後の言葉は、血に塗れた土埃の中に消えた。
馬淵は、周廉の予想外の奮戦に驚きながらも、衛国の優秀な将校を討ち取ったことに満足した。
参謀の周廉を失ったことで、磐虎軍の隊列は段々と崩れていった。
将兵たちの心に、敗北の影が落ち始めた。
「馬淵め…周廉…!」
磐虎は、怒りと悲しみに打ち震え、馬淵に向かって突撃しようとしていた。
「ここで、死ぬしかないようだ…皆すまぬ。俺が功を焦ったせいで…」
磐虎は、決死の覚悟を決めた。
周廉の死を無駄にしないために、せめて、この地獄で馬淵と刺し違えようと、最後の力を振り絞ろうとした、その時であった。
磐虎軍の背後、呈威軍の布陣する隘路の出口のさらに奥から、突如として新たな軍が出現した。
その軍は、呈威の軍へ、迅速に、突撃した。
志文、夜叉、林業の隊であった。
彼らは、予想だにしない方向から、呈威軍の側背へと猛突撃を仕掛けたのだ。
「夜叉!林業!呈威軍の堅守を崩せ!この突破口から、磐虎将軍を脱出させる!」
志文軍の精鋭は、勢いよく呈威軍の側面を打ち破り、磐虎軍への圧力を一気に緩和させた。
そして、その直後、馬淵の背後からも、新たな軍が、怒号と共に突撃した。
「高翔の無念、ここで晴らす!馬淵!逃げられると思うな!」
葉旋であった。
彼女は、高翔を失ったことを知り、全軍で隘路を慎重に進んでいた。
しかし、磐虎軍の方向から聞こえてくる怒号のような音を聞き逃さなかった。
(高翔は、隘路の危険性を知りながら、功を焦り、討たれた。…だが慎重さだけでは、戦は勝てぬ!...この怒号は、磐虎将軍の戦っている場所を示している…!)
葉旋は、高翔の死を深く胸に刻みつつ、全軍を連れ、左の隘路に入り、音だけを頼りに、この地獄の戦場に辿り着いたのであった。
葉旋は、状況を見るや否や、迷いなく、馬淵軍への突撃を敢行した。
馬淵は、自軍の背後を突かれたことで、完全に狼狽した。
「馬鹿な…!葉旋は動けないという俺の読みが外れたか...!なにより、志文は…!奴は楽愁と戦っているはずだろう…!何故、ここに…!?」
馬淵は、志文と葉旋の出現の速さ、そして強さが、自身の全ての予想を上回っていることに、恐怖すら覚えた。
三将軍による完璧な包囲網が、隘路の中で形成された。
既に呈威は、磐虎軍と志文軍に呑み込まれ、その姿は見えなくなっていた。
「撤退!撤退だ!」
馬淵は、これ以上の戦闘は危険だと判断し、葉旋の隊を力ずくで蹴散らしながら、入り組む隘路の奥へと、自らの本隊と共に全速力で逃走した。
葉旋は、馬淵の隊を大勢討ちながらも、追撃はしなかった。
(馬淵は、複雑な隘路を完全に把握している。深追いしても、逆にこちらが痛手を負う。高翔の死を無駄にはしないわ…)
葉旋は、冷静にそう判断し、呈威軍の殲滅に加わった。
包囲された呈威軍は、完全に絶望的な状況にあった。
呈威は、三将軍の連携の前に、脱出は不可能だと悟った。
「くそ…!まさか、志文と葉旋が、このタイミングで現れるとは…!」
呈威は、自らの配下の中で、最も信頼する三人の猛将、守陣、鋼力、砂岩を呼び寄せた。
「守陣!鋼力!砂岩!ここで全滅するわけにはいかぬ!お前たちは…この場で三将の軍を足止めせよ!その隙に、必ずや、この包囲を抜け出す!」
呈威は、三人の命と引き換えに、自らの脱出を図ったのだ。
三将は、主君の意図を理解し、死を覚悟した猛突撃を仕掛けた。
守陣は、呈威軍の堅守の要であり、常に先陣を切る猛将であった。
彼の心には、老いた母と、故郷の村を豊かにしたいという願いがあった。
(呈威様…!貴方の命があれば、この戦はまだ負けではない!そのためならば、この命、惜しくはない!)
守陣は、全身に傷を負いながらも、磐虎へ向かって突進した。彼の得物は、二振りの戦斧。その戦斧は、まるで踊るように、磐虎軍の兵士を薙ぎ倒していく。
「死ねえええ!」
しかし、磐虎は、周廉を討たれた悲しみと怒りから、鬼神と化していた。磐虎は、守陣の猛烈な戦意を認めながらも、容赦なくその槍を繰り出した。
「お前の忠義、見事だ!だが、俺の怒りは、お前たちでは止められぬ!」
磐虎の剛槍が、守陣の胸を貫いた。
守陣は、故郷の青空と、母の優しい顔を思い浮かべながら、血を吐いた。
「母上…お先に…」
守陣は、磐虎の猛攻の前に、壮絶な戦死を遂げた。
彼の両手から戦斧が滑り落ち、その体は、土埃の中に倒れ伏した。
鋼力は、呈威軍の中でも一騎当千の強さを誇る将であった。
彼は、純粋な武人であり、強敵との一騎打ちを人生の目標としていた。
(伯志文…!噂に聞く、衛国の知将でありながら、武勇も兼ね備えた男!この命尽きるとも、貴様と戦えるならば、本望よ!)
鋼力は、志文めがけて、愛用の巨大な剣を振り上げた。
その剣は、まるで鋼鉄の板のように重く、志文軍の兵士を吹き飛ばしていく。
志文は、鋼力の圧倒的な武勇を前に、自らも馬上で剣を構えた。
「夜叉、林業。手を出すな。この男は、武人としての誇りをかけて、ここに来た。その覚悟、受けて立とう」
志文の薙刀は、冷静沈着でありながら、驚異的な速さを持っていた。鋼力の重い剣を、軽々とかわし、その隙を、正確に突いていた。
「くそ…!速い…!俺の剣が、まるで届かぬ…!」
鋼力は、志文の武勇に驚愕し、武人としての無念を感じた。彼は、若き日に誓った、最強の武人となる夢が、今、潰えることを悟った。
「我が剣よ…!今一度、光を…!」
鋼力は、最後の力を振り絞って剣を振るうが、志文の薙刀は、彼の首元を正確に切り裂いた。鋼力は、馬上で血を噴き出し、崩れ落ちた。
志文は、静かに鋼力の遺体を見つめていた。
「見事な武勇であった。故郷で安らかに眠られよ」
砂岩は、呈威軍の将の中でも最も慎重で、堅実な戦術を好む男であった。彼の心には、天候の悪い日に病に倒れやすい、愛する妻への誓いがあった。
(呈威様を逃がせば、私は妻のもとへ帰れる…!必ず帰る…!そして、妻を幸せにするのだ…!)
砂岩は、最も激しい憎悪を向けてくる葉旋へ向かった。
砂岩は、高翔を討った者として、葉旋の怒りが自分に向けられることを知っていた。
葉旋は、高翔を失った悲しみと、呈威への怒りから、その表情は般若のように厳しくなっていた。
彼女は、普段の慎重な姿からは想像もできないほどの激情を剥き出しにしていた。
「高翔の無念!お前たち沙嵐の将は、許さぬ!死ね!」
葉旋の槍は、高翔への贖罪と深い愛情が乗り移ったかのように、高速で、正確であった。砂岩は、愛妻の顔を思い浮かべながら、必死に槍を防ごうとした。
「俺は…帰らねばならぬ!妻が待っている…!ここで死ぬわけにはいかぬ!」
生きる意志だけが、剣を振るわせていた。
しかし、無情にも、葉旋の槍の速さは、彼の防御の隙を突いた。葉旋の槍が、砂岩の腹部を深く切り裂く。
砂岩は、愛用の剣を葉旋の前に落とし、最後の力を振り絞って叫んだ。
「せめて…呈威様だけは…!」
葉旋は、砂岩の命を賭けた願いを聞きながらも、高翔を失った自責の念から、容赦なく砂岩を討ち取った。
砂岩は、愛する妻の名を胸に、壮絶な戦死を遂げた。
しかし、守陣、鋼力、砂岩の三将を犠牲にしたことで、呈威は、辛酸を舐めるような思いで、複雑な隘路の奥へと脱出を果たした。
磐虎は、周廉の遺体を抱え、志文、そして葉旋の隊と共に、開戦時に布陣していた地へと戻った。
既に、志文の命令で分派していた羅清と姜雷の隊が、静かに待っていた。
彼らは、磐虎軍の絶望的な状況をその怒号から察していたが、志文本隊の動きを優先し、動かずに待機していたのだった。
間もなくして、李岳、宋燕、衛射の隊も、後方の隘路から帰還した。彼らは、顔に泥と汗を滲ませながら、志文のもとに戦果を報告した。
李岳は、志文の前に跪き、言った。
「殿。指示通り、後方の隘路の出口で、楽愁の本軍を待ち伏せました。楽愁は、風刃と雷樹の隊を先鋒として送り込んできましたが、我が軍はこれを奇襲で打ち破り、風刃と雷樹を討ち取りました」
「楽愁は…どうした?」志文が尋ねた。
「楽愁は、自ら突撃してきましたが、我が軍が防戦に徹し、隘路の出口を封鎖したため、突破できませんでした。結果、楽愁の軍は、隘路のさらに奥に広がる開けた広大な地、天狼平野に撤退しました」
衛射が、付け加えるように報告した。
「その撤退する楽愁の軍の背後には、馬淵や、呈威の隊も、合流していました。彼らは、天狼平野を本陣とし、戦線を再構築するようです」
志文は、報告を聞きながら、静かに頷いた。
「そうか…天狼平野か」
磐虎は、周廉の遺体を前に、血の涙を流していた。
「周廉…!俺の功を焦ったせいで…!馬淵…!必ずや貴様を討ち取る!」
葉旋は、静かに槍を握りしめていた。
「志文将軍…貴殿の冷静な判断と迅速な行動に、我々左翼は救われました。しかし、敵は天狼平野へ…」
志文は、その三将の複雑な心情と、眼前の天狼山脈という迷宮の終点を見つめた。
「天狼平野は、隘路を抜けた先にある、広大で開けた土地だ。馬淵、楽愁、呈威がそこに集結した。つまり、この戦線の次の舞台は、隘路戦から平野へと移行する。そして、そこで、彼らは、この戦で失った将の怒りと無念をぶつけてくるだろう」
志文の瞳には、既に天狼平野の景色が映っていた。
衛国の左翼は、初日の激戦で、愛する将校たちの命という途方もない代償を払った。
しかし、彼らは、その死の覚悟を胸に、次の決戦の地へと、静かに、そして冷たい怒りを燃やしながら、進軍の準備を始めた。
一方、右翼は、左翼の苛烈な隘路戦とは全く異なる様相を呈していた。
戦の舞台は、衛国と玄岳国の国境を定める、白狼山脈山中であった。
白狼山脈は、天狼山脈のような複雑に入り組んだ岩壁と隘路が少なく、その山容は、広大で壮大な森に覆われていた。
鬱蒼と茂る樹木は、陽の光すら遮り、山道は常に薄暗く湿っており、苔生した岩と、積もった落ち葉が、衛国兵たちの行軍を鈍らせていた。
衛国軍の右翼を率いるのは、荀厳であった。彼は、武勇に優れ、常に冷静な判断を下す将軍として知られていたが、この白狼山脈の戦いでは、開戦時から極度の膠着状態に陥り、苛立ちと焦燥に苛まれていた。
対峙する玄岳軍を率いるのは、玄岳四堅の一人、厳冰であった。厳冰は、この森林地帯を自身の庭として利用していた。
白狼山脈の道は、天狼山脈の迷宮のような隘路と違い、単純であった。主要なルートは一本、あるいは二本しかなく、本来ならば、衛国軍の進軍速度を上げ、玄岳軍を平押しできるはずであった。
しかし、その単純な道こそが、厳冰の静かなる罠であった。
「くそっ…!またか!」
荀厳は、前衛部隊が、森の奥深くから放たれた一斉の矢によって、突如として半壊した報告を受け、自らの乗馬を強く蹴りつけた。
(くっ...開戦から、一向に姿を見せぬ....やはり、伯明を殺した仇は、俺では討てぬのか....)
衛国軍は、森や林の深く太い木々に隠れ、その陰鬱な闇から、ゲリラ戦を展開してくる玄岳国軍に、手も足も出ずにいた。
玄岳国軍は、攻撃を仕掛けては、森や林の中に、颯爽と、そして音もなく消えていく。彼らは、まるで森の精霊のように、衛国軍の視界から一瞬にして姿を消した。
深追いをすれば、すぐに、隊が、伏兵に分断され、殲滅されていく。森の奥深くへ続く道は、血の轍と倒れた兵士たちの遺体で印されているにもかかわらず、その先に、敵の確かな本隊の姿はなかった。
「敵の本陣はどこだ!斥候はまだ帰らぬのか!」
荀厳は、苛立ちを隠せずに叫んだ。
中央の戦場の馬蹄と怒号を合図に、荀厳は、すぐに、斥候を送り、林や森に、網の目状に斥候を送ったが、誰一人として、確かな情報を持ち帰る者はなく、敵の位置を掴めずにいた。
斥候の多くは、森の中で命を落としたか、あるいは敵の手に落ちたのであろう。
そのことが、より、温厚な荀厳をいら立たせていた。
なにより、厳冰は、自身の友、伯明の仇であった。厳冰は、伯明の軍を壊滅させた張本人の一人であったからだ。
荀厳が、右翼に志願したのは、まさにそれが理由であった。
しかし、そんな荀厳の気勢とは、裏腹に、斥候が帰らないという事実は、荀厳の軍の士気を静かに、確実に削いでいった。
兵士たちは、森の闇を恐れ、木々の間に隠れる見えない敵の存在に、心身ともに疲弊していた。
「将軍、これ以上の深追いは、兵の心を折ります。敵は、森そのものを武器にしています。我々が森に入れば入るほど、泥沼の戦いとなります」
荀厳の副将の一人、林堅が、冷や汗を流しながら進言した。
林堅は、荀厳に付き従い、何度も敵の偽装された撤退に騙され、部隊を失っていた。
荀厳は、自らの功名心と、復讐心で、ここで動けないことへの焦燥感に、より一層苛まれていた。しかし、彼の知性は、白狼山脈の地形と、敵の戦術の危険性を正確に理解していた。
「そもそも、この山脈の裏をとられれば、飛砂関に回られる危険がある。地形や敵の位置すらわからない状態で、敵を深くまで、追撃はできぬ…」
荀厳は、深呼吸を一つし、苦渋の決断を下した。
彼は、功名よりも、戦略的な要所を守ることを選んだ。
「全軍!開戦時の本陣へ戻る!これ以上の無駄な血は流させぬ。我々は、山中から決して、動かぬ!」
軍は、深い安堵の吐息を漏らしながら、慎重に森から撤退し、開戦時の本陣、白狼山脈の山中の開けた場所へと戻った。
荀厳のこの決断は、臆病ではなく、最悪の状況を避けるための知的な撤退であった。
本陣に戻り、荀厳が、戦況図を広げ、次の手を打ち始めようとしたその瞬間であった。
森の入り口から、泥と血に塗れた三人の斥候が、狂乱した馬と共に駆け込んできた。彼らは、極度の緊張と疲労で、まともに立つことすらできていなかった。
「報告!…ご報告申し上げます!」
斥候の顔は、恐怖と安堵で歪んでいた。彼らは、生きて帰れないと思っていたのだ。
荀厳は、彼らの様子を見て、ただならぬ事態を察した。
「落ち着け!何を見た!厳冰の本隊の位置か!」
斥候の一人が、震える声で報告した。
「は、はい…敵の…敵の本隊の動きです。我々は、深追いをせず、森の奥深くを避けて、偵察しておりました。そこで…見ました。玄岳国軍の大部隊が…飛砂関へ、全速力で向かっているのを…!」
斥候の、息も絶え絶えであったが、その内容は衝撃的であった。
「飛砂関…!?」
荀厳の心臓が、激しく鼓動した。彼は、すぐさま戦況図に目を走らせた。飛砂関は、この戦においての、衛国の最も重要な関所であり、ここが落とされれば、それはすなわち、衛国の王都、天都まで到達できることを意味していた。
「馬鹿な…!厳冰め、なぜここで飛砂関を…!」
荀厳は、瞬時に思考を巡らせた。
「まさか…!これは....!」
荀厳は、雷鳴が頭を貫いたような感覚に襲われた。彼の脳裏で、これまでの状況が、一筋の線となって繋がった。
「中央の戦場から、飛砂関を狙っていたわけではない!元々、この右翼から、飛砂関を落とすつもりであったか....白狼山脈は、道が単純故に、行軍速度を最大まで出せる。さらに、森や林が広がり、行軍する軍が隠れやすい。くそっ....!」
荀厳の分析は、理路整然としていた。
厳冰は、白狼山脈の地形を最大限に利用し、荀厳軍の動きをゲリラ戦で封じつつも、荀厳軍をじりじりと、自然に、開戦時の布陣場所から、遠ざけていった。
このゲリラ戦の目的は、衛国軍を疲弊させることではなく、敵の注意を森の奥に引きつけ、自軍の移動を隠すことであった。
白狼山脈の単純な道は、大軍の行軍に適しており、秘匿性も高かった。
「厳冰め…!ゲリラ戦を囮とし、右翼の単純な地形を飛砂関への奇襲路として利用したのだ!我々が森の奥に引きつけられている間に、本隊を、我らの本陣から堂々と、飛砂関に行軍させたのか…!」
荀厳は、自らの判断の遅さを呪った。
そして、功名心が邪魔をし、森の罠に時間を浪費したことを悔いた。
「このままでは、飛砂関が落ちる!全軍、飛砂関へ急行せよ!」
「お待ちください、将軍!」
副将の朱鋒が、青ざめた顔で進み出た。
朱鋒は、荀厳が撤退を決めた時から、どこか違和感を覚えていた。彼は、玄岳四堅の厳冰が、衛国軍の主力を無視して、関所という二次的な目標を狙うという策に、違和感を拭えずにいたのだ。
「将軍。斥候の報告は、真実でしょう。しかし、厳冰の真の狙いが飛砂関にあるならば、なぜ彼らは、我々の軍を完全に殲滅しようとしないのですか?厳冰は、確実性を重んじる将です。我々を置き去りにして関所を攻めても、我々が背後から追撃すれば、挟み撃ちに遭い、関所を落とすどころか、壊滅します」
彼の冷静な指摘は、荀厳の熱くなった頭に一瞬の冷水を浴びせた。
「朱鋒…!では、貴様は何を言いたい!」
「将軍!飛砂関は囮です!厳冰の真の狙いは…我々の本陣です!」
朱鋒の言葉は、斥候からの報告と、荀厳の確信を完全に否定した。
朱鋒は、戦況図を指差しながら、緊迫した声で続けた。
「厳冰は、飛砂関に向かうという偽の情報を流し、将軍の功名心と、飛砂関の重要性を利用しようとしています。将軍が飛砂関へ向かえば、この本陣の守備は手薄になる。そして、彼らが真に狙っているのは…この本陣です!ここを取られれば、我らの軍は、玄岳国軍から、常に、目視されます!」
「馬鹿な…厳冰が、そこまで…!」
荀厳は、手のひらに汗を握り、全身が震えるのを感じた。
自分が、敵の掌の上で踊らされていたことを悟っていた。
しかし、斥候の報告と、飛砂関を失うことの重みが、彼の理性と功名心の天秤を、再び傾けさせた。
(朱鋒の言は正しいかもしれぬ。だが、飛砂関が落ちれば、我々は中央から孤立する。そして、飛砂関が囮であったとしても、敵の一部は確実に飛砂関に向かっている…!もし、両方が真実であったら…!飛砂関を放棄する選択肢は、衛国を危険に晒す!)
荀厳は、最悪の選択を避けるために、最も安全に見える道を選ぶしかなかった。
彼は、朱鋒の警告を完全に無視することはできなかったが、飛砂関の重要性を前に、本陣の安全を賭けることしかできなかった。
「朱鋒!そなたの警告は心に留めておく。しかし、飛砂関の防衛こそが、右翼の死守に繋がる!」
荀厳は、朱鋒の顔を見ることなく、苦渋の決断を下した。
彼の心は、功名心と、国を守るという大義、そして裏切られた知性の間で、激しく引き裂かれていた。
彼は、すぐさま飛砂関への急行を決めた。
「郭慎、そしてその副将である、趙静と周義の部隊、計一万を本陣に残す!そなたらは、磐石の守りをもって、この本陣を死守せよ!それ以外の全軍は、俺と共に、飛砂関に急行する!朱鋒、そなたも、本陣に残り、なにかあれば、すぐに報告せよ!」
荀厳の瞳には、焦燥と決意が入り混じっていた。彼は、朱鋒の警告を振り切り、運命の選択を下した。
朱鋒は、唇を噛みしめ、無念の思いで、荀厳の背中を見送った。
彼は、主君の誤った判断が、一万の兵と、右翼全体の運命を決めてしまうことを予感していた。
荀厳軍の大部隊は、白狼山脈を縫うように、飛砂関へと猛烈な速度で向かい始めた。馬蹄の音は、山間に轟音を響かせ、荀厳の焦燥をそのまま表していた。
行軍中、荀厳は、朱鋒の警告を何度も頭の中で反芻していた。
(厳冰の真の狙いは、郭慎の一万…。しかし、もし厳冰が二手に分かれていたとしたら?一部は飛砂関を抑え、残りが本陣を叩く…。飛砂関が落ちることの重大さに比べれば、本陣を郭慎という名将に任せる方が、まだ勝機がある…!)
荀厳は、自らの判断を正当化しようとした。
郭慎は、防御戦においては、衛国でも指折りの将であった。一万の部隊と、本陣の堅固な柵があれば、数日は持ちこたえられるはずだ、荀厳はそう判断した。
「全速力を維持しろ!」
荀厳は、部隊を鼓舞し続けた。彼の心は、不安と期待の狭間で揺れ動いていた。
もし、飛砂関に敵がいなければ、朱鋒の言が正しいことになる。しかし、敵がいれば、彼は国家の危機を救った英雄となる。
行軍の速度は、限界に達していた。
兵士たちは、汗と泥にまみれ、歯を食いしばって主君に付き従った。彼らの目には、飛砂関を死守するという大義しか見えていなかった。
荀厳軍は、ついに飛砂関の巨大な城壁の前に到達した。
そこは、静寂に包まれていた。
関所の門は固く閉じられ、衛国兵が厳重に警備している。しかし、戦闘の痕跡はどこにもない。血の匂いも、火薬の匂いも、怒号の残響も、何一つとして感じられなかった。
荀厳は、馬を止め、関所の前に立ち尽くした。
彼の心臓は、鉛のように重くなった。
「…馬鹿な…」
荀厳の声は震えていた。斥候の報告は、真実であったはずだ。
玄岳軍は、この場所へ向かっていたはずだ。なぜ、敵の姿がない?
関所の衛兵長が、慌てて門を開け、荀厳の前に跪いた。
「荀厳将軍!なぜ、これほどの兵で…何か異常が…?」
荀厳は、衛兵長の純粋な疑問に、言葉を失った。異常は、衛兵長ではなく、自分自身に起こっていたのだ。
「敵は…玄岳軍は、ここで戦おうとはしなかったのか…?」
衛兵長は、困惑の表情で首を振った。
「将軍。昨日より、この関所の周辺には、一匹の獣の姿も、一人の敵兵の姿もございません。何も…何も起こっておりません」
何も起こっていないという衛兵長の言葉は、荀厳にとって、天地がひっくり返るほどの衝撃であった。彼の必死の行軍は、無駄であった。朱鋒の警告は、真実であった。
その瞬間、荀厳軍の後方から、一人の武将が、全速力で馬を走らせてきた。
それは、本陣に残したはずの、朱鋒であった。
彼は、顔面蒼白で、恐怖に満ちた叫びを上げた。
「将軍!罠です!罠に嵌りました!」
朱鋒は、馬から飛び降りるや否や、荀厳の腕を掴んだ。
「将軍!直ちに本陣へ!私が斥候の報告の真意に気づいたのは、貴方がここへ向かった直後です!」
荀厳は、虚ろな目で朱鋒を見つめた。既に、全てを悟っていた。
「…朱鋒。そなたは、全てを理解していたのだな…」
朱鋒は、涙を流しながら、声の限りに叫んだ。
「飛砂関への情報も、厳冰の罠です!彼らは、行軍する姿を意図的に見せ、将軍をここに誘き寄せたのです!真の狙いは…本陣の郭慎と、趙静、周義の部隊、計一万です!」
林堅は、震える指で、戦況図を広げた。
「将軍!厳冰の軍は、二手に分かれていました。一部は、行軍の様子を見せる囮部隊として飛砂関へ向かい、残りの本隊は、山中深くに身を潜めたまま、将軍の動きを待っていたのです!」
荀厳は、激しい頭痛と、全身を貫く後悔に襲われた。
彼の功名心が、一万の忠実な兵と、衛国の右翼の要を危険に晒した。
「厳冰は、やはり、俺の心の中の焦燥と、飛砂関の重要性という大義を利用したのだ…!」
朱鋒は、荀厳の前に跪き、最後の懇願をした。
「将軍…!郭慎将軍は、厳冰の猛攻を、一万の部隊で受け止めているでしょう!このままでは、郭慎将軍も、趙静も、周義も…全滅します!急ぎ、全速力で本陣へ…!」
荀厳の顔色は、死人のように青ざめていた。
彼は、一万の兵を置き去りにして、偽の戦場へと全速力で向かったのだ。彼が本陣に戻る頃には、全てが終わっているかもしれない。
「…全軍!反転!全速力で本陣へ戻る!一刻を争う!一兵たりとも、立ち止まることは許さぬ!」
荀厳の怒号は、白狼山脈の静寂を切り裂き、飛砂関の城壁に虚しく響いた。
彼は、自らの誤った判断が招いた悲劇を、血の代償として償うべく、絶望的な帰還の道を辿り始めた。
本陣に残された郭慎軍一万の運命は、今、厳冰の冷徹な知略と、白狼山脈の闇の中に、孤立無援のまま投げ込まれていた。




