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#1-30 終焉

白狼山脈の奥深く、急峻な木々の列が途切れた場所に広がる台地。

志文しぶんは、愛用の血に濡れた薙刀を馬の鞍に預け、玄岳国軍げんがくこくぐん総帥・雷鋒らいほうと静かに向かい合っていた。

志文の背後には、林業りんぎょう率いる六千騎の残存兵。

彼らは、文衡ぶんこうとの連日にわたる死闘、そして瞭商りょうしょうを討ち取った際の消耗により、もはや兵としての形を保っているのが奇跡であった。

鎧は砕け、兜は割れ、その全身は血糊と土埃で覆い尽くされていた。兵士たちの瞳の奥には、疲労と極限の状況が作り出した狂気にも似た闘志の炎が揺らめいていた。

彼らの力の源は、指揮官・志文への狂気の忠誠心と、勝利への執念ただそれだけであった。

夜叉やしゃは、瞭商を討ち果たした際の深手により、林業の非情な判断で、本陣へ急送されていた。

志文は、この最終局面に、夜叉の命を賭けることはできなかった。ゆえに夜叉を、本陣に残すように、林業に言い含めていた。

林業曰く、夜叉は、歯がゆそうにしていたようだが、これ以上、葉迅の二の舞になることは避けたかった。

対する雷鋒の隊は、精鋭八千騎。

文衡の隊とは比べ物にならない練度と統率力を保っていた。彼らの鎧はまだ輝きを失っておらず、その表情には緊張の色はあるものの、動揺は見られない。玄岳国軍の最高の知将と、最後の希望が、ここに集約されているようであった。

雷鋒は、馬上で静かに志文を見つめていた。彼の知略は、常に大局を見据え、最も安全で確実な勝利を追求してきた。しかし、目の前の志文の存在は、彼の築き上げた知の城壁を、根底から揺るがし始めていた。

(志文……貴様は何故、ここで立ち止まる?文衡との死闘を制し、鉄豪てつごうの追撃が迫っているこの状況で、何故逃げぬ?……いや、これは罠だ。私が深追いを恐れるのを知っている。だからこそ、この場で堂々と対峙することで、私の疑念を最大化させようとしているのだ)

雷鋒の布陣は、彼の知略の結晶であり、二重の罠を仕掛けていた。

雷鋒は、中央を最も厚くし、志文の正面突破を防ぐ。そして左翼もまた、林業との連携による側面攻撃を警戒して兵を集中させていた。しかし、右翼は意図的に兵を少なく配置していた。

これは、後方から必ず鉄豪の来援があることを確信し、右翼の薄さを囮にして志文の本命の突撃を誘うためであった。

(志文は、私が右翼を鉄豪の来援に任せて薄くしていると読んでいるはずだ。故に、最も戦果を挙げやすい右翼を突く。そこを鉄豪と挟撃し、志文の狂気を終わらせる。これが、最も確実な策だ)

だが、雷鋒は、志文の知略の非情さも、また、警戒していた。

(しかし、志文は「知」ではなく「狂気」で動く。私が右翼を警戒していると知れば、私が最も警戒している左翼を突いてくる可能性もある。奴の目標は、私を討ち取ること。それには、鉄豪が来る前に、突破口を開かねばならぬ。その突破口として、私の裏の裏を読み、左翼を選ぶやもしれぬ)

雷鋒は、志文の行動を二つの可能性に絞り込み、どちらを選んでも志文を殲滅できる策を準備していた。

志文は、雷鋒の陣形を一瞥し、その二重の罠の存在を瞬時に見抜いた。

雷鋒の目は、右翼の薄さを意識し、そして左翼の厚さを隠そうとしている。

(雷鋒は、文衡とは知の深さが違う。奴は、私が右翼の裏をかき、左翼を突くと読んでいる。ならば……)

志文は、最も非情な選択、すなわち自分の隊の殲滅を前提とした策を選んだ。

「林業!全隊を率いて、中央へ突撃せよ!深々と食い込め!雷鋒の全ての注意を中央に引きつけろ!」

林業は、中央が最も厚い壁であることを知っていた。中央への突撃は、決死隊を意味する。しかし、志文の瞳に宿る勝利への狂気を見て、林業はそれ以上の言葉を飲み込んだ。

「承知。お任せを」

「皆、よろしく頼む」

林業は、残存兵を鼓舞し、彼らの疲労の極限にある身体に、最後の力を呼び起こさせた。

林業が鼓舞することも稀であったが、それ以上に、戦場で、自身の隊を気にかけることは、初めてであった。

彼らの雄叫びは、文衡軍との死闘で失った仲間たちへの慟哭を込めた、悲痛な咆哮であった、そしてなにより、「頼む」という林業の鼓舞は、爆発的に士気を高めた。

「我らは、志文様の道となる!我らの命を、雷鋒に届けるのだ!なにより、殿が、『頼む』と仰ったのだ!今、やらずして、いつやるか!」

林業は、自らの隊を率いて、雷鋒軍の中央、最も厚い陣へと、その薙刀を突き立てるように向かった。

その突撃は、生者の突撃というよりも、死者の怨念が具現化したような、凄まじいものであった。

そして、志文自身は、残りの寡兵を率いて左翼へ突撃した。彼の狙いは、林業の死闘が雷鋒の注意を中央に集中させている一瞬の隙に、左翼を突破し、雷鋒の首を取ることであった。

(林業……すまぬ。貴様の命を、この狂気の賭けに捧げさせる。だが、この血でしか、雷鋒を討つことはできぬ……!)

林業の隊が中央に突撃した瞬間、雷鋒は、志文が左翼を突いたのを見て、自分の知略の勝利を確信した。

「左翼の部隊、予定通り、包囲せず後退し、中央陣に組み込め!中央をさらに厚くせよ!」 「中央軍、三千を右翼へ!林業の隊を分断せよ!」

雷鋒の指示は、一寸の狂いもなかった。

志文の隊は、左翼の部隊に加え、中央の部隊の増援軍により、最も、厚い部分に深く突き刺さる形となった。そして、林業の隊は、中央の壁に加え、右翼からの増援軍により、完全に志文の隊と分断され、孤立無援となった。

雷鋒の策は、完璧な各個撃破の態勢を完成させたのだ。

雷鋒は三隊から成ると、志文に思わせたが、その実、二隊に再編成し、各個撃破を狙っていたのだ。

林業の隊は、中央陣に食い込んだまま、地獄のような乱戦に巻き込まれていた。玄岳国軍の精鋭たちは、林業の疲弊した隊を、組織だった連携で、一歩一歩、確実に潰していく。

「林業!貴様の隊は、ここまでだ!玄岳国軍の堅陣を、貴様らの寡兵で崩せると思うな!」

林業は、自らも薙刀を振るいながら、周囲の兵を鼓舞していた。

彼の体はすでに限界を超えていたが、彼には、志文の策を成功させるという、最後の忠義があった。

「死力を尽くせ!」

林業の隊の兵士たちは、次々と玄岳国軍の槍に貫かれて倒れていった。

彼らは、倒れる瞬間まで、武器を放さず、敵の足首を掴み、道を開こうとした。

(志文様……必ずや、我らの命を、雷鋒の首へと....)

林業は、敵将の剣を体で受け止めながら、叫び続けた。

彼は、自身の隊が殲滅されるまでの数刻が、志文にとって突破のための唯一の時間だと知っていた。

一方、志文の隊も、中央陣の側面からの一斉攻撃に晒され、壊滅寸前に陥っていた。

「志文様!もう、持ちません!撤退を!」

「俺が持たせる!」

志文は、血まみれの薙刀を振るい、獣のように咆哮した。彼の武は、既に人間の領域を超えていた。彼は、生への執着を捨て、ただ勝利という名の終結へと向かっていた。

しかし、志文は、林業の隊が殲滅される寸前、そして自身の隊も崩壊する寸前で、最後の非情な判断を下した。

志文は、自隊が包囲されず、中央の陣の側面攻撃に晒された瞬間、突撃を即座に停止した。

雷鋒の知略が、この戦場での突破を完全に封じたことを悟ったのだ。

「林業!全軍、撤退だ!直ちに戻れ!」

志文は、林業の隊の殲滅という最悪の結末を避けるため、非情な撤退を選んだ。

林業の隊は、中央陣に深く食い込み、まさに地獄の最中にあった。その指示は、林業の覚悟を裏切るものでもあった。

しかし、林業は、その指示に安堵の表情を浮かべた。

(殿は、策を思いつかれたのか.....我らは、また殿に、生かしていただいたのか……!不甲斐ない....)

林業は、中央陣に食い込んでいた隊を、血の海から決死の覚悟で引き抜き、志文の隊と合流した。

彼らは、雷鋒の隊が、追撃を開始する暇を与えることなく、山の木々の陰へと、完璧な組織力で消えていった。

雷鋒は、馬上で全身の血が引くのを感じた。

「……あり得ぬ。あのまま戦えば、林業の隊は必ず殲滅できた。何故、あのような迅速さで、戦線から離脱できた……?志文め……貴様の真の狙いは何だ?」

雷鋒の隊は、茫然として追撃をためらった。

志文と林業の隊は、まるで最初からこの撤退を計画していたかのように、完璧に、そして整然と姿を消したのだ。

雷鋒の頭には、志文の策の裏という、新たな、そして深遠なる疑惑が湧き上がっていた。

(罠か?私が追撃に出れば、林業の隊がどこからか飛び出してくるのか?いや、奴の隊に、もう伏兵を置く余力などあるはずがない。それでも、奴の知略は、常に私の心理の裏をかく……)

雷鋒は、最も安全な選択を選んだ。追撃せず、陣を固める。志文の隊は、雷鋒の目の前から完全に消え去った。

志文の隊の姿が消えて間もなく、雷鋒の背後から、怒涛の喚声と共に増援が到着した。

「雷鋒様!鉄豪様を連れ、陣護じんご要亥ようがい、参りました!」

雷鋒の隊に、戸尖こせん兎機ときの残党、そして鉄豪率いる部隊、さらに常風じょうふう天厳てんげんの隊が加わった。総勢一万五千。玄岳国軍の残された全てが、ここに集結した。

しかし、その合流部隊の様子は、絶望的な光景であった。

「鉄豪!貴様、その傷は一体……!」

雷鋒が馬上で身を乗り出して叫ぶと、鉄豪は深手を負った胸元を固く押さえながら、血と汗に塗れた顔で雷鋒を見上げた。

衛射えいしゃの一矢は、彼の心臓のすぐ下を貫き、鉄豪はまさに生きているのが不思議なほどの深手を負っていた。

彼は、陣護と要亥に両脇を支えられ、馬上に留まっているのが精一杯の状態であった。その顔色は青ざめており、今にも意識を失いそうであった。

「面目ない……雷鋒殿……汪盃を討ち、志文を追うことが……できなかった……」

鉄豪の謝罪の言葉は、痛みに途切れ途切れであった。

彼の瞳には、己の不甲斐なさに対する、深い屈辱と絶望が宿っていた。

雷鋒は、鉄豪の姿を見て、全身の血が凍るのを感じた。

文衡の敗死、そして鉄豪の深手という、想像を絶する事態が、彼の心に重くのしかかった。

雷鋒は、陣護と要亥を呼び寄せ、戦況の確定を急いだ。

「汪盃の隊はどうした?そして志文の隊は、真に撤退したのか?」

陣護と要亥、常風と天厳の報告は、一致していた。

汪盃の隊は本陣まで一気に撤退。宋燕そうえん姜雷きょうらい衛射えいしゃの三将もまた、汪盃に従い、撤退、

志文の隊もまた、完全に山脈の奥深くへと姿を消した、と。

雷鋒は、静かに目を閉じた。彼の脳裏には、この数日の間の凄惨な戦果が、走馬灯のように駆け巡っていた。

(羅仁、軽堂、仁央、流蕭、瑛武、潘策、臥延、剛土、壁山、瞭商、そして文衡……なにより鉄豪の重傷....玄岳国軍が失ったものは、あまりにも大きい。志文は、文衡を討ち、鉄豪に深手を負わせ、戦略的な勝利を収めたのだ。これ以上の流血は、玄岳国軍の未来を断つことになる……)

雷鋒の知略は、常に大局を見据えていた。

ここで志文や汪盃を追撃し、殲滅したところで、玄岳国軍の残存兵力はさらに削られる。

雷鋒は、「将」ではなく「総帥」として、最も非情な決断を下した。

「……よかろう。これ以上の流血は無意味だ。全軍に撤退を命令する。ただちに本国へと戻る」

雷鋒は、苦渋に満ちた表情で、将たちに最後の命令を下した。

彼は、自らがこの戦いの敗戦の責任を負い、総帥の座を鉄豪に譲ることを心に決めていた。鉄豪は深手ではあるが、その武と統率力は玄岳国軍の再建に不可欠であった。

「陣護、要亥、常風、天厳、戸尖、兎機!重ねて誓え!志文たちと汪盃たちが、完全に、一兵たりとも残さず撤退したことを!もし、一欠片でも疑念があるのなら、私は撤退せぬ!」

雷鋒は、将たちの顔を一人一人見つめた。

将たちは、雷鋒の言葉の重さに、沈痛な面持ちで、再度確認を終えた。

「すでに志文らや汪盃らは本陣に戻っているようです」

その報を聞くと、雷鋒は、深く、長い溜息をつき、自軍を山脈の道へと向けさせた。

玄岳国軍の残存部隊は、山道へと足を踏み入れた。

山道は狭隘なため、軍は縦に長く伸びた行軍隊形となっていた。

雷鋒は、最前列を歩いていた。

彼の背中には、玄岳国軍の全責任と、散った友たちの忠誠心が重くのしかかっていた。

彼の瞳は、遠く故郷の空を捉えていた。

(……皆……すまぬ。貴様らを守り切れなかった。私は、軍を守り抜くことを信条としてきた。だが、守りきれなかったのだ。私の武も、知も、奴の狂気の策の前には無力であった)

雷鋒は、自らの余生を、散った将たちの墓前で弔いに捧げることを決意していた。

(この撤退が、玄岳国軍を救う。鉄豪は必ずや、この敗戦から立ち直り、国を護ってくれるだろう。そして、私は、この知略の敗北の責を、一生をかけて償うべきであろう……)

雷鋒の思考が、未来への道筋を定めていた。

その頃、志文は、ただ一人、林に身を潜めていた。彼の全身は、文衡との死闘の傷で痛み、極度の疲労に襲われていたが、彼の瞳は、獲物を狙う鷹のように、一点の曇りもなく、雷鋒の隊列を見つめていた。

志文の目的は、勝利ではない。終結であった。

雷鋒を討ち取ることで、この戦いを、不可逆の終結へと導くこと。

志文は、最後の力を、両腕に込めた。弦が軋む。

雷鋒は、不気味な予感を感じ取っていた。

雷鋒の頭の中は、志文の撤退劇を考えていた。

(鉄豪が負傷した時点で、撤退するのが、最も損害が少なかったはずだ。なぜ、わざわざ、私と、一戦交えたのだ.....)

不意に、背筋が凍るような心地がした。

(奴は、撤退していないのではないか....私の首を取るために、あの一戦をしたとしたら....まさか...)

雷鋒が、本能的に馬上で体を捻ろうとした。彼は、将兵に「罠だ!」と叫ぼうとした。

しかし、その声は、喉の奥に詰まった。

ヒュッ、と空気を切り裂く、乾いた音。

志文のはなった弓は、一切の迷いもなく、正確に、雷鋒の心臓を貫いた。

それは、完璧な一矢であった。

「ッ!!!」

志文は、隊を林業に預けて、自身の影武者と共に、本陣へ向かわせた後、志文ただ一人が、この山中に潜み、雷鋒の撤退を、一刻以上にわたり、じっと待ち続けていたのだ。

「あ……あぁ……皆……すまぬ……」

雷鋒は、馬上で大きく前のめりになり、そのまま血飛沫を上げながら、崩れ落ちた。

彼の瞳は、絶命の直前、志文の潜んでいた木の陰を捉えていた。

その瞳に浮かんでいたのは、怒りでも、恨みでもなかった。それは、将として、総帥として、そして知者として、志文の策を見抜けなかった、自らの敗北を静かに受け入れる、深い諦念であった。

彼は、志文の狂気の忠誠心と、非情な実行力に、自らの敗北を認めたのだ。

(貴様を……討ち損じた……私の……負けだ……)

雷鋒の魂は、彼が命を賭して守ろうとした玄岳国軍の残兵たちの目前で、静かに、そして悲劇的に、友のもとへと還っていった。

玄岳国軍総帥 雷鋒戦死。

志文は、その血に塗れた弓を、まるで使い捨ての道具のように投げ捨てると、その場から霧のように消え去った。

彼の顔には、勝利の笑みも、達成感もなかった。あるのは、全てを賭けて戦いを終わらせた者の、深い虚無だけであった。

「雷鋒様ーーーーーッ!!!」

雷鋒の近衛兵たちの、天を衝くような悲痛な慟哭が、静まり返った山脈に、永遠に響き渡るかのように轟いた。それは、玄岳国軍の敗北と、崩壊を告げる、最後の悲鳴であった。


雷鋒らいほうが討たれた瞬間、白狼山脈の隘路に、張り詰めていた鋼の糸が切れるような、絶望的な静寂が訪れた。

その静寂を打ち破ったのは、雷鋒の近衛兵たちの、天を衝くような悲痛な慟哭であった。彼らの叫びは、もはや戦意の表明ではなく、国を支える大黒柱を失ったことに対する、純粋な、そして抑えようのない悲嘆であった。

玄岳国軍の兵士たちは、前列で何が起こったのかを理解できないまま、ただ総帥の馬から崩れ落ちる姿に戦慄し、その場で立ち尽くしていた。

最前列にいた陣護じんご要亥ようがいは、その場で馬を降り、血の海に倒れ伏す雷鋒の傍らに駆け寄った。陣護は震える手で雷鋒の首筋に触れた。脈はなかった。

心臓を正確に射抜かれた一撃は、雷鋒に一瞬の苦痛すら与えることなく、その命を奪っていた。

「……陣護、総帥は……」要亥は、声にならない声を絞り出した。

陣護は、雷鋒の静謐な顔を覆い、深く息を吸い込んだ。彼の顔は、瞬時に悲嘆から冷徹な判断へと切り替わった。

(伯志文!奴は、我々が撤退を確信した上で、ただ一人潜んでいたのだ!この隘路で総帥が討たれた……この報せが全軍に知れ渡れば、玄岳国軍はここで崩壊する!)

陣護は、総帥の死という絶望的な事実を、瞬時に秘匿する決断を下した。

「要亥!聞け!総帥は、深手を負われた!ただちに鉄豪てつごう様のもとへお運びする!誰であろうと、総帥の死を知らせるな! これは、総帥の最後の命令である!」

陣護は、雷鋒の遺体を布で覆い、手早く担架に乗せ、「総帥重体」として、隊列のさらに後方へと運び去るよう命じた。

この判断は、玄岳国軍を崩壊から救う、冷徹な非情の決断であった。

隊列の後方で、深手を負いながらも馬上に留まっていた鉄豪は、雷鋒の遺体が運ばれてきた報せを受け、戦慄した。

彼の傷口が再び開き、激しい痛みに襲われたが、彼はそれを歯を食いしばって耐え抜いた。

「陣護!総帥は……!?」 陣護は、鉄豪にだけ真実を告げた。その瞳には、涙が溢れていたが、声は冷たかった。

「鉄豪様。総帥は……志文の一矢により、討たれました。心臓を貫かれ、即死です。しかし、この事実が露見すれば、軍は間違いなく瓦解いたします。今、総帥の死を公表すれば、我々全員が、衛国軍の追撃、何より、他国からの侵攻により、殲滅されます!」

鉄豪は、一瞬、全てを投げ出し、雷鋒の仇を討つために引き返そうと考えた。

しかし、彼の脳裏に、雷鋒が常々語っていた「将たる者は、勝利よりも軍を守り抜け」という言葉が蘇った。

(雷鋒殿……貴方の死を、無駄にはせぬ!この一万五千の兵こそが、玄岳国の最後の財産なのだ!)

鉄豪は、自らの心臓を抉るような痛みを無視し、全軍へ威厳ある声で命令を下した。

「聞け!総帥は重傷!直ちに本陣へ向かい、治療を施す!全軍、速度を上げよ!遅滞なく撤退を完了せよ!」

この鉄豪の非情な決断と、陣護、要亥ら将たちの徹底した情報統制により、玄岳国軍は総帥を失ったにも関わらず、奇跡的に隊列を崩すことなく、白狼山脈からの撤退を完了させた。

常風じょうふう天厳てんげんは、後方で衛国軍の追撃がないことを確認し、最後の兵が山脈を抜けるまで、その場を動かなかった。

かくして、玄岳国軍は総帥を失うという代償を払いながら、軍の本体を温存したまま、この戦場から姿を消した。

雷鋒の撤退が確認されてから、数刻後。

夜の帳が降りた白狼山脈の麓で、志文は、霧のように山中から戻ってきた。

彼の顔には、疲労の色を超越した、深い虚無が宿っていた。

林業の隊は、汪盃おうはいの隊とすでに合流を果たしていた。

林業たちは、志文の帰還を待つ間、汪盃にこの戦いの全て、文衡の死、鉄豪の深手、そして雷鋒の撤退を伝えていた。

汪盃は、志文の狂気がもたらした想像を絶する戦果に、ただ言葉を失っていた。

「殿!」

林業は、志文の姿を見つけ、駆け寄った。

「林業。汪盃殿に伝えよ。雷鋒は、討った」

その一言は、汪盃、林業、そして集まっていた将たちの間で、稲妻のように駆け巡った。

「な、何と……!雷鋒を、討っただと……!?」

汪盃は、信じられないという表情で志文に詰め寄った。志文の顔は、あまりにも静かで、嘘を言っているようには見えなかった。

「汪盃殿。私の隊は、林業の隊と合わせて六千騎。汪盃殿の隊は、我々が山脈に入る前に、三千騎ほどが残っていたと聞く。合わせても一万に満たぬ寡兵です。対して玄岳国軍は、鉄豪の援軍を含め一万五千。我々に勝ち目はありませんでした」

志文は、静かに語った。 「しかし、我々は文衡を討ち、鉄豪に深手を負わせ、そして総帥雷鋒を討ち取りました。玄岳国軍は、中核の将を全て失いました。鉄豪がいるとはいえ、その傷は深く、軍の統率はしばらく不可能でしょう」

志文は、天を仰いだ。冷たい夜風が、彼の顔を撫でる。

「これ以上の追撃は、無意味であり、危険です。我々の兵も、極限まで疲弊しています。この戦いは、ここで、衛国の勝利として、幕をひくべきです。」

汪盃は、その場に集結していた志文や林業らの隊、そして汪盃配下の将兵、総勢約九千の全てに対し、声高に宣言した。

「これをもって、白狼山脈における戦役は、衛国軍の完全なる勝利にて終結とする!」

その瞬間、将兵たちの間から、堰を切ったような歓声が上がった。

彼らの歓声は、勝利の雄叫びであると同時に、死の淵から生還したことへの安堵の叫びでもあった。

彼らは、志文の狂気的なまでの勝利への執念と、非情なまでの知略によって、生き残ることができたのだ。

汪盃は、志文の背中を見て、畏敬の念を抱いていた。

(志文殿は、将の領域を超越している。彼の思考は、勝利のみならず、戦いの終結を見据えている。文衡、雷鋒という二人の大将を討ち取り、戦いを終わらせた……これは、まさしく伝説となる戦果だ!)

汪盃は、志文の判断に従い、全軍に即刻の休息と、王都への凱旋準備を命じた。

全軍が休息に入り、静寂が戻ったとき、志文の脳裏に、青い光と共に、システムからの通知が響いた。

———システム通知:スペシャルミッション達成———

目標: 白狼山脈の戦いにおいて、総帥・雷鋒を討ちとること

期限: 戦闘開始から九日目を迎えるまで

報酬: 地球帰還時、固有アイテム を獲得。

失敗ペナルティ: 帰還までの全てのステータス上昇の無効化。


通知が消えると、志文は深く息を吐いた。彼の心は、一つの答えに辿り着いていた。

(「武人の熱」……そうか....この戦い、勝利をもたらしたのは、知略や武力だけではない。己と配下に宿った、命を懸けた狂気と執念、それこそが、この勝利の本質だ....)

志文は、この戦いを通して、「武人の熱」という、数値化できない魂の力を明確に認識していた。

それは、韓毅かんきが負傷を押して最後の力を振り絞り、文衡の堅陣に穴を開けた瞬間の鬼気迫る表情であり、それは、夜叉やしゃが深手を負いながらも、最後まで志文の傍らを離れず、敵兵を薙ぎ倒し続けた静かなる忠誠心であり、そして、それは、林業が殲滅を前提とした中央突撃に、一言も不満を言わず、忠実に己の命を捧げようとした****純粋な覚悟でもあった。

志文自身も、雷鋒を討ち取るために、撤退という常識を捨て、ただ一人山中に潜むという、狂気の行動を選んだ。

(あの時、俺は計算を捨てた...ただ雷鋒を討つという狂気の執念に突き動かされていた。それが、雷鋒の知略を上回ったのだ...武人として、兵を率いる者として、論理を超越した熱量が必要なのだと、この戦いが教えてくれた)

数日後、衛国軍の残存兵たちは、白狼山脈を抜け、王都へと凱旋した。その報せは、すでに王都中を駆け巡っており、門前には、数万の人々が集まり、歓喜の声を上げていた。

衛国軍は、国境線の要衝を失う危機に瀕していた。

しかし、狂気の戦果により、文衡、雷鋒という玄岳国の二大巨頭を失ったため、今や、戦況は一気に衛国の優位へと傾いていた。

人々にとって、志文は国を救った英雄そのものであった。

王都を練り歩く志文の隊に、歓声と祝福の声が降り注ぐ。

兵士たちは、その歓声に、これまでの死闘の労苦が報われたことを感じ、涙を流しながら、誇らしげに胸を張った。

凱旋から三日後、志文は王宮へと召集された。国王臨席のもと、昇格の儀式が執り行われた。

「伯志文。貴官は、白狼山脈戦役において、寡兵を率い、玄岳国総帥雷鋒を討ち取り、戦局を完全に衛国の優位に導いた。その功績、測り知れない」

衛徳王の声は、力強く、感動に満ちていた。

「よって、貴官を三千人将に昇格させる。これは、若輩の貴官に与えられる最高の栄誉である。今後も、衛国の柱石として、尽力せよ」

志文は、静かに跪き、国王の言葉を承った。

彼の心には、昇格の喜びよりも、この戦いで散った多くの兵士たち、そして夜叉や林業といった配下たちの覚悟への感謝の念が強かった。

(三千人将。この地位が、私に新たな力と責任を与える。この力で、妹たちと、そして衛国の人々を守り抜くのだ)

昇格後、志文は、広大な屋敷を与えられ、新たな居で生活を始めることになった。

戦いが終わり、志文は、平穏な日常に還っていた。

屋敷に戻った志文を、妹の月華と雪華が、涙ながらに抱きしめて迎えた。

「お兄様!よくぞ御無事で!隊の方々から、話を聞きました。もう、二度とあんな危険な真似はしないでください!」

月華は、兄の鎧に残るかすかな血の匂いに、震えながら訴えた。

雪華もまた、志文の腕にしがみつき、言葉を詰まらせた。

「おにぃさまぁ……剣術の稽古をつけてほしいのぉ。雪華がね、おにぃさまを護るの!」

志文は、二人の妹を抱きしめ、戦場での殺伐とした記憶を、温かい日常の感覚で洗い流した。

「ああ、もう大丈夫だ。危険な真似は二度としない。しばらくは、この王都で、ゆっくりと過ごせる。月華、雪華。心配するな。そなたたちは俺が護る」

志文の日常は、戦場とは対極の穏やかさに満ちていた。

朝、妹たちと共に、庭園で日の出を眺める。月華は書を読み、雪華は花に水をやる。

志文は、妹たちが発する純粋な笑顔と安堵の気配に、平和の価値を再認識していた。

戦場での勝利は、全てこの穏やかな日常を守るためにあったのだと。

彼は、妹たちのために、自ら腕を振るい、素朴な料理を作ることもあった。

雪華は、志文の料理を「この世で一番美味しい」と褒め、月華と胡麗は、志文の隣で、可笑しそうに笑う。

その光景こそが、志文にとっての最大の報酬であり、武人の熱を静かに燃やし続ける燃料であった。

(この平穏を、何者にも奪わせてはならぬ。雷鋒殿が命を懸けて軍を撤退させたように、私もまた、将としての責任を果たすのだ)

ある午後、志文は、情報局から戻った胡麗に、戦後の状況と他国の情報を聞いていた。

胡麗は、衛国の情報網を司る、志文にとって最も信頼できる情報源であった。

胡麗は、艶やかな着物姿で、志文の屋敷の客間に現れた。

彼女の視線は鋭く、志文の内面の変化を見抜いていた。

「三千人将、伯志文様とお呼びした方がよろしいでしょうか?ご昇進おめでとうございます」

胡麗は、からかうように、言った。

志文は、胡麗の言葉に驚きもせず、静かに答えた。

「胡麗。俺は、武人の熱を知った。戦の勝敗は、計算だけでは成り立たぬということだ。で、玄岳国の状況はどうなっている?」

胡麗は、扇子を広げ、優雅に笑った。

「相変わらず、直球ですね。玄岳国は、総帥雷鋒の死を徹底的に秘匿しています。表向きは、『総帥は重傷の療養中』として、鉄豪殿が代理で軍を統率していると発表されています。しかし、知る者は知っています。玄岳国軍の中枢は、今、深い動揺の中にあります」

胡麗は、詳細な分析を続けた。 「鉄豪殿は、堅守においては玄岳国でも最強の一角ですが、知においては雷鋒殿には及びません。加えて、彼自身が深手を負っています。玄岳国が本格的な反攻に出るには、最低でも半年から一年は必要でしょう」

「では、他国は?」

「他国は、この白狼山脈戦役の結果に、戦慄しています。衛国の若き将が、玄岳国の二大将軍を討ち取ったという事実は、戦局を決定づけるほどの衝撃です。各国は、衛国への警戒を強め、同時にあなたの存在を恐れています」

胡麗は、静かに志文を見つめた。

「志文。あなたはこの戦いで、衛国の英雄となった。しかし、同時に、他国の最大の脅威にもなったわ。あなたの進む道は、より厳しく、より孤独なものとなるわ。だから私がそばにいてあげるわ」

志文は、胡麗の言葉を、静かに受け止めた。

孤独は恐れない。彼の心には、守るべき日常と、武人の熱という、確固たる信念が宿っていたからだ。

昇格後、志文は旧友との交流を楽しんでいた。

特に、共に戦場を駆け抜けた芳蘭ほうらん張勇ちょうゆうとは、しばしば酒を酌み交わした。

ある夜、志文は、静かな料亭の一室で、二人と向き合っていた。

芳蘭は、志文の三千人将への昇格を、心から喜んでいた。

「志文!ついにやったわね!私も、貴方のように、昇格して、いつか将軍になってやるわ!」

芳蘭は、酒を飲み干し、熱い眼差しで志文を見つめた。

張勇は、静かに微笑みながら、志文に酒を注いだ。

「志文殿の功績は、衛国史上でも稀に見るものだ。だが、私は、志文殿が無事に帰ってきてくれたことが、何よりも嬉しい」

志文は、張勇の温かい友情に、心から感謝した。

張勇は、武人としての功績よりも、意外にも人の情を大切にする男であった。

「張勇、芳蘭。この戦いは、俺一人の力ではない。俺の配下や汪盃殿をはじめ、多くの兵士たちが、命を懸けたからだ」

「俺は、あの戦場で、論理を超えた力があることを知った。それは、勝利への執念であり、主への忠誠心であり、己の命を懸ける覚悟であった。俺はそれを『武人の熱』と呼んでいる」

芳蘭は、志文の言葉を深く受け止めた。彼女は、志文の言葉に、武人としての真の道を見たように感じた。

「志文、私も、その熱を身につけられるよう、日々精進するわ。いつか、貴方と共に、戦場を駆け抜けられる日がまた来ることを願って」

三人は、杯を重ね、戦の労をねぎらった。

それは、勝利の喜びと、生還への感謝、そして未来への誓いを込めた、深い交流の時間であった。

また志文は、将軍として多忙な日々を送っていたが、武人としての鍛錬を決しておろそかにしなかった。

彼の武の成長は、配下への責任でもあったからだ。

彼は、劉勇と陳豪に、自身の屋敷の鍛錬場で、日々、研鑽を積むことを求めた。

劉勇は、あれから壮絶な鍛錬を陳豪と共にしたようで、流麗な剣技を身につけ、、陳豪はその剛健な武をさらに深めていた。

「志文殿。三千人将になられても、常に鍛錬を続けるとは、恐れ入ります」

劉勇は、志文の向上心に感銘を受けていた。

「劉勇、陳豪。武人の熱に頼るだけでは、将としては不完全だ。その熱を最大限に活かすためには、確固たる武が必要なのだ。そなたたちも、俺に付き合え」

彼らは、毎日のように、鍛錬をした。

鍛錬は、朝早くから行われた。志文の鍛錬は、もはや単なる武術の稽古ではなく、魂を研ぎ澄ます儀式のようであった。

鍛錬を終えた志文は、肉体的な疲労と共に、精神的な充足感を感じていた。

(武人の熱は、私を勝利に導いた。しかし、その熱を制御し、永続的な力とするために、私はこの平穏な日常で、武を磨き、知を深めねばならぬ)

数ヶ月が経過した。

王都の生活は、平穏な日常が続く。

志文は、三千人将としての職務を忠実にこなし、妹たちや胡麗との時間を大切にしていた。

志文の配下は、それぞれ、衛国軍の再編に尽力し、夜叉は、療養を終えて、志文の影として再びその傍らに戻っていた。

彼ら配下の目には、以前よりもさらに強い忠誠心と熱が宿っていた。

志文は、夜の鍛錬場で、一人、静かに剣を振っていた。

彼の剣は、もはや狂気の武ではなく、制御された美しさを伴っていた。

彼の脳裏には、時折、雷鋒の最期の静かな顔が浮かび上がった。

(雷鋒……そなたは、軍を守るという、将としての責務を全うした...俺もまた、そなたの死を糧に、衛国を、この日常を守り抜いてみせよう....)

志文の心臓の奥底では、あの白狼山脈で燃え上がった武人の熱が、静かに、しかし絶えることなく燃え続けていた。

それは、彼自身の覚悟の炎であり、新たな戦いへの予感でもあった。

胡麗から得た情報によれば、玄岳国は再起の時を待っている。鉄豪の傷が癒え、新たな将軍が台頭すれば、必ずや衛国に再び牙を剥くであろう。

そして、今や、それは、玄岳国以外の国も同様であった。

志文は、剣を鞘に収めた。彼の視線は、王都の夜空の星々を捉えていた。

(武人の熱を、力に変える時が、再び来るだろう....)

それは、漠然とした予感であったが、志文は、確信していた。

衛国軍の勝利で、玄岳国との戦は終結した。

そして乱世の物語は、今、静かに、次なる章へと突入しようとしていた。

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