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#1-27 十字架の重み

志文は、葉迅を失ったことによる深い悲哀を、冷徹な理性の奥底に沈め、文衡の陣を見据えていた。

葉迅の死は、彼に重い十字架を背負わせたが、それは同時に、二度と仲間を失わぬという、激しい決意と非情な覚悟を植え付けた。

(文衡は、未だ瑛武の死を知らぬだろう。奴の堅守の根幹は、絶対の防御と、唯一の攻撃の刃である瑛武の存在だ。その刃はすでに折れた。次は防御の要を貫く。)

志文の冷たい視線は、文衡の軍の奥に潜む第三将、臥延の隊を捉えていた。

臥延は文衡の防御の指揮を執る将であり、その隊は文衡軍の最も奥、すなわち、敵の攻撃が届かぬと信じられていた「安全」な地に布陣していた。

志文は衛射を呼んだ。

「衛射。そなたには臥延を討ちに行ってもらう。仁央と流蕭を討った林の中を行軍せよ。仁央と流蕭を討ったことで、警戒兵は少なくなっている。加えて、我が軍は開戦してから、一度も林を使った奇襲をかけず、常に負け戦を演じ、文衡の軍に緩慢さを与えた。臥延のもとへ奇襲をかけるのは容易いであろう」

衛射は、静かに頷いた。彼の瞳には、志文を心配する色が浮かんでいたが、志文の命を聞き、すぐに、瞳の奥に冷徹な覚悟を宿らせた。

「承知いたしました。お任せください」

志文は、衛射に命令を下すと直ちに、全軍を動かした。

文衡の軍の前面に布陣していた瞭商と戸尖の部隊へ、自ら先頭に立ち、猛烈な攻勢を仕掛けた。

「行け!文衡の壁を揺るがせ!武人の魂をもって、鉄壁を砕くのだ!」

志文の声は宵闇を切り裂き、その姿は鬼神のようであった。

元絨の残兵と韓毅の隊、そして、志文の本隊の一万は、葉迅の死を背負い、その悲哀を激しい怒りと武に変えていた。

文衡は、志文の予想を遥かに超える猛攻に激しい焦りを感じていた。

(馬鹿な……!志文の軍はわずか一万に満たないはず!何故、この文衡の四万に及ぶ堅陣と拮抗するのだ!?この攻勢は異常だ!)

文衡の焦りは、志文の策の核心であった。

文衡は、昨日まで容易に追い返せていた志文の軍が、追い返せないことに、焦っていた。

それゆえに、正面の志文の軍の攻勢に、その視線は囚われていた。

文衡の軍が志文の攻勢に対処している隙に、衛射の隊は音もなく動いていた。

李岳と羅清が仁央と流蕭を討った林の中を、衛射は精鋭を率い、迅速に行軍した。

林の奥は、月光さえも届かぬ、深い闇に閉ざされていた。

臥延の隊は、敵の攻勢が届かぬと思われていた最奥に布陣していたため、油断していた。

彼らは、志文の猛攻が、文衡の軍の前面で展開されていることを知っていたため、警戒を怠っていた。

しかし、その静寂は、突如として破られた。

衛射の隊の奇襲を仕掛けたのだ。

衛射の隊は、林の中から嵐のように現れ、臥延の隊の背後を襲った。臥延の隊は、奇襲に対応できず、激しい混乱に囚われた。

「敵襲!どこからだ!?馬鹿な!この奥まで敵が来るはずがない!」

臥延の将校たちは、激しい動揺に囚われ、指揮を執ることができなかった。衛射は、弓を番えた。その瞳は冷徹な光を放っていた。

衛射の弓は、光のように速く、正確であった。

防御の指揮を執る隊長たちが、次々と衛射の矢に射殺されていく。

彼らの体は、矢に貫かれ、次々と倒れていった。衛射の弓は、まさに死神の業であった。

「伝令をだせ!雷鋒様と文衡様に伝令を!背後を突かれたと伝えるのだ!」

臥延の将校が、援軍の伝令を伝えに行こうとした瞬間、衛射の矢は彼の心臓を正確に貫いていた。将校は、その体を痙攣させ、力なく地に伏した。

衛射は、最後に臥延を見据え、弓を引き絞った。臥延は、混乱の中、剣を構え、必死に抵抗しようとしていた。その姿は、檻の中に閉じ込められた獲物のように、哀れであった。

衛射の放った矢は、臥延の胸を正確に貫いた。

「……志文……!卑劣な策を……!」

文衡旗下第三将 臥延戦死。

彼の死は、文衡の堅守の「防衛の要」を完全に奪った。

衛射は、臥延が地に伏したのを確認すると、即座に撤退を命じた。

「全軍!直ちに撤退!一兵たりとも、敵に捕らえられるな!」

衛射の隊は、嵐のように現れ、嵐のように消えていった。臥延の隊はここに全滅したのであった。

雷鋒は、状況を見て、激しい動揺に囚われた。志文の策は、雷鋒の想像を遥かに超えていた。

(馬鹿な……!ここにきて、林からの奇襲だと!しかも臥延が討たれただと!?林の奥まで精鋭を潜り込ませ、背後を突くなど……!志文の奴め、全く読めん...)

雷鋒は直ちに文衡に伝令を送ったが、時すでに遅く、衛射はすでに撤退していた。

その頃、瑛武が討たれたことを知った鉄豪は、文衡を案じていた。瑛武はいまや文衡にとって、唯一の刃であった。

(瑛武が討たれただと!?羅仁の中でも、その武は指折り故、文衡の隊に組み込まれたが、その文衡の刃が折られたのか……!このままでは文衡は堅守に頼らざるを得なくなる。それはすなわち、志文にとって、ただの的となるであろう!志文がすでに次の策をうっているやもしれぬ....雷鋒殿の命を待つわけにはいかぬ。独断だが、止むをえまい!)

鉄豪は、独断で自身の第二将、剛土に命を下した。

「剛土。そなたは精鋭を率い、文衡の援軍に行け!文衡の堅守の穴を埋め、刃となるのだ。志文の奴はこの鉄豪の策を見切れまい!」

剛土は、武勇に優れ、その体は岩のように頑強であった。

彼の薙刀は、百人の敵を一撃で屠ると言われていた。

剛土は、鉄豪の命を受け、精鋭を率い、文衡のもとへと向かった。

その頃、文衡は、さらに焦りを感じていた。

背後の臥延を討たれたことで、志文の軍は自身の軍の背後を常にとれることがわかったからだ。そして、それは雷鋒に届く可能性を内包していた。

(臥延も討たれただと!?志文め、この文衡の堅守すら揺るがすつもりか!このままでは我が堅守は、ただの壁となる!)

志文は、文衡の防御の穴がこれ以上広がらぬように、鉄豪が援軍を送ると予想していた。

葉迅の死を踏まえ、志文自身で援軍を討つことを決意した。

(葉迅……そなたの死は、俺に重い十字架を背負わせた....悲劇は繰り返さぬ....俺自ら行こう!)

志文は、文衡の軍への攻勢を配下に任せ、自身の隊を率い、鉄豪の援軍が必ず通るであろう、白狼湿地へと向かった。

白狼湿地は、血潮と土に塗れ、湿った空気が蔓延っていた。

志文の隊が到着した時、剛土の隊は、すでに白狼湿地を進んでいた。

剛土は、志文の隊を見た瞬間、己の幸運に歓喜の声を上げた。

「志文!貴様の悪運もここまでよ!この剛土が、貴様を討ち、全てを終わらせてやろう!」

剛土は、薙刀を構え、志文へと猛然と突撃した。

彼の武は凄まじかった。その一撃は、空気を揺らした。

志文はその一撃を冷静に体を捻って、躱した。

そして剛土の猛攻を冷徹な瞳で見据え、自ら薙刀を構えると、振り向きざまに、一閃した。

剛土の鎧が破れ、肩にわずかに血がにじんでいた。

「馬鹿な……!この剛土が負けるのか!!..武も知も兼ね備えるか....」

志文は、薙刀を剛土の胸へと深々と突き刺した。

「……鉄豪様……!お許しを……」

剛土は、落馬して、それ以上動かなかった。 志文は号令を発し、剛土の隊は瞬く間に全滅した。

その後、志文はその勢いのまま、鉄豪の部隊に突撃した。

剛土の死による混乱を突いた、電光石火の一撃であった。

汪盃は、志文の猛攻を見て、激しい決意を固めた。これが、鉄豪を討つ唯一の機会であることを悟ったからだ。

「全軍!突撃!志文殿の武に続け!鉄豪を討つのだ!」

汪盃の軍も一気に反転攻勢を仕掛け、鉄豪の軍へ、猛然と襲いかかった。

李岳と羅清は、迅速に隊を率い、鉄豪の隊の至る所に乱れをつくった。

鉄豪は、剛土が討たれることを予想していなかった。

そのため、対応が遅れ、その隙を志文の隊に抉られていった。

(馬鹿な……!剛土が討たれただと!?志文は謀将ではなかったのか?!このままでは我が軍は壊滅する!)

志文の隊は、それほどまでに士気が高く、精強であった。

鉄豪は、堅陣を組むも、志文の遊撃戦に翻弄されていた。

志文は、入っては出てを繰り返し、着実に鉄豪の軍を刈り取っていった。

さらに羅清と李岳が迅速に突撃することで生じた、鉄豪の隊の乱れを、志文の隊が広げることで、鉄豪の部隊は、さらに激しい混乱に陥っていた。

雷鋒は、鉄豪の軍が襲われた時点で、自身の全軍一万を率いて、志文を討つために、直ちに下山を開始していた。

彼は、志文の策の深さを測りかねていたが、このままでは鉄豪の軍が壊滅すると判断したためであった。

(志文め、この雷鋒の知を完全に上回ったつもりか!馬鹿め!我は、鉄豪と文衡の本陣が見える位置にいるのだ!貴様が動き、鉄豪を襲った時点で、我は動いているのだ!この雷鋒が自ら動き、志文を討ち、全てを終わらせる!)

しかし、志文は、雷鋒の動きを完全に読み切っていた。

志文は、山中にあらかじめ文衡のもとへ出発する前に、夜叉と林業に命じて、雷鋒が下山を開始し、鉄豪と文衡の軍を把握できなくなった時点で、山中を急行軍で横切り、雷鋒に奇襲をかけさせる準備をしていた。

夜叉と林業は、志文の命を受け、山中を急行軍で横切っていた。彼らの隊は、音もなく、迅速であった。

夜叉は、雷鋒の軍と対峙した瞬間、激しい武を見せた。

「奴の首をここで取るぞ」

夜叉の隊は、静かに、それでいて猛然と襲いかかった。

雷鋒は策で対応しようとするも、志文が、林業と夜叉に命じた真の狙いは、外からの鉄豪への援軍、すなわち雷鋒の軍を援軍に来させないことであった。

雷鋒の策はことごとく無力化されていた。

数をぶつけても夜叉が武で壊滅させ、迂回しようにも、林業が周到に進路をふさぎ、消えては現れ、奇襲をかけてくることで、無為に時間が過ぎていった。

雷鋒は、激しい動揺に囚われた。

自身の知、志文の武と策の前に、いかに無力かを痛感したからだ。

(馬鹿な……!このままでは、こちらの方が全滅する!)

雷鋒は、自身の策が、志文の策の前に、完全に敗れたことを悟った。

その頃、志文は、自身の隊が疲労の限界に達したことで、迅速に撤退した。

彼自身の狙いは、雷鋒の援軍を阻止し、鉄豪の軍を削ることにあったからだ。

汪盃の軍も、それに合わせて李岳と羅清の隊と共に迅速に撤退し、堅陣を組みなおした。

鉄豪は、予想以上の被害を出し、五万の鉄豪軍は三万にまで数を減らしていた。

そして、志文がいない中でも、志文の配下の隊と韓毅の隊を含む元絨の残兵は善戦し、文衡の軍を二万にまで減らしていた。

志文の策は、雷鋒の知を、武と策をもって完全に上回ったのであった。

白狼山脈の夜は、血潮と土の匂いを残し、静かに明けていった。

白狼山脈の六日目の朝。

朝の光は、血潮と土にまみれた白狼湿地の荒涼とした景色を、残酷なまでに鮮明に映し出していた。

昨夜、剛土が討たれた場所には、まだ湿った土に混じる、生々しい血の匂いが漂っていた。玄岳国軍、十万の兵を失った敗北の影が、雷鋒の陣営全体に、巨大な壁となって、重くのしかかっていた。

雷鋒は、陣幕の中で、重い息を吐いた。

彼の目の前には、軍図が広げられていたが、その数字は、「天下三賢」である彼の誇りを粉々に砕くものであった。

「我らは十万を失い……奴らの軍は、未だ三万の損害に満たない。瑛武、臥延、そして剛土……奴らの死は、戦場における均衡を、完全に破った。もはや、戦の形勢を維持できるかすらあやしい....」

雷鋒の知略は、この数日間の志文の武と策の前に、まるで無力な子供の遊びのように打ち砕かれた。

彼の心には、初めて知る、底なしの屈辱と、総帥としての焦燥感が、熱い血潮のように渦巻いていた。

撤退。その二文字が、彼の脳裏を支配していたが、敗北を認めることは、玄岳国軍の総帥である彼にとって、死にも等しい屈辱であった。

その時、陣幕の入り口で、砂を噛むような声がした。

「雷鋒殿。面会を願いたい」

鉄豪と文衡であった。

二人の顔には、昨夜の激戦の疲労と、己の将を失った悲哀が色濃く浮かんでいたが、その奥には、それぞれの将としての矜持と戦況に対する焦りが、静かに燃えていた。

鉄豪は、陣幕に入るなり、雷鋒に頭を下げることなく、硬い口調で言った。彼の声は、剛土を失った激しい怒りによって、微かに震えていた。

「雷鋒殿。このままでは全軍が敗走する。志文の狙いは、我々の堅守を崩壊させることにある。ゆえにここで守りに入っては、奴の思う壺だ。損失を無視してでも、一気に攻勢をかけるべきだ!この鉄豪が攻めに転じ、汪盃の隊を叩き潰せば、志文の策は必ずや崩壊する!」

鉄豪は、守戦の名将であった。しかし、彼の堅守は悉く、裏目に出ていた。

志文は、鉄豪の堅守を崩す妙策を、次々と繰り出し、志文の策の前に、鉄豪の兵は、なすすべもなく、倒れていった。そして何より、軽堂や剛土の死、陣護の負傷が、鉄豪の堅守をより難しくしていた。

だが、文衡は、鉄豪の意見に強く反対した。彼の顔は、瑛武と臥延という二つの要を失ったことで、まるで石のように硬直していた。彼の瞳には、志文という見えざる凶刃に対する、深い恐怖が宿っていた。

「鉄豪殿。貴殿の意見は理解できるが、それはあまりに危険すぎる。この文衡の堅守は、瑛武と臥延という要を失った今、再編が必要だ。ここで攻勢に出れば、志文は必ずやその隙を突いてくるであろう。奴は、林からの奇襲で臥延を討ち、我々の防御に穴を開けた。次は、必ずや我々の陣を、林の中から突き破ってくるであろう。今は防御に徹し、軍の再編成のための時間を稼ぐべきだ!防御こそが、我々の命綱である!」

文衡は、志文の策が自身たちの防御の穴を突くことにあると理解していたため、何よりも防御を固めることに執着していた。彼の心は、攻め手を欠く中で、完全な防御に囚われていた。

「文衡!貴様は、瑛武と臥延を失ったことで、臆病風に吹かれているのではないか!貴様の守りに、どれだけの意味があるというのだ!志文は武人でなく、謀将である!奴は、奇襲でしか勝てぬ!」

鉄豪の言葉は、文衡の心を深く抉った。文衡の顔に、激しい怒りが浮かび上がる。

「鉄豪殿!貴殿こそ、剛土殿を失ったことで、理性を失っているのではないか!このまま攻勢に出れば、全軍が志文の餌食となる!奴の武は、貴殿の想像を遥かに超えている!剛土殿は、奴に討たれたのだぞ!」

二人は、激しく仲たがいをした。

彼らは、己の将としての矜持と、戦況に対する焦りから、互いに譲歩することができなかった。彼らの間にあるのは、もはや信頼ではなく、互いへの不満と猜疑心であった。

雷鋒は、二人の激しい仲たがいを見て、静かに、そして深く、ため息をついた。彼の知は、志文の心理戦の深さに、改めて驚愕していた。

(これこそ、志文が狙った心理的策だったのか……!文衡には単調な攻撃を繰り返し、一気にその攻勢を強め、防御を打ち破ることで、さらに防御に固執させた。その一方で、鉄豪には攻勢を強め、自身の隊からも、奇襲をかけるなど、堅守に疑いを持たせるように仕向けた。そして二人の意見が食い違わせ、軍の内部に淀みを創るとは……!恐ろしい男だ、伯志文!)

雷鋒は、志文の策の深さを悟ったが、この状況で二人の将のどちらかを完全に退けることはできなかった。ここでどちらかの意見を完全に退ければ、退けた将の軍の士気が崩壊するからであった。

雷鋒は、やむなく鉄豪の攻勢を許可し、文衡の防御を認めるという、苦渋の決断を下した。

「鉄豪殿。貴殿の攻勢を許可しよう。しかし、一つだけ条件がある。貴殿の堅実で冷静な第一将、壁山を、文衡殿の軍の背後に回られる可能性のある林に配置せよ。壁山殿の冷静な判断力で、志文の奇襲を防ぐのだ。文衡殿の防御に徹する策も認める。壁山殿が林を守ることで、文衡殿は防御に専念できるであろう」

雷鋒の提案は、両者の顔を立てるための、苦肉の策であった。

壁山は、鉄豪の軍の頭脳とも言える将であり、その冷静な判断力は、鉄豪自身も認めていた。

鉄豪は、不満を抱きながらも、この提案を承諾した。

「壁山であれば、志文の奇襲を防ぎきれるであろう。奴は、私に勝るとも劣らぬ堅実な男である。奴の忠誠心と武は、文衡殿の防御を完全に支えきるであろう」

その頃、志文は、自陣で軍図を広げていた。

汪盃からの「鉄豪が攻撃の布陣に陣形を変えている」という報と、眼前の文衡の堅守の陣を見て、志文はすべてを理解した。

(策は成功した。雷鋒は、鉄豪の攻勢を許可しつつ、文衡の防御も認めざるを得なかったのだろう。壁山を林に配置したか....雷鋒はまだ林からの奇襲を警戒しているということだ。だが、雷鋒は、俺の武を警戒していない。それが、奴の最大の弱点だ。)

志文は汪盃に進言した。彼の声は、静かで、冷徹な響きを持っていた。

「汪盃将軍。鉄豪は守戦の名将だ。攻勢を得意としない。鉄豪が全軍で、猛攻を仕掛ければ、将軍の軍は、反転攻勢に出ることすら難しいと思われます」

汪盃は深く頷いた。

「悔しいが、その通りじゃ。わしの配下はわしも含め、武に優れた将がおらぬ。だが、鉄豪も守戦を得意とする。攻勢をかけてきたとしても、いくらか持ちこたえられるはずじゃ」

「どのくらいかお尋ねしても....」

「最低でも二日はもたせよう。志文よ、それまでに雷鋒を討てそうか?」

「やりましょう」 志文は静かに言った。強い覚悟を帯びた眼差しであった。

汪盃は、志文の覚悟に感嘆した。

「志文殿。二日。この老骨の命に変えても、守り抜き、鉄豪の猛攻を防ぎきってみせよう!」

志文は、文衡の堅守を崩すための、最後の策を練った。

それは、己の身を危険に晒すが、死戦にすることであった。文衡の堅守はそれほどまでに堅かったのだ。

志文は、まず、宋燕の隊だけを、林の入り口に隠した。

宋燕は、林の入り口の、岩陰と木の影が交錯する死角に、隊を潜ませた。

宋燕は、隊の中で最も柔軟な機動力を持ち、かつ、冷静な判断力を持つ将であった。彼女の紅い槍が、時折、陽光を反射し、彼女の精悍な姿を映し出していた。

(壁山。鉄豪の第一将。堅実な男だと聞いているが、志文様の策の前では、その堅実さこそが、命取りよ!志文様は、貴方を討つことで、鉄豪殿の軍の頭脳を奪い、文衡の陣を揺るがす一手とするつもりね)

宋燕の瞳には、志文への深い信頼と、武人としての誇りが燃えていた。

宋燕を除いた志文の全軍は、文衡の堅陣へと猛然と攻勢をかけた。

鉄豪が汪盃に猛攻を仕掛けた頃、時を同じくして、志文の隊は、文衡の堅陣に、昨日以上の猛攻で食い込んでいった。

文衡の軍は、必死に抵抗するが、志文の隊の士気の高さに、その防御は次第に崩壊しつつあった。

その時、壁山は動いた。

彼は、志文の軍が文衡の堅陣に食い込んでいる今こそが、背後に回り込み挟撃する絶好の機会だと判断したのだ。

壁山は、林の中に伏兵がいないかは斥候に確認させていた。しかし、彼は、林の外、入り口近くの死角は気にしていなかった。

自身の隊は明朝に既に布陣し、志文たちが本陣近くにいるにもかかわらず、気にするそぶりがなかったことで、見つかっていないと思ったのだ。さらに志文の隊は鉄豪の攻勢により、文衡を早く突破しなければと焦っているに違いない、と壁山は高を括っていた。そして伏兵は隠すもの、すなわち林の中に置くことが、最善であると、常識的に、判断していた。

壁山は志文と対峙したことがないゆえに慢心していたのだ。

壁山は、自らの判断に確信を抱き、林の中から隊を率いて志文の隊の後衛に突撃した。

壁山の隊が、完全に志文をとらえ、殲滅を開始する寸前、宋燕の隊が林の中から嵐のように現れた。

「馬鹿な……!伏兵がいたとは……!」

壁山は、自身の慢心を後悔した。

しかし、彼の武人としての意地が、彼を奮い立たせた。

彼の心には、鉄豪への絶対的な忠誠という名の、燃える炎があった。

「全軍!怯むな!この壁山が、奴らを討ち破る!我々は、鉄豪様を守るための壁である!ここで崩れるわけにはいかぬ!」

壁山は、槍を構え、宋燕へと猛然と突撃した。

彼の武は、鉄豪の第一将にふさわしいものであった。彼の槍は、まるで岩のように重く、堅固であった。

宋燕は、壁山の猛攻を冷静に受け止め、槍を構えた。彼女の紅い槍は、壁山の重い一撃をしなやかに受け流し、まるで水のように、その力をいなした。その槍の動きは、華麗でありながらも、苛烈な殺意を秘めていた。

二人の槍は、激しく衝突した。火花が散り、その音は林の中に静かに木霊していた。

壁山の槍は、まるで壁のように堅固であったが、宋燕の紅い槍は、その壁を突き破るための、鋭い刃であった。

壁山は、奮戦した。彼の武は、宋燕と拮抗していた。

しかし、宋燕の隊は、壁山の隊を挟撃していた。志文の後衛はすでに反転し、宋燕の隊と挟撃し、壁山の隊は次々と数を減らしていった。

数の不利は、壁山の武をもってしても覆せなかった。

壁山は、宋燕の猛攻に、次第に追い詰められていった。

彼の体には、すでに無数の傷に覆われていた。

(この壁山、一生の不覚....汗顔の至り....だが、まだ死ねぬ....今、我が死ねば、それはただの犠牲だ。我は死ぬが、ただでは死なぬ...!!)

壁山は、自らの槍を地面に突き立て、最後の力を振り絞って、宋燕に叫んだ。

「伯志文!貴様の策は見事であった!だが、この壁山は、ただの兵ではない!鉄豪様から、堅実の名を賜った、将である!この命と引き換えに、貴様がこれ以上、文衡殿、そして雷鋒殿のもとへ向かえぬよう、道連れにしてくれるわ!」

壁山の隊は、反転した。宋燕を突破するという、唯一の退路を捨てたのだ。

「愚か者!貴様が時間を稼いだところで、志文様は止められぬ!」宋燕は叫んだ。

壁山は答えなかった。ただ猛然と、志文ただ一人をめがけて、突撃したのだ。

志文の隊は、一瞬揺らいだ。壁山の武は、凄まじく、隊もまた、精強であった。

そして何より、壁山の隊は機動力に優れていた。 志文の隊を強行突破で、進んでいた。

宋燕は焦った。

(このままでは、志文様が危ない...)

「皆、死力を尽くせ!」

宋燕の隊もまた、疾風の如く、壁山を猛追した。 壁山の隊は、宋燕の前に、儚くも散っていった。

しかし、壁山の隊は、死してなお、宋燕の隊の馬にしがみつき、宋燕の隊の前にたち、志文の隊の兵を抱え、その忠誠心を示していた。

壁山はついに志文をその目に捉えていた。志文の配下は最前線で文衡の配下と戦っており、周りに配下はいなかった。

(とれる....相討ちになってでも、必ず、その首をとる)

「皆の者、最後の死力を尽くせ!玄岳四堅 鉄豪旗下第一将 の名は伊達ではないと示すのだ!」

もはやそれは、津波であった。 押し返しても、すぐに寄せてくる。

壁山の進軍は、止まらないかのように思えた。

(届く....!!)

壁山は自身の薙刀を、志文に突き出した。 しかしその刃先はわずかに届かなかった。

志文に、その刃先が届く一歩手前で、壁山の体はすでに血の気を失っていた。

紅に染まった槍は、深々と胸を貫いていた。

「貴殿の武、その名にふさわしい見事な武であった」

壁山は笑った。 「生意気な奴め....」

壁山は、志文の余裕を狙った。 すでに腕の感覚はなく、心が彼を突き動かしていた。

「グゥァァァァァ」 壁山は最後の死力を尽くし、志文めがけて、薙刀を投げた。

ガキン。 壁山の薙刀は地に落ち、壁山の眼前を赤い影がよぎる。

宋燕の槍が、壁山の腹に刺さっていた。

(届かなかったか.....鉄豪様、無様に死にゆく私を、お許しください....)

壁山の瞳から、大粒の涙が流れ落ちた。それは、己の敗北に対するものではなく、主君を最後まで守れなかった無念と、最期に自身の忠誠を捧げることしかできない哀しみであった。

壁山は、薄れゆく景色の中で、鉄豪に拾われた若き日の記憶、共に過ごした日々、そして鉄豪の期待に応えられなかった絶望を思い返していた。

壁山の体は、槍に貫かれたまま、まるで鉄豪の陣を守る石碑のように、微かに膝を折っただけで、地に伏すことはなかった。

宋燕は、壁山を討ち取ると、血に濡れた紅い槍を払った。

彼女の顔には、勝利の喜色はなく、ただ冷徹な使命感が宿っていた。

彼女の心には、武人としての壁山の凄絶さに対する、わずかな畏敬の念が宿っていた。


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