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#1-26 闇に紛れし凶刃

時は、少し戻り、志文は、自らの幕舎の中で、二人の軍師と対峙していた。

二人の顔は、志文の策の核心を知る者の静かな覚悟を湛えていた。

「李岳、羅清。そなたたちには、汪盃殿の軍に参軍する前に、任務を与える」

志文の声は、冷徹な刃のように、宵闇の中に響いた。

「雷鋒は、軽堂の死により、我々の連携を断つことを最優先とするだろう。そして、汪盃殿の軍を壊滅させることが最も合理的だと判断する。ゆえに我らもそろそろ右翼を突破せねばならぬ。手始めに、文衡の堅守に備わる唯一の刃をいただく」

志文は、自らの冷たい視線を、李岳と羅清に向けた。

「そなたたちは、羅仁の亡骸と薙刀を携え、羅仁の配下であった仁央と流蕭を挑発せよ。彼らは、羅仁への忠誠が、最も厚かった将だ。気は進まないが、その感情を、最大限に利用する」

李岳は、冷静な瞳で、志文の策の深さを一瞬にして理解した。

「志文様……羅仁の遺体は、彼らにとって制御不能な怒りを引き起こすための、最も強力な毒となる。文衡の厳命すらも打ち破る、将の情を策とするのですね」

羅清は、穏やかな表情を崩さず、静かに頷いた。

「この羅清が、羅仁の遺体を携え、流蕭を誘い出す。李岳は、羅仁の薙刀を持ち、仁央を伏兵の地へと導く。将の情を血潮に変える、冷徹な策。この羅清の弓と剣、存分に使わせていただきます」

「殿、あまり思い詰めないほうがよろしいかと。将であれば、時に忠誠すらも利用するほどの非情さがなければ。この乱世は、そのようにできてしまっているのですから」

羅清は穏やかに笑っていた。 志文の黒い感情を、すべて受け止めるかのようであった。

志文は柄にもなく、口元に笑みをこぼした。

宵闇の中、李岳の隊は、羅仁の薙刀を掲げ、羅清の隊は、羅仁の遺体を静かに連れて、文衡の陣地へと音もなく、迅速に接近した。

羅仁の配下であった仁央と流蕭は、文衡の厳命である「動かざること」を忠実に守り、深く重い静寂の中で、羅仁の死に対する深い悲哀と怒りを堪えていた。

彼らにとって、羅仁は、武人としての師であり、父のような存在であった。

その静寂を、羅清の冷徹な声が打ち破った。

「仁央!流蕭!羅仁の無念の死を、見過ごすというのか!文衡の堅守に囚われ、仇を討つことを忘れたのか!」

羅仁の遺体が、月光の下で、白く、痛々しく照らされる。

羅仁の薙刀が、李岳の隊の武人によって、無造作に振り回される。

仁央は、羅仁の薙刀を見た瞬間、全身の血潮が沸騰するのを感じた。

「羅仁様の薙刀!志文の犬め!武人の魂を侮辱する愚者どもが!文衡殿の厳命など、知ったことか!羅仁様の仇、この仁央が討つ!」

流蕭は、羅仁の遺体を見た瞬間、制御不能な怒りに囚われた。

「羅仁様……!やはり、この無念を晴らさずして、武人として生きることなどできぬ!文衡殿、お許しください!この流蕭、義を優先いたします!」

仁央と流蕭は、文衡の厳命を破り、怒りのあまり、自らの隊を率いて出陣した。

彼らの瞳には、羅仁への忠誠と、志文の侮辱への激しい怒りが燃え上がっていた。

李岳の隊は、羅仁の薙刀を持っていたため、仁央の隊が李岳を追った。

羅清の隊は、羅仁の遺体を連れていたため、流蕭の隊が羅清を追った。

仁央は、李岳の隊を猛然と追撃した。彼の怒りは、羅仁の死に対する無念と忠誠の結晶であった。

「李岳!志文の犬め!羅仁様の薙刀を汚した罪、この仁央の刃で償わせてくれる!」

李岳は、常に冷静な表情で、仁央の猛追を受け止めていた。彼の智謀は、仁央の怒りを完全に読み切っていた。

「仁央……貴様の忠誠は見事だ。だが、その感情が、貴様の命を奪うことになる」

李岳は、仁央を、事前に定めていた伏兵の地へと誘い出した。李岳の冷静な用兵は、仁央の怒りを確実に罠へと導いた。

伏兵の地に足を踏み入れた瞬間、李岳の合図と共に、闇の中に潜んでいた伏兵が、仁央の隊へと嵐のように襲いかかった。

仁央は、伏兵に囲まれたことを悟った瞬間、激しい動揺に囚われた。

「罠……!志文の犬め……!羅仁様……!……仇を討てぬか……後悔はない...」

仁央は、羅仁の薙刀を奪い返そうと、全身の血潮を最後の力として振り絞った。

しかし、李岳の伏兵は、精鋭であった。李岳の冷静な指示の下、仁央は、無数の刃に囲まれ、力なく、その場に崩れ落ちた。

彼の瞳には、羅仁への忠誠と、仇を討つことができなかった武人としての無念が深く刻まれていた。

仁央の血潮は、伏兵の地の湿った土を深く染め上げた。

一方、羅清は、流蕭を山の開けたところまで誘い出していた。羅清は、穏やかな表情の裏に、冷徹な判断を秘めていた。

「流蕭。貴様の忠誠は見事だ。だが、貴様の怒りは届かぬ」

流蕭は、羅清の隊を追撃し、山の開けたところまで導かれた。

「羅清!貴様に羅仁様の遺体を連れ去ることなど許さぬ!この流蕭が、貴様の命を奪い、羅仁様をお連れする!」

羅清は、流蕭が開けた場所に出たことを確認すると、反転攻勢を仕掛けた。羅清の隊は、迅速に陣形を組み、流蕭の隊へと弓を構えた。

羅清は、流蕭の瞳を見据え、静かに、しかし、確実に弓を引き絞った。彼の弓の腕前は、志文と同等に卓越していた。

流蕭は、羅清の反転攻勢にも臆さなかった。

彼は罠だとわかっていたのだ。しかし、彼は羅仁の遺体を取り戻すことを決めたのだった。

「反転……!だがよい......!....もとは羅仁様にいただいた命……惜しくはない……!」

流蕭の叫びが、響き渡る。

流蕭は強かった。無数の矢が刺さっても、無数の刃に貫かれようと、彼は倒れなかった。

体の感覚は麻痺していたが、羅仁の存在が、彼に薙刀を振らせていた。

瞳の炎は、永遠に消えぬような輝きを放ち、ただ目を閉じた羅仁を見つめていた。

彼の隊もまた羅清の精鋭の前に、次々と倒れていった。だが、地に伏しても、また起き上がってくるのであった。

地に伏し、動かなくなった兵たちの顔に苦痛はなかった。 ただ安らかな笑みを一様に浮かべていた。

彼らは死に場所を求めていたのだ。彼らは玄岳国に忠を誓ってはいなかった。

彼らの忠は、勇猛で、自信にあふれながらも、末兵にも信を置き、苦楽を共にした、羅仁に捧げていた。

(羅仁.....死した後も、我らを苦しめるか....その忠と念、我に預けよ。眠れ....)

羅清の放った矢は、光のように速く、流蕭の胸を正確に貫いた。

流蕭は笑った。 

瞳にすでに生気はなかったが、その足は、その腕は、羅仁に近づこうと、伸ばしていた。

羅清の隊は、初めて、恐怖を感じていた。

「なにもするな」 羅清は隊に命じた。 彼の、忠を、念を、これ以上、遮りたくなかった。

「……羅仁様……!この流蕭……やっと……あなた様のもとへ……参れます....」

流蕭は、羅仁への忠誠を心に刻みながら、力なく、その場に崩れ落ちた。

ここに、流蕭の隊は全滅したのであった。 羅清は、羅仁の遺体を、眠る流蕭に並べた。

夜空に星が輝き、流れ星が二筋、降っていた。

李岳と羅清は、夜明けが訪れる前に、汪盃の軍に参軍した。

夜が明け、五日目となった。

文衡は、仁央と流蕭の戦死の報を聞いた瞬間、激しい怒りに囚われた。

「仁央!流蕭!何たる愚行!動かざることこそが、文衡の堅守の絶対の正義であるのに!やはり、志文は、我らを動かし、罠にかけることを狙っていたのだ!」

文衡は、仁央と流蕭の死を、自らの堅守の正当性を証明するものとして捉えた。

彼の慢心は、もはや、誰も止めることができない絶対的な信仰となっていた。

文衡は、さらに堅守を固めることを選んだ。

志文は、夜明けと共に、防陣を組み、動かなかった。

文衡は、志文の動かざる布陣を、罠だと思い込み、動かなかった。

志文の策は、文衡の慢心を最大限に利用していた。

一方、雷鋒は、志文の思惑通り、汪盃の軍を壊滅させるために、鉄豪に攻勢をかけるように命じた。

「鉄豪。志文の策は、常に、我らの理性を揺さぶることにある。汪盃の軍は凡庸。あやつが気づき、自らの精鋭を援軍に出すころにはすでに手遅れだ。ゆえに、汪盃の軍を壊滅させ、志文の策の土台を崩すのが最も合理的な策となる。全軍を率い、汪盃の軍に攻勢をかけよ」

雷鋒は、知性に基づく合理的な判断を下したが、志文の神算鬼謀の一手、羅清と李岳の参軍を読み切れなかった。

さらに雷鋒は、文衡の配下の瑛武に命じた。

「瑛武。志文と汪盃の連携を阻止するために、白狼湿地に布陣せよ。志文の隊が来たら、奇襲をかけ、殲滅せよ。志文は必ず、汪盃を助けるために動く」

瑛武は、堅実な将であった。

彼は、雷鋒の命令を忠実に実行するために、白狼湿地に音もなく、迅速に布陣した。

雷鋒の命令により、鉄豪は攻勢をかけた。

鉄豪の軍は、汪盃の軍へと怒涛の強襲を仕掛けた。

汪盃は、鉄豪の猛攻をなんとか耐え続けていた。

しかし、鉄豪の軍の猛攻は凄まじかった。汪盃の軍は、瓦解しそうになった。

その瞬間、李岳と羅清は動いた。

鉄豪は、昨日の軽堂のことを考え、志文が隊を出し、瑛武を突破した場合に備えて、文衡側の側面は守りを厚くしていた。

鉄豪の知性は、志文の策の深さを測りかね、最も危険だと思われる文衡側に全神経を集中させていた。

その分、もう一方の側面は薄くなっていた。

それこそ志文の策であった。

突如として、薄い側面に面する林から、李岳と羅清は、奇襲をかけた。

李岳と羅清は、林の中から、嵐のように突撃した。

「羅清!行くぞ!鉄豪の盲点を突く!」

「承知!わたしが、突破口を開きます!」

羅清は、剣を抜き、弓を携え、自ら先頭に立って、鉄豪の軍へと突撃した。

李岳は、冷静に隊を率い、羅清の武を支えた。

鉄豪の軍は、側面からの奇襲に激しい動揺に囚われた。

(馬鹿な!志文は、瑛武に阻まれているはず!この側面が突かれるなど……!志文の策は……この鉄豪の知性を完全に上回っているのか!事前に送るなど....)

鉄豪は、乱戦の中、羅清の隊を見据え、指示を出そうとした瞬間、羅清の矢が、鉄豪の間近を掠めた。

鉄豪の軍は、総大将 鉄豪を守るため、攻勢を一瞬やめ、堅陣を組んだ。

鉄豪の軍は大いに削られ、鉄豪も一瞬、危険に晒されたが、羅清と李岳の隊は寡兵であった。

しかし、鉄豪が隊をまとめ、退路を塞ごうと思った時には、すでに李岳と羅清は離脱していた。

汪盃の軍は、この隙を逃さず、迅速に撤退し、堅陣を組んでいた。

志文の策は、雷鋒の合理的な判断を上回り、鉄豪に決定的な不安を生んだ。

五日目の夜が、白狼山脈を深く覆い、次の戦いへと導いていく。

鉄豪は、羅清と李岳の電光石火の奇襲から命を拾い、乱戦の中、隊を再建し、陣地へと引き返した。

彼の全身は血潮と土に塗れ、その瞳には激しい動揺と怒りが渦巻いていた。

(李岳と羅清の隊が、夜のうちに移動を終え、瑛武の防陣が敷かれる前に、汪盃の軍に参軍していたのか……!?軽堂の死も、この奇襲も、全て志文の掌の上か……!)

鉄豪の知性は、志文の神算鬼謀の一手に激しく打ちのめされた。

彼は、自らが絶対と信じていた「鉄壁」と「不動」が、志文の「情」と「非情」が織りなす策の前に、いかに脆いかを痛感していた。

鉄豪は、幕舎で血潮を拭いながら、雷鋒へと報告を送った。

その報告は、彼の武人としての屈辱をそのままに伝えていた。

雷鋒は、鉄豪からの報告を聞くと、激しい衝撃に囚われた。志文の策の深さが、雷鋒の想像を遥かに超えていたからだ。

(志文め……羅清と李岳を夜のうちに移動させていただと……!寡兵である自軍の精鋭を切り離すという愚行に見せかけて、最も合理的な策を実行していたとは……!この雷鋒の知を完全に上回ったか....)

雷鋒は、怒りを冷徹な理性で押し殺し、次の一手を打った。

鉄豪の軍は一万にまで減っていた。これでは堅守に定評ある汪盃を討つのは難しかった。

「本陣の軍から四万を鉄豪の軍に送れ!鉄豪の軍を五万にせよ!」

雷鋒は、鉄豪の軍を増強することで、汪盃の軍を壊滅させることを選んだ。

「さらに、本陣の軍から二万を文衡の軍に送れ!文衡の軍を四万とせよ!文衡の堅守はいまだに崩れていない。志文が右翼を突破することはない」

雷鋒は、志文の右翼への攻勢もまた警戒していた。文衡の軍を増強することで、志文の動きを封じることを選んだ。

雷鋒の本陣の軍は、一万となった。

しかし、雷鋒は自身は山中の深くにいて、文衡の軍と鉄豪の軍を見れる位置にいたため、敵が来てもわかると踏んでいた。加えて、兵数を増やした鉄豪と文衡の隊を突破することはできないと踏んでいた。

(志文め……二度の奇襲は来ないだろう。鉄豪の軍も増強された。次は文衡の堅守を崩すか、鉄豪の軍を再度叩くか……)

雷鋒は、志文の次の動きを読み、いまや文衡の堅守に備わる唯一の刃、瑛武に命を与えることを決めた。

「瑛武。白狼湿地から文衡のもとへ戻れ!志文の鉄豪への奇襲部隊は移動済みだ。二度目の奇襲は来ない。貴様は文衡の刃であり、攻撃の要だ。文衡に攻勢をかけるように、併せて伝えるのだ」

瑛武は、雷鋒の命令を受け、白狼湿地を進んでいた。

彼の隊は文衡のもとへ帰るために、湿地の複雑な地形を進んでおり、無防備な状態であった。

その頃、汪盃は、志文の策の深さを理解していた。しかし、大軍の鉄豪の攻勢を凌いでいたことは、無意識のうちに、彼に慢心を錯覚させていた。

(鉄豪は軍を立て直し、明日攻勢をかけてくるつもりだろう...)

「志文殿の策は、この老骨には深すぎる……しかし、鉄豪の動きならば読める。鉄豪は必ず、明日攻勢をかけてくる」

汪盃は、自身の軍の堅陣を崩さず、悟られないように、汪盃の第二将、曹循に命を与えた。

「曹循。貴様は精鋭を率い、瑛武を討ちに行け!瑛武は今、白狼湿地を無防備に進んでいるはずだ。志文殿の援軍はすでにいただいたことから、瑛武の任は解かれ、右翼に戻るであろう。瑛武は文衡の刃であり、攻撃の要だ。これを討てば、文衡の堅守はただの壁となる。志文殿の戦が容易になるはずだ」

汪盃は、自身が戦場全体を見切っている、そして鉄豪の攻勢を自身の隊を減らしたとしても防げると錯覚していた。

「念のため、志文殿に伝令を送り、瑛武を討つための、援軍を出してもらえ!」

曹循は、汪盃の命を受け、精鋭を率い、白狼湿地へと音もなく向かった。

「汪盃将軍より、伝令です!瑛武が文衡のもとへ戻るため、いまなら各個撃破できると仰せです。将軍はすでに曹循様に瑛武を討ちに行かせました。ついては、念のため、志文様からも援軍を賜りたく...」

志文は汪盃の頼みで、挟撃するために、葉迅に、瑛武を討たせに行かせた。

「葉迅殿、俺は瑛武という男をよく知らぬ。ゆえに危なくなったら、退くのだ」

葉迅は、頷き、白狼湿地へと向かった。

瑛武の隊は、曹循の隊の奇襲をうけていた。

瑛武は、奇襲に遭うことを想定していた。

「ふっ……愚か者が!」

瑛武の武は凄まじかった。

彼の薙刀は光のように、速く、曹循の隊へと猛然と襲いかかった。

曹循は、瑛武の凄まじい武に、一太刀も浴びせることはできなかった。

彼の剣は瑛武の薙刀に打ち払われ、瑛武の薙刀が曹循の心臓を深々と貫いた。

「……化け物..」

曹循は、瞬く間に、地に伏した。彼の死は、汪盃の浅慮が招いた結果であった。

曹循が地に伏すと同時に、葉迅は、瑛武の軍のもとに辿り着いた。

地に伏す曹循を目にし、葉迅は激しい動揺に囚われていた。

(曹循殿があっけなく討たれるとは....)

しかし、彼は元絨の配下で唯一冷静な判断を下せる将であった。

「撤退!瑛武の武は尋常ではない!このままでは全滅する!」

葉迅は、隊を撤退させようとしたが、瑛武の隊は光のように速かった。

瑛武の隊はすぐに葉迅を包囲した。 その包囲は、簡易的なものであったが、退路には瑛武自身がいた。

瑛武は包囲を狭めなかった。葉迅の隊は寡兵であり、援軍の憂いもなく、討ち取ろうと思えば、いつでも討てたからであった。

瑛武は、葉迅に興味を持っていた。自身の包囲網にすぐに突撃をしてこなかったからである。

瑛武は、戦う相手をある意味『知ろうとする』将であった。ゆえに葉迅が迅速な突撃を止めた意図を知ろうとしていた。

「葉迅様、お逃げを!」 諏態の言葉に、葉迅は首を横に振った。

「逃げられはせぬ...曹循殿がただの一振りで、散ったのだ。退路に奴がいる今、逃げられはしまい。私の撤退の判断が遅かった...そして瑛武が傑物だったということだ....まさか、堅守の文衡に、凶刃が潜んでいようとは.....」

葉迅は、笑っていた。その笑いは自嘲でもあったが、それと同時に、覚悟の表れであった。

「皆、共に、死んでくれるか?」 静寂の中で、それは、深く、強く、響いた。

誰一人、頷かなかった。その代わり、葉迅の隊は、諏態をはじめとして、皆が葉迅の周りを囲み、防陣を組んだ。

「すまない...」 それは、自身の隊に向けられ、そして、志文に、なにより、元絨に向けられたものであった。

「なにを言われますか!葉迅様が弱音を吐くとは、元絨様がいたら、笑われますぞ!」

諏態はカラカラと笑った。 その声は掠れていた。 しかし、そこに恐怖はなかった。

「この葉迅、皆と共に歩めたこと、誇りに思う!」 頬には涙が伝っていたが、声は力強く響いた。

「最後まで共に歩めるなど、この諏態こそ、光栄の限りです!」 

諏態は剣を構えた。

「よいか!我らは名高き葉迅様の隊!皆、思い出せ!元絨様を窮地から救ったあの一戦を!紀勇様の隊と武功を競ったあの一戦を!そして葉迅様に『共に』と言われたこの一戦を!」

諏態の頬は涙にぬれていた。 それは悲嘆ではなかった。 昔日の日々への郷愁であった。

葉迅の隊は、皆、涙にぬれていたが、それは、葉迅の隊の士気を爆発させていた。

「剣が折れたら、手をつかえ!手を失くしても、足をつかえ!足をも失くせば、心で立つのだ!心がある限り、我らは倒れぬ!葉迅様に、指一本触れさせるな!」

瑛武は、退路を塞ぎつつ、ゆっくりと葉迅の隊との距離を詰めていった。

「確実にとどめを刺せ!侮るな!」 瑛武は、後悔していた。

(なんという者たちだ....死地を恐れぬばかりか、死地の恐怖を超えるとは...)

一瞬の静寂、それは静かに、死闘の風を運んでいた。

凄まじい怒号と共に、葉迅隊の死闘は始まった。

葉迅隊の勢いは凄まじかった。防戦一方であったが、それは瑛武自身の武すらも、ものともしなかった。

その凄まじさは、瑛武の隊を死地に引きずり込んでいた。

腕を刺されても、足を斬られても、彼らは倒れなかった。

「死ね!死ね!死...死...死ね...」 瑛武の隊は、完全に吞まれていた。

「なぜ倒れぬ!なぜ死なぬ!」 

瑛武は、薙刀を一閃した。葉迅隊の防陣がわずかに崩れ、幾人かが崩れ落ちる。

だが、彼らは決して、地に伏さなかった。膝を支えに、手を広げ、無数の刃を受け止めていた。

瑛武は、さらに薙刀を一閃した。「確実にとどめを刺せ!後退するな!」瑛武は吠えた。

その頃、志文は葉迅を出発させてから、半刻ほどたって、姜雷がいつになく落ち着きがないことに気づいた。

「姜雷。どうした。落ち着きがないぞ」

姜雷は、志文の言葉に顔を上げ、自身の不安を口にした。

「殿……元絨将軍が討たれた時.....あの時の瑛武の武は凄まじかった。曹循と葉迅が危ないのではと……この姜雷の妄言をお許しください....」

志文は、激しい不安に襲われた。

「姜雷!急げ!そなたの隊を率い、瑛武のもとに向かえ!曹循と葉迅を助けるのだ!」

志文は姜雷を瑛武のもとに向かわせた。

姜雷は志文の命を受け、精鋭を率い、すぐに白狼湿地へと向かった。

雨が降り始めていた。

地はぬかるみ、気は澱んでいた。

強行軍に耐えられず、姜雷の隊は次々とその数を減らしていた。

姜雷は止まらなかった。曹循、そしてなにより、葉迅を失う重みを姜雷は知っていた。

葉迅は、元絨の残兵にとって、精神的支柱であった。

そして、それ以上に、葉迅は志文にとって、かけがえのない友であった。

姜雷は、志文と葉迅が、夜遅くまで、語り合っている姿を目にしていた。文衡の軍に突撃する時、志文が必ず、葉迅を助けられるように、それとなく近くにいたのを知っていた。

その葉迅を、志文はその手で、死地へと、送り出したのであった。

姜雷はただ馬を疾駆させた。後続の兵がどうなろうと構わなかった。志文の為だけに姜雷は動いていた。

戦場についた姜雷が、その目に、瑛武の姿をみとめたとき、その少し手前で、曹循と曹循の隊が全滅しているのがわかった。

そして瑛武のさらに奥に、葉迅の隊はいた。

葉迅の隊は皆、膝をつき、(こうべ)を微かに垂れていたが、誰一人として地に伏していなかった。皆、一様に手を広げ、その至るところに、無数の刃がたてられていた。

そして、その中心に葉迅はいた。鎧は、血と泥にまみれ、赤黒く染まり、無数の刃が、至る所に、刺さっていた。

葉迅は、諏態と折り重なるように、膝をつき、(こうべ)を微かに垂れていた。

穏やかな笑顔であった。

(共に逝ったのか......)

姜雷は吠えた。

「瑛武!貴様は、貴様だけは許さん!殿の仇、この姜雷が討つ!」

姜雷は、怒号を轟かせながら、迷わず、撤退する瑛武軍へと襲いかかった。

単騎であったが、その勢いは虎のようであった

姜雷の武は凄まじかった。彼の薙刀が、右に、左に、煌めく度に、瑛武軍の兵士たちは、次々と地に倒れていった。

姜雷は、瑛武と対峙した。瑛武は薙刀を構え、応戦しようとしたが、姜雷の敵ではなかった。

瑛武は、姜雷の武が葉迅や曹循とは比べものにならないことを悟った。

「貴様……!志文の精鋭か……!援軍が来ないと侮ったのが間違いであった……ここで逝くわけにはいかぬ……!!」

瑛武は、全身の力を振り絞り、薙刀を姜雷へと振り下ろした。

その一撃は、大地を揺るがすほどの凄まじいものであった。

姜雷は、その一撃を真っ向から受け止め、押し返した。

そして素早く、自身の薙刀を振り下ろした。

瑛武の体は硬直した。彼の瞳には、羅仁への忠誠と、志文の策に敗れた武人としての無念が深く刻まれていた。

「…ぐっ…化け物が…将の熱すら利用するとは.....羅仁様……お許しください…」

瑛武は、地に伏した。

「貴様はなにもわかっていない....策などではない......殿は、初めて情で動かれたのだ.....」

瑛武の隊は迅速に姜雷隊によって、殲滅の一途をたどった。

志文の想定外であった葉迅の死は、皮肉にも、白狼湿地で、瑛武の単独撃破につながった。文衡の堅守の「刃」は完全に折られたのであった。

曹循の戦死を聞いた汪盃は、激しい後悔に囚われていた。

「馬鹿な……!この老骨の浅慮が、曹循の命を奪った……!志文殿の策による勝利を、自らのものだと過信し、判断を誤った……わしを恨め、曹循...すまぬ....」

汪盃の後悔は、海のように、軍を覆った。

志文もまた、深い後悔に囚われていた。

志文の前には、穏やかに眠りについた葉迅が横たわっていた。

「志文様....あまり気にしない方が....」 羅清が、宋燕を片手で制した。

「殿、戦場はお任せを」 そう言うと、羅清は、七人を陣幕の外へ促した。

志文は一人になると、崩れ落ちるように、座った。

(なにが…なにが最強だ…友一人守れぬ…葉迅……すまない……この十字架は俺が一生背負わなければ….)

志文の瞳から、大粒の涙が零れていた。 泣くのは初めてであった。

「泣くな!そんな暇はないぞ!泣く暇があったら、鍛錬をしろ!」

葉迅は永遠の眠りについていたが、志文には葉迅の声が聞こえた。

(乱世は終わらせる....) それは漠然としていたが、確固たるものでもあった。

志文は、葉迅の死を心に刻み、次の策へと進む覚悟を決めた。

玄岳国戦は、仲間の命を礎に、さらに深く、激しさを増すことになるのであった。


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