#1-25 果てる烈将、消えゆく堅将
三日目の明け方。
白狼山脈の東の空は、まだ鉛色の闇を纏っていた。山脈を吹き下ろす風は、肌を刺すように冷たく、昨日までの激戦で張りつめた将兵の神経を、さらに研ぎ澄ませていく。
静寂が支配する戦野には、これから始まる血の宴の予感が、重く澱んでいた。
衛国軍総大将汪盃は、自らの幕舎の前に立ち、遠く玄岳国軍の陣地を見つめていた。彼の瞳は、老練な将の持つ温和さを湛えながらも、その奥には、決断の重さに耐える静かな覚悟が宿っていた。
「志文よ。そなたの進言、受け入れた。この老骨、雷鋒に一矢報いるため、鉄豪の壁に、今一度、挑もう」
汪盃の横に立つ志文は、深く、静かに頷いた。
「汪盃様。雷鋒は、必ず、今日、攻勢に出るはずです。しかし、我らが先に仕掛ければ、寡兵である我々が、攻勢を仕掛けるという『凡愚な行動』の裏に、『非凡な意図』があると読み、必ず逡巡します。その逡巡こそが、我々の『時』を稼ぐことになります」
志文の声は、静かであったが、その言葉には、深い確信が込められていた。
「しかし、鉄豪は玄岳国の四方を堅守する、四人の守備の名将、『玄岳四堅』の一人。わしの軍が突破できるとは思えぬ....」 汪盃は深くため息をついた。
「少なくとも、この三日目の目的は、雷鋒への到達ではありません。鉄豪の『視線』を、汪豪様の軍勢、その一点に、釘付けにすることです。ゆえに鉄豪への猛攻を頼みにまいった次第です」
「うむ、いつも通り、死力を尽くすだけよ。この凡将は常に死力を尽くさねば、猛者らの前にとっくに散っておったわ」 汪盃は、楽しそうに笑っていた。
汪盃は、志文の言葉に含まれる「時を稼ぐ」という冷徹な意図を理解していた。
彼の温和な気質とは裏腹に、老練な将としての判断力は、志文の策の「必要性」を認めていたのだ。
「鉄豪の奴には、昨日までの戦いが『前哨戦』であったと思わせてやろう。我が軍の兵士の血潮を、そなたの『道』を開くための礎としよう」
汪盃は、自らの剣を持ち、夜明け前の空に向かって静かに去っていった。
その背中から、決断の重さが、周囲の将兵へと伝播していくのであった。
志文は右翼に戻り、布陣をより前で組むという令を発した。
志文の右翼軍は、玄岳国軍右翼総大将 文衡の陣地へと、静かに、しかし確実に、その距離を詰めていた。
志文は、文衡の慎重な性格と、雷鋒の命令を忠実に守るという「堅実さ」を、最も危険なものと見ていた。そしてそれは同時に、「弱点」でもあるとも理解していた。
(文衡は、『知の城壁』を築き、動かぬ。その城壁を、正面から打ち破るには、多大な犠牲を伴う。故に、城壁の内側から、『亀裂』を入れたいところだが...)
志文の狙いは、文衡の配下の将を討ち取り、文衡の「防御の確信」を揺さぶることであった。
(誰を討つかは、乱戦の中で、文衡の兵の「心の脆さ」を見た上で決めるのがよいだろう..)
志文は冷静に策を練っていた。
かくして、志文の右翼軍は、文衡の軍と近い地に布陣した。
夜明けの光が、白狼山脈の頂を僅かに照らし始めた頃、戦闘は始まった。
中央の平原であった。
汪盃軍が、鉄豪の軍へと、怒涛の強襲を仕掛けた。
「行け!鉄豪の壁に、我々の血潮を刻んでやれ!」
汪盃の温和な顔には、武人としての「正面突破」への執念が燃え上がっていた。
彼の剣は、老練な将の技をもって、鉄豪の兵士たちを次々と薙ぎ倒していく。
鉄豪は、汪盃の予想をはるかに上回る猛攻に、一瞬にして自軍の防御を固めた。
(汪盃め……昨日までの戦いとは、『熱』が違う。志文の策か……否。志文が、このような凡庸な消耗戦を仕掛けるはずがない。その裏に、必ず、この鉄豪の『盲点』を突く、何かがあるはずだ)
鉄豪の落ち着いた気質は、この状況でも変わらなかったが、彼の知性は、志文の意図を見抜けないことへの「深い疑念」に囚われていた。
鉄豪は、自らの「視線」を、汪盃の軍、その一点に集中させ、志文が汪盃に与えた「奇策」を警戒し続けた。
中央での戦闘の開始と時を同じくして、志文の右翼軍もまた、文衡の右翼陣へと猛攻を仕掛けた。
文衡は、鉄豪ほどではないが、守備の名将として知られていた。
彼の陣地は、緻密に計算された配置で、志文の精鋭をもってしても、容易には突破できない堅陣であった。
志文は、文衡の陣地の「堅固さ」と、兵士たちの「疲労の度合い」を冷静に分析していた。
(文衡の防御は、依然として固い。この防御を、正面から打ち破るには、あまりにも多くの犠牲を伴う。まずは、文衡の『心』を折るか...)
その時、志文の隊の最前線で、元絨配下、盧昌が、薙刀を振り回し、猛烈な突撃を敢行した。
盧昌の武は、卓越しているわけではなかったが、その「熱」は、誰にも止められない猛将のそれであった。
「羅仁の犬め!元絨様の仇、晴らしてくれようぞ!」
盧昌の隊は、文衡の第二将潘策の隊へと、単独で突っ込んでいった。
彼の心には、元絨への忠誠心と、元絨の仇である羅仁とその配下を討ちたいという「感情の炎」が燃え上がっていた。
志文は、盧昌の暴走を、遠くから見て、心の中で舌打ちをした。
(盧昌め……「感情」で動いたか...潘策の防陣は、文衡の配下の中でも最も堅固。その用兵は、盧昌の「熱」を、確実に削り取る。このままでは、盧昌の命が危ない...)
志文の胸の中を、将としての冷静な判断と、仲間を見捨てられない情が、複雑に交錯していた。
「宋燕!」
志文は、すぐに宋燕を呼び寄せた。彼の声には、いつになく感情の波が混じっていた。
「急げ。盧昌が、潘策の隊に突っ込んだ。潘策の防陣は堅く、盧昌の武では突破できぬ。盧昌の熱は、潘策には届かぬ!そなたは、すぐに盧昌の援護に回れ。潘策の防御が、盧昌の熱で一瞬でも揺らげば、その隙を逃さず、潘策の首を獲ってこい。ただし、盧昌を、生きて帰せ。それが第一の命だ」
宋燕は、志文の命を、一瞬で理解した。志文が、策ではなく、感情で動いたことを悟り、彼女の心にも、また盧昌の身を案じる熱い思いが宿った。
「承知いたしました、志文様。この宋燕、死力を尽くします!」
宋燕は、槍を手に、文衡の陣地の細い道を選び、潘策の隊の側面へと、風のように駆け出した。
彼女の軽やかな動きは、戦場の重い空気とは対照的であったが、その手に握る槍には、救命と討伐という、二つの重い使命が託されていた。
その頃、潘策の防陣の中では、盧昌が、自らの命の炎を燃やし尽くすかのような壮絶な戦いを続けていた。
彼の薙刀は、血潮で濡れ、その刃は、何度も潘策の兵士たちの盾を打ち砕き、骨を断ち切った。彼の呼吸は、すでに荒々しい獣のようであり、その体は、無数の傷を負い、血の汗を流していた。
盧昌の目に映るのは、元絨が討たれた瞬間の無念の顔と、羅仁の嘲笑であった。
彼は、元絨への忠誠と、羅仁とその配下への憎悪という、ただ二つの感情のみで、自らを突き動かしていた。
潘策は、土塁の裏から、盧昌の猛攻を冷静に見つめていた。彼の用兵は、まさに堅守の鑑であった。
「盧昌め…仇を討ちたいという『感情』だけで、この堅陣に挑むか。悲しい男よ。だが、貴様の熱は、この潘策の知と、文衡様の堅守を試す、最高の糧となる!貴様の命は、文衡様への忠誠の証として、この土の中に埋めてくれる!」
潘策の言葉は、冷徹であったが、彼の心には、盧昌の狂気じみた熱に対する、武人としての敬意も、かすかに宿っていた。
盧昌は、もはや自分の命が尽きようとしていることを悟っていた。
しかし、仇を前に、引き下がることは、今の彼にはできなかった。
「潘策!貴様に、俺の『熱』が敗れるものか!この盧昌の魂を懸けて、貴様防陣を打ち破ってくれる!」
盧昌は、全身の血を沸騰させ、最後の力を振り絞り、薙刀を頭上から振り下ろした。
その一撃は、もはや人間が放つものではなく、怨念と忠誠が形を成した、魂の叫びであった。
その一撃は、潘策の防陣の最前線にいた兵士たちの盾と命を、一瞬にして砕いた。
土煙と血飛沫が舞い上がり、潘策の防御に「一筋の亀裂」が生じた。
しかし、その亀裂は、潘策まで届かなかった。潘策の身を守る最後の精鋭が、盧昌の体へと、無数の刃を突き立てた。その刃は、容赦なく、盧昌の熱い血潮を吸い上げた。
盧昌の体は、一瞬にして硬直した。
彼の瞳には、潘策の防陣を打ち破れなかったことへの武人としての無念と、元絨への言い訳のできない忠誠心が宿っていた。
「……元絨様……お許しを……この盧昌の『熱』は……貴方の『無念』を晴らすには……あまりに……」
盧昌は、その言葉を最後に、力なく崩れ落ちた。
彼の体は、血の塊となり、その血は、潘策の防陣の前の土を、熱い泥のように染め上げた。
盧昌の死は、その忠誠と共に、戦場に横たわった。
彼の無念の叫びは、彼の隊に、熱い涙となって流れ落ちた。
潘策は、盧昌の死を確認すると、安堵の息をついた。
しかし、彼の心には、盧昌の壮絶な熱に対する、武人としての深い感銘と戦慄が残っていた。
「盧昌め……貴様の熱は、この潘策の知を、一瞬でも揺るがした。その忠誠、見事であった。貴様の魂は、我らの勝利の礎となろう」
潘策は、盧昌の壮絶な死を、自らの知の勝利として受け入れようとした。彼の顔には、冷徹さと哀悼が混ざり合った複雑な表情が浮かんでいた。
その瞬間、潘策の隊の側面から、風のように宋燕の隊が突入した。
宋燕は、盧昌が死力を尽くして生んだ、潘策軍の一瞬の隙を見逃さなかった。
彼女の瞳は、潘策ただ一人を捉えていた。
宋燕の槍は、光のように、軽やかに、そして正確に、潘策の防陣の盲点を突いた。
潘策は、宋燕の迅速な動きに、一瞬にして対応を誤った。
(馬鹿な……盧昌の『熱』が、『罠』であったというのか……志文め……貴様は、将の情すらも、策として使うのか!)
彼は、盧昌の死によって生じた兵士たちの弛緩を感じ取っていた。
宋燕の槍は潘策のもとへ、一瞬にして、届いた。
潘策の隊は潘策を助けようにも、精強な宋燕の隊に阻まれ、動けずにいた。
槍と薙刀は、数十合にわたり、火花を散らした。
潘策の薙刀は、文衡から受け継いだ堅実な守備を体現していたが、宋燕の槍は、自由奔放にして変幻自在の動きで、潘策の防御の型を崩していった。
潘策は、自らの武と用兵の全てを注ぎ込み、宋燕の槍を受け止めようとした。
彼の顔には、文衡への忠臣としての意地が刻まれていた。
(潘策殿。貴方は、忠臣。その忠誠心は、武人として尊敬します。しかし、私もまた志文様に絶対の忠誠を誓っているのです)
宋燕の槍は、まさに電光石火であった。その速さはとても潘策が防御できるものではなかった。
ついに、潘策は防御の型を完全に崩した。
潘策は、宋燕に、武人としての敗北を悟った。
彼は、自らの防御の堅さに、固執しすぎたことを後悔した。
宋燕の槍は、潘策の防御を打ち払い、その隙を逃さず、潘策の心臓へと、深々と突き込んだ。
潘策の体は、一瞬にして硬直した。彼の目からは、一筋の涙が流れ落ちた。それは、文衡への忠誠と、盧昌の熱に敗れた武人としての無念の涙であった。
「……文衡様……申し訳ありません……この潘策……ここが潮時のようです……くれぐれも伯志文を侮らないよう……」
潘策は、その言葉を最後に、力なく崩れ落ちた。
彼の血は、盧昌の血と混ざり合い、湿った土の中に、静かに吸い込まれていった。
潘策の死は、潘策の隊の動きを止めた。怒号と馬蹄の中で、その戦場は静寂に包まれていた。
宋燕は、潘策の首を獲ると、すぐに隊を撤退させた。
志文は、宋燕から、潘策戦死の報を聞くと、すぐに全軍を撤退させた。
その撤退は、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、迅速で冷静な離脱であった。
汪盃もまた、志文と時を同じくして、全軍を撤退させた。
鉄豪は、汪盃の攻勢が予想をはるかに上回っていたため、追撃をせず、さらに防御を固めることを選んだ。
(汪盃の奴め……何を考えている。この鉄豪の堅陣を前に、なぜ、これほどの『熱』を見せるのか……志文の策か……否。志文が、汪盃のような凡庸な武を、無駄に使うはずがない。全てが、雷鋒様の『理性』を揺さぶるための、『静かなる毒』か……)
鉄豪の知性は、志文の策の深さを測りかね、その結果、「動かないこと」が、「最も合理的」な防御であるという判断に、囚われ始めていた。
彼の理性は、既に志文の「静かなる毒」の餌食となっていたのだ。
文衡は、志文の総攻撃を凌いだことに、さらに慢心した。
彼の心には、盧昌と潘策の死が、「無益な消耗」であるという、「絶対の確信」が刻まれていた。
「見たか、瞭商!志文の奴は、またしても撤退した!この防御は、志文のどんな策も、無に帰すための『絶対の正義』だ!潘策の死は、防御に隙ができたからこその当然の結末だ!さらに堅固にした、この文衡の防御を、志文は決して打ち破れぬ!」
文衡の瞳には、勝利の光が宿っていたが、それは、自己の愚かさを照らす、冷たい光であった。
彼の慢心は、もはや誰も止めることができない、絶対的な信仰となっていた。
彼は、忠臣潘策の死が、自らの慢心が生んだ最大の亀裂であることに、まだ気づいていなかった。
雷鋒は、志文・汪盃の軍が寡兵であるにもかかわらず、攻勢をかけた意味をはかりかね、こちらも攻勢をかけるべきか悩んでいた。
彼の知性は、志文の策の「核心」を、依然として捉えきれていなかった。
彼は、文衡の「防御の成功」の報告を受け、「動かないこと」への確信を、無意識のうちに強めていた。
夜明けが近づいていた。
その夜明けの光は、勝利を告げるものではなく、更なる絶望を告げる光であった。
白狼山脈に夜明けが訪れ、戦場の空気は淡々としていた。
四日目を迎えても、空はまだ鉛色の薄闇を纏っていた。
志文の右翼軍は、静かに布陣を敷いた。
中央では、汪盃軍が鉄豪の陣地へと、再び血を吐くような強襲を仕掛ける準備を整えていた。
志文の冷徹な策は、既に第二段階へと移行していた。
彼は、自らの幕舎の中で、林業に、最後の確認をしていた。黒い仮面から覗く彼の瞳は冷徹なそれであった。
「林業。迅速さと隠密が、この策の命脈だ。鉄豪は、汪盃の攻勢に視線を釘付けにされている。そこを、そなたの刃で、根底から打ち砕け」
林業は、感情の読めない、低く冷徹な声で応じた。
「承知いたしました、志文様」
林業は、一礼すると、まるで影が滑るように幕舎を後にした。
彼の背中は、冷たい決意そのものであり、その動きには、志文の戦術を完璧に実行できる知と武が宿っていた。
辰の刻。
中央の平原では、汪盃軍が、鉄豪の堅陣へと猛攻を仕掛けた。
「行け!今日こそ、鉄豪の堅壁に、致命的な亀裂を入れてやれ!この老骨に皆、付き合うのだ!」
汪盃の剣は、老練な将の経験と覚悟をもって、鉄豪の兵士たちを次々と薙ぎ倒していく。
彼の温和な顔は、武人としての熱情に燃え上がっていたが、その実、鉄豪の視線を釘付けにするという冷徹な使命を帯びていた。
鉄豪は、土塁の上から、汪盃の連日の猛攻を冷徹な瞳で見つめていた。彼の知性は、依然として、志文の策の核心を捉えきれていなかった。
(汪盃め……やはり昨日と同じ、凡庸な消耗戦だ。志文は、この消耗戦の裏に、何を隠している……この鉄豪の視線は、中央から動かぬ。貴様の奇策は、この防御の前には無力だ)
鉄豪は、動かないことが最善の防御であるという固定観念に囚われていた。
彼の全神経は、正面の汪盃軍に集中し、側面の軽堂隊への警戒を、決定的に弛緩させていた。
その頃、林業の隊は、汪盃の軍と志文の軍の間にある、白狼湿地の複雑な地形を最大限に利用し、音もなく、迅速に、鉄豪の側面へと接近していた。
林業は、黒い仮面の下で、軽堂の隊の防御の隙間を、息を殺して見張っていた。
午の刻(正午頃)。
太陽が白狼山脈の頂に最も高く昇り、戦場を熱い光で照らし始めた頃、林業の刃は動いた。
「狩るぞ」
林業の冷徹な声を合図に、林業の隊は、嵐のように、軽堂の隊の防御の壁を突き破った。
鉄豪配下、軽堂は、その時、最前線で兵士たちを鼓舞していた。彼は、戦場では慢心せず、堅実に戦う将であった。
「心配するな。俺たちの壁は、鉄豪様の知恵でできている。志文の策なんざ、ひょいと躱してやろう!ほら、もっと笑顔でいけ!」
彼の朗らかな声が、兵士たちの不安を和ませていた。軽堂にとって、兵士たちの笑顔こそが、防御の要であった。
その安堵を、林業は見逃さなかった。
林業の薙刀は、光のように速く、軽堂の防御を打ち破り、軽堂の胸元へと深く食い込んだ。
軽堂は、一瞬にして、全身の血潮が凍りつくのを感じた。彼の顔から、笑顔が消え失せた。彼の瞳には、林業の冷徹な仮面と、遠くに見える鉄豪の堅陣だけが映っていた。
「……林業……お前か……志文の策の……闇を翔ける刃は……」
彼の声は、途切れ途切れであった。林業は、黒い仮面の下で、感情の読めない瞳を軽堂に向けた。
「……貴様は、堅実な将であった。だが、志文様の策は、貴様の堅実さすらも利用する。無念であろう……仲間を守るという義理、この林業も理解している。だが、志文様への忠誠は、それを遥かに上回る」
林業は、冷徹にそう告げた。軽堂は、林業の言葉に、武人としての敗北を悟った。
彼の心は、最後の瞬間に、深い悲哀に包まれた。
「……鉄豪様……すみません……俺が……守りを……緩ませていたばかりに……この命で、償うことで……お許しを...」
軽堂は、自らの防御が一瞬でも緩んだことが、全軍にとって致命的な亀裂を生むことを悟っていた。
彼の無念の涙は、笑顔の下に隠されていた忠義の結晶であった。
彼は、力なく、その場に崩れ落ちた。その体は、湿った土に静かに吸い込まれていった。軽堂の死は、鉄豪の堅陣に、心の動揺という、修復不能な亀裂を生んだ。
林業は、軽堂を討つと、音もなく、迅速に、戦場から離脱した。
鉄豪は、中央の平原で、軽堂戦死の報を聞き、激しい怒りに燃え上がった。
彼は、激しい動揺に囚われた。
(志文め……貴様は、凡庸な汪盃の熱と、林業の冷徹な刃で、この鉄豪を欺いたというのか!軽堂.....許せ.....この鉄豪が、志文の策に敗れたゆえだ....)
中央の平原では、汪盃の軍が、鉄豪の軍の動揺を逃さず、一気に攻勢をかけた。
「行け!動揺しているぞ!勝利は、我々の手中にある!」
汪盃の老練な武と熱情は、鉄豪の防御に次々と亀裂を入れていく。
その結果、鉄豪の軍は、二万にまでその数を減らした。しかし、鉄豪の堅守は、依然として崩れていなかった。汪盃の軍も、鉄豪の頑強な防御に苦戦し、その数を二万にまで減らしていた。
両軍は、疲労の極限に達していた。
志文は、林業からの報を聞くと、満足の笑みを浮かべた。
「林業、見事であった。鉄豪に、『動かないことの恐怖』を植え付けるという目的は、達成された」
志文は、日の入り一刻前、全軍に撤退の命令を発した。
文衡軍の残党を率いる将は、志文の撤退を確認すると、追撃をせず、守りを固めることを選んだ。
(志文め……またしても撤退したか...文衡殿の堅守の理念は、絶対だ。動かないことが、最善の策なのだ...)
文衡の配下の将たちは、文衡の慢心をそのまま受け継いでおり、志文の策の核心を、依然として捉えきれていなかった。
その夜、志文は、羅清と李岳という、二人の軍師を呼び寄せた。
「羅清、李岳。そなたたちに、命を与える。そなたらの武と知は、汪盃殿の軍にあって、一筋の光となるだろう。汪盃殿に進言し、そなたたちの隊を、汪盃殿の軍に組み込ませることを了承してもらえ。これで汪盃殿の軍も鉄豪の軍と戦いやすくなるはずだ」
李岳は、常に冷静な表情を崩さず、志文の言葉の裏に隠された深い意味を一瞬にして理解した。
「承知いたしました、志文様。雷鋒が鉄豪配下軽堂の死により、我らと汪盃殿の連携を止めるために、汪盃殿の軍に狙いを定めるであろうことを、完全に読み切ったのですね。この李岳、汪盃殿の軍で、殿の盾となりましょう」
羅清は、穏やかな表情を崩さず、静かに頷いた。
「この羅清、汪盃殿の軍で、剣となり、鉄豪の堅陣に新たな亀裂を入れてみせましょう。万事お任せを」
志文は、冷徹な策の核心を、羅清と李岳という、二人の軍師に託した。
彼の策は、雷鋒の知を完全に読み切っていた。
志文の読み通り、雷鋒は、鉄豪配下軽堂の死により、志文と汪盃の連携を阻止する必要性を感じていた。
(志文め……貴様は、寡兵である自軍を、二つに分けるという愚行は犯すまい。ならば、凡庸な汪盃の軍を壊滅させ、志文の策の土台を崩すのが、最も合理的な策となる)
雷鋒の冷徹な知性は、凡庸な汪盃の軍を壊滅させることに狙いを定めた。
志文は、羅清と李岳を汪盃の軍に組み込ませることで、凡庸であった汪盃の軍を、精鋭へと変貌させた。これは、雷鋒の知の盲点を突く、神算鬼謀の一手であった。
四日目の夜が、白狼山脈を深く覆う頃、志文の策は、新たな局面を迎えた。
志文の道は、勝利へと、静かに、そして確実に、開かれようとしていた。




