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#1-24 昇華された毒

羅仁が散ってから、二度目の夜明けが白狼山脈を迎えようとしていた。

山の麓に漂う朝靄は、前日に流された血の生々しい記憶を凝縮しているようであった。

玄岳国軍の右翼陣地は、一触即発の緊張感に満ちながらも、奇妙なほど静まり返っていた。

羅仁の死と、総軍師・雷鋒から文衡に課せられた命令がもたらした、静かなる絶望の影であった。

副将・文衡は、幕舎の蝋燭が燃え尽きるのを待つかのように、一睡もせずに軍図を見つめていた。

彼の理性は、既に雷鋒の厳命という名の鉄枷によって、身動きが取れない状態にあった。

(羅仁殿は、武人の血潮に駆られ、無益な死を選んだ。その過ちを繰り返せば、俺の命どころか、残された右翼の全てが無価値な消耗として雷鋒様に切り捨てられる、雷鋒様はそういうお方だ...)

文衡の脳裏には、雷鋒の非情な言葉が、石を打ちつけるように響き渡っていた。

「もし、一兵たりとも戦略上無駄な犠牲を出せば、貴様の命はない」。

文衡にとって、羅仁の死は悲劇であると同時に、自らの生存を賭けた究極の教訓であった。

彼は、羅仁の焦燥という「熱」とは無縁の、感情を完全に排した理性の極致に身を置くことを強いられていた。

彼の目的は、衛国軍を打ち破ることではない。三日目の総攻撃までの二日間、衛国軍のあらゆる攻撃を、「戦略的価値のない無益な行動」として処理し、防御し続けること。

それこそが、文衡に課せられた唯一の使命であった。

文衡は元々、鉄豪ほどではないにしろ、堅陣を組む、守戦が得意であった。しかし、志文の魔の手の着地点がわからず、防御の的を絞れずにいた。

文衡は、自らの重装歩兵隊の将である瞭商、潘策、臥延、兎機らに、指示を下した。

「羅仁殿の遺した八百の騎馬隊は、我が陣地の後方に厳重に配置せよ。彼らの命は、雷鋒様の策の戦略的資源として温存されなければならない。いかなる挑発にも、彼らを動かすことを許さぬ。動かせば、それは無駄な犠牲となる」

文衡の防御策は、徹底した持久戦であった。

彼は、自軍の機動力のなさを逆手に取り、正面突破を不可能にする泥の壁を築き上げることを命じた。

「瞭商。正面の土塁は、三重に張り巡らせ、敵の重装歩兵の突撃に、半日耐えうる強度を持たせろ。我々は、一歩も動かぬ。潘策、臥延。山脈に面した隘路には、逆茂木を幾重にも敷設し、衛国軍の動きを封鎖する。敵が仕掛けてきても、決して防御陣から一歩も出るな。彼らの攻撃を全て無に帰すのだ」

文衡の瞳には、羅仁の死と、雷鋒への絶対の忠誠が入り混じった、冷たい光が宿っていた。彼は、自らの命を懸け、志文の策を全て防御陣の中で腐らせるという、静的で非情な消耗戦を選択したのである。

衛国軍の陣地では、志文が、玄岳国軍の動きを静かに見つめていた。

羅仁を討ち取ったことによる衛国軍の士気の向上は明らかであったが、志文の表情には、一抹の緩みもなかった。

(雷鋒の知性は、羅仁の死という重い代償を、既に合理的な損失として消化した。そして、その損失を文衡に背負わせることで、文衡を極限の慎重さという檻に閉じ込めた。文衡は、雷鋒の厳命がゆえに、絶対に動かない)

志文の狙いは、文衡の防御を物理的に崩すことではない。

文衡の「完璧な防御」を、彼の部隊を戦局に寄与させないための足かせとして利用することであった。

「盧昌、韓毅、葉迅の各隊から、精鋭を選抜せよ。我々は文衡の陣地に対し、戦略的価値のない攻撃を仕掛け続ける。文衡に動くことが無益であり、危険であると、繰り返し認識させるのだ」

志文が編み出したのは、文衡の判断力を麻痺させる静的重圧せいてきじゅうあつの策であった。

これは、相手に継続的な局地戦を仕掛け、小さな消耗を積み重ねることで、相手の理性的な判断を揺さぶり、自滅へと追い込む戦術であった。

「盧昌隊の精鋭は、山脈沿いの隘路の防御柵を徹底的に破壊せよ。玄岳国軍が築城に集中している隙を狙い、投槍や矢を放て。決して本格的な戦闘に持ち込むな。文衡は、わずかな流血でも雷鋒に無駄な犠牲と判断されることを恐れるあまり、動けなくなる。彼の防御陣の構築を遅延させ、兵を精神的に疲弊させよ」

志文の策は、文衡を二者択一に追い込んだ。

隘路の防御柵の破壊を阻止するために兵を出せば、それは羅仁と同じく兵の損失という無駄な犠牲に繋がる。阻止しなければ、防御陣の構築が遅延し、それは雷鋒の求める完璧な防御体制の戦略的機能不全という損失となる。

文衡は、どちらを選んでも、犠牲を免れない。そして文衡はどちらが戦略的に効果的なのかが判断できなかった。

中央の防御将軍・鉄豪の配下である陣護は、文衡の要請を受け、右翼と中央の接続部、山脈の隘路で防御柵の敷設作業を指揮していた。鉄豪は、玄岳四堅の一人として中央で汪盃軍と厳しく睨み合っており、その鉄壁の軍は、そう簡単に動くことはない。陣護は、その鉄豪軍の背後の安全を担う重要な要であった。

陣護の隊は練度が高かったが、羅仁の死と防御柵の未完成という脆弱性を抱えていた。その瞬間、山脈の尾根から、数百の衛国兵が突如として姿を現した。彼らは、盧昌隊の精鋭であり、防御柵の未完成部分を狙い、投槍と弓で一斉に攻撃を仕掛けてきた。

彼らの攻撃は、兵士の命そのものよりも、防御柵の木材や土嚢といった資材の損耗と、作業を指揮する陣護の存在を狙っていた。

「敵襲!伏せろ!防御を固めろ!持ち場を離れるな!」

陣護は叫び、自らの体を盾にするように、防御柵の隙間を縫って飛んでくる投槍から、配下の兵士を庇った。投槍が、陣護の右肩を深く貫いた。

「ぐっ……!」

陣護は呻き声を上げ、膝から崩れ落ちた。傷口からは、どす黒い血が噴き出した。

衛国軍は、陣護の負傷という目標を達成したと判断すると、すぐに山脈の奥へと引き上げていった。

それは、志文の命令通りであった。陣護は、自らが負傷したことで、早くも右翼の防御に戦略上の欠陥を生じさせてしまったことを悟った。

文衡は、陣護軽傷の報を聞き、その場で立ち尽くした。

陣護は、文衡の防御策の要である隘路の構築を担っていた。なにより、陣護は、右翼の防御柵の穴を埋めるため、鉄豪から一時的に借り受けていた、鉄豪が信を置く将であった。

その負傷は、右翼の隘路防御という戦略的機能に大きな遅延を生じさせ、文衡の理性の檻を激しく揺さぶる、雷鋒の言う「無駄な損失」の始まりであった。

(志文……貴様は、本当に冷酷な男だ..羅仁殿の死という「熱」で動揺させ、まさか我が隊ではなく、間にいる陣護殿を狙い、負傷させるという「消耗」で俺の計算の檻を揺さぶる。だが、動かん。動けば、羅仁殿と同じ過ちを犯し、俺の命を懸けたこの防衛戦は崩壊する)

文衡は、防御を固める以外に、選択肢がなかった。彼の重装歩兵隊は、機動力がない。一度動けば、志文の罠の餌食となり、羅仁と同じく戦略上無意味な流血を招くことを恐れたからだ。

「瞭商!潘策、臥延に命じ、陣護殿の隊に、兎機うきの予備兵を全て援軍として送れ!防御の完成を最優先させる。兎機隊に重ねて命じる。敵が隘路を攻撃しても、決して防御陣から一歩も出るな!」

正午。

韓毅隊の精鋭が、文衡の陣地を睨みつけた。彼らは、文衡の陣地の正面を何度も往復し、投槍や矢を放ちながら、文衡の重装歩兵隊を執拗に挑発した。

「玄岳国の臆病者!副将羅仁は、立派に戦ったぞ!貴様らは、なぜそこに立っている!出てこい!」

文衡は、最前線に立ちながら、内側から湧き上がる怒りと焦燥を、冷たい理性で押し殺した。

「動くな、兎機!士気の低下は、三日目に雷鋒総軍師が回復する。だが、無駄な犠牲は、取り返しがつかぬ!奴らの挑発は、戦略的価値のない雑音にすぎん!」

文衡の極限の慎重さという計算は、右翼を守る唯一の道であったが、同時に、文衡の隊が、三日目まで戦局に何の利点も生み出せない「静止した部隊」となることを意味していた。

志文は、文衡のこの「静止」を見て、満足そうに頷いた。

文衡は、雷鋒の厳命という理性の檻の中で、完全に身動きが取れなくなっていた。

志文の静かなる毒は、玄岳国軍の右翼を確実に侵食し始めていたのである。

文衡の理性は、既に熱を失った氷塊であった。

羅仁の死は、文衡にとって、武人の血潮が招いた無益な消耗という、究極の教訓として刻まれていた。

羅仁の熱は、雷鋒の知が許さぬ無価値な血であった。文衡は、その無益な消耗を、自らの存在を賭して、断固として拒否しなければならなかった。

文衡にとって、戦場で最も恐ろしい敵は、志文の策でも衛国軍の武でもなく、雷鋒の厳命であった。その厳命が、文衡の武人としての矜持を、防御の奴隷へと変貌させていた。

「もし、一兵たりとも戦略上無駄な犠牲を出せば、貴様の命はない」。

この言葉が、文衡の脳裏には、鋼鉄の楔となって打ち込まれていた。

彼の生きる道は、ただ一つ、防御を固め、三日目の総攻撃まで完全な防御陣として右翼を温存させること。動くことは、即ち愚であり、死であった。

その文衡の極度の緊張と恐怖を、志文は静かな毒で狙い撃ってきていた。

午の刻を過ぎ、未の刻が始まった。白狼山脈の影が、戦場に濃く落ち始めた頃。

志文は、静かに林業りんぎょうに命じた。その声は、深遠で、全ての計算を内包していた。

「林業。未の刻の始まりと共に、攻勢を強める。盧昌隊を投入せよ。そして、派手に負け続けろ。文衡に、勝利による動かぬことの利を与え続けるのだ。それは、文衡の恐怖を慢心に変える、完璧な毒となる」

志文の策は、文衡の極度の緊張を解き放つことにあった。極度の緊張は、やがて疲労を生み、判断の誤りに繋がる。その判断の誤りを、勝利という名の確信に変える。それが、志文の狙いであった。

林業は、志文の意図を深く理解した。彼は、盧昌に直接、その非情な任務を伝えた。

「盧昌殿。貴様の武は、衛国軍随一。だが、今日の任務は、武を尽くし、策に敗れることだ。文衡の防御は、堅固である。貴様は、その堅固さに、全力で頭を打ち付けろ。そして、守りを破れないと知った瞬間、速やかに撤退せよ。その撤退こそが、文衡の知性を打つ、最高の策となる」

盧昌は、一瞬、武人としての屈辱に顔を歪ませた。

自分の武が、敵将の心理操作の道具として使われる。それは、将の命を懸けた戦場において、最も耐え難い屈辱であった。しかし、彼は、志文の策の深遠さと、その目的が衛国の勝利という大義にあることを悟り、その屈辱を武人の誇りとして受け入れた。

「承知いたしました。林業殿。この盧昌、武を尽くし、敗北を演出することで、志文様の知に報いましょう」

未の刻。盧昌率いる衛国軍の精鋭三千が、文衡の右翼陣地へ向けて進発した。盧昌は、志文からの「全力で戦え」という命令に、武人としての血潮をたぎらせながらも、その敗北の役割を胸に秘めていた。

(志文様の策は、防御の堅さを、文衡に絶対的な正解だと思わせること。ならば、俺は、無益な特攻を演じきらねばならぬ。この土塁は鋼鉄のように硬い。どれだけ兵をぶつけても、一歩も引かぬ。その不動の壁を、文衡に慢心させる)

盧昌は、文衡が最も強固だと確信している正面の三重土塁の最も強固な部分に、部隊を突撃させた。その突撃は、昨日よりもさらに熾烈であった。

盧昌の武は、偽りの熱ではなかった。彼は、本気で土塁を突破しようと、将の命を懸けて戦った。しかし、それは志文の策の演出であった。

玄岳国軍の右翼陣地は、再び、地を揺るがす轟音と鉄の衝突音、そして絶叫に包まれた。

土塁の上からは、瞭商、潘策、臥延らが、重装歩兵隊を率い、冷酷なまでに整然とした槍衾で迎撃していた。彼らの槍衾は、まるで鋼鉄の針山のように、盧昌隊の突撃を次々と粉砕した。

文衡は、幕舎を出て、最前線を見つめた。

潘策が、土塁の上から冷静に指揮を執る姿を見て、文衡の心には、絶対的な安堵が広がった。その安堵は、羅仁の死と雷鋒の厳命から解放されたことによる、極めて危険な兆候であった。

文衡の理性は、志文の攻撃が「戦略的価値のない無益な行動」であるという、確信へと傾き始めていた。

「見てみろ、瞭商!奴らの攻撃は、昨日と何ら変わらぬ。羅仁殿のような、一点に集中する熱がない。ただの消耗だ。志文の知性は、凡庸であった。防御を固めるという、我々の策が、既に奴らの策を上回っていたのだ!」

瞭商は、重装歩兵の槍衾を指揮しながら応じた。

「さすが文衡様。我々の堅陣は、志文の取るに足らない攻撃を、完全に無に帰しています。盧昌め、全力を出しているようですが、まるで壁に頭を打ち付ける蟻のようです。この凡庸な策では、我が軍の防御を破ることはできませぬ」

盧昌の攻撃は、確かに激しかった。

三千の衛国兵は、土塁の泥にまみれ、血を流しながらも、一歩も引かなかった。彼らは、将である盧昌の「全力を尽くせ」という命令に忠実であり、その戦いは、将の命を懸けた、本気の攻撃であった。しかし、その攻撃は、堅牢な土塁と、潘策の冷静な指揮という二重の壁の前で、次々と砕け散った。

盧昌は、全戦線で均等に兵をぶつけさせた。これこそが、凡庸さの演出であった。彼は、武の力を均等に分散させることで、一点突破の熱を意図的に消し去った。

文衡は、その戦い方を見て、さらに確信を強める。彼の目には、盧昌の均等な消耗戦は、知性の欠如と映った。

「ふん。愚か者め。一点突破の勇気もなく、全戦線で消耗するとは。志文の知性は、羅仁の熱狂にすら及ばぬ」

羅仁の突撃は、無益な死であったが、その一撃には、玄岳の将としての熱と武が凝縮されていた。だが、盧昌の攻撃は、ただの泥の山であった。その泥の山を打ち破ることができぬ、盧昌の凡庸さを、文衡は無意識に侮ったのである。

この侮りこそが、志文が狙った慢心の第一歩であった。文衡は、自分自身の動かぬことという選択が、絶対的な正解であるという独善に、完全に浸り始めていた。

申のさるのこくに入り、日没が近づき、戦場は濃い影に包まれ始めていた。

盧昌の三千の兵は、既に半数近くが傷つき、疲労は極限に達していた。盧昌は、土塁の泥の中で、自らの血を流しながら、敗北の演出の最適の時を待っていた。

これ以上、兵を消耗させれば、志文の策の「撤退による慢心」という効果を損なうと判断した。彼は、自らの武人としての誇りを、志文の策の成功という、より大きな将命のために押し殺し、撤退の合図を出した。

「全軍、速やかに撤退!陣形を崩すな!我々の武は、策に敗れたのだ!」

衛国軍は、一糸乱れぬ動きで、土塁の前から離脱していった。

彼らの撤退は、敗走ではなく、全力を出し尽くした後の、冷静な離脱であった。その冷静さが、文衡には凡庸な策の限界と映った。

玄岳国軍の右翼陣地は、一瞬の静寂の後、狂喜の歓声に包まれた。その歓声は、勝利への熱狂であり、同時に恐怖からの解放であった。

「勝った!盧昌隊を撃退したぞ!」

「志文の総攻撃を凌いだ!玄岳軍の勝利だ!」

文衡は、その歓声を聞き、幕舎の中で深く息を吐いた。彼の顔には、もう恐怖の影はなかった。代わりに、絶対的な自己肯定の光が宿っていた。

(盧昌隊の撤退。将まで討ち取れなかったが、彼らは全力を出し尽くした。志文の策は、全て、この防御によって無に帰したのだ。動かないことこそ、最大の戦略であると、貴様らは証明した。動けば、それは無駄な犠牲となる)

文衡の口調は、既に絶対的な確信を帯びていた。彼の理性は、雷鋒の厳命という鉄枷から、自己肯定という名の絹の鎖へと変わっていた。

彼は、防御し、動かぬことこそ、雷鋒の知に最も忠実な行動であり、そして自分自身の知が、志文の知を上回っていることの証明だと信じ込んだ。

潘策は、土塁の上から文衡の幕舎へ駆け戻り、興奮した面持ちで文衡に報告した。その目には、勝利への熱と慢心が灯っていた。

「文衡様!我が隊は、志文の総攻撃を完全に凌ぎました。盧昌め、全力を出し尽くしたようで、撤退は潰走に近いものでした。もう、彼らに策はありませぬ。動かないことこそ、最善の策です!明日もこの防御を続ければ、我々の右翼は絶対に破られませぬ!」

潘策の言葉は、文衡の独善をさらに強固なものにした。

「うむ。潘策。そなたらの働き、見事であった。動かないことこそ、最大の戦略であると、そなたらは証明した。明日も、我々は防御に徹する。三日目の総攻撃まで、一歩たりとも動かぬ。動けば、それは無駄な犠牲となる」

文衡は、夜空を見上げた。月は、まだ半分しか出ていなかった。

月の光は、白狼山脈の尾根を、銀色に染めていた。その冷たい光の中で、文衡の心は、絶対の安堵と独善に満たされていた。

志文の毒は、完璧に文衡の心を蝕んでいた。

勝利という名の麻薬は、文衡の理性の檻を、絶対に破られない慢心の城壁へと変質させたのだ。文衡は、動かぬことこそが最善だと、無意識に侮ったのである。

彼の頭の中では、志文の策は羅仁の死という壮絶な犠牲の割には、凡庸で底が浅いものとして、既に完結していた。

衛国軍の陣地では、志文が、静かにその報を聞いていた。盧昌隊の冷静な撤退と、玄岳国軍の狂喜の歓声。

夜叉が、静かに問うた。

「盧昌隊の撤退は、文衡に勝利を確信させたでしょう。しかし、文衡は、羅仁の死という恐怖から、依然として動かぬでしょう。その静止を、主はどのように利用されるつもりですか」

志文は、夜空を見上げ、何も言わなかった。

彼の瞳には、文衡の心理の動きが、手に取るように見えていた。その動きは、志文の予測通り、慢心という名の死への道を辿っていた。

「夜叉。文衡は、雷鋒の厳命という枷によって動かないのではない。動かないことが、最も賢明な策であると、自らの意志で確信したのだ。その確信こそが、慢心だ。彼の眼には、俺の策は凡庸と映っている。羅仁の突撃のような熱がない、底の浅い消耗戦だと」

志文は、夜叉に背を向け、軍図に向かい直った。

「文衡の防御は、既に罠となった。彼の動かぬ城壁は、自己の独善によって築かれたもの。ならば、俺は、その凡庸さを、さらに塗り固めてやる。明日、我々は、文衡の完璧な防御という罠を、逆に利用する。文衡が動かぬなら、動かす必要はない。我々が動くべき場所は、文衡の目の前ではない」

志文の瞳に、再び冷徹な光が宿った。それは、計算と非情が混ざり合った、智者の光であった。

(文衡よ。貴様は、動かぬことが正解だと確信した。ならば、貴様の防御の背後を、俺が無防備な空白として利用させてもらう)

志文は、深く息を吐き、静かに軍図に、次なる一手となる夜叉隊の動きを記した。それは、文衡の慢心の城壁に、致命的な一撃を加えるための、静かなる毒であった。

夜の闇が、志文の冷徹な知性を包み込み、二日目の戦いは、静かに幕を閉じた。

文衡の独善と慢心は、夜の闇の中で、絶対的な真実へと変質していた。彼の頭の中では、志文の凡庸な策は、既に過去の遺物であり、動かぬ防御こそが、唯一の真実であった。その独善こそが、三日目の夜明けと共に、文衡自身の首を絞める鋼の枷となるのであった。

夜は深く、白狼山脈の尾根を越える風は、凍てつく刃のように、玄岳国軍の陣地を打った。

文衡は、幕舎の中、硬い椅子に座り、火鉢の炎を見つめていた。彼の周囲には、勝利の熱狂が去った後の、重苦しい静寂が支配していた。彼は、勝利を掴んだにも関わらず、その心は、絶対的な安堵と、微かな違和感の狭間で揺れていた。

(志文の策は、本当に凡庸であったのか?あの男が、羅仁の死という大きな代償を払わせた後に、ただ消耗戦を仕掛けてくるだけなのか?羅仁の熱を、なぜあの男は、一点突破に利用しなかった?)

文衡は、自らの知が、志文の知を上回ったという確信と、志文の底知れぬ深さへの微かな疑念に苛まれていた。その疑念は、夜の闇と共に、文衡の理性の壁を静かに侵食しようとした。

しかし、その疑念を、文衡はすぐに理性で叩き潰した。

(否。動くことは、雷鋒様の厳命に背くことだ。羅仁の死は、動いたことが招いた結果だ。潘策、瞭商、臥延の働きを見よ。彼らは、防御に徹し、無駄な犠牲を出さなかった。動かないことこそ、最も賢明な策であると、天が証明したのだ)

文衡の独善は、もはや宗教的な信仰に近いものとなっていた。

彼の防御への固執は、自己保身と雷鋒への恐怖、そして勝利という麻薬によって、絶対的な真実へと変質していた。彼は、動かぬことが、単なる命令ではなく、戦術の極意であると信じ込んだのであった。

彼は、夜通し、防御陣地の再構築を命じた。土塁をさらに高く、柵をさらに厚くした。さらに落とし穴や逆茂木を、隙間なく配置させた。その作業は、兵士たちの疲弊を無視した、狂気的なまでの徹底ぶりであった。

「瞭商。夜明けまでに、全ての防御設備を昨日よりも二割増しで強化せよ。敵は、我々の堅固な防御に、必ずや新たな攻勢をかけてくる。我々は、それを完璧に凌がねばならぬ。この土塁は、動かぬことの絶対的な正義を証明する、鋼鉄の城壁としなければならぬ」

瞭商は、疲労の色を隠せないながらも、文衡の絶対的な確信に押され、命令に従った。文衡の独善は、彼の配下の将兵たちにも、絶対的な防御という信仰を植え付け始めていた。

「承知いたしました。文衡様。我々の防御陣は、鋼鉄の城壁となるでしょう。志文のどんな策も、この城壁を打ち破ることはできませぬ。我々は、動かぬことで、全てを凌ぎ切る」

文衡は、瞭商の言葉に、満足そうに頷いた。彼の瞳には、自己の知への絶対的な陶酔が宿っていた。

(羅仁の熱は、無価値な血となった。だが、俺の冷たい理性は、勝利を呼び込んだ。雷鋒様。貴方の厳命は、俺の知を、完璧な防御の将へと育て上げた。貴方の策を、俺は完璧な防御で支えきって見せる)

文衡の心の中で、雷鋒への恐怖は、自己の知性への陶酔へと、緩やかに変貌していた。

しかし、その陶酔と慢心こそが、志文が狙っていた最大の獲物であった。志文は、文衡の動かぬ城壁の背後に、無防備な空白が生まれることを知っていた。そして、その空白を突くための静かなる毒を、既に白狼山脈の尾根に放っていた。

文衡の完璧な防御は、動かぬことという独善によって、致命的な罠へと変質していた。

文衡は、自らの絶対的な防御に勝利を確信し、動かぬことを絶対の正解と信じ込み、志文を無意識に侮った。その慢心こそが、三日目の戦局を、玄岳国軍の崩壊へと導く、最大の要因となるのであった。


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