#1-20 智謀の頂上
王都全域で袁興一派の処断と後処理が進行する中、伯志文の私邸は、昨夜の血生臭い出来事とは完全に隔絶された、平穏な朝を迎えていた。
志文は、李岳に最終的な管理指示を終え、夜明けと共にこの邸宅に戻った。
冷たい戦場の空気をまとった志文にとって、この家だけが、彼が守るべき全てを映し出す、唯一の安息の地であった。
居間に足を踏み入れた瞬間、志文の頬をかすめたのは、焼きたての米粉の餅と、淹れたての芳醇な薬草茶の香りだった。彼の帰宅を察知していた二人の妹の姿が、彼の目に入る。
長妹の月華は、白い衣を優雅に着こなし、すらりと伸びた背筋を保ちながら、卓の上で優雅に茶器を整えていた。
彼女の動作は静かで丁寧だが、その深い眼差しには、兄を一晩中案じ続けた、隠しきれない心配性の光が宿っていた。
「お兄様。おかえりなさいませ」
月華は、志文に深々と一礼したが、すぐに志文の顔色を窺うように、瞳を細めた。
「お身体は大丈夫ですか。お姿は変わりありませんが…」
月華は、兄が昨夜、極めて重大で危険な公務に従事していたことを知っている。
彼女は気丈に振る舞うが、その言葉には、張り詰めた緊張の糸が隠されていた。
「一晩中、王都の空が重々しく、私まで胸が締め付けられるようでした。心労がおありなのではありませんか?けがはなさっていませんか?」
志文は、妹の気遣いに心が温まるのを感じた。
「心配ない、月華。昨夜のうちに全て片付いた。そなたたちが安らかに過ごせるように、王都に長らく燻っていた内患を、完全に払拭したのだ。もう、何も案じる必要はない」
志文は、妹の不安を取り除くように、努めて穏やかな声で答えた。
彼は、月華の優しく、しかし強すぎる兄想いな一面をよく知っていた。彼女に余計な心配をかけさせたくない一心だった。
その時、寝間着姿のまま、愛らしい次妹の雪華が、居間の隅の衝立から、ふにゃりと現れた。
彼女はまだ眠そうで、髪は乱れ、瞳はとろんとしている。まさに、甘えん坊でだらしない、いつもの雪華であった。
「お兄さまぁ…」
雪華は、志文の姿を見つけると、猫がすり寄るように駆け寄り、何の躊躇もなく、志文の腕に抱きついた。
「お兄さまぁ、ひどいよぉ。せっかくお隣で一緒に寝ようと思ってたのに、朝になっても帰ってこないんだもん…」雪華は、甘えるように鼻を鳴らした。
志文の顔が、一瞬にして和らいだ。
雪華のこの無邪気な甘えだけが、彼を冷酷な軍師の顔から、一人の「兄」へと引き戻す力を持っていた。
「雪華。もう朝だぞ。いつまでその恰好でいるつもりだ」
そう言いながらも、志文は、雪華の乱れた髪を優しく整え、抱きしめ返した。その指先の温もりが、彼の冷えた心に染み渡る。
「だって、お兄さまがいないと、一人だから、さみしいんだもん。ねぇ、今日は一緒にお散歩行ってくれる?昨日、庭の蘭の花が咲いたのを見つけたの」
「散歩は、昼餉の後にな。まずは、顔を洗って、ちゃんと服を着替えるんだ。そして、月華が淹れてくれた温かい茶を飲むんだぞ」
月華は、その光景を静かに見つめ、小さく微笑んだ。
彼女は、雪華の無邪気さが、兄の心を癒していることを知っていた。月華にとって、雪華は守るべき大切な妹であり、同時に、兄の人間性を取り戻してくれる、かけがえのない存在だった。
志文は、妹たちと共に朝餉の卓についた。朝餉は、普段と何一つ変わらない、静かで温かい時間であった。この日常こそが、彼が昨夜、全てを賭して守り抜いた宝であった。
妹たちの朝餉が終わると、志文は邸宅の奥、人が立ち入らない庭園へと向かった。そこには、緊張感を持続させた胡麗が、静かに彼を待っていた。
「志文様」胡麗は、深々と頭を下げた。
その顔色は、王都の清算の報を聞いたからか、僅かに青白い。
「胡麗。もう頭を上げろ。貴女が身を置いた危険と、貴女の情報がもたらした功績は、計り知れない。先日の非礼な態度を許してくれ」
志文は深く頭を下げた。
「袁興は、もはやこの世にいない。朱全、袁雷、周赫も処断された。貴女の功績で、清羅氏の汚名も晴れ、妹たちの安寧は確かなものになった」
いまや、志文の彼女への恩義は、決して忘れられないものであった。
「約束は守ろう。大王に貴方を情報局長に推薦し、認可をいただいた」
胡麗は、志文の真摯な言葉に、目元を熱くしたが、すぐに毅然とした態度で首を横に振った。
「いいえ、志文様。私は、もう何処にも参りません。私は志文様の屋敷で暮らす権利を御代として頂戴します。貴方を見ていると、昔、私の母が嬉しそうに、そして懐かしそうに語っていた『衛国』が戻ってくるような気がいたします。貴方が守り抜いたこの屋敷の平和と、あの無邪気な光…月華様と雪華様の存在を、静かに見守るのが、私の新たな使命です。それに…」胡麗は、志文の瞳をまっすぐに見つめた。
「貴方の側には、まだ外敵がいます。私が王都の闇から得た情報、そして王宮との繋がりは、まだ貴方のお役に立てるはずです」
胡麗の言葉は、志文の心を見透かしていた。
彼女は、彼の復讐が完了したのではなく、新たな大戦への準備が始まったことを察していたのだ。
「感謝する、胡麗。貴女の存在は、俺の重荷を分かち、この邸宅を守る、強固な支えとなる。これからもよろしく頼む」
「そんなにかしこまらないで。私たち同い年でしょ?」 胡麗は晴れやかに笑った。
志文は微笑み、そしてすぐに彼の眼差しは、再び冷徹な軍師のそれに戻った。
「では、本題に入る。袁興を処断したことで、我々は敵の急所を突いた。だが、その反動は大きい。袁興の邸宅から押収した文書は、玄岳国の裏切りを決定的に証明している」
志文は、庭園の石卓の上に、李岳から提出されたばかりの報告書を広げた。
「表向きは衛国と同盟を結ぶ玄岳国が、魯国と密盟を結び、我が衛国が消耗するのを待っている。袁興は、玄岳国から莫大な賄賂を受け取り、我が国の軍事機密を流し続けていた」
志文は、報告書の一点、玄岳国の軍師の名に指を置いた。
「玄岳国は、必ず動く。彼らは、袁興の処断を、衛国の政治的混乱と弱体化を示すものと見なすだろう。そして、彼らを率いる軍師、雷鋒…『北の冷血軍師』だ」
胡麗は、緊張で息を飲んだ。
「雷鋒…その名は、敵国の情報網においても、常に畏怖の対象です。彼の智謀は、袁興のような単純な権力者とは比べ物になりません。全てを論理と効率で計算し、感情を一切持たない。彼の策にかかれば、情報戦で勝つことは至難の業です」
「ああ。次の戦いは、軍事力だけでなく、智謀の頂上決戦となる。そして、勝利は、情報戦にかかっている」 志文は、卓上に広げられた地図を見つめながら、静かに結論付けた。
「胡麗。貴女の力が必要だ。玄岳国と魯国の国境地帯、そして王都内部の、全ての情報を掌握する必要がある。我々は、来るべき大戦に備えねばならない。妹たちの平穏が、真に守られるのは、衛国が勝利を収めたその時だけだ」
この穏やかな朝餉の時間が、嵐の前の束の間の休息であることを、二人は理解していた。
志文は、妹たちとの温かい時間で得た力を、衛国の未来のために、再び冷徹な智謀へと変えようとしていた。
静かな庭園の石卓に広げられた報告書と地図は、夜明けの柔らかな光の下で、冷酷な真実を照らし出していた。
志文と胡麗は、妹たちの無邪気な笑い声が届かない、緊張感に満ちた静寂の中で向き合っていた。
「雷鋒……」志文は、玄岳国の軍師の名を口にすると、氷牙を抜いた時のような冷徹な集中力を宿した。
「胡麗、彼の智略について、貴女が知り得ている全てを話してくれ。袁興は、自らの立場を守るために、玄岳国と癒着していたが、雷鋒はそのような個人的な欲望で動く男ではないと思う」
胡麗は、深く息を吸い込み、語り始めた。
「雷鋒は、『情動なき刃』と呼ばれています。彼は、衛国と魯国の国境紛争を利用し、衛国の兵站線と経済力を徐々に削り取る策を、数年にわたり袁興を通じて進言させていました。彼の戦略の目的はただ一つ、最小限の犠牲で衛国を『枯死』させることです。袁興の処断は、彼にとって予想外の『加速材』となるでしょう」
「加速材か」志文は、報告書から目を離さず呟いた。
「すなわち、彼は衛国が袁興一派の排除によって一時的に混乱し、士気が揺らいでいるこの隙を、最高の好機と見る」
「その通りです」胡麗は頷いた。
「彼の第一の行動は、必ず情報撹乱です。袁興の死を最大限に利用し、王都内に『伯志文が王権を奪うために忠臣を処断した』という虚偽の情報を流布させ、衛徳王と貴方の信頼関係に亀裂を入れようとするでしょう。そして、これと同時に、玄岳国軍の迅速な南下を命じます。彼にとって、時間が最も重要なのです。衛国が体制を立て直す前に、国境を突破したいというのが彼の思惑でしょう」
志文は、石卓に広げられた地図の、衛国と玄岳国の国境線、特に防御が手薄な南部の山脈地帯に視線を固定した。
「奴の狙いは、衛国の政治的中心地である王都ではなく、魯国との戦いで疲弊した部隊が駐屯する国境要塞、あるいは、食糧備蓄の要衝だ。王都を直接攻撃するよりも、衛国の継戦能力を奪う方が、雷鋒にとっては合理的だ」
二人の会話は、既に私的な復讐の枠を超え、国家の戦略中枢の議論となっていた。胡麗は、志文の冷徹な分析力に、改めて軍師としての格の違いを感じていた。
「志文様、雷鋒は、衛国の軍事力のみならず、羅清様の存在も警戒しています。清羅氏が秘匿していた文殿の情報が、王を動かしたことは明白です。彼は、王宮の情報網を再構築し、清羅氏に繋がる者、特に羅清様本人を狙った暗殺または情報操作を試みるかもしれません。なぜなら羅清様は先の伯明様の大戦の詳細な記録を知っている唯一の人物ですから。雷鋒はその大戦に参加していました。ですから雷鋒の戦いかたの糸口を知っています」
「そうだったのか...とすると羅清の暗殺、その可能性は、排除できないな」
志文は、一瞬だけ瞳を閉じた。
「羅清の身辺警護は、李岳に命じて強化させている。だが、雷鋒の情報網は、袁興のそれよりも遥かに巧妙で、長年にわたって衛国に深く潜入しているだろう。この戦いは、衛国に潜む玄岳国の密偵をいかに迅速に炙り出し、無力化できるかにかかっている」
志文は、胡麗をまっすぐに見つめ、その眼差しに揺るぎない信頼を込めた。
「胡麗。貴女が王に推薦され、正式に情報局長の認可を受けたことは、王都全体にとって極めて重要だ。表向きは袁興一派の残党狩りが名目だが、貴女の真の使命は、雷鋒の情報網の遮断と破壊だ。頼めるか?」
胡麗は頷く代わりにその熱い眼差しで応えた。
志文は、卓上に置かれた筆を手に取り、地図上の三箇所に鋭い印をつけた。
「貴女には、即座に三つの任務を与えたい」
1.王都内の情報撹乱の鎮静化と反転攻勢: 「雷鋒は、必ずや『志文の謀反』の情報を流す。これを即座に否定し、『袁興が玄岳国と通じ、衛国の軍事機密を流していた証拠文書』を、王の裁可のもと、限定的に公開せよ。袁興の処断が、真に衛国を守るための断罪であったことを、王都の有力者と民衆に浸透させるのだ」
2.玄岳国密偵網の特定と破壊: 「袁興が過去十年間に頻繁に接触していた王都内の商会、外交官、そして王宮内の中級官僚の名簿を洗い出せ。彼らは玄岳国の資金提供を受けていた可能性が高い。その者たちの動きを監視し、雷鋒への情報送信ルートを特定し、破壊せよ。この任務は、極秘裏に進めよ。王の耳に入れる必要もない」
3.魯国国境の再評価: 「魯国は、玄岳国と密盟を結んでいるとはいえ、今も衛国の国境を睨んでいる。魯国側の軍の動き、特に軍の再編成や物資輸送の異変を、魯国との国境近くに潜伏している斥候隊から優先的に集めろ。玄岳国と魯国が、どのタイミングで『連動』するのか、その兆候を見つけ出すことが、我々の防御戦略の鍵となる」
志文の言葉は、完璧に体系化され、冷徹な論理に貫かれていた。もはや彼は、一人の復讐者ではなく、国家の命運を一身に背負う、最高の軍師であった。
胡麗は、志文の言葉を一言も聞き漏らさず、全てを瞬時に理解した。彼女の瞳には、重責に耐える覚悟と、志文の期待に応えようとする強い意志が輝いていた。
「承知いたしました、志文様。私の全てを、今、ここに結集させます。貴方の期待に応え、雷鋒との情報戦に勝利してご覧にいれましょう」
胡麗は、同い年である志文に対して、先ほどのような親しみを込めた言葉ではなく、情報局長として、厳粛な決意を込めた言葉を選んだ。
胡麗が任務を帯びて緊張感をもって去った後、志文は一人、庭園に残された。
彼は、朝の光に透ける蘭の花に目をやった。それは、雪華が昨日見つけた、白く可憐な花だった。
(月華、雪華。お前たちの穏やかな笑顔を、何としてでも守り抜かねばならない)
志文は、心の中で二人の妹に語りかけた。月華の優雅な気丈さと、雪華の無邪気な可憐さ。
その二つの光こそが、彼が血塗られた道を進む理由であり、国家を救うという大義の原点であった。
彼は、己の腰にある氷牙の柄に手を置いた。この剣は、父の復讐を果たすためだけでなく、衛国という国そのものを、雷鋒という冷血な智謀の刃から守り抜くための、最後の盾となる。
「雷鋒。貴様の論理と計算は、俺の命を懸けた『感情』の前では通用しない」
志文は、静かに、しかし絶対的な決意をもって呟いた。
彼の心の中では、既に玄岳国との大戦の序章が始まっていた。袁興の死は、衛国を救うための最終幕ではなく、次なる大いなる戦いの、静かな幕開けに過ぎなかった。
彼の休息は、本当に遠い。しかし、彼は独りではない。信頼できる部下の李岳、羅清、姜雷、衛射、林業、宋燕、夜叉。同僚の陳豪、劉勇、張勇、芳蘭。将軍の韓忠。そして、今や志文の邸宅に身を置き、彼の盾となろうとする胡麗。そして何より、邸宅の奥で彼を案じる月華と、無邪気に彼の帰りを待つ雪華という、かけがえのない「宝」があった。
志文は、この日の昼餉の後、王宮へ参内し、衛徳王へ玄岳国との密約文書を提出し、来るべき大戦への準備を正式に開始する手はずになっていた。
静かな朝の時間は終わり、志文の冷徹な戦いが、再度始まろうとしていた。




