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#1-19 復讐の刃

夜叉の炎が空を切り裂いてから、わずか数瞬。

志文が袁興の私邸から半里の広場で下した命令は、王都の静寂を破る、破壊の嵐となった。

破城槌が正門に叩きつけられる轟音は、単なる物理的な破壊の音ではなく、十年にわたる不正義と裏切りが今、清算されるという、歴史的な断罪の響きであった。

重厚な木材と鉄で補強された門扉は、その凄まじい力によって、数度の激しい衝撃の後、すでに無残にも中央から砕け散っていた。

「突入!袁興とその一派を捕らえよ!抵抗する者は、容赦なく斬り捨てよ!」

姜雷の鋭い怒鳴り声が、砕け散った門の隙間から邸宅の奥深くへと響き渡る。

精鋭隊は、雪崩のように私邸の敷地内へと流れ込んだ。

彼らは一切の私情を挟まず、志文の命令を遂行する、精密に研ぎ澄まされた刃そのものであった。彼らの動きには、躊躇や迷いは微塵もなく、すべてが冷徹な軍律に基づいていた。

邸宅の内部は、瞬時に地獄と化した。

袁興が雇っていた警備兵たちは、大半が事前に宋燕率いる斥候隊や夜叉の隊によって無力化されていたか、あるいは、志文の軍勢の圧倒的な数と統率力の前に、戦意を喪失していた。

裏庭や警備詰所に潜んでいたわずかな抵抗勢力は、志文の精鋭隊の前に立つことすら叶わなかった。

彼らは、姜雷の隊の薙刀の前に次々と倒れていった。

「全ての部屋を徹底的に捜索せよ!特に地下への通路を見つけ出せ!」

衛射は、邸宅の各棟に分かれた隊員たちに、的確で迅速な指示を出し続けた。彼らの目標は、袁興の逃走経路を全て断ち切り、隠された証拠の確保と、袁興本人の身柄拘束であった。

この混乱の中、袁興は、自室の寝台の傍らで、震えながら着の身着のままで立ち尽くしていた。

彼の心臓は、破城槌の轟音と、邸宅内から聞こえる兵士たちの怒号、そして剣戟の音に合わせて、狂ったように脈打っていた。

(朱全…袁雷…周赫…なぜ誰も助けに来ない!?王都の全ての警備兵は、俺の息がかかっていたはずではないのか!)

袁興の脳裏には、志文の冷徹な顔が浮かんだ。彼は、志文がただの権力闘争ではなく、自分を根底から崩壊させるための、完璧な策を練っていたことを悟った。

志文は、彼の味方を一人残らず孤立させ、王宮と私邸の双方から、同時に断罪の牙を突き立てたのだ。

「文書…あの文書さえなければ…!」

彼は、私邸の地下に隠した「先王の密約」の文書のことが頭から離れなかった。

あの文書が王の手に渡ったからこそ、王は動いた。そして、それを手に入れたのは、胡麗の情報によるものだ。

「胡麗め…!私を裏切ったか…!」袁興は、虚ろな眼で、目の前にある壺を叩き割った。

彼は、自分が最も信頼し、軽蔑していた全ての要素に裏切られたことを理解した。

胡麗の美しさ、羅清の隠された過去、そして志文の底知れない冷徹さ。全てが、彼を追い詰めるための罠であった。

広場に立っていた志文は、邸宅内の破壊の音が最高潮に達したのを確認すると、静かに李岳に告げた。

「李岳。十分だ。袁興はもう逃げられまい。羅清は王の御前で大逆罪を証明し終えた。残るは、俺自身の…断罪だ」

志文は、腰に佩いていた父の宝剣「氷牙」を、鞘から抜き放った。

その剣は、幻の一振りと言われ、志文の父、伯明が乱戦で愛用した剣であり、通常の鉄剣とは一線を画す、冷たい光沢と、触れるだけで肌を刺すような鋭い気迫を放っていた。

新月の闇と、夜明け前のわずかな光が混ざり合う中で、氷牙の刃は、真実の重さを宿したように輝いた。

「李岳、俺は袁興のいる場所に直接向かう。そなたは、邸宅の全てが俺の支配下にあることを確認し、袁興の側近である朱全、袁雷、周赫の居場所を特定しろ。彼らが私邸にいない場合は、即座に王都の封鎖網に連絡し、捕縛せよ」

「承知いたしました、殿。ですが、袁興は…」李岳は、志文の単独行動を心配し、一瞬躊躇した。

「心配するな」志文は、冷徹な笑みを浮かべた。

「袁興は、俺の獲物だ。そして、俺は今、最も冷静だ。父上の復讐は、俺自身の手で果たさねばならぬ」

志文は、李岳の返答を待たずに、氷牙を携え、砕け散った門をくぐり、私邸の庭へと足を踏み入れた。彼の周りでは、志文の精鋭たちが、一切の物音を立てずに、邸宅内を制圧していく。

彼らは、志文の背中が持つ、絶対的な勝利の確信を感じ取っていた。

砕け散った門の先、私邸の中庭は、戦闘と制圧の静かな緊張感に包まれていた。

志文は、その荒廃した中庭を、一歩一歩、確かな足取りで進んだ。彼の進む道には、袁興の権勢の残骸と、敗北した警備兵たちが横たわっていた。

(袁興。貴様が父上から奪ったもの、そして清羅氏から奪ったもの。全て、ここで返してもらう)

志文の心臓は、氷牙の冷たさに呼応するかのように、静かに、しかし強く脈動していた。

彼は、この復讐の道を、もはや感情ではなく、王都の安定という大義、そして家族と忠臣の正義という使命として捉えていた。

袁興との対決は、衛国を蝕む内患を完全に断ち切るための、最後の儀式であった。

志文は、袁興の主寝殿へと続く、長く暗い回廊の入り口に立った。

回廊の奥からは、袁興の断末魔のような叫び声と、微かな震えが伝わってきた。

最後の対決の瞬間が訪れようとしていた。

志文が袁興の主寝殿へと続く回廊に足を踏み入れた瞬間、外の喧騒は一気に遠のき、張り詰めた静寂が空間を支配した。

回廊の奥からは、ただ袁興の荒い呼吸と、恐怖に支配された断末魔のような呻き声だけが聞こえてくる。

志文は、回廊をゆっくりと、しかし確かな足取りで進んだ。

彼の進む一歩一歩が、袁興の十年にわたる権勢の終焉を告げる、重い時計の針の音であった。

志文の手には、父の宝剣「氷牙」が握られていた。幻の一振りと言われるその剣は、夜明け前のわずかな光を吸い込み、青白い冷光を放っていた。その光は、志文の冷徹な決意と、清羅氏の汚名を晴らすという純粋な使命感を象徴していた。

主寝殿の扉は、袁興が逃げ場を失い、自ら閉じこもったために内側から固く閉ざされていた。志文は、扉の前に立ち、冷ややかに、しかし響く声で呼びかけた。

「袁興。出てこい。隠れる必要はない。お前の二十年の悪夢は、今、終わった」

内側から、激しい衣擦れの音と、何かが倒れる音が聞こえた。袁興は、完全に平静を失っている。志文は待たなかった。

彼は、一歩踏み込むと同時に、氷牙の剣尖で扉の蝶番を狙い、一気に斬りつけた。

キンッ――!

鉄を断つ鋭い音と共に、硬く閉ざされていた扉は、その上半分が粉砕され、内側へと倒れ込んだ。

部屋の中は、乱雑な状態であった。

袁興は、寝台の横で着の身着のまま震えており、顔は恐怖と焦燥で歪んでいた。豪華な部屋の調度品も、彼の崩壊する精神状態を反映するかのように、威厳を失っていた。

志文は、部屋の中央に進み出た。彼は、袁興を見下ろしながら、氷牙の剣尖を、床に這いつくばる袁興の喉元へと、ゆっくりと向けた。

「志文…伯志文…なぜだ…なぜ、お前が…!」

袁興の声は掠れ、もはやかつての権力者の威厳は微塵もなかった。

「王都の警備は、全て朱全と袁雷が…なぜだ…周赫は....なぜ来ない.....」

「王都の警備は、既に宋燕の斥候隊によって完全に無力化された。王宮は、羅清によって衛徳王は動かれた。王の意志が、今、この瞬間まで、俺に力を与えている」

志文は、感情を完全に排した声で、淡々と語った。

その声の冷たさが、袁興の最後の望みを打ち砕いた。

「貴様の裏切りは、すでに陽の下に晒された。貴様の権勢は、今、ここに崩壊したのだ」

「羅清…清羅氏の残党だったのか…!あの女…胡麗が…!まさか、あの文書が王の手に渡るとは…」 袁興は、床を叩き、絶望の叫びを上げた。

「なぜだ!あの文書は、衛国の未来のため、俺が景国と玄岳国、沙嵐国との戦闘時の切り札として遺したのだ!私利私欲ではない!王家のため…!」

「笑わせるな」 志文の冷徹な瞳が、袁興を射抜いた。

「我が父、伯明は、貴様の私利私欲のために死んだ。先王の文殿を守護した清羅氏の誇りは、貴様の権力欲のために踏みにじられた。貴様が言上した『大義』など、一片の嘘偽りだ。貴様は、国を裏切り、忠臣を謀殺した、大罪人に過ぎない」

「おまえには決してわからない....わかるはずがない!父が何を想って死んだのか!父が何を成そうとして死んだのか!父は...我が父は...衛国にすべてを捧げ、俺にすべてを与えてくれたのだ!俺は...俺は..父に何も返せなかったのだ!おまえが...おまえが..俺が父の隣に立つ資格を、機会を...永遠に奪ったのだ!父はなんのために死んだのだ!矮小な、おまえの欲のなぜ踏み台にされたのだ!」

志文は、一歩踏み込んだ。氷牙の剣尖が、袁興の喉元を僅かに突き刺し、血が滲む。

「羅清は、清羅氏の名誉を回復した。俺は、父上の名誉を回復する」

袁興は、志文の言葉に含まれる、純粋で、揺るぎない復讐の炎に、初めて真の恐怖を感じた。

彼は、志文がこの時ばかりは、感情的な衝動と使命感に基づいて行動していることを理解し、もはや自分が生きて逃れる道はないことを悟った。

「待て…志文…私には…私はお前の父の旧友だ…」袁興は、最後の虚しい懇願を試みた。

しかし、志文は何も答えなかった。

ただ、彼の目には、大罪人の汚名を着せられた羅清の家族の悲劇、そしてなにより、十年前に戦場で不当に散った父の姿が浮かんでいた。

志文は、氷牙を、一瞬にして袁興の喉元から心臓へと突き刺した。

ズブッ…

その音は、部屋の静寂の中で異常なほど大きく響き渡った。

袁興の瞳から、一瞬にして光が失われ、彼の身体から力が抜け落ちる。彼は、何も言えず、志文の足元に力なく崩れ落ちた。

志文は、氷牙を一気に引き抜くと、その切っ先に付いた血を、部屋の幕で静かに拭い取った。

彼の顔には、復讐を果たした高揚感も、殺人を犯した嫌悪感もなかった。ただ、全てが終わったことへの達成感と極度の疲労感だけが漂っていた。

その時、李岳が部屋の入り口に現れた。

「殿。制圧完了。衛射と姜雷が、袁興の側近、朱全、袁雷、周赫の三名を、私邸の地下通路にて捕縛いたしました。隠された証拠文書も全て確保しました」

志文は、崩れ落ちた袁興の死体を一瞥し、李岳に冷静な命令を下した。

「よし。王宮からの詔は、彼らが大罪人であることを告げている。朱全、袁雷、周赫を、私邸の中庭へ連行せよ。彼らを斬首に処し、王都の全てに断罪を知らせるのだ」

「承知いたしました」李岳は、志文の冷徹さに背筋を伸ばし、すぐに命令を伝達するために引き返した。

数刻後。東の空が完全に白み、王都に夜明けの光が差し込み始めた頃。

袁興の私邸の中庭には、冷たい石畳の上に、朱全、袁雷、周赫の三人が、膝をつかされていた。

彼らの顔は恐怖に引きつり、もはやかつての権勢を誇った面影はなかった。彼らは、王の詔が下ったという事実と、志文の徹底的な冷酷さに、完全に絶望していた。

姜雷と衛射、林業が、それぞれ剣を抜き、三人の背後に立った。

「伯明将軍の無念、清羅氏の汚名。そして衛国の忠義のために、貴様らを断罪する!」姜雷の叫びが、中庭に響き渡った。

ザンッ! ザンッ! ザンッ!

三つの重く鈍い音と共に、王都を長らく蝕んできた三つの首は、石畳に転がった。

夜明けの光が、この血の清算を照らし出した。袁興を支えていた三本の柱は、全て崩壊したのだ。

志文は、李岳と共に、中庭を見下ろす回廊に立っていた。

彼の目の下には、袁興を含む四つの死体が横たわり、血の臭いが夜明けの冷気を切り裂いていた。

「李岳。袁興の邸宅と、朱全、袁雷、周赫の邸宅の全てを、直ちに我が隊の管理下に置け。押収した財産と文書は全て王宮へ。清羅氏は、羅清の指示のもとで、手厚く弔いを行え」

志文の命令は、静かで、完璧に細部にまで及んでいた。

「承知いたしました、殿。これで、王都の内患は一掃されました。殿の策は、まさに神業にございます」 李岳は、心からの敬意をもって応じた。

志文は、氷牙をゆっくりと鞘に戻した。

彼は、遠く東の地平線に広がる、朝焼けの光を見つめた。袁興との戦いは終わった。しかし、彼の心には、新たな重圧がのしかかっていた。

(妹たちの安寧は確保された。清羅氏の復讐も果たされた。だが、この血の清算は、外敵に衛国の弱体化を示すことになる…)

志文は、胡麗から得た情報と、袁興の邸宅から押収した文書の内容、さらには魯国との戦を思い出していた。

袁興は、景国だけでなく、玄岳国・沙嵐国とも深い密約を結んでいた。

表向きは衛国と同盟を結んでいる玄岳国が、裏では魯国と密盟を結び、衛国を消耗させるのを待っているという事実。

「李岳。夜が明ければ、王都は混乱する。しかし、混乱は最小限に抑えろ。そして…玄岳国と魯国の国境線、そして南部の偵察隊の報告を、今後、最優先で俺の元へ持参しろ」

「玄岳国…?」 李岳は、その名に一瞬、緊張を覚えた。

「そうだ。王都の内患は去ったが、外患は残っている。いや、今まさに近づいている」志文は、静かに結論付けた。

袁興の処断は、衛国に一時的な平和をもたらしたが、それは、次に訪れる嵐の前の、束の間の静寂に過ぎなかった。

志文は、玄岳国との大戦が避けられないことを確信し、その静寂の中で、次の戦いに備え始めた。

夜明けの光が、志文の冷徹な横顔を照らしていた。彼の休息は、まだ遠い。


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