#1-18 王の断罪
志文が袁興の私邸の裏手から立ち去ってから、わずか半時(約一時間)しか経っていなかった。
王都全体が、新月の深い闇と、隊の鉄壁の規律が生み出す息詰まるような静寂に覆われていた。
志文は、李岳を伴い、王都の主要な南北の街道を縫うように進んでいた。
彼らは一切の物音を立てず、周囲の闇に完全に溶け込んでいた。
志文の蒼白な顔は、獲物を追う狼のそれであり、その瞳には、父と清羅氏の名誉を懸けた、冷たい復讐の炎が宿っていた。
(この夜の終わりには、袁興の十年の権勢は崩壊する。そして、父上のやりきれない戦死も、清羅氏の汚名も、全てが陽の下に晒される)
志文は、腰に差した短剣の冷たさを感じた。
それは、公務の際の護身用ではなく、彼自身の決意の重さを示すようだった。
「李岳、宋燕の報告は」
「殿。宋燕の斥候隊は、王都北部の全ての大通りと裏路地を完全に封鎖いたしました。王都へ入る者も出る者も、一切おりません。特に、袁興の息のかかった朱全・袁雷・周赫の邸宅周辺は、五重の警戒網が敷かれています。逃げようにも、私邸の壁を越えることすら叶いません」
李岳の声は、夜の冷気のように冷静で、彼らが王都全域を掌握している事実を淡々と伝えた。
姜雷と衛射が率いる五百人隊の大部分は、既に王宮と袁興の本拠地の間にある全ての要所を占拠し、万が一の事態に備えていた。
この夜、王都は伯志文の冷徹な策によって、完全に内部から鉄鎖で閉じ込められた巨大な檻と化していた。
その頃、王都の中心に位置する王宮は、志文の邸宅とは異なる種類の静寂に包まれていた。それは、平和な静けさではなく、巨大な権力機構が眠る前の、重々しい沈黙であった。
羅清は、夜叉に先導され、王宮の裏門近くの小道に立っていた。彼は簡素な平服であったが、懐には、衛国を揺るがす「先王の密約」が記された羊皮紙を抱いていた。
「夜叉。間違いないな。衛徳王の側近である徐平殿は、殿の命で待っておられるのだな」
「羅清殿。殿からの文は、既に渡してあります。徐平殿は、志文様の御父君、伯明様と深い親交があり、袁興の台頭に心を痛めておられた。彼が、この極秘の謁見の仲介役です。ですが、徐平殿の居室まで、我々は音もなく進まねばなりません、誰にも気づかれてはなりません」
夜叉は、羅清の護衛と先導を任されていた。
夜叉の動きは、木々の葉が風に揺れる音よりも静かで、石畳を歩いても足音一つしなかった。彼の五感は、宮廷の警備兵のわずかな気の緩み、呼吸のリズム、松明の光の届かない影の動きを完璧に把握していた。
彼らは、複雑に入り組んだ王宮の回廊を、まるで水が流れるように静かに進み、徐平の居室の前に到着した。
徐平は既に起きて待っていた。部屋の蝋燭の明かりは低く抑えられ、室内には張り詰めた緊張感が漂っていた。
「羅清殿。そして、夜叉殿」 徐平は二人を静かに招き入れた。
羅清は深々と一礼し、志文からの文を徐平に渡した。
文には、志文の冷徹な決意と、袁興の罪の重さが簡潔に記されていた。
「これより、王を揺り起こし、事の次第を申し上げねばなりません」
徐平は文を読み終えると、覚悟を決めたように言った。
「しかし、これは大逆罪の証拠。万が一、王の御前で袁興の息のかかった者に知られれば、羅清殿の命も危うい。王の御前に出るのは…」
羅清は、羊皮紙を胸に押し当て、毅然とした態度で言った。
「徐平殿。殿の父君、そして我が清羅氏の汚名を晴らすため、私はこの文書と共に生きてきました。袁興の罪が証明されるならば、この身を捧げることに躊躇はありません。清羅氏の名は、先王の文殿を守護した誇り高きものであったのです。私は、その真実を王に直接お伝えする責務があります」
羅清の言葉には、彼の過去の苦痛と、志文の信頼によって再び与えられた使命感が宿っていた。徐平は羅清の気高さに打たれ、深く頷いた。
「分かり申した。夜叉殿、羅清殿を王の寝所までお守りくだされ。王に謁見する際には、羅清殿、この文書を王の御前にて直接、開封していただきたい」
夜叉は無言で首肯し、羅清の背後に控えた。羅清の緊張した知性と、夜叉の絶対的な冷静さが、王宮の深い闇を切り裂く刃となっていた。
志文は、袁興の私邸から半里ほど離れた、人通りのない広場に李岳と共に立っていた。
彼の目の前には、袁興の私邸の輪郭が、夜明け前の闇に浮かび上がっていた。
私邸の周囲は、志文の精鋭隊によって完全に包囲されており、志文からの最終命令を待っている状態だった。
(胡麗は、権力を求めた。俺は、その代価を払う。妹たちの安寧のため、この王都の内患を完全に除く。袁興…貴様は、その命で、父上と清羅氏への罪を償うのだ)
志文は、夜明けが訪れれば、この王都の全てが一変することを確信していた。この一連の策は、単なる権力闘争ではない。
それは、過去の不正義を糾弾し、国家の忠義を回復するための、冷徹な断罪であった。
「李岳。夜明けまで、あと二刻(約四時間)。羅清と夜叉からの合図を待て」
「承知いたしました、殿」
李岳は、志文の冷徹な決意を背に感じながら、静かに部隊への最終指示を伝達した。
王都の隅々まで、無言の鉄鎖に締め付けられていく。
夜明けの光が王宮の屋根を照らすその瞬間、袁興は、自らが築いた権力の暗闇の中で、全てを失うことになるだろう。
志文は、その瞬間を、静かに待ち続けていた。
夜叉に護衛された羅清は、徐平に導かれ、王の寝殿へと続く長い回廊を進んでいた。
石畳の上に敷かれた緋色の絨毯も、彼の心臓の鼓動を完全に隠すことはできなかった。
しかし、その緊張は恐怖ではなく、十年間の悲願が今、達成されようとしていることによる、極度の高揚感であった。
彼の胸中には、亡き乳母から聞かされた、忠義の清羅氏が受けた不当な仕打ちの記憶が鮮明に蘇っていた。
王の寝殿は、わずかな蝋燭の明かりで照らされ、厳粛な雰囲気に満ちていた。
衛徳王は、異例の夜更けの謁見にもかかわらず、既に正装に近い羽織を纏い、王としての威厳を保っていた。彼の横には、憔悴しながらも毅然とした表情の徐平が控えている。
「羅清と申すか。伯志文の命にて、夜更けに参った理由は…重々承知しておる。早速聞かせよ」 王の重々しい声が響いた。
羅清は、深々と膝をつき、頭を垂れた後、徐平が用意した小さな台の上に、懐から取り出した羊皮紙を慎重に広げた。その紙は古びており、微かな墨の香りを放っていた。
「陛下。これは、十年前に大将軍伯明様を戦死に追い込み、我が清羅氏を大逆罪の汚名と共に滅亡させた、袁興の真の罪を記した『先王の密約』にございます」
羅清の声は、抑えられていながらも、その奥底には十年の歳月が凝縮された苦痛と悲憤が含まれていた。
夜叉は影となり、部屋の隅で全ての音と気配を監視している。
衛徳王は、顔色を変えることなく、羊皮紙を自ら手に取り、松明の光にかざして読み始めた。一文字一文字を、まるで喉が詰まったかのようにゆっくりと読み進めていた。
文書は、袁興が当時、軍の最高機密の一つであった国境防衛計画と、伯明軍の配置図を、景国を筆頭とする連合軍の指揮官に、莫大な賄賂と引き換えに流したという、生々しい詳細から始まっていた。
袁興は、伯明を失脚させることで、軍権を一手に握ることを画策していたのだ。
衛徳王の顔色は、読むにつれて怒気を含み、やがて怒気一色に染まっていった。
手が微かに震え、羊皮紙がカサカサと音を立てる。
「「馬鹿な…」衛徳王は、震える手で羊皮紙を握りしめた。
「伯明将軍は…父上が最も信頼した将であったぞ。…伯明将軍は、敵軍の罠にはまったのではない。意図的に、この衛国を裏切った者に屠られたと申すか…!そして清羅氏の忠義は、王家の文殿と共にあった。袁興…貴様、この衛国を己の欲望のために、血で汚し続けていたか!」 王は、激しい怒りを抑えきれず、立ち上がった。
羅清は、深々と頭を床に擦り付けた。
「陛下。清羅氏は、この事実を知り、当時の先王様に密かに上奏しようと試みました。しかし、袁興の策謀により、その忠義の行動は『敵国との内通』と捏造され、一夜にして九族全てが断罪されました。家門は断絶し、私の父と母、そして一族全員の遺体は、反逆者として晒されました…」
羅清は、ここまで感情を露わにしたのは初めてであった。彼の声には、深い悲しみと、長きにわたる沈黙の苦痛が凝縮されていた。
衛徳王は、自身の父にあたる先王の時代に、これほどまでの不正と裏切りが国政の中枢で起こっていた事実に衝撃を受け、しばし言葉を失った。
「羅清よ…そなたが、その清羅氏の生き残りなのか.....よくぞ、この羊皮紙を守り通した。その忠誠は、伯志文のそれに勝るとも劣らぬ」 王は、椅子に戻り、静かに息を吐いた。
「我が父である先王は、伯明将軍の死を深く嘆き、袁興を重用せざるを得なかった状況を生涯苦にしていたという。まさか、その根源に、これほどまでに暗い裏切りがあったとは…」
王は、その場で印璽を強く押した。
「羅清。今、この刻をもって、清羅氏の汚名を完全に晴らす。そして、伯明将軍の戦死は、袁興という大逆罪人による意図的な謀殺であったことを、公にする」王の言葉は、揺るぎない裁きであった。
王は、徐平に命じ、直ちに「大逆罪人・袁興並びにその一派に対する即時逮捕及び処断の詔」を起草させた。そして、その詔を厳重な筒に収め、夜叉に手渡した。
「夜叉。この詔は、伯志文への最終命令である。一瞬たりとも遅れることなく、この王の意志を彼の許へ届けよ。そして、王宮の望楼にて、合図の炎を上げよ。夜明けの五分前、東の空が白み始めたら、迷わず火を放て。全ては、伯志文の策の通りに運べ」
衛徳王は深いため息をついた。 その顔には深い皺が刻まれていたが、その瞳には、正義感と義憤が満ちていた。
夜叉は、筒を恭しく受け取ると、一切の私語もなく、深々と頭を垂れた。
羅清は、王の寝殿から出る際、再び王に向かって深く礼をした。
彼の頬には、感謝と解放の涙がとめどなく伝っていた。
彼は、これで清羅氏だと堂々と名乗れる喜び、自身の出生を知りながら、自身に信を置いた志文への感謝、自身の父や母をはじめとした一族の苦難の終わりへの日々を思い出し、静かに微かに白み始めた空を見上げていた。
夜叉は、王の寝殿を辞した後、王宮の構造を完璧に把握しているがゆえに、最短かつ最も秘匿された経路を選び、王宮の最も高い望楼へと駆け上がった。
彼は、王の裁きという「光」を、王都の闇に包まれた志文へと届ける「影」の使者であった。
望楼の頂上。
夜叉は、東の空の境界線に意識を集中した。まだ完全な闇の中だが、地平線がごくわずかに灰色に変化し始めている。
(これ以上、遅くなれば、我らの軍勢に袁興たちが気づくだろう...)
夜叉は、用意されていた松明に火を灯し、その炎を王都全域から見えるように掲げた。
ヒュウウウッ――
深紅の炎が、夜の帳を切り裂き、王都の空へと一筋の光の柱を立てた。
それは、王の断罪、そして伯志文の策の最終段階への移行を告げる、静かで、しかし決定的な合図であった。
袁興の私邸から半里の広場。
志文と李岳は、その炎が上がる瞬間を、息を詰めて待っていた。
志文は、夜叉ならば決して合図の瞬間を誤ることはないと信じていた。彼の五感は、空の色の変化、そして王都の警備兵の呼吸までを感じ取っていた。
夜叉の炎が、空を照らした。
その深紅の光が、志文の蒼白な顔を照らし、彼の瞳に宿る復讐の炎を、一層鮮明に映し出した。
「来たな。王の意志だ」志文は、低く、しかし感情の籠った声で言った。
李岳は、背筋に痺れるような緊張感を覚えながら、命令を待った。
この瞬間、彼と五百人隊の全てが、志文の「牙」となることを待望していた。
「李岳。詔が下った。一切の慈悲は無用だ」
志文は、剣を抜き、その刃先を袁興の私邸に向けた。剣は昔、父 伯明が志文に継承した、伯家の、そして天下の宝剣 「氷牙」であった。
その剣の冷たい光は、夜明け前の空気を切り裂くようだった。
「全軍に命じろ。門を破り、袁興の首を取れ。衛国を裏切った大逆罪人、袁興とその一派に、王の断罪を突きつけよ!」
李岳は、志文の冷徹な命令を、即座に全隊へと伝達した。
その声は、広場に集結していた精鋭隊の隅々まで、確実に行き渡った。
「全隊、聞け!殿の命令だ!大罪人袁興を討て!門を破れ!」
静寂は、一瞬にして、破壊の轟音へと変わった。
王都を包囲していた志文の「鉄鎖」が、一斉に解放された。
姜雷と衛射が率いる五百人隊の精鋭が、一糸乱れぬ統率力で袁興の私邸へと殺到した。
袁興の私邸の重い正門に、精鋭隊が率いる破城槌が叩きつけられ、王都の夜明け前の静けさを切り裂く凄まじい轟音が響き渡った。
私邸の奥で、袁興は、突然の轟音に跳ね起きた。彼は、この数週間、志文の動きに神経を尖らせていたが、まさか、自分が最も警戒していた「志文の軍自体」が、この時間帯に、しかも王宮からの許可を得たような統率力で攻撃を仕掛けてくるとは予想していなかった。
「な、何事だ!誰か、誰か警備兵を呼べ!」袁興は、震える声で叫んだ。
しかし、彼が呼ぶはずの警備兵は、既に夜叉の隊に無力化されているか、あるいは、邸宅の外で宋燕によって完全に押さえ込まれていた。
彼の耳には、破城槌が何度も門を打ち破る、終末を告げるような激しい音が響き続けていた。そして、その音と共に、遠くから聞こえてくる、王宮方面から響く、人々の混乱と王の詔を読み上げるような声。
(まさか…なぜ、王が動いた…?なぜだ…ばれたのか....あのことが....いや、あれを知っているものは全員消したはずだ....だがまさか....隠し場所がばれたのか....)
袁興は、自分が最も恐れていた、十年前に地下に隠した「先王の密約」の文書が、今、志文の手に渡っていることを、本能的に理解した。
(くそっ、やはり、あの時、燃やしておくべきだった....景国や玄岳国、沙嵐国との戦闘時の切り札として再度使えると思い、遺したのが、間違いだったのか....だが、あの文書の存在をどうやって知ったのだ....?まさか...)
情報源が、彼が軽蔑していた遊女、胡麗であることを袁興は悟った。
「胡麗…あの女…!」
袁興の怒りと恐怖は、彼を狂気の淵へと追いやった。
しかし、時すでに遅し。門は、ついに破壊され、志文の精鋭隊が、雪崩を打って邸宅内へと突入してきた。
彼らの手にする剣は、夜明け前のわずかな光を反射し、冷酷な輝きを放っていた。
志文は、広場で立ち止まったまま、破壊の音と、王都に響き渡る断罪の叫びを聞いていた。
彼の冷徹な牙は、ついに、長年の獲物を捉えたのだ。




