#1-17 深闇の鍵
王都を包む秋の夜は、新月の下で一層深く、冷たい闇に閉ざされていた。
月の光がないため、星々さえもその輝きを鈍らせ、志文の邸宅は静寂と濃い*影に沈んでいた。
志文は、公務の際に着用する深い藍色の簡素な絹の衣装に身を包み、腰には護身用の短剣を忍ばせていた。
彼の蒼白な素顔は、闇の中で一層凛々しく、冷徹な美しさを放っていた。
「兄様」
志文が門を出ようとした瞬間、背後から月華が呼び止めた。彼女は、寝間着の上に羽織を着た姿で、心配そうに立っていた。その隣には、眠い目を擦りながら、雪華が月華の裾を握っていた。
「こんな夜更けに、どこへ行かれるのですか。胡麗の文を拝見しました。あれは、単なる約束ではないでしょう」
月華の声は静かであったが、その中に隠しきれない緊張が含まれていた。
「月華。雪華。心配は無用だ」志文は立ち止まり、振り返った。
彼の目には、戦場での冷徹さはなく、久しく感じた温かさが宿っていた。
「王都の内患を完全に除き、そなたたちが心置きなく、安穏に暮らせるようにするための、最後の仕事だ。胡麗は、袁興を討つための決定打となる情報を持っている。俺はそれを取りに行くだけだ」
雪華が志文の腰にしがみついた。
「やだぁ!行かないでぇ、兄様!あの女の人は、なんだかずるい匂いがするわ!お姉様のことを変な目で笑ってたし、絶対、兄様のこともからかうつもりよぉ!」
雪華の言葉は、遊女である胡麗への直感的な警戒と、兄を独占したいという純粋な甘えが混ざり合っていた。
月華は雪華の頭を優しく撫で、毅然とした態度で志文に言った。
「兄様の決意は理解いたしました。ですが、胡麗はただの情報の売り手ではありません。王都の影の管理者と呼ばれています。交渉ではなく、お兄様を試す取引にするはずです。お気をつけて。無事に戻られることを、この屋敷でお待ちしております」
「ああ。必ず戻る」
志文は月華の気丈な眼差しに応え、雪華の頭を優しく撫でた後、夜の闇へと静かに踏み出した。
志文が向かった「月の湖」は、王都の西に位置する、周囲を古木に囲まれた隠れた場所であった。
新月の夜のため、湖面は漆黒の鏡のように静かに闇を映し、周囲は息苦しいほどの静寂に支配されていた。
湖畔の古木の影には、既に**「伯七狼」の一部が密かに布陣**していた。
副官の李岳は、五百人隊の中でも精鋭を率いて湖から半里ほど離れた森の中で待機していた。彼は一切の篝火を禁じ、冷徹な判断力で部隊を統制していた。
「斥候、周囲の不審な動きはないか。殿の命は衛国の策そのものだ。何者たりとも近づけるな」
湖畔に最も近い場所に潜んでいたのは、夜叉であった。
彼は木々の葉と一体化し、その鋭い五感で湖畔の全ての音と気配を拾っていた。
夜叉の耳は、胡麗と志文の会話の内容を把握するため、風の音に集中していた。
志文は湖畔に降り立ち、冷たい夜の湿気を肌に感じた。
(まったく.....俺の隊は心配性が多いのか.....)
(胡麗が王都の西を選んだのは、袁興の本拠地から最も遠い、そして王都の人間が滅多に立ち入らない場所だからだろう。彼女は自身の安全と情報の秘匿に対し、徹底的に配慮している。これは歓談ではない。純粋な取引だ)
志文の内なる声は、妹たちの温かい心配とは裏腹に、全てを論理で処理しようとしていた。
志文が湖畔の岩に腰掛けて数刻が経った頃、闇の中から一筋の深紅の影が現れた。
「待たせたかしら、志文様」
胡麗は、前回と同じ深紅と漆黒の絹の衣装であったが、新月の闇の中でもその美しさと艶やかさは際立っていた。
彼女は単に美しいだけでなく、その体から発せられる自信と高貴な雰囲気が、遊女という立場を忘れさせていた。
彼女は志文の前まで進み、その距離が触れるほどに近い場所で立ち止まった。
胡麗の吐息が冷たい夜の空気と混ざり、志文の頬を微かに撫でた。
「遅い」志文は簡潔に答えた。その声は湖畔の静寂に響き、一切の感情を含まなかった。
胡麗は艶やかな笑みを浮かべ、志文の素顔を見つめた。
「あら、私は貴方との夜を楽しみにして、最高の装いで来たのよ?貴方の美しさを独り占めできる、この新月の闇の中で。貴方はまるで、私の愛を拒む冬の雪のようね」
「戯言は結構だ、胡麗殿」 志文は冷徹に彼女の魅惑を撥ね退けた。
「俺は貴女と歓談に来たわけではない。貴女が提示した、袁興を討つための最後の情報を受け取りに来た。取引の条件を提示しろ」
胡麗は一瞬、笑みを消し、志文の冷徹な瞳を見返した。
彼女は、志文が予想を遥かに超える、感情のない計算で動く人間であることを再認識した。
「ふふっ。相変わらずつまらない男ね。でも、その無関心さが貴方の魅力だわ。感情を見せるのは月華たちの前だけっていうことかしら?」
胡麗は、湖を背にして立ち、王都の方向を指差した。
「袁興の本質は権力への執着と臆病さよ。彼は、全ての策謀が露呈した時に備えて、衛国の最高機密を記した文書を一つ、彼の私邸の地下に隠しているわ。それは、衛徳王の先王の時代の、ある重大な秘密に関わる証拠文書よ」
胡麗の声は、真実を含んでいるように静かで重かった。
「その文書さえあれば、袁興は即座に大逆罪で処断されるでしょう。そして、その文書の保管場所の鍵となる暗号は、貴方の隊にいる、ある人間の過去に関係しているわ」
志文は微動だにすらしなかった。
「その人間は誰だ。暗号は何だ」
胡麗は志文に対し、最後の取引の条件を提示した。
「私の取引の条件は単純よ、志文様。貴方が王の下で軍の権力を完全に掌握した後、私にいわゆる『王都の管理者』の地位と、絶対の安全を保障して頂戴。私は、貴方の策を裏で支える影の宰相となるわ」
志文の目がわずかに細められた。胡麗は金や財宝ではなく、王都の権力の中枢に連なる地位を要求したのだ。
「分かった。約束しよう。もし貴女の情報が真実であり、袁興を討つことができれば、貴女にその地位を与えるよう大王に進言しよう」
志文の返答は、胡麗が予想していた駆け引きを遥かに超えた、即断即決のものであった。
胡麗は満足そうに頷き、懐から古びた一枚の木簡を取り出した。
それは、王都の貴族の家紋に似た複雑な模様が刻まれたものであった。
「これが暗号よ。袁興の地下に通じる門の暗号を解くための、唯一の鍵。そして、暗号の手掛かりとなる人物は...」
胡麗は志文の耳元に顔を寄せ、囁いた。その吐息は、冷たい夜の中で唯一熱を帯びていた。
志文は木簡を受け取り、胡麗の魅惑を一顧だにせず、冷徹にその情報の価値を測った。
(なるほど。まさか、あやつの過去が袁興の命綱だったとは....胡麗の情報は真実だな...)
志文は取引が完了したことを確認すると、直ちに立ち上がった。
「感謝する、胡麗殿。約束は守る」
「ええ、楽しみにしているわ、志文様。貴方の傍で、王都の全てを支配する日を」
胡麗は、遠のく志文を見つめて、湖畔に一人立っていた。
その姿は、新月の闇の中で、孤高の美しさを放っていた。
志文は湖畔を離れるや否や、古木の影で待機していた夜叉に小さく合図を送った。
(策は整った。李岳を呼び、直ちに袁興の私邸へと向かう)
志文の内なる牙は、王都の最も深い闇へと、獲物を定めて進み始めた。
志文が湖畔を離れ、待機していた夜叉と李岳が潜む木立の奥へと進んだ。
夜叉は音もなく、李岳は微動だにせず立っていた。
「夜叉、胡麗の動きに不審はあったか」 志文は木簡を確認しながら問うた。
「一切ありません、主。影の管理者は、その名に違わず、自身の安全を完璧に守っていました。彼女は取引を果たしただけです」
「よし」志文は頷いた。
「李岳。直ちに羅清を呼べ。袁興の私邸へと向かう。姜雷と衛射は王都の重要路地を固め、宋燕に袁興の本拠地周辺の警備状況を再度確認させろ」
「承知いたしました」 李岳は私情を挟まず、簡潔に指示を実行に移した。
数刻も経たぬうちに、参謀役の羅清が李岳に伴われて到着した。
彼は、急な召集にも関わらず、その穏やかな表情を崩さなかったが、その瞳の奥には、鋭い知性の光が宿っていた。
志文は羅清に木簡を差し出し、冷徹に言った。
「羅清。これは袁興が私邸の地下に隠した、衛国の機密文書の鍵となる木簡だ。胡麗は、暗号が『おまえの過去』に関係していると言った」
羅清は木簡を受け取り、その複雑な模様を一目見た瞬間、その穏やかな顔に初めて、微かな動揺の色が走った。
「殿…これは…まさか」羅清の声が低く響いた。
「まさかだ。それは、先王の御代に、王家の文殿を守っていた、今は絶えた『清羅氏』の紋章だろう」 志文は、全てを計算した策士の顔をしていた。
羅清は、かつての性を口にすることを許されていなかった。
彼の出自は、志文の策を実行する上で、絶対に隠さねばならぬ最大の秘密であった。
羅清は、自身のすべてを見通していた志文の知性に、畏怖の念を抱いた。
「承知いたしました、殿」
羅清は深く一礼し、再び冷静さを取り戻した。
「清羅氏は、先王の時代に、王が定めた秘匿の文の管理を任されておりました。先王の代に反逆罪で九族全員斬首になり、家門は断絶しました。私は清羅氏の唯一の生き残りです。その時、私はまだ幼かったですが、乳母の助けで、生き延びることができました。その乳母も病で亡くなりましたが」
羅清の顔は苦痛に微かに歪んでいた。だが、その瞳は冷徹で一切の感情を排していた。
「暗号の解読は可能です。その紋章は、古の文殿の開扉に使われた儀式の詩の一節を示唆しています」
志文は羅清の過去という、最も不安定な要素を袁興を討つための最も確実な鍵として組み上げていた。
袁興の私邸は王都の北東の、厳重な警備に守られた一角にあった。
志文は李岳、羅清を伴い、夜叉を先頭に闇の中を進んだ。
夜叉は、風の動き、番兵の呼吸、そしてわずかな土の匂いで警備の隙を見抜いた。
「主。番兵は八名。五分に一度、警備兵の影が交差し、濃くなります。私がさらに警備兵を誘導します。そのわずかな瞬間に」 夜叉は囁き、私邸の裏口へと滑り込んだ。
李岳は、夜叉が作り出した僅かな隙を見逃さず、精鋭の隊員二人を伴い、壁の影を利用して内部へと侵入した。
彼は一切の私情を挟まず、任務を遂行する精密な道具そのものであった。
志文は羅清と共に、屋敷の庭にある古びた納屋の裏へと回った。夜叉が先に潜入し、全ての番兵を音もなく、気絶させる、無力化していた。その場には、戦いの痕跡は一切残されていなかった。
「案内しろ、羅清。地下の文殿の場所だ」
羅清は、清羅氏の古の配置の記憶を辿り、納屋の地下に通じる隠し扉を指摘した。
そこは、石造りの重い扉で、表面には古の様式の紋章と、木簡に刻まれた暗号を受け付ける機構が備わっていた。
志文は木簡を機構の窪みに嵌め込んだ。扉の中心で、金属の擦れる静かな音が響いた。次は羅清の番であった。
「羅清。儀式の詩を」
羅清は、一瞬目を閉じ、古の記憶を呼び起こした。彼の声は、普段の理知的なものとは異なり、荘厳で、哀愁を帯びていた。
「…月は欠け、闇は光の父となり、大地の声は真実を聴く…古の道を知る者に扉は開かれる」
彼が詩の一節を唱える度に、扉に刻まれた紋様の一部が光を発し、カチカチという精密な機構の音が鳴り響いた。
羅清が最後の節を唱え終えると、重い石造りの扉がゆっくりと横に滑り、地下へと通じる、澱んだ空気の通路が現れた。
「羅清、そなたが逆族の出であろうと俺は構わん。俺はおまえの才と忠のみを頼りにしている。何より、清羅氏は逆族ではないと俺は信じている。俺の父は昔、そう言っていた。そして俺と同じく、俺の父は嘘を嫌う」
羅清は深く礼をした。その頬をゆるやかに涙がつたっていた。
地下への通路は、冷たい湿気と古びた紙の匂いが充満していた。
志文は羅清と夜叉を伴い、その奥へと進んだ。通路の先には、鉄で厳重に守られた小さな部屋があり、その中央に黒塗りの木箱が置かれていた。
木箱は、単純な物理的な錠前で守られていた。夜叉は慣れた手つきで、一瞬のうちに鍵を開けた。
志文は、自ら木箱の蓋を開けた。中には、幾重にも厳重に包まれた羊皮紙の束が入っていた。
志文は羊皮紙を手に取り、その表面に記された文字を静かに読み込んだ。
数行を読んだ瞬間、志文の瞳に、計算ではない、わずかな怒りの炎が宿った。
(これが…これが清羅氏が消された理由か...そして我が父も...)
その文書には、十年前に衛国の国境で起きた軍事的敗北、そして、志文の父である伯明が戦死する原因となった一連の事件の真相が記されていた。
袁興は、当時の軍の高官として、敵国と密約を結び、衛国の重要な軍事的配置を意図的に敵に流していた。
これにより、先王に忠実な将軍たちが無意味な死を遂げ、混乱に乗じて袁興は権力を掌握していったのだ。
志文の父である伯明は、「最後の番人」の異名と共に天下を震撼させた、猛将であった。父は景国と沙嵐国と玄岳国の連合軍との戦闘で命を散らした。当時、連合軍は十五万、衛国軍は三万であった。しかし、父は臆することなく、連合軍を半壊させた。連合軍は七万になっていた。だが、父の副将であった袁興が父の策を景国に流したことで、父の軍は壊滅した。父の遺体は今も、戦場に晒されているのだ。
そしてその事実をその広い諜報網により知っていた清羅氏は反逆罪という汚名を着せられ、九族皆殺しの憂き目にあった。
こうして真実は闇に葬り去られたのだ。袁興の権力の根源は、武勲ではなく、国家への裏切りという最も暗い罪の上に築かれていた。
(清羅氏の方々、記録として保管していただき、感謝します。この伯志文、命を賭けて
、袁興に償わせることを誓います。父上、愚息をお許しください)
志文は膝をつき、深く拝礼した。
「李岳」 志文は羊皮紙を堅く握りしめ、声を潜めたが、その声には鉄のような冷たさが含まれていた。
「この文書は、袁興の十年の悪行を証明する、紛れもない証拠だ。大逆罪…それは、彼が最も恐れる、王による処断を確実にする」
李岳は一切の感情を表に出さず、短く答えた。
「承知いたしました。これを以て、袁興に弁解の余地はありません」
志文は、胡麗の情報の正確さと、彼女が王都の闇をいかに深く管理しているかを再認識した。
彼女は、自身の地位の対価として、衛国の根幹を揺るがす最も価値ある情報を提供したのだ。
志文は木箱を閉じ、羊皮紙を厳重に懐に収めた。
地下の通路を戻る時、羅清は再び静かに隠し扉を閉じた。
全てが元の通りに戻り、袁興の私邸には、何も起こっていないかのような静寂が戻った。
志文は邸宅の外で警戒していた精鋭たちと合流した。
「李岳。全隊に命じろ。今から夜明けまで、一切の情報の漏洩を許すな。夜叉は直ちに王宮へと向かい、衛徳王に面会を求めろ。羅清はこの文書を携えて、謁見の準備をせよ」
「姜雷と衛射は王宮の周辺に配備させ、朱全や袁雷の残党の抵抗に備えろ。夜明けと共に、全てを終わらせる」
志文の声は冷徹でありながら、確固たる勝利の予感に満ちていた。
袁興の十年に及ぶ権勢は、志文の一晩の策と、胡麗の情報によって、完全に崩壊する運命となった。
冷たい夜の空気が、彼の蒼白な頬を撫でた。
志文は、夜明けを待つ王都の闇へと、その冷徹な牙を進ませた。




