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#1-16 偽計の報告

鉄牙平野の死闘は終結し、志文は王都に凱旋した。

五百人将に昇進した志文は王都の自宅に戻り、蒼白だが凛々しい素顔を見せていた。

王都は秋が深く進行し、邸宅の庭の楓は深い紅を宿し、冷たい風にその葉を散らしていた。

志文の屋敷は自身の隊の部下らに改築され、堂々とした佇まいであったが、その中で流れる時間はひどく穏やかであった。

「兄様、お茶をどうぞ。この冷え込む季節には、この上質な茶が一番です。無事のお帰りなによりです。怪我はなさっていませんか?」

月華げっかは優雅な仕草で湯気を立てる茶を志文の前に置いた。

彼女は長妹として常に気丈に振る舞い、志文の心の安寧を守ろうとしていた。

その隣で、雪華せつかが志文の腕に頬を擦り寄せた。雪華はまだ幼さが残り、少しだらしないところもあったが、可憐でかわいらしい妹であった。

「んー、兄様。やっぱり兄様の匂いは安心するぅ。お仕事はもう終わりぃ?なら、難しい顔はやめてもっと雪華に構ってよぉ~」

雪華は甘えを隠そうともせず訴える。

志文は冷徹な策士の顔を崩し、妹の頭を優しく撫でた。

「雪華。少しだけ待て。俺にはやらねばならぬことがある。この家の平穏を保つための仕事だ。内患はこの平穏の機に除かねば」

月華が諭すように雪華に言った。

「雪華!兄様は衛国の柱として、大変な役目を背負っているの。甘えてばかりいてはダメよ」

「お姉様だって、ホントは甘えたいくせにぃ!お兄様が戦に行ってから、お姉さまが毎日、お兄様の服を抱いて、眠ってたのぉ、雪華、知ってるんだからぁ」

「な!雪...雪華、出..出鱈目言わないで!お...お兄様、私はそんな、はしたないこと、し..してません。信,,,,信じてくださいっ!」

「ふっ。アハハッ」 志文は笑った。久しく、湧かない感情であった。

感情を論理の邪魔としてきた志文は、その感情がとても愛おしく、心地よいものだと思い出した。

志文にとって、この家での月華の気遣い、雪華の可憐な甘えこそが、王都の権力の闇に立ち向かうための最大の支えであった。

志文の五百人隊の編成と調練は、厳格な規律の下、急速に進められていた。

王都の東郊の調練場は秋の冷気に晒されながらも、将兵たちの汗と叫びで熱気を帯びていた。

志文の隊は単なる兵力ではない。策を実行するための精密な道具であり、後に「伯七狼」と呼ばれる七人の将がその心臓部を構成した。

副官の李岳りがくは、寡黙に隊の規律を統率していた。

彼は、志文の冷徹な思索を理解し、その意図を完璧に実行に移す沈着冷静な判断力を持っていた。

「李岳。隊列の乱れは策の破綻に直結する。一切の私情を挟まず鉄の規律を徹底することを忘れるな」

「承知しております。主の(めい)に、常に私の(いのち)を賭けます」

李岳の返答は短く重い。

突撃隊長の姜雷きょうらいは、調練の最中も吼えるように雄叫びを上げる。

「怯えるな!武は全てを打ち破る力だ!李岳、規律もいいが、魂の雄叫びが足りぬぞ!」

姜雷の豪放磊落な性格と武への絶対の信頼は、隊に爆発的な突進力を与えたが、その直情径行さを羅清らせいが常に監視していた。

参謀役の羅清は、姜雷の隣で穏やかな表情を崩さなかった。

「姜雷将軍。感情は剣を鈍らせる。志文殿の策は、感情ではなく計算を基盤とする。貴方の武は、その計算を完成させるための力であると認識しなさい」

羅清の言葉は常に理知的であった。

弓隊長の衛射えいしゃは、調練場の遠く離れた場所で、静寂の中で弓を射続けていた。

彼の放つ矢は全て的の中心を射抜き、衛国一と謳われる弓術の腕前は志文の隊において、遠距離の牙となった。彼の内に秘めた熱情は、その冷徹な表情からは窺い知れなかった。

斥候長の宋燕そうえんは、軽妙に調練場を駆け回り、志文の元へ戻った。

「ねえ、志文様、王都の権力の匂いが濃くなってきたわ。朱全しゅぜんの隊が我々の動きを探る動きが頻繁になっているわ。背後に袁興えんこうがいるのは明白ね」

兵站長の林業りんぎょうは、宋燕の情報を受けて直ちに物資の計算と補給経路の変更を行い、朱全の干渉を未然に防いだ。

そして、夜叉やしゃは、誰にも知られることなく王都の裏側をさまよい、袁興一派の密会の情報を収集していた。彼の存在は影そのものであり、志文の最も暗い牙であった。

志文が次の戦いの準備を進める一方、袁興の憎悪は日に日に増していた。

黄凱おうがいの処断により権威を傷つけられた袁興は、志文を公の場で失脚させる策を練っていた。

袁興は腹心の朱全、自身の友人であった朱桓を志文に討たれたことで恨みを抱いていた周赫しゅうかくを呼び出した。

「周赫。貴様の恨みを晴らす時が来た。伯志文は策に依存する。その策の源である情報を操作しろ。公務の記録と文書を改竄し、致命的な判断ミスを犯させろ」

「承知いたしました、袁興様。奴が頼りにする全てを偽で染めてみせます」

周赫は憎々しげに答えた。

袁興の甥である袁雷えんらいは、傲慢な態度で吠えた。

「伯志文が公務の席で失態を犯した瞬間、この袁雷が徹底的に糾弾してやる!あの若造が五百人将など笑わせる!そして今度こそ、『王都の双華』、伯月華と伯雪華を手に入れるのだ!」  袁雷は無能ながらも憎悪に突き動かされていた。

しかし、志文の冷徹な思索は既に袁興の動きを予測していた。周赫の「策謀」こそが、志文が袁興を王都の権力闘争から排除するための「餌」となる運命にあった。

秋の日が沈み、夜の帳が降りる頃、月華が友人を連れて帰宅した。

「兄様!帰っていたのね!私の友人の胡麗よ。胡麗、こっちが私の兄、伯志文」

胡麗これいは深紅と漆黒の絹の衣装に身を包み、豊満な体躯と艶やかな黒髪が魅惑的な雰囲気を放っていた。

彼女は志文と同い年の二十二歳であったが、その瞳は王都の華やかさと裏の顔を全て見透かしているかのようであった。

「伯志文様。貴方の素顔は噂以上に美しいのね。でも、戦場を見てきた貴方の目は、冬の湖のように冷たいわ。私の情熱で溶かせそうかしら」

胡麗は挑戦的で蠱惑的な笑みを浮かべた。

志文は魅惑に動じず、静かに胡麗の真意を探った。

「遊女ながら、卓越した諜報網と策略で貴女の知らぬ情報はないという『王都の管理者』、胡麗殿がお越しとは。して何用かな?まさか、歓談に来たわけではあるまい...」

志文は警戒を緩めず、冷たく聞いた。

胡麗はゆっくりと茶を啜った。

胡麗は志文に対する好奇心を隠そうともしなかった。

「貴方は面白いから来たのよ、志文様。道理で、月華が私に毎日のように自慢するわけね」

「ちょ..ちょっと...お兄様に適当なこと、言..言わないでっ!」 月華が顔を赤らめながら、横やりを入れた。

胡麗はそんな月華を無視して続けた。

「袁興の策は周赫が中心よ。彼は貴方に公務で失敗をさせようと、軍の記録を操作しているわ。数日後の王宮での会合が狙いよ」

「感謝する」

「お代は今度、ご飯にでも誘って頂戴!じゃっ」

「ちょっ...ちょっとっ!」 月華がまた声を上げる。

そんな月華をニヤッと笑って、胡麗は去っていった。

胡麗から得られた確実な情報は、志文の策を駆動させる決定打となった。

(胡麗。貴女は袁興の策を王都の闇から見ている。貴女を利用すれば、周赫だけでなく、袁興自身を謹慎に追い込める)

志文は胡麗の魅惑を完全に無視し、その情報価値のみを計算していた。

王都の夜は更け、志文の牙は王都の権力の中枢へと向かう準備を進めていた。

胡麗が去った後、屋敷の中は再び静寂に包まれた。

月華は顔を赤らめたまま湯呑みを片付け、雪華は志文の隣で微睡んでいた。

志文の心は既に平穏な日常から王都の戦場へと切り替わっていた。

胡麗から得た情報は、全てを繋げるための糸口であった。

(周赫は王宮の軍務記録を操作した。その目的は、数日後に予定されている、衛徳王えいとくおう臨席の軍の公務報告の席で、俺に公然と失敗を犯させること。袁雷と朱全が糾弾役に回るだろう)

志文は、この策が袁興の権威を回復させるための最後の賭けであることを理解していた。

(故に、この策を逆手に取れば、袁興一派の主要人物を一網打尽にできる....)

志文はそっと雪華を寝室に運び、書斎へと向かった。

彼の頭の中で、李岳りがく羅清らせい宋燕そうえん夜叉やしゃらの動きが精密に組み上げられていく。

彼の策は、周赫が改竄した「偽の軍務記録」をそのまま利用することにあった。

すなわち、偽の記録を真実として提示し、それを基に、周赫らが主張する「志文の失態」とは逆の結論を王の前で導き出し、周赫一派の記録の改竄と王を欺こうとした意図を公に暴露するというものであった。

深夜、志文は李岳と羅清を呼び出し、書斎で密命を下した。

「李岳、羅清。周赫は軍の記録を操作した。その記録は、王都から三日の距離にある『西の穀倉の在庫』に関するものだ」

李岳は一切の動揺を見せず、静かに問うた。

「殿、我々はその偽の記録を修正せず、そのまま公務の席に出すべきだということですね」

「その通りだ、李岳」志文は冷徹に頷いた。

「羅清、お前はこの偽の在庫記録を基にした詳細な報告書を作成せよ。そして、その偽の記録に沿って報告を行った時に、袁雷らがどの部分を糾弾してくるか、全て予測を立てろ」

「承知いたしました。殿、彼らの思考回路は単純です。彼らの裏をかくというより、彼らの単純な策を逆に利用する構造のこの策は必ず成功します」

羅清は穏やかだが確信に満ちた声で答えた。

志文はさらに夜叉やしゃに密命を与えた。

「夜叉。周赫、朱全、袁雷の三名は、軍務報告の日までに必ず密会する。その場所を突き止めろ。そして、彼らの密談を、第三者、すなわち王都の民が傍聴できる状態にしておけ。ただし、彼らに気取られるな」

夜叉は小さく頷くと、音もなく姿を消し、王都の闇へと溶け込んでいった。

数日後。

王都では、衛徳王臨席のもと、軍の公務報告が王宮の大広間で開かれた。

秋の冷たい日差しが大広間の窓から差し込み、豪華な装飾の影を濃く落としていた。

袁興は最上段に座る国王の一段下の席に座り、不敵な笑みを浮かべ、志文の失敗を今か今かと待ち構えていた。

周赫と朱全は記録を持ち、袁雷は志文を見下ろすように立っていた。

志文は羅清が準備した「偽の在庫記録を基にした報告書」を持って前に進み出た。

「衛徳王。衛国五百人将、伯志文、王命により軍務の報告をいたします」

志文は冷静な口調で、周赫が改竄した「西の穀倉の在庫が著しく不足している」という偽の情報を基に、穀物の運搬と配備の計画を報告した。

志文の報告が終わるや否や、袁雷が待ってましたとばかりに大声で糾弾した。

「伯志文!その報告は王命を愚弄しているのか!西の穀倉の在庫は潤沢だぞ!」

周赫と朱全もすかさず同意し、「袁雷様の言う通り、我々の記録でも、在庫は潤沢だ!」と声を揃えた。

衛徳王は顔を曇らせた。袁興は勝利を確信し、口元に薄い笑みを浮かべた。

その時、志文は冷徹な視線を三名に向け、深く一礼した。

「お待ちください、袁雷将軍。周赫将軍、朱全将軍。貴方たちが手に持っている記録は『偽物』です。あなた方は西の倉庫の物資が潤沢にあると言いましたが、それは真実ではありません。西の倉庫は在庫不足です」

場は一瞬で静まり返った。袁興の顔色が変わる。

志文は王に向かい、羅清が用意したもう一つの報告書を提示した。

「大王、私は周赫将軍が記録を操作し、在庫を「不足」と偽っていることを知っておりました。故に、大王への忠を忘れた者らに僭越ながら鉄槌を下していただくために今日、「偽の在庫不足」を前提に報告を行いました」

志文は、西の倉庫を潤沢に見せるために、自軍の兵糧を袁興らより先に、宋燕に命じて、秘密裏に西の倉庫に運ばせていた。そして、軍務報告の前に自身の部隊の軍舎に戻しておいたのだ。西の倉庫の管轄は張勇であった。故に、事は尚のこと容易であった。

すなわち、西の倉庫は在庫不足であったが、志文の策により、一時的に潤沢であった。ゆえに袁興らは在庫不足と偽の情報に記録を書き換えたが、それは正しい記録で会った。

志文は待機させていた斥候長の宋燕を呼び寄せた。

「宋燕!西の穀倉の真実の在庫状況を報告せよ!」

宋燕は軽やかに進み出た。

「国王様、周赫将軍らの記録にある西の在庫が潤沢であるという情報は偽です。我々の調査では、穀倉の在庫は平時の半分ほどです」

衛徳王は驚き、周赫、朱全、袁雷は蒼白になった。

「そして国王様」志文は冷徹に続けた。

「昨日の夜、この三名が密会し、私が偽の記録を信じて失敗した際に、どのように糾弾し、私を失脚させるかを謀議している場の会話を、幾人もの民が聞いておりました」

夜叉が事前に仕掛けた工作により、三名の密談は秘密裏に記録されていたのだ。

はたして、衛徳王は激怒した。

「周赫、朱全、袁雷!王を欺き、軍の柱を陥れようとする貴様らの行為、断じて許さぬ!直ちに軍の権限をすべて剥奪し、謹慎を命じる!」

袁興は甥と腹心の失態に顔を引き攣らせたが、王の怒りの前では何も言えなかった。

周赫、朱全、袁雷の三名を謹慎に追い込んだ後、志文の権力は王都で確固たるものとなった。

袁興は勢力を大幅に削がれたが、志文はまだ袁興自身を倒す情報を待っていた。

無論、胡麗からである。

夕暮れ、志文が自室で鍛錬を終えた後、妹たちが茶と菓子を持って現れた。

「お兄様、お疲れ様でした。またお仕事で難しいことをなさっていたそうですが、無事でなによりです」 月華は優雅に笑った。

「ふふーん。雪華は知っているんだからね!お姉さまがお兄様のお部屋の前に立って、心配そうに聞いてたの!雪華は知ってるんだからぁ!」

雪華は月華をからかい、月華は顔を赤くした。

「雪華!出鱈目言わないで!お兄様、信じてはいけません!」

「大丈夫だ、月華。そなたたちがいるからこそ、俺は全てを乗り越えられる」

志文は温かい目で二人を見つめた。

その時、屋敷の使いが志文を呼び出した。胡麗からの文であった。

「志文様。三匹の子狐は片付きましたね。お代を頂戴する時が来ましたわ。今度の新月の夜、王都の西にある『月の湖』で待っておりますわ。そこで、袁興を倒すための最後の情報を教えてあげるわ。もちろん、二人きりでね。楽しみにしておりますわ」

志文の冷徹な顔にわずかに喜色の色が浮かんだ。

「胡麗.....面白い女だ....」

志文は胡麗を利用し、袁興を完全に排除するための最後の策を練り始めた。

王都の秋の終わりは、権力闘争の終わりを告げようとしていた。


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