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#1-15 策士、王都へ凱旋す

龍牙関の手前、黒龍河こくりゅうがの手前に広がる鉄牙平野のさらに奥。

宋良そうりょうの八千が横一列に防陣を組む中、志文の五百騎が静かに対峙していた。

志文は黒い仮面の下で一歩も動かず、宋良の思索の揺らぎを冷徹に見据えていた。

芳蘭ほうらん陳豪ちんごうに託した二千騎は左右の林の中に消え、宋良の視界から消失していた。

宋良は、既に疑心暗鬼という地獄に陥っていた。

(伯志文は何を狙っている?寡兵での正面衝突はありえない。陳豪と芳蘭の二千は渡河し、手負いの魏将軍らを襲う…その可能性を排除できない.....だがしかし、その可能性を信じる根拠もない。やはり、動くべきではない...一刻の猶予を稼ぐのが我が使命)

宋良は慎重ゆえに、防陣を崩さず、時間だけが虚しく流れていた。

魯国の本隊は黒龍河の中央の渡河地点をゆっくりと渡り続けていた。

その静寂を切り裂いたのは、遠くから響く悲鳴と混乱の音であった。

音は黒龍河を渡り終えた本隊の先頭、李彪りひょうの隊がいた方角から響き渡った。

黒龍河の向こう側で突如発生した混乱は、渡河中の魯国兵の士気を根底から揺るがした。

「何だ!何が起きた!」宋良の冷徹な顔に焦りが浮かぶ。

伝令が必死に馬を駆り、宋良の本陣へと飛び込んできた。

「宋将軍!黒龍河を渡り終えた李将軍の隊が、林からの奇襲を受けました!攻城兵器が破壊され…李将軍が…李将軍が戦死されました!」

李彪の戦死という事実は、宋良の思索を決定的に破綻させた。

魏鉄山、荀清、馬徳、袁凱の損害に加え、戦だけでなく、魯国の技術の要であった李彪という柱も折れたからだ。

(奇襲だと?誰が行った?伯志文はここにいる…まさか、林に消えた二千の部隊が渡河したのか!その可能性しかない....不覚をとったか....伯志文、やはり、侮るべきではなかった.....!)

宋良は李彪の戦死を報じる叫び声を、陳豪と芳蘭の部隊が急流の中の秘密の渡河地点を渡り、本隊を襲ったことによるものだと判断した。

魯国軍の心臓部である魏鉄山らの護衛を最優先せよという公孫穆の命令が、宋良の頭の中で狂気のように響いた。

宋良の慎重な性格は、この致命的な状況下で最悪の選択を導き出した。

魏鉄山らを守るため、自らが動く必要があると判断したのだ。

(伯志文の狙いは私ではなく、本隊だったのか。私の隊で足止めをしている間に、既に渡河していたとは…!魏将軍、荀参謀に危機が迫っている!)

宋良は、目の前の志文の五百騎を無視し、本隊の救援を急ぐことにした。

「第三、第四、第五の隊!三千の兵を率いて黒龍河を渡河せよ!李彪の隊を救援し、魏将軍と荀参謀を護衛せよ!急げ!」

宋良は防陣の一部を崩し、三千の兵を黒龍河へと向かわせた。三千の兵が急流の渡河地点へと向かう。

志文は依然として動かない。黒い仮面の下で、志文は宋良の思惑の破綻を確認していた。

(宋良は二度の誤算を犯した。第一に、李彪を討ったのが、劉勇が魏鉄山を負傷させた時点で出発させ、既に渡河させていた張勇の隊だと見抜けなかったこと。まあ、無理もない...張勇は鉄牙平野戦に一度も姿を見せていない。張勇の戻りが俺の想定より速かったために、成せた策だ.....第二に、林に潜む陳豪と芳蘭が本当に渡河したと判断し、自身の隊を切り崩し、救援に向かわせたこと...そもそも魏鉄山は負傷したとはいえ、魯国の武の象徴、警戒されている中では討つのは不可能だ、荀清も同じこと。俺の狙いはそもそも「魏五虎」が第四虎 宋良 おまえだ。「魏五虎」において最も隙がないのはそなただからな...)

宋良の隊は救助隊として三千を派遣したことで、八千の隊は五千に減った。

そして、さらなる決定的な失策を犯そうとしていた。

宋良は救助隊を派遣した後も、志文が動かないこと、そして黒龍河の向こう側の混乱が収まらないことに焦りを感じていた。

(救助隊の三千が渡河を完了するまでに、半刻はかかる。その間、伯志文の五百が無為に立っているとは考えられない、なにより伯志文はすでに次の手を打っているかもしれぬ…まさか私をここに釘付けにすることで、本隊の壊滅を狙っているのか!)

宋良の慎重な性格は、今や極度の焦燥に変わっていた。

救助の確実性、そして正確な状況の把握をするためには、自分の目で本隊の状況を確認する必要がある。

だが、志文の隊が眼前に不気味に立っていた。

(伯志文を討てば、全てが終わる。五百の寡兵。この兵力差ならば、一撃で討ち取れる!三千が渡河しているとはいえ、我が隊は、奴らの隊に対して、十倍の兵力を有している!なにより、五百で我が隊を止められると侮られているのが、腹立たしい!)

宋良は時間稼ぎという策を捨て、眼前の志文を討ち取るという狂気の選択へと向かった。

十倍の兵力差があるという絶対の事実が、宋良の思考を支配していた。

「全軍!伯志文の五百騎を叩き潰せ!我々の全軍五千で、一撃で殲滅し、すぐに本隊の救援に向かう!全軍突撃せよ!」

宋良は自身の全軍五千を志文の寡兵五百騎にぶつけるという、志文の術中通りの命令を下した。

彼の思惑は、志文という異物を排除することで全ての混乱を終わらせることに、いまや集中していた。

魯国軍五千の鉄塊が、地響きを立て、志文の五百騎へと向かって突進を開始した。

志文はその光景を冷徹な視線で見据えた。宋良の思惑は完全に破綻した。

宋良が自身の全軍をぶつける選択をした瞬間、志文の策は成就したのであった。

宋良そうりょうの五千の鉄塊が、志文しぶんの寡兵五百騎へと、地響きを立てて、突進した。

兵力差は十倍。宋良の思惑は、この圧倒的な数の事実を利用し、志文を一撃で排除することにあった。

(伯志文。貴様の策もここまでだ。五百の命で五千の武を止めるなど、狂気の沙汰!)

宋良の顔は焦燥に歪んでいたが、勝利を確信していた。

しかし、志文の黒い仮面の下の瞳は冷徹であった。

彼は宋良の思考を全て読んでいた。宋良が全軍をぶつけるという選択をした瞬間、宋良は自らを死地へと追い込んだのだ。

(宋良。貴様は慎重がゆえに、一刻の時間を惜しみ、全軍を動かした。貴様の全軍が動くことこそが、黒龍河の渡河地点を無人とする唯一の鍵となる)

志文の軍としての武は、正面から武を粉砕する性質ではない。策の道具として鍛えられた非情で緻密な業であった。

魯国軍の騎馬隊が肉薄する寸前、志文は手を軽く上げた。

五百騎の衛国兵は、訓練された動きで横に広がり、魯国軍の突進の圧力を受け流した。

刀と槍は交錯するが、志文の五百騎は戦線を維持せず、まるで水のように魯国軍の勢いをいなした。

宋良の五千は、目の前の敵を叩き潰すことを目標としていたが、志文の隊は水のように掴みどころがない。

魯国軍の隊列は志文の隊を通過した後、目標を見失い、一瞬、混乱の渦に巻き込まれた。

志文は宋良の隊が自らの陣形を崩し、黒龍河の渡河地点から完全に離れた瞬間を見逃さなかった。

志文は一瞬、林の方角へと顔を向け、わずかな合図を送った。

その瞬間、左右の林から轟音と共に二千騎の騎馬隊が飛び出してきた。

左翼からは陳豪ちんごうの荒々しい雄叫びが響く**。

「宋良!貴様の策は破綻した!荒武者、陳豪が相手だ!」

右翼からは芳蘭ほうらんの冷静で鋭い武が閃く。

「宋将軍。ここを貴方の最期の地とするわ!」

陳豪と芳蘭の部隊は、迷うことなく黒龍河の渡河地点へと猛進し、無人となった渡河地点を即座に占拠した。

志文しぶんの策は完璧であった。

宋良そうりょうの五千は、黒龍河こくりゅうがから離れ、陳豪ちんごう芳蘭ほうらん、志文の三隊からなる衛国軍二千五百の包囲の中に追い込まれた。

唯一の退路であった黒龍河の渡河地点はすでに塞がれ、包囲を抜けることすら、厳しくなっていた。

宋良は、絶望していたが、その絶望は、魏鉄山ぎてつざん荀清じゅんせいを守り抜く忠義という鋼鉄の意思へと昇華した。

(伯志文…貴様は勝利を確信しているか。だが、魯国の柱は生きている!我が死が一刻でも本隊の安全を担保し、そなたらに損害を与えるならば、この五千の血で衛国の地を染めてやる!)

宋良は自らの剣を高く掲げた。その剣には死を覚悟した武人の魂が宿っていた。

「全軍!我々は魯国の牙だ!我らが死をもって魏将軍らを守れ!我らが威をもって一人でも多く、道連れにするのだ!最後まで立って、魯国の武を示せ!全軍、突撃!」

魯国軍の五千は地獄の底から這い上がった鬼神の如く、衛国軍の包囲網へと猛然と突撃した。彼らの武は狂気を帯び、衛国軍の最前線を激しく揺さぶった。

芳蘭の隊は冷静な指揮で包囲を維持し、志文の隊は魯国軍の隊列の隙間を縫って分断を図った。

しかし、宋良の部隊は死をも恐れぬ姿勢で抵抗を続けた。

宋良は一点の突破口を陳豪の隊に見出し、自らが先頭に立って猛進した。

「陳豪!貴様の荒武者の魂を我の死力をもって崩してみせる!」

宋良の剣は魏鉄山に捧げる忠義の一念で輝いていた。

陳豪は宋良の死を覚悟した武に敬意を払いつつも、容赦はしなかった。

「宋将軍!貴様の武は見事だ!だが、志文殿の策に従うこの陳豪の牙は、魯国の柱を全て砕く!」

剣と槍の激しい衝突が繰り返される。

宋良は疲労の極致にありながら、陳豪の剛力に食らいついたが、陳豪の武は第一虎 馬徳に匹敵する、すなわち宋良にとっては絶対的な敗北を意味していた。

陳豪は宋良の剣を弾き、その体勢が崩れた一瞬を逃さず、長槍を渾身の力で突き出した。

魯国軍第四将、宋良、戦死。

死を覚悟した英雄的な奮戦もむなしく、宋良の五千は全滅した。

魯国の第四虎が散った瞬間、志文の鉄牙平野での策は完全に完結した。

宋良の隊を殲滅した後、志文らは龍牙関へと馬を駆った。

龍牙関の城内では、既に韓忠かんちゅう劉勇りゅうゆうによる粛清が始まっていた。

城に残っていた黄凱おうがいら袁興一派は、軍律を乱す行為の全てを暴かれ、壇上に引き出されていた。

韓忠は総大将代理として、城内の負傷兵らを証人として厳粛に裁きを下した。

「黄凱。貴様の罪は、兵糧の占領未遂、暴動未遂、戦闘拒否命令、そして同じ衛国兵である志文殿への暗殺未遂という自軍への妨害行為だ。これらの罪は、衛国の存亡を賭けた戦いの最中に行われた。そしてこれらは重罪であり、万死に値する!」

劉勇は武人として成長した眼差しで黄凱を見据え、冷徹に処断を見届けた。

韓忠は正当な手続きを踏み、黄凱を斬首した。

血の粛清は、軍の規律を再構築し、王都の腐敗した権力への毅然とした態度を示した。

韓忠は即座に戦果と黄凱処断の経緯を記した戦報の書簡を王都へと送った。

志文が龍牙関へ引き返すと、城内の将兵は彼を英雄として迎えた。

志文、韓忠、陳豪、芳蘭、劉勇、張勇らは龍牙関を後にし、衛国国王衛徳えいとくが待つ王都へと凱旋した。

民は皆歓喜し、王都には歓喜の輪がうずまいていた。

衛国国王 衛徳は玉座に座り、大勝利の報に歓喜していたが、黄凱処断の報による袁興えんこうへの配慮という二つの感情が入り混じっていた。

衛徳王は凡庸だが情に厚く、忠臣の功績には報いることを是とする君主であった。

志文は謁見の場で、冷徹に事実のみを報告し、一切の私情を見せなかった。

衛徳王は玉座から身を乗り出し、感極まった声で言った。

「伯志文よ!そなたの策は衛国を救った!まさか五万の魯国軍を打ち破るとは、我が衛国の歴史において比類なき功績である!そなたら忠臣たちの尽力、まことに見事であった!」

衛徳王は直ちに、この功績に報いる命令を下した。

「伯志文、李芳蘭。そなたらの功績は五百人将に値する。本日をもって五百人将への昇進を命じる!」

「陳豪、劉勇、張勇。そなたらも衛国の勝利を支えた武の柱だ。三百人将への昇進を命じる!」

昇進の決定は、志文の地位を王都で揺るぎないものとした。

一方、袁興は憎悪に顔を歪ませていた。黄凱の処断は彼の権力の手を一つ切断されたに等しく、黄凱の悪行により、国王からの叱責という屈辱を受けた。

衛徳王は黄凱の件について言及し、袁興を一瞥した。

「袁興よ。そなたが推挙した黄凱が軍律を乱した事実は重い。衛国の存亡がかかった戦場で規律を乱す将を推挙した責任は免れぬ。そなたの功績は認めるが、今後、人を推挙する際は、その忠義と人間性を見極めるよう、心して選ぶのだ!」

衛徳王は忠臣には情で報い、奸臣には公の場で規律の厳しさを説くという、彼なりの君主としての裁定を下した。

袁興は憎悪を呑み込み、志文への恨みをさらに募らせた。

凱旋の儀が終わった後、袁興は志文に近づき、低い声で嘲笑した。

「伯志文。貴様の策は見事であった。だが、王都の権力の戦いは、剣と槍では決着がつかぬ。貴様は生きているが、その生はこの袁興の思惑の上にあることを忘れるな」

志文は一瞬、立ち止まったが、袁興を見返すことはなかった。

(袁興。貴様の牙は、王都で砕かれることになる。貴様の存在こそ、次の策の餌だ)

志文は王都の喧騒を背にし、袁興の憎悪を無視して去った。

衛国の内側の戦いが今、静かに始まろうとしていた。


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