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#1-12 策士、牙を剥く

魯国軍本陣。

鉛色の空の下、五万の魯国軍が布陣する鉄牙平野は、極度の緊張に包まれていた。

この平野は、衛国軍が籠城という常識を捨て、野戦の構えを見せ始めたという想定外の事態によって、血の運命を刻む舞台へと変貌していた。

軍師、公孫穆こうそんぼくは、前線から届いたばかりの報告書を広げたまま、卓に肘をついていた。

彼の冷たい思索は、一つの不確定要素、すなわち志文の生存と策の実行によって、深い揺らぎを経験していた。

衛国軍が、龍牙関の城門を開き、平野に布陣を開始したという報告。

これは、公孫穆の非情なる解析が導き出した唯一の合理的思索、すなわち「衛国軍は飢餓により籠城を続け、自滅する」という予測を、真正面から否定するものであった。

「衛国軍が、龍牙関の城門を開き、平野に布陣を開始した…だと?ありえぬ。彼らは飢餓の極地にあったはず。籠城を続け、玄岳国の南下を待つのが、唯一の合理的思索だ」

公孫穆の声は低く、感情を押し殺しているが、その瞳の奥には、予測不能な事態への深い警戒の色が濃く滲んでいた。

彼の策は、兵糧の枯渇と毒の余韻、そして玄岳国との密約という物理法則と大局に基づいていた。しかし、その絶対的な鎖を、衛国軍が自ら断ち切るという行為は、公孫穆の計算の根幹を揺るがすものであった。

総大将の魏鉄山ぎ てつざんは、公孫穆の思索の乱れを見抜き、その巨体を僅かに揺らした。彼の剛直な武人としての魂は、知略による停滞よりも、武力による即座の解決を望んでいた。

「公孫穆。貴様が飢餓を盾に撤退を命じたが、衛国は、その盾を打ち破ったようだ。奴らが四千の兵で五万の我々に野戦を挑むなど、狂気の沙汰。だが、奴らが狂気をもって臨むならば、こちらも武力をもって応えるまで。数が、狂気を打ち砕く。策など、力の前には塵に等しい」

魏鉄山は、武こそが戦場の真の支配者であると信じていた。彼の単純にして強靭な意志は、魯国軍の鉄塊を動かす原動力となっていた。

公孫穆は、報告書を静かに卓に置き、魏鉄山を見据えた。

「魏将軍。これは、衛国軍が籠城を続けるという我々の予測を、意図的に裏切る策。衛国軍は、食糧をどこかから確保した。そして、それを可能にしたのは、伯志文という男の狂気が、衛国軍に影響を与えている証拠。奴が、生きていた…あるいは、彼の策が生きている...」

公孫穆は、志文の「死」が偽装であった可能性を、即座に非情なる解析により導き出した。

第二補給線の途絶、そして衛国軍の大胆な行動。この二つの事実は、伯志文の生存と、彼による衛国軍への影響力を強く示唆していた。

荀清は、静かに布陣図を広げた。衛国軍は、中央に韓忠の旗、その両翼を陳豪と芳蘭が固め、四千の兵が弓を張り詰めたような陣形を取っていた。

そして、韓忠の隣には、黒い異形の仮面をつけた一人の武人が立っている。

「公孫様。衛国軍は、鉄牙平野の中央、我々が最も警戒する地勢に布陣を開始しています。彼らの狂気の牙を、我が軍は数で受け止める。しかし、彼らが数において絶望的である事実は変わりません。この野戦は、衛国軍にとって最終的な賭け。そして、韓忠の隣に立つ、仮面の武人。彼の仮面は、王都の袁興えんこうに伯志文の生存を悟らせないための偽装。そして、この戦場においては、不確定要素としての恐怖を撒き散らす策でもあります」

荀清は、思索の深い公孫穆の副官として、不確定要素を慎重に指摘し、志文の意図を読み解いた。

公孫穆は、布陣図の仮面の影を、冷たい瞳で睨みつけた。その影は、まるで非情なる論理の化身のようであった。

(伯志文…貴様、己の死さえも、策の道具として利用し、内患たる袁興の思惑までも計算に入れたか....非情なる論理の極致。衛国軍の籠城という思惑は崩れたが、七日後に玄岳国が南下するという大局は変わらぬ。ならば、貴様の策が、数と質量の物理法則を覆すことはないことを、鉄牙平野で証明する)

公孫穆の思索は、衛国軍の狂気の行動を逆手に取る方向へと移行した。彼は、伯志文の生存という不確定要素を、五万の武力という絶対的な物理法則で無力化する決断を下した。

公孫穆は、冷たく命じた。

「魏将軍。衛国軍は、自らの運命を、平野という我々の主戦場で決しようとしている。これは、我々にとって喜ぶべき結末。籠城戦での無益な損耗を避け、五万の鉄塊が、四千の狂気を一瞬で踏み潰すことができる」

「我々は、衛国軍の意図に乗る。馬徳に命じ、試探の突撃をかけさせよ。衛国軍の士気と、策の規模を探る。ただし、主力は動かすな。我々の思惑は、衛国軍を最小限の損耗で屠り、玄岳国の到着を待つことにある。この探りの一撃で、衛国軍の狂気を冷やし、戦意を挫け」

魏鉄山は、公孫穆の策に不満を抱きながらも、武人としてその効率性と確実性を認めていた。

「わかった。馬徳に命じよう。奴の武力ならば、四千の狂気を試すには十分だ。魯国の鉄塊の最初の一撃を、衛国軍に思い知らせてやれ!武こそが、策に勝ることを証明する!」

魏鉄山は、自身の第一将である馬徳ばとくを呼び寄せた。

「馬徳!衛国軍の四千の残党が、平野に布陣した。奴らは、狂気の牙を剥いている。貴様の三百騎で突撃をかけ、奴らの武力と士気を測れ。探りの槍を深くまで突き刺し、奴らの陣に混乱を創ってこい!剛直な武で、奴らを恐怖に陥れよ!」

「承知!」

馬徳は、剛直で、魏鉄山に次ぐ武力を持つ『突撃の鉄槌』であった。彼は、四千の残党を武で打ち砕くことに、純粋な興奮を覚えていた。彼の単純な魂は、策よりも力を信じていた。

馬徳は、馬上鞭を叩き、魯国軍の陣頭へと向かった。その表情には、敵を侮る慢心が浮かんでいた。

彼の背後で、荀清が静かに呟いた。

「馬徳殿の剛直な武は、時に策を無視する。公孫様の思惑は、探りに留めること。馬徳殿が、熱情に駆られすぎぬことを願う。伯志文という策士が相手では、単純な武力は餌となる」荀清は、思索の男であり、感情による行動が志文の策の罠に嵌ることを予感していた。

馬徳の突撃を見た魯国軍の五将は、それぞれが独自の思惑を巡らせた。彼らは、武力を信じる者、技術を信じる者、計算を信じる者、効率を信じる者と、公孫穆の思惑を異なる視点から捉えていた。

第二将、孟武もうぶは、騎馬隊の指揮官である。彼は、電光石火の速攻を得意とし、馬徳の突撃を戦機と捉えた。

「馬徳の突撃は、我々の騎馬隊の武を見せつける好機。衛国軍の陣が崩れれば、即座に追撃に移る。公孫軍師の思惑通り、無益な損耗は避けるが、勝利の機会は逃さぬ。衛国軍の後退経路を確保せよ!」

孟武は、勝利への執着と戦場の効率を優先する男であった。彼の目は、既に衛国軍の弓隊の配置を解析し、側面への奇襲の可能性を探っていた。

第三将、李彪りひょうは、攻城兵器の扱いに長け、城壁破壊の職人と呼ばれる男である。彼は、野戦での自らの役割が限定的であることに、苛立ちを覚えていた。

「馬鹿げた野戦だ。城壁を破壊する方が、遥かに効率的。四千の残党に、五万の鉄塊が手を汚す必要などない。だが、馬徳が片を付けられぬならば、我が攻城兵器の威力を、平野で思い知らせてやる。技術と破壊力こそが、真の武力だ」

李彪の技術者としての堅い誇りが、武力による解決を是としていた。彼は、物理的な破壊こそが真の勝利だと信じていた。

第四将、宋良そうりょうは、兵站と補給を任され、堅実な守りで後方を支える現実主義者であった。彼は、戦場を数値で捉えていた。

「衛国軍の布陣は、絶望的な数値。馬徳の三百騎で、士気と武力を正確に測れるはずだ。我々の思惑は、玄岳国の到着を待つこと。無益な血を流すことは、兵站を乱す。馬徳殿の武が、衛国の狂気を抑え込むことを望む。堅実な思索こそが、魯国の生命線だ」

宋良の堅実な思索は、常に大局的な数値に基づいていた。彼は、勝利の確率を数値で計算していた。

第五将、陳堅ちんけんは、弓隊と弩隊を指揮し、精密な射撃で敵を圧倒する冷静沈着な男である。

「馬徳の突撃は、衛国軍の陣形を測る。そして、その乱れに乗じて、我が弓隊が一斉に射撃する。最小限の武力で、最大限の損耗を与える。それが、公孫軍師の思惑に最も沿う。感情は、矢を曲げる。冷たい計算こそが、勝利を呼ぶ」

陳堅の言葉には、冷たい計算と戦場の非情さがあった。

彼の瞳は、既に衛国軍の弓隊の射程と配置、そして風速までも解析し終えていた。

魯国五将は、それぞれが個人の武と、公孫穆の思惑との間で、複雑な計算を巡らせながら、馬徳の突撃という、血戦の序章を見守った。

彼らは、四千の残党が、自分たちの思惑を覆す策を持っているとは、慢心から想像できていなかった。

彼らの武力と知略の慢心こそが、志文の策の餌となることを、まだ知る由もなかった。


馬徳ばとく率いる魯国軍の三百騎は、鉄牙平野の凍てつく地面を蹴り上げ、砂塵と氷を巻き上げて衛国軍の布陣へと突進した。その勢いは、武力を信じる馬徳の剛直な魂を体現した山津波のようであった。

馬徳は、四千の残党を目の前にして、武人としての性に従い、武力による即座の粉砕を望んでいた。彼の剛直な武は、策を弄する衛国軍の存在を認めようとしなかった。

「衛国軍の残党ども!飢えと恐怖に怯える敗残兵が、魯国の鉄塊に歯向かうなど、狂気の沙汰!馬徳の突撃の鉄槌が、貴様らの愚かな狂気を砕いてくれるわ!」馬徳の咆哮が、平野に響き渡り、衛国軍の兵士たちの心臓を直接打ち鳴らした。

衛国軍の兵士たちは、五万の鉄塊の最初の牙に、恐怖で一瞬、動きを止めた。その恐怖は、数の絶望的な差がもたらす物理的な重圧であり、彼らの本能に訴えかけるものであった。

劉勇りゅうゆうは、その場に立ち尽くし、恐怖に目を大きく見開いた。彼の臆病な性が、戦場の過酷さに悲鳴を上げている。彼の体は震えていたが、彼の視線は、情によって繋がれた仲間の兵士たちに向けられていた。仲間を守りたいという情が、彼の逃走を許さなかった。

「た、立てるわけがない!あれは、人間の壁ではない!鉄の塊だ!陳豪百人将…我々はどうすれば…」

陳豪ちんごうは、劉勇の弱音を一瞥することなく、荒々しい笑みを浮かべた。彼の巨体は、純粋な武力を象徴していた。

「ガハハッ!劉勇!何を震えておる!あれこそが、武の見せ所ではないか!策などどうでもいい!まずは武で、奴らの勢いを叩き潰す!圧倒的な武の前では、知略など無意味だ!」陳豪は、猛将肌の単純な歓喜を露わにし、得物の大斧を構えた。彼は、知略を武を振るうための道具としてしか捉えていなかった。

その時、黒い仮面をつけた志文の冷たい声が、韓忠の隣から響いた。その声は、仮面によって低く籠もり、感情を一切含んでいない。この声は、魯国軍に伯志文の生存を悟らせないための冷酷な偽装であり、策の核そのものであった。

「李百人将。今だ」

志文の「今だ」という言葉は、【氷結の論理】によって計算された、馬徳の騎馬隊が弓の射程に達し、かつ勢いが最大限に高まった、一瞬の時であった。この非情なる計算は、武力が最も効果的に無力化される瞬間を捉えていた。

李芳蘭は、志文の冷たい知性を信じ、迷いなく猛槍を振り下ろした。

「射て!狙いは馬の脚!衛国の牙、見せてやれ!」

右翼の三百名の精鋭が一斉に矢を放った。その矢は、鎧を狙うのではなく、無防備な馬の脚を正確に狙った。この非情な命令は、騎馬隊という武力を一瞬で無力化するための、志文の論理であった。

三百本の矢が、馬徳の騎馬隊の先頭を突き抜けた。

悲鳴を上げたのは、人ではなく、馬であった。

魯国軍の騎馬隊は、突如として先頭の馬が足を止め、崩壊した。

猛スピードで突進していた後続の馬が、その崩れた塊に乗り上げ、次々と転倒した。雪崩のような勢いが、矢という冷たい計算によって一瞬で停止したのだ。平野に響き渡る馬の断末魔は、武力が策に敗れた非情な証拠であった。

馬徳は、突如として崩れた騎馬隊に驚愕した。彼は、武による正面衝突を予測していたが、知略による無力化という、最も非情な策を受けた。

「馬鹿な…この一撃は…騎兵の弱点を突いた、冷酷な策!伯志文め…やはり奴は生きていたのか!」

馬徳は、剛直な武人として、初めて策の冷たい威力に直面した。彼の武力に対する慢心が、一瞬で砕かれた。

志文は、混乱に乗じて第二の命令を下した。彼の声は、冷酷な効率性を求めていた。

「陳百人将。崩れた先頭に、右翼から猛攻を仕掛けよ。殲滅だ。魯国軍に、探りの代償を払わせる。陳百人将の武力で、奴らの士気を砕け!猶予は与えぬ!」

陳豪は、武人として混乱に乗じる追撃の機会を、荒々しい興奮とともに待っていた。

「ガハハッ!志文殿の策、見事!だが、ここからは武でござる!全隊、追撃!奴らの心臓を砕け!魯国の鉄塊に、衛国の牙を思い知らせてやる!」

陳豪は、大斧を掲げ、五百の猛者を率いて、崩れた馬徳の騎馬隊の右翼へと猛然と突進した。彼の粗野な武は、混乱した魯国兵を一方的に屠り始めた。その圧倒的な武力は、魯国軍の思惑に深い傷を負わせた。衛国軍の兵士たちは、飢餓から解放された怒りと、志文の策による勝利への確信をもって、狂気の牙を剥いた。

魯国軍本陣。公孫穆は、馬徳の騎馬隊が一瞬で崩壊し、陳豪の追撃によって一方的に損耗する光景を、冷たい瞳で見ていた。彼の非情な思索は、伯志文という生きた不確定要素によって、大きな亀裂が生じていた。

「馬鹿な…矢による馬の脚への攻撃。騎兵の弱点を突いた、非情な策。そして、陳豪という将の猛然たる追撃。衛国軍は、飢餓から回復しただけでなく、伯志文という狂気の策士を手に入れた…策は、武を凌駕した。袁興に知られることを恐れて仮面をつけているにも関わらず、その策は隠蔽不可能なほど冷酷だ....」

公孫穆は、志文の生存が、単なる戦場の問題ではなく、魯国の内政にまで影響を及ぼす大問題であると認識した。

魏鉄山は、馬徳の騎馬隊が一方的に損耗する光景に、激しい怒りを露わにした。彼の剛直な武人としての魂は、屈辱に燃えていた。

「馬徳め!探りの命を無視し、軽率に突撃したか!この一撃は、策によるものか!衛国軍の狂気が、策をもって我々を迎え撃っている!武が、知略に遅れを取ったか!許せん!」

魏鉄山は、武力による即座の報復を望んだが、公孫穆の思惑がそれを許さなかった。

公孫穆は、荀清に命じた。彼の声は、怒りを押し殺した分だけ冷たく響いた。

「荀清。陳豪の追撃は、武人としての性。しかし、馬徳の損耗は、我々の思惑に反する。陳豪を抑えるため、孟武と陳堅に命じよ。最小限の武力で、衛国の狂気を封じ込めよ。伯志文の策に、これ以上の血を流すわけにはいかぬ」

荀清は、即座に魏鉄山と公孫穆の思惑を理解し、第二将 孟武と第五将 陳堅に伝令を送った。

第二将、孟武は、陳豪の荒々しい追撃を目の当たりにし、興奮を抑えながら冷静な判断を下した。彼は、電光石火の速攻を得意とするが、今は防御を優先した。

「陳豪め、武力に任せた単純な突撃。馬徳の損耗は、公孫軍師の思惑の汚点となる。陳豪の武を抑え込む。陳堅の弓隊で、陳豪の追撃を止めよ。我が騎馬隊は、側面から馬徳を援護し、戦線を立て直す!勝利に執着はするが、無益な損耗を許さぬ」

孟武は、勝利への執着を持つ男として、冷静な戦場判断を優先した。彼の部隊は、側面から馬徳の残党を回収し始めた。

第五将、陳堅は、孟武の連携策を受け、即座に冷静な計算を行った。彼の精密な射撃の能力が、この局面で最も重要となることを理解していた。

「陳豪の追撃は、速度と勢いに全てを賭けている。矢でその勢いを削ぐ。精密な射撃こそが、魯国の鉄塊の無益な損耗を防ぐ公孫軍師の思惑に最も沿う。弓隊、陳豪の側方へ向けて射撃開始!感情は不要、計算に従え!」

陳堅は、弓隊に命じ、陳豪の部隊の側面から正確無比な矢の雨を降らせた。彼の冷たい計算は、陳豪の武力を間接的に抑え込んだ。この精密な攻撃は、志文の策に対する魯国軍の反撃の第一歩であった。

衛国軍の陣。劉勇は、恐怖に震えながらも、志文の冷たい一撃が五万の鉄塊の最初の牙を一瞬で崩壊させた事実に、畏怖と感動を覚えていた。

彼は、策が武を凌駕する瞬間、そして仲間の命が救われた現実を目の当たりにした。

「あの志文殿の策は…非情だが…理に適っている。武だけでなく、策が、人を生かす」

劉勇は、戦場の過酷さに苦悩していたが、志文の策が仲間の命を救った事実に、武人としての成長の兆しを見せていた。彼の情が、臆病さを乗り越える原動力となりつつあった。

しかし、陳豪の部隊が陳堅の弓隊によって勢いを削がれ、孟武の援護によって膠着する光景を見て、再び恐怖が彼を襲った。

陳豪の五百の猛者が、魯国の精鋭の挟撃によって損耗する危機が迫っていた。

「くっ…陳豪百人将が包囲される…韓将軍!あのままでは、陳豪百人将の部隊が損耗します!仲間の命が!」

劉勇は、情に厚いが故に、仲間の命が失われることを恐れた。彼の焦りは、純粋な情から来るものであった。

韓忠は、劉勇の焦りを武人としての情をもって理解した。彼の視線は、志文に向けられていた。武人である韓忠は、志文の冷たい策が情を上回る勝利をもたらすことを知っていた。

志文は、陳豪が武人としての性によって、無謀な追撃に出たことを予測していた。そして、魯国軍が孟武と陳堅という連携によって、陳豪が包囲にかかることも計算済みであった。

全ては、公孫穆を誘い込むための布石であった。

志文は、劉勇に冷たい命令を下した。彼の声は、低く籠もっているが、絶対的な論理を伴っていた。

「劉百人将。貴様の部隊、五百の一般兵は、左翼の陳豪の側面を援護せよ。陳堅の弓隊の射撃から、陳豪の部隊を守る。防御に徹し、陳豪の撤退を援護せよ。貴様の部隊は、盾だ。陳豪という牙を失えば、衛国軍の士気は崩壊する」

劉勇は、五万の敵が目の前にいる状況で、最も脆弱な一般兵を、魯国の精鋭の弓隊の前に出すという非情な命令に、顔面蒼白となった。彼の臆病な性が、抵抗を示した。

「わ、わかりました…しかし、陳堅の弓隊の射撃は…あの…我が部隊は、一般兵が主で…」

志文は、劉勇に冷たい視線を送った。その仮面の下の瞳は、劉勇の情の弱さを、計算の邪魔として捉えていた。

「劉百人将。防御に徹せよ。貴様の部隊は、盾だ。貴様が情によって仲間を守りたいならば、この非情な命令に従え。生きた盾となれ。貴様の情は、兵士の命を救う策となれ。自己犠牲を策の道具とせよ」志文の言葉は、劉勇の情を策の道具として利用する冷酷な論理であった。

劉勇は、志文の非情さに戦慄した。しかし、陳豪が包囲され、仲間の命が失われるという情が、彼の臆病な性を上回った。

「わか…わかりました!陳豪百人将と仲間を守る!死地へ向かおう!」

劉勇は、恐怖に震えながらも、情によって忠実な部下へと成長する第一歩を踏み出した。彼の臆病さと情の厚さが、志文の策によって昇華された瞬間であった。

劉勇は、五百の一般兵を率いて、陳豪の側面へと向かい、盾となった。陳豪は、劉勇の援護を見ると、荒々しい歓喜を上げた。

「ガハハッ!劉勇め!臆病者かと思っていたが、情があるではないか!よくやった!我が武の邪魔をするな!弓隊を抑えろ!」

劉勇の援護により、陳豪は弓隊の射撃から解放され、陳豪の部隊は最小限の損耗で戦線から撤退を開始した。

魯国軍の馬徳の試探の突撃は、陳豪の追撃と劉勇の援護という、志文の冷たい策によって無力化された。魯国軍は、探りの代償として三百騎の損耗という、屈辱的な結果を強いられた。

公孫穆は、馬徳の失敗と、衛国軍の想定外の武力と策に、静かな怒りを覚えていた。彼の思惑は、伯志文という狂気の策士によって、最初の局地戦で屈辱的な敗北を喫した。

「衛国軍の四千の残党め。我々の思惑を乱した代償は、高くつく。魏鉄山。全軍に命じよ。野戦で衛国軍を殲滅する。衛国の狂気を、魯国の鉄塊で踏み潰す!五万の質量が、伯志文の策を物理的に粉砕する!全ての策は、絶対的な力の前には無意味となることを証明せよ!」

志文は、冷たい仮面の下で、決戦の到来を確信していた。彼の非情なる論理は、魯国軍を武力による殲滅戦へと誘い込むことに成功したのだ。

(公孫穆め、ついに武力による殲滅を決断したか。策は、武を動かすための道具。決戦は、魯国の五将との総力戦となる。衛国の命運は、四千の狂気と、この志文の冷たい策に委ねられた)

策と力の最終対決が、静かに始まろうとしていた。


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