#1-11 風哭の破壊
玄岳国境、「氷の尖塔」の頂は、鉛色の空の下、雪と風の支配する極北の地であった。
志文は、黒狼・朱桓と配下の五体を屠り去った後、その凍てつく地を降り、人跡未踏の山脈深くに身を潜めていた。
彼の身には、玄岳密偵から奪った極寒装備と、羅漢から奪った氷の刃が備わっていた。
飢餓と疲労は肉体に深く刻まれていたが、その心臓は、ユニークスキル【氷結の論理】により、冷たい鋼の如く規則正しく鼓動を打つのみ。人の情は、判断の妨げとならぬよう、完全に凍結されていた。
志文は、玄岳国と魯国が結んだ『凍結の同盟』の核心を握っていた。
魯国の軍師、公孫穆の真の思惑は、龍牙関の消耗戦だけではない。玄岳国国境を流れる黒龍河の上流、その支流を利用した魯国軍第二補給線の構築であった。
(公孫穆め。龍牙関での勝敗は二の次で、本心は別にあったか...奴の思惑は、常に我々の背後を狙う)
志文は、冷たい風の中で立ち尽くし、目の前の光景を解析していた。
周囲の冷気は、志文の思考速度を極限まで高め、すべての要素を数値として捉える。これはまさに、彼の【氷結の論理】が為す、非情なる解析であった。
目標: 第二補給線の特定と破壊。
時間: 張勇が龍牙関に到着し、情報が韓忠と芳蘭に伝達されるまでの猶予。約三日。
補給線(仮定): 黒龍河上流の凍結地帯。物資の輸送には、魯国・玄岳国の双方の密偵と、精鋭兵が関与しているはず。
志文の現状: 武力は極限だが、継続的な戦闘は不可能。一撃必殺の策を要する。
志文は、その身を流れる冷気を利用し、武力に変換する感覚を掴んでいた。
彼の冷気の武力転換は、ただの武力強化ではなく、極寒という環境そのものを、自らの策の道具とする行為であった。彼の武術の極致が、この地に極まっていた。
彼は、僅かな物資と羅漢の氷の刃を背に、極寒の山脈を下る。志文の思惑は、この極北の地で、衛国の命運を握る血の楔を打ち込むことを命じていた。
(魯国と玄岳国の密約が結ばれた場所は、第二補給路の要衝と近いはずだ...)
志文は、冷たい知性に導かれ、黒龍河の最も上流、「風哭の谷」へと進路を取った。
一方、龍牙関は、魯国軍の撤退により、束の間の静寂を取り戻していた。
しかし、その静寂は、疲弊した兵士たちの飢餓と毒の余韻、そして何よりも王都にいる仮初の総大将・袁興の内なる腐敗による疑心暗鬼に覆われていた。
袁興は、伯志文と朱桓の「討ち死」の報告を受け、私室で笑みを浮かべていた。
「伯志文め。狂気の策も、極寒の地の密偵の刃には勝てなかったか。所詮、ただの一兵卒の暴走に過ぎぬ」
袁興の思惑は、常に単純であった。
権力に逆らう者を排除し、自分の地位を確保すること。志文の死により、龍牙関での兵糧破壊の罪は、全て志文一人に負わせることができ、袁興は安堵に浸っていた。
彼の思惑の中で、志文の死は最上の結果であった。
その頃、張勇は、血と泥に汚れた朱桓の上質な鉄剣を携え、龍牙関の城門を潜っていた。彼は、志文から託された極秘任務——古文書の伝達——を、自身の命に代えても、完遂せねばならなかった。
張勇が城内に潜入すると、すぐに袁興の息のかかった士官に捕らえられた。
この士官は、黄凱と名乗り、痩身ながら狡猾な目つきをした男であった。彼は袁興に長年仕え、裏の仕事を請け負ってきた。
「貴様、何者だ!その剣は、黒狼・朱桓将軍のものに似ているではないか!」黄凱は鋭く詰問した。
張勇は、冷徹な目で黄凱を見据えた。彼の顔は憔悴していたが、その瞳には使命への鋼の意志が宿っていた。
「朱桓将軍は、玄岳国の密偵に討たれた。伯志文殿と共に討ち死に。これは、その証拠」
黄凱は、朱桓の剣を見て驚愕した。朱桓は袁興の懐刀であり、その死は袁興派にとって大きな痛手となる。
「馬鹿な……朱桓将軍が!貴様、伯志文の残党か!私室に引き立てい!」
黄凱は、張勇を司令部に引き立てた。
司令部には、総大将代理として指揮を執る韓忠と、龍牙関の守護神となった李芳蘭が待っていた。
韓忠は、張勇の顔を見て、安堵と同時に、志文の行方への強い懸念を滲ませた。
「張勇!よくぞ戻った!志文殿はどこだ!まさか....」韓忠の声には、部下を案じる将軍の真摯な情があった。
「志文殿は討ち死にされました。私に、朱桓将軍の剣を託され、これを証拠として貴方へ献上せよ、と」張勇は、朱桓の剣を韓忠の足元に投げた。
芳蘭は、志文の死を信じなかった。彼女の武人の直感が、「志文の策は、死を選ぶはずがない」と叫んでいた。
「嘘よ、張勇!志文は、決して死なぬ!貴様は、志文の剣を持っていない!」
芳蘭は、猛槍を構え、張勇に迫った。彼女の目には、悲しみよりも、志文の策を見抜けない己への苛立ちがあった。
張勇は、静かに、そして冷たい確信を込めて言った。
「李百人将。志文殿の真の思惑は、貴女の槍の矛先とは異なる場所にあります。その思惑を実行するために、志文殿は命を賭したのです」
この言葉に、芳蘭の槍が止まった。
志文が己の死を、公孫穆や袁興を欺く策略の道具として利用したという可能性。それは、彼女の知る志文の狂気の策そのものであった。
張勇は、黄凱らの士官たちに悟られぬよう、韓忠と芳蘭にのみ聞こえる声でさらに続けた。
「志文殿は、貴方方、すなわち龍牙関の忠義の士を信じている。貴女の武と、韓将軍の思索に。志文殿が私に託されたのは、朱桓の剣と、この古文書です」
張勇は、極寒装備の内側に隠していた、玄岳国の分厚い羊皮紙の古文書を、韓忠に素早くそして密かに手渡した。
韓忠は、その場で暗号を読み解くことは不可能であったが、彼の武人としての直感は、この羊皮紙が衛国の命運を握るものであると悟っていた。
数刻後。韓忠の私室。
韓忠は、張勇の助けを得て、志文が託した古文書の内容を完全に把握した。彼の顔色は、青ざめ、激しく動揺していた。彼は、衛国軍の将軍として、同盟国の裏切りという冷酷な現実に直面したのだ。
「玄岳国との…『凍結の同盟』だと!魯国は、龍牙関の包囲を解いたのではない!玄岳国境から、第二補給線を構築していたのか…」
韓忠の脳裏に、公孫穆の冷たい笑みが浮かんだ。龍牙関での激戦は、公孫穆にとって、玄岳国による裏切り工作を完了させるための時間稼ぎに過ぎなかった。
芳蘭は、怒りで槍を握りしめた。彼女の武人としての誇りが、同盟国による卑劣な裏切りに激しく反発した。
「衛国は、玄岳国と魯国に挟撃される!志文は、この情報を知っていたからこそ、自ら死を選んだふりをしたのね!」
張勇は、静かに二人の将軍を見据えた。
「志文殿は、龍牙関の指揮を韓将軍に返上し、自らは第二補給線の破壊に向かわれました。玄岳国境の風哭の谷を起点に、魯国軍の生命線を絶つ。それが、彼がこの古文書を貴方々に託した真の思惑です」
そして、張勇は、朱桓の剣がもたらした、内なる脅威の沈黙を説明した。
「朱桓将軍の死により、袁興派は、龍牙関内の私兵団の中核を失いました。袁興は志文殿の死に安堵し、朱桓の死を玄岳密偵による偶発的な事故と判断するでしょう。故に、今後数日は、袁興から龍牙関への内なる刺客の派遣は停止される。貴方々は、外の脅威、すなわち魯国と玄岳国との戦いに、完全に集中できるというわけです」
韓忠は、深く息を吐き出した。志文という一兵卒の、狂気を帯びた策が、腐敗しきった王都の内患を一時的に排除し、自らに決戦の機会を与えたのだ。
「志文…貴様は、己の命さえも道具として利用したのか…」
韓忠は、志文の非情な決断に、畏怖と同時に、深い信頼を抱いた。彼は、志文が龍牙関の腐敗を憂い、自分たち忠義の士に全てを託したことを理解した。
芳蘭は、槍を力強く握りしめ、目を閉じた。彼女の心は、志文の生存と新たな使命により、武人としての鉄の覚悟に満たされていた。
「張勇。志文の思惑は理解したわ。私がすべきことは、この関所を死守し、志文が命を懸けて破壊する第二補給線が、衛国の勝利に繋がるよう、時を稼ぐことね」
彼女の言葉には、迷いがなかった。志文が内なる策略を、彼女の外なる武力に託したのだ。
韓忠は、立ち上がり、古文書を胸に抱いた。
「わかった。私は、志文の策に全てを賭ける。張勇、貴様の使命は、龍牙関内部の情報工作だ。袁興の動向を監視し、志文殿の生存を決して悟らせるな。芳蘭、貴殿は、部隊の再編と士気の維持。魯国軍が再び攻勢に出る時、我々は、志文殿の策の盾とならねばならぬ!」
龍牙関の指揮官たちは、未だに何も知らなかった。韓忠らによって、玄岳国の裏切りや公孫穆の真の思惑は伏せられたからだ。
ゆえに、指揮官たちは、ただ眼前の魯国軍の攻撃を死守することだけを理解していた。
魯国侵攻防衛戦の戦況は、たった一人の行動により、知略戦の第二局面へと静かに移行していた。
魯国軍の本陣。
公孫穆は、静かに龍牙関を遠望していた。
彼の背後には、魯国軍の剛直な将軍、そしてこの戦の総大将である魏鉄山と、彼に付き従う五人の剛将が控えていた。
魏鉄山は、苛立ちを隠せないでいた。
「公孫穆!なぜ撤退を命じた!衛国軍は、飢餓と毒で崩壊寸前であった!あの時、総攻撃を仕掛けていれば、龍牙関は我らの手中に入っていた!」
公孫穆は、感情を表に出さず、冷たい目で魏鉄山を見据えた。
「魏将軍。伯志文という男の狂気の策は、我々の質量による思惑を一時的に凌駕した。あの状況で、城門に突入した精鋭三千の損失は、無益な血を流すことを意味した。衛国軍は、士気を一時的に回復した。戦いを継続すれば、我々の損耗は更に増える」
公孫穆の思考は、常に効率と天下の均衡にあった。
「それに、伯志文という特異点は、排除された」
公孫穆は、志文の死の報告を受けていた。
彼の思考では、玄岳国境での朱桓との衝突、あるいは玄岳密偵との暗闘は、志文の必然的な結末であった。
「伯志文の策は、玄岳国の古文書を奪うことにあったはず。しかし、彼は死んだ。その情報は、王都の腐敗の中に埋没する。我々の第二補給線は、玄岳国との協力の下、予定通り構築される」
公孫穆は、志文の行動が単なる局地戦の狂気であったと断定し、自身の大局的な思惑を修正しなかった。
公孫穆の隣には、彼の副将である荀清が控えていた。荀清は、公孫穆の参謀役であり、静かな思索を得意とする男であった。
「公孫様。衛国の士官である張勇が、朱桓の剣を持って龍牙関に戻ったとのこと。韓忠に渡されたそうです」荀清は、淡々と報告した。
「朱桓は伯志文を仕留めたが、その剣を奪われたか...張勇は、韓忠に朱桓の死を伝え、袁興の追跡を逃れたい一心であろう。気にすることはない」公孫穆は言った。
公孫穆の思惑は、次に取るべき戦術へと移行していた。彼は、五人の剛将に指示を出した。
魏鉄山の剛将はそれぞれが魯国でも指折りの猛者で、各々が将軍級の実力を有していた。
魯国軍の第一将、馬徳。
剛直で、魏鉄山に次ぐ武力を持つ男。魯国軍の突撃の鉄槌である。
魯国軍の第二将、孟武。
騎馬隊を率いることに長け、電光石火の速攻を得意とする。
魯国軍の第三将、李彪。
攻城兵器の扱いに長け、城壁破壊の職人。
魯国軍の第四将、宋良。
兵站と補給を任され、堅実な守りで後方を支える。
魯国軍の第五将、陳堅。
弓隊と弩隊を指揮し、精密な射撃で敵を圧倒する。
「魯国軍全軍に命ずる。玄岳国境からの補給線の完成を待つ。七日後、玄岳国が南下を開始すれば、龍牙関の衛国軍は前後から挟撃される。それまでは、陣を堅く守れ。龍牙関の兵糧は既に尽きた。衛国軍は、飢餓により自滅する」
公孫穆の策は、時間と二国間の思惑に全てを委ねた、冷たい『待ちの策』であった。
彼は、衛国軍が絶望的な攻勢に出る可能性を、飢餓という絶対的な物理法則によって否定していた。
魯国軍は、再び鉄の塊となって、龍牙関の平野に布陣した。その平野は、「鉄牙平野」と呼ばれ、後に衛国軍との血戦の場となる、血の運命が待つ場所であった。
志文は、「風哭の谷」を目指し、三日三晩を駆けた。
彼の肉体は極限の飢餓状態にあったが、ユニークスキル【氷結の論理】はその感覚を凍結させ、ただ目標への経路計算と環境解析のみに集中させていた。
風哭の谷は、玄岳国と魯国が密かに物資を運び込むために利用する第二補給線の要衝であった。谷の底には、黒龍河の凍てついた支流が横たわり、夜間にのみ、魯国の兵站部隊が玄岳国の密偵の誘導で資材を運搬していた。
志文は、谷を見下ろす岩陰に身を隠し、公孫穆の思惑を読み解いた。
(公孫穆の策は、七日後に玄岳国が南下するまでの時間稼ぎ。この補給線は、龍牙関を無視して、衛国の中枢に打撃を与えるための鉄の鎖となる。故に、ここを守る兵は、魯国の精鋭でなければならない)
志文の非情なる解析は、谷底の警備兵の数、配置、そして彼らの持つ武装と疲労度を瞬時に把握した。兵は三十。魯国の兵站専門の部隊長が指揮し、玄岳国の密偵が三名、案内役として混じっている。物資は既に、食糧が七割、残りが攻城用の資材であった。
志文が狙うは、破壊と奪取。補給線を断ち、同時に龍牙関の飢餓を解消する食糧を確保することであった。
その夜半、月は氷雪に隠され、谷底は漆黒の闇に包まれた。志文は、冷気の武力転換を発動させた。周囲の極寒の気が、彼の甲冑を薄い氷の膜で覆い、武力を極限まで高めた。
魯国の兵站部隊の部隊長は、周穆という名の、体格の良い実直な男であった。彼は、公孫穆の冷たい策を理解し、黙々と任務を遂行していた。
「兵を分散させるな!この風哭の谷は、極北の地とはいえ、衛国の密偵が潜んでいる可能性がある。公孫軍師の思惑を台無しにするな!」周穆は、低い声で兵を叱咤した。
その時、谷の奥から、雪崩のような音が響いた。それは、志文が岩山に仕掛けた、雪と氷の罠であった。
周穆は、音源に兵の半分を向かわせた。
「雪崩だ!警戒を怠るな!」
志文は、周穆が兵を分散させる必然的な策を読んでいた。志文は、残った半分の兵と、大量の食糧が積まれた馬車の間に、氷の刃を構え、音もなく飛び降りた。
その動きは、鉄塊が風を纏ったようであった。
一瞬の静寂の後、殺戮が始まった。
志文の氷の刃が、魯国兵の喉元を切り裂いた。音は雪に吸収され、兵たちの死の悲鳴もまた、凍てついた風に砕かれた。志文の動きは、防御を排した純粋な攻撃であり、彼の武は、玄岳国の密偵の暗殺術を凌駕していた。
魯国兵は、闇の中で何が起こっているのか理解できなかった。彼らが目にしたのは、冷たい氷の光を放つ刃と、感情の凍結した衛国の鬼であった。
「敵襲!敵襲だ!衛国の密偵か!」周穆が、ようやく状況を察知し、残りの兵を呼び戻そうと叫んだ。
しかし、志文の速度は、既に周穆の思索を超えていた。志文は、玄岳国の密偵三名を瞬時に切り伏せ、周穆に迫った。
「貴様ら、衛国の食糧を運んでいた代償を払え」志文の声は、極寒の地の氷の響きであった。
周穆は、武人として志文に剣を向けたが、志文の一撃は、彼の剣を叩き割り、その肩口を深く抉った。
「ぐっ…馬鹿な…この武力は…」周穆は血を吐きながら崩れ落ちた。
志文は、周穆を仕留めず、食糧の馬車へと向かった。三十名の魯国兵は、既に半数が倒れ、残りは狂乱と恐怖の中で、闇雲に剣を振るうしかなかった。
志文は、馬車に積まれた大量の乾物と塩漬けの肉を確認した。これこそが、龍牙関の飢餓を解消する鍵となる。
そして、志文は、残りの攻城兵器の資材を、羅漢から奪った火薬を用いて爆破した。轟音が谷に響き渡り、雪と氷を巻き上げて、志文の潜伏の終わりを公孫穆に告げた。
龍牙関。
志文が第二補給線を破壊した轟音は、遥か彼方の龍牙関にまでは届かない。しかし、公孫穆が補給線の異変を察知し、動き出すまでの時間は、一刻を争う。
志文は、魯国の食糧馬車と、生き残った兵站の数名の捕虜を連れ、風哭の谷の支流を下った。この支流は、公孫穆の策では利用不可と判断された、流れの急な岩場を縫う河であった。
志文は、捕虜と馬車を氷の刃で脅し、この急流を下らせた。彼の非情なる解析による完璧な経路計算がなければ、馬車もろとも、彼らは急流に飲まれていただろう。
二日後、食糧を積んだ馬車は、龍牙関の背後、公孫穆の監視の目から最も遠い隘路の終点に辿り着いた。
隘路の出口で、韓忠の命を受けた李芳蘭と、千名の精鋭が待機していた。
芳蘭は、隘路から現れた志文の姿を見て、一瞬、武人としての感情を忘れた。血と泥、氷にまみれた志文の姿は、死の底から蘇った鬼のようであった。
「志文!」芳蘭は、ただ一言、彼の名を呼んだ。その声には、武人としての尊敬と、人の情が混ざり合っていた。
志文は、馬車から降り、芳蘭に冷たい目を向けた。
「李百人将。公孫穆の策は、第二補給線の構築であった。それは、玄岳国の裏切りによるもの。この馬車は、我々の飢餓を解消する」
芳蘭は、馬車に積まれた大量の食糧を見て、驚愕した。それは、まさに天の恵みであった。
龍牙関の兵士たちは、三日間の飢餓と毒の余韻で、肉体も精神も限界であった。志文は、直ちに食糧を配給するよう命じた。
「直ちに食糧を配給せよ!飢えと渇きを解消するのだ!兵士の士気を回復させよ!」
飢餓に苦しんでいた兵士たちは、食糧を目にし、狂乱した。しかし、志文の冷たい威圧と、芳蘭の圧倒的な武力が、その狂乱を鎮めた。兵士たちは、貪るように食糧を口に運び、肉体に力が戻るのを感じた。
食糧を得た兵士たちの士気は、急速に回復した。志文の狂気の策は、飢餓という地獄から彼らを救い出したのだ。
食糧で腹を満たした兵士たちを前に、志文は、韓忠、芳蘭、張勇と共に、鉄牙平野を見下ろす城壁の頂上に立っていた。
韓忠は、志文の生存と、食糧の確保に心から安堵していたが、目の前の平野に布陣する魯国軍の鉄塊を前に、将軍としての思索を巡らせた。
「志文殿。食糧は確保できた。感謝する。しかし、魯国軍は五万。我が軍は、毒と戦死で、今や四千に満たぬ。籠城を続けることが、損耗を抑える策ではないか…」韓忠は、将軍としての職責に基づき、慎重な意見を述べた。
志文は、韓忠の思惑を一蹴した。
「韓将軍。籠城は、公孫穆の望む結末だ。公孫穆は、我々が籠城し、玄岳国の南下を待つことを確信している。魯国軍は、七日後に玄岳国との挟撃の体制に入る。そうなれば、衛国の敗北は確定する」
志文は、冷たい決意を込めて言った。
「我々は、魯国軍の思惑を裏切る。玄岳国が到着する七日以内に、平野で魯国軍と決戦を行う。籠城を解き、鉄牙平野に布陣すべきだ」
芳蘭の瞳が、志文の非情な決意に呼応した。
「志文の策は、公孫穆の予測を上回る。公孫穆は、飢餓が解消されたことを知らない。彼らは、衛国軍が籠城すると思い込んでいる。平野での決戦は、彼らの油断を誘う」
韓忠は、深く目を閉じた。彼の心の中には、兵を守りたいという将としての情と、志文の策の冷酷な正しさとの間で葛藤が渦巻いていた。
しかし、志文が命を賭して持ち帰った食糧と情報が、韓忠に決断の重さを教えた。
「わかった。志文殿。貴様の策に、私の将としての生涯を賭けよう。貴様の言う通り、籠城は死を待つのみ。ならば、牙を剥くべきだ」
韓忠は、すぐに陳豪と劉勇の二人の百人将を呼び寄せた。
陳豪は、粗野で単純な猛将肌であった。彼は、韓忠の決意を聞くと、その巨体を震わせ、荒々しい興奮を露わにした。
「おお!韓将軍!ついに平野での野戦でござるか!籠城など、猛将たる我が身が腐るだけ!志文殿の策、上等だ!我らの武力で、魯国の鉄塊どもを粉砕してやる!公孫穆がいくら策を弄しようと圧倒的な武の前では無意味だ!志文殿の策には感謝するが、策は所詮策。最後は武が必要なのだ!」陳豪は、純粋な武人としての歓喜を叫び、馬上鞭を叩いた。
劉勇は、臆病だが情に厚い一般兵の出であった。彼は、顔を青ざめさせながらも、仲間と情によってその場に踏みとどまった。
「あ、あの…韓将軍。五万と四千での野戦は、あまりにも…あまりにも無謀では…たしかに…志文殿が、命を賭して食糧を運んでくれたことには感謝しています。そしてこれ以上、関所の中で飢え死ぬ兵を見たくないのは私も同じ気持ちです....」
「劉百人将、今の状況では無謀と言いたくなるのもわかる。が、王都からの援軍が来ない今、どれだけ籠城しようと、いずれ、この龍牙関は落ちるだろう。ゆえに兵力と士気が最大の今、そして公孫穆の裏をかける今こそ、平地戦に持ち込むべきだと俺は思う。劉百人将が兵士たちを大切に思っているのは理解するが、それゆえに、全滅しないためにも、籠城は悪手だ。敵は公孫穆だけではない。魏鉄山や魏鉄山の旗下五将も非凡な将だ。全力で攻められれば、そもそも龍牙関はとっくに落ちている。それをしないのは、魯国がひとえに自軍の無益な損耗を嫌うからだ。ゆえに籠城を想定し、油断がある今、そして我らの全力を飢餓状態ゆえに低く見積もっている今だからこそ、勝機があるのだと俺は思う」
「そうですね.....籠城は無意味だと心の底では、わかってはいましたが、志文殿に改めて、言われると、やはり、無意味だと悟らされます。私は、志文殿が、生きるためにこの策を選んだのだと信じます。この劉勇、兵士たちと共に、死地へと向かいましょう」
劉勇の言葉は震えていたが、その瞳には、戦場の過酷さに苦悩しながらも、情によって立ち上がる一般兵としての強さがあった。
志文は、四千の衛国兵を、魯国軍の五万が布陣する鉄牙平野へと向かわせることを決意した。
それは、狂気の沙汰にしか見えなかったが、志文の【氷結の論理】が導き出した唯一の勝利への道であった。
「魯国軍の第一将から第五将。彼らは、公孫穆の思惑に酔いしれ、我々を敗残兵と見下している。彼らの油断と慢心を、我々の血と武力で叩き砕く。決戦は明日だ」
志文の冷たい策は、数と武力の差を無視し、知略と士気で魯国軍の思惑を打ち破ることを目指した。
衛国の命運は、龍牙関の眼前に広がる鉄牙平野での血戦に託された。志文は、魯国の五万の鉄塊に対し、四千の狂気の牙を剥く覚悟を決めた。




