#1-7 論理的撤退と左遷
龍牙関の城門は、血と泥で固まった鉄塊と化していた。
狂乱した衛国兵士の特攻は、魯国軍の精鋭に想像を絶する損害を与えた。
衛国軍は、五千の兵から千名を失ったが、魯国軍の先鋒部隊である三千の精鋭を血の海に沈めた。
これは、飢えと毒に侵された狂気の兵士たちが、生への渇望を一点に爆発させた、論理の枠外にある勝利だった。
夜明け前。
城門の血戦が鎮静化すると、静寂が訪れた。
微かな雪が降り始め、血の臭いを白く覆い隠そうとするかのように舞っていた。
志文は、城門の頂上に立っていた。彼の甲冑は、魯国兵の血と衛国兵の血が混ざり合い、漆黒の光沢を放っていた。彼の横に立つ李芳蘭は、槍を土に突き立て、荒い息を吐いていた。
「志文……私たちの勝ちよ」芳蘭は、乾いた声で言った。
「公孫穆の論理は、貴方の狂気に敗れたわ」
志文は、微動だにしなかった。彼の冷たい目は、東の平野、魯国軍の陣地に向けられていた。
高台。
公孫穆は、城門の血戦の報告を受けていた。
彼の顔色は、氷のように冷たかったが、動揺は微塵もなかった。
「伯志文め。毒と飢餓を兵士の士気に変換したのか。非人道的な狂気。だが、論理的だ」
公孫穆は、ひとり静かに呟いた。
魏鉄山は、怒りで顔を紅潮させていた。
「公孫穆!なぜだ!五万の兵力は残っている!なぜ総攻撃を命じない!あの狂気の残党を圧殺すべきだ!」
「圧殺は、魯国の国力を無駄に消耗させる。」 公孫穆は、冷徹に言った。
公孫穆は、地図を広げ、論理を淡々と述べた。
衛国軍の士気: 狂気の特攻により、士気は一時的に極限まで回復した。投降の可能性は消滅した。
魯国軍の損失: 城門で精鋭三千を失った。これ以上の人命の消耗は、軍全体の動揺を招く。
戦略目標: 魯国の戦略目標は、龍牙関ではなく、衛国の疲弊と天下の均衡を揺るがすことだ。
「伯志文という狂気が、龍牙関にいる限り、この関所は血の海となる。我々は、無駄な血を流すよりも、戦線を黒龍河まで後退させ、龍牙関を補給路から孤立させる。伯志文の存在は、衛国の内部を崩壊させる毒となる」
公孫穆の知略は、敗北を認め、次の戦いへと論理的に移行した。
「全軍に命ずる。東方 へ 撤退 せよ。」
魯国軍の五万は、地鳴りのような重い音を立てて、静かに、そして迅速に、東の平野へと後退を開始した。
朝の光が龍牙関を照らし始めた。
城壁の上からは、魯国軍の巨大な陣形が霧のように消えてゆくのが見えた。
衛国兵士の間で、微かな歓声が上がった。
飢えと毒に苦しむ彼らだが、生還という事実が、彼らを一瞬、人間に戻していた。
龍牙関防衛成功。
伯志文という一兵卒の狂気の知略が、絶望的な戦役に最初の勝利をもたらした。
その時、冷たいシステム音が、志文の頭の中に響いた。
―――【ワールドミッション】 中断―――
目標:魯国軍との交戦中に、景国、玄岳国、南黎国のいずれかの国境に戦火を発生させ、天下の均衡を揺るがす
理由:魯国軍の撤退により、交戦状態が一時的に解消されました。ミッションは保留となります。
―――【称号:鉄の統率者】獲得―――
効果:極限状況下での士気掌握の成功率が上昇。
―――【基礎能力値】上昇―――
筋力、耐久度、敏捷性、知力、カリスマがそれぞれ0.5pt上昇。
(公孫穆め...魯国は、衛国を完全に疲弊させるまで、本格的な侵攻を保留にするつもりだ)
志文の心に、歓喜はなかった。更なる苦難への冷たい覚悟だけが存在していた。
(勝利は、血の対価と新たな戦いの予兆に過ぎない)
志文が、戦後処理と兵士たちの毒の治療に追われている正午の刻。
王都から、伝令が早馬で到着した。
総大将・袁興からの冷たい命令書だった。
「伯志文。貴様の独断専行と軍の秩序を乱した行為、並びに 兵糧庫の破壊 (毒の混入) は、軍律違反に当たる。よって、貴様は龍牙関の全損害の責任を負い、即刻 衛国最北端 の 玄岳国境 にある 『凍てつく荒野』 への 左遷 を命ずる。 玄岳国 の 密偵 掃討戦 に 一兵卒 として参加せよ。 龍牙関の指揮権 は、 軍師将軍 韓忠に返還せよ」
(袁興め。私的な憎悪を、軍の論理に乗せてきたか)志文は、冷たい笑みを浮かべた。
勝利の代償として、極寒の死地へと追放される。
龍牙関での武功を王都で利用する隙さえ与えない、袁興の私的な憎悪に満ちた冷徹な報復だった。
「志文殿……どうするのだ」韓忠は、恐れと困惑を隠せなかった。
「貴方は、この関所を救った。だが、袁興は、貴方を排除しようとしている。」
「王都の腐敗は、龍牙関の戦いで尽きなかった、それだけのことだ」志文は言った。
志文は、左遷の命令書を静かに、しかし確固たる意志を持って受け入れた。
玄岳国境。それは、魯国とは全く異なる、極寒の地での新たな戦いを意味していた。
李芳蘭は、静かに志文の前に立った。彼
女の瞳は、武人として志文の狂気を見届けたいという純粋な欲求に燃えていた。
「私も左遷されるわ」芳蘭は言った。「貴方の隣は、血の海。私の槍が最も輝く戦場はあなたのそばよ」
志文は、芳蘭の武人としての覚悟を理解していた。
「李百人将。貴女は、龍牙関に残れ。貴女の存在は、韓将軍の盾となる。そして、袁興の監視から逃れることができない。」
「貴方を一人で極寒の地に送る道理がない!」芳蘭は、僅かに感情を露わにした。「
私はあなたのそばにいると誓ったはずよ!」
志文は、冷たい目で芳蘭を見つめた。
「論理で判断しろ、李百人将。俺は袁興の標的となった。貴女が俺の隣にいれば、袁興は貴女の家族に報復する。貴女の存在は、俺の弱点となる」
志文の冷徹な言葉は、芳蘭の武人としての誇りではなく、彼女が守るべきものを突いた。
芳蘭は、奥歯を強く噛みしめた。
「なら、生還して!玄岳国境で生きて、より強大な力を手に入れて!私の槍は、貴方の覇道のために動くわ!」 芳蘭は、武人の礼を深く返した。
冷たいシステム音が響く。
——システム通知——
―――【信頼度パラメータ】変動:李芳蘭の信頼度が20%から35%に上昇。——
(李芳蘭、しばらくお別れだ。これで、俺の論理は、袁興の憎悪に屈することなく、玄岳国境へと進めることができる)
志文は、張勇を連れ、龍牙関を後にした。
張勇は、冷徹な論理で志文の決断を理解していた。
「志文殿。袁興は、貴方を極寒の玄岳国境で密偵に殺させるつもりでしょう。それは、魯国の戦場よりも過酷です」張勇は、静かに言った。
「極寒の地は、人の命を凍らせる」志文は、夜闇を見据えた。
「だが、俺の鉄の意志は、凍らない。玄岳国境は、新たな能力と知略を獲得するための試練だ。公孫穆は、魯国侵攻防衛戦の次の局面で、必ず、俺を計算に入れる。」
志文は、凍てつく荒野を目指し、馬を駆った。
彼の心には、二人の妹の笑顔と、袁興への冷たい憎悪、そして、公孫穆という論理の怪物との次なる知略戦への冷徹な覚悟だけがあった。
龍牙関の防衛は、単なる勝利ではない。
それは、伯志文という狂気の存在を天下に知らしめた、血と鉄の楔だった。




