#1-4 飢餓の血盟
志文と百五十人の部隊が、血の臭いを纏って、龍牙関に帰還したのは、魯国軍が本格的な攻勢に出る直前の、夜明けの刻だった。
関所全体に、補給部隊を叩いた勝利の熱狂はなかった。
龍牙関は重い沈黙に包まれていた。
魯国軍の五万の重圧が新たに上乗せされたからであった。
城壁の上に立つと、東の平野に、魯国軍の布陣が完璧なまでに再構築されているのが見えた。
補給部隊を失った焦燥は、微塵も感じられない。むしろ、防御はより堅く、攻撃により迅速に移せる布陣であった。
「公孫穆.....論理の塊だな....」 志文は、冷たい目で呟いた。
魯国軍の陣営から、伝令の騎馬隊が、龍牙関の城門前まで進み出てきた。
彼らは、王都外に住む、衛国兵士の妻や子供を城門の前に並べた。
静かに、そして無慈悲に、一人、また一人と、その首を刎ねていった。
絶叫が、城壁全体を揺るがした。
「なんという狂気だ!もはや鬼畜としか言いようがない!」
韓忠は、顔面蒼白になり、その場に崩れ落ちた。
「公孫穆は、報復に家族を使った。論理ではなく、人の情を断ち切る鬼だ!」
志文は、微動だにしなかった。彼の心は、凍てついた鋼だった。
(公孫穆は、通信線の切断と物資の破壊を、俺の知略ではなく、『衛国軍の最後の狂気』と断定した。そして、兵士たちの最後の情愛を断ち切り、士気を永久に封じ込めるつもりだ)
公孫穆の狙いは、「降伏」ではない。
「内側からの絶望による自壊」だった。
兵士たちが家族の死を目の当たりにし、指揮官を憎み、絶望的な混乱に陥ること。
それが、公孫穆が描いた結末だった。
城壁下の虐殺が終わり、魯国軍の騎馬隊が引き上げると、城壁上の兵士たちは、憎悪と悲嘆で静かに発狂していた。
——システム通知——
—士気値が10%低下。現在士気値:3%。—
志文は、冷たいシステム音を聞きながら、己の知略の甘さを自嘲した。
公孫穆は、狂気を論理の範疇で処理し、志文の論理を簡単に崩して見せたのだ。
士気が致命的な水準に落ちた直後、司令部から騒動が起こった。
兵糧庫を守る衛国軍の士官たちが、韓忠に剣を突きつけていた。
彼らは、王都の貴族派と繋がる袁興の息のかかった者たちだった。
「韓将軍!兵糧を独占し、我々を見殺しにする気か!兵糧庫を開けろ!でなければ、貴様の首を刎ねる!」士官の一人が吠えた。
兵糧は、関所内の最大の弱点だった。韓忠は、僅か三日分の兵糧を守るため、厳重に封鎖していたが、家族の死と絶望に支配された兵士たちは、もはや理性の鎖を失っていた。
志文は、李芳蘭と張勇を従え、司令部へと向かった。
司令部に足を踏み入れた志文に、士官たちの殺意が一斉に向けられた。
「伯志文!貴様のせいで、俺たちの家族が死んだ!貴様こそ、衛国の裏切り者だ!」士官の一人が、憎悪に満ちた声を上げた。
志文は、無言で士官たちを見据えた。彼の目には、彼らの絶望に対する同情は微塵もなかった。
「貴様らが剣を向けるべきは、公孫穆だ。俺ではない」 志文の声は低く、冷たかった。
「黙れ!貴様は、袁興様が死を望む男だ!ここで貴様を殺し、兵糧を手に入れれば、俺たちは生き延びることができる!」 士官たちは、利己的で愚かな論理に囚われていた。
彼らは、金と地位に目が眩んでいた。
そして、混乱に乗じて、志文の殺害と兵糧庫の掌握を狙っていた。
血の清算は、必然だった。
李芳蘭は、志文の命令を待たず、猛槍を一閃させた。
彼女の動きは、風であり、鉄の意思だった。
ドシュッ!
士官の一人が、喉元を貫かれ、甲高い悲鳴と共に血の塊となって倒れた。
「掟を破る者は、それが誰であろうと、許さないわ!」
芳蘭の声は、冷たい氷のようだった。
彼女の武人としての潔癖さは、内輪の争いを最も嫌悪した。
残りの士官たちは、芳蘭の圧倒的な武力と、志文の冷徹な視線に怯えた。
「袁興の犬どもよ」志文は、冷たい声で言った。
「貴様らは、王都の腐敗に魂を売り、己の命すら論理的に判断できなくなった。貴様らが望む兵糧は、三日分しかない。そのために、生還の唯一の活路を閉ざすのか!」
志文は、一歩前進した。彼の冷たい目が、士官たちの怯えを増幅させた。
「貴様らには、生きる 価値 がない。」
士官たちは、恐怖で剣を取り落とした。彼らは、死よりも志文の冷徹な断罪に絶望した。
「張勇。彼らを捕縛しろ。兵糧を食わす必要はない。水だけを与え、兵糧庫の監視役をさせろ!」 志文は、徹底した非情さで命じた。
志文の冷徹な処置は、内紛を瞬時に鎮静化させた。
兵士たちは、袁興の影が関所内部にまで及んでいること、そして志文の狂気が魯国軍への唯一の対抗手段であると理解した。
志文は、兵糧庫の前に立ち、韓忠と張勇に命じた。
「韓将軍。兵糧は三日分。これは、戦闘可能な兵への三日分の配給を意味しない。これは、五千の兵が五日間、命を繋ぎ止めるための論理的な手段だ。」
志文は、新たな兵糧配給の掟を定めた。
第一の掟: 水は、最大限に制限する。兵士には、極度の渇きを与える。
第二の掟: 兵糧は、一日一握りの乾パンとする。これは、死なないための最低限の燃料である。
第三の掟: 極度の渇きと飢えを、戦意と集中力に変える。渇きは、生への渇望を増幅させる。
「志文殿……それは、餓死と脱水を意図的に誘発する狂気の策だ!」韓忠は、叫んだ。
「餓死はしない。極度の渇きは、思考を単純化させ、俺の命令に無条件で従う 鉄の意志 を生む」 志文は言った。
志文の非情な論理は、公孫穆の冷酷さを上回るものだった。
飢えと渇きを兵士の士気に変える。それは、人間性を完全に排除した、冷徹な知略だった。
公孫穆は、志文の偽情報に時間を無駄にしたが、一つの通信舎の破壊と、補給部隊の壊滅という事象を論理的に解析し、即座に、報復の第一波を仕掛けた。
夜明けとともに、魯国軍の重装歩兵三万が、龍牙関めがけて地鳴りのような音を立てて前進してきた。
志文は、城壁の上に立ち、五千の飢えた兵を、冷徹な論理に基づいて布陣させた。
最前線(城壁上): 李芳蘭の猛槍隊を配置。個の武力による絶対的な防御を指示。
第二線(城門内): 張勇の斥候隊を配置。袁興の刺客を警戒しつつ、情報伝達を最小限で実行する。
後方(司令部): 韓忠に人質を監視させ、士気回復と兵糧配給の責任を負わせる。
魯国軍の三万は、城壁へと波のように押し寄せてきた。彼らの鉄の甲冑は、朝日を反射し、光る殺意の塊のようだった。
志文の戦術は、「防御」ではない。
「時間を稼ぎ、公孫穆の論理の限界を見極めること」だった。
「李百人将!一歩も引くな。ただ眼前の敵をただ仕留め続けよ!」
志文は、冷たい声で命じた。
「望むところよ!」 李芳蘭は、猛槍を天に掲げた。
ガアアアアアアア!
魯国軍の咆哮が、龍牙関全体を覆った。
志文の知略と五千の飢えた兵の生への渇望が魯国軍とぶつかった。
血と鉄の衝突が始まった。




