惠君との日々(2)
2024年3月1日
今日は雨。窓の外は灰色で、世界が少しぼやけて見えた。
惠君は来なかった。
看護師さんが言うには、ボランティアの活動が中止になったらしい。
ぽつ、ぽつ、と雨の音。
その音が、時間を引き延ばすゴムみたいに長く感じられた。
一秒一秒が、やけに鮮明だった。
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2024年3月3日
惠君が来た!
手にしていたのは、一冊の本――『幸福な王子』。
「この前、来られなくてごめん」って、頭をかきながら言う。
「この本……千姫が好きそうだなって思って」
ページの間には、乾いた桜の花びらが一枚、そっとはさまっていた。
きっと、どこかで拾ってきたんだろうな。
――まるで、雨のあとに残った記憶のかけらみたいだった。
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2024年3月5日
惠君と一緒に『幸福な王子』を読み始めた。
その声は静かで、でも一つひとつの言葉がちゃんと胸の奥に落ちていく。
ツバメが凍えてしまう場面を読んでいるとき、気づいたら涙が出ていた。
惠君は慌ててティッシュを探して、
「ごめん、こんな話、選ぶんじゃなかった……」って言った。
私は首を振った。
「ツバメは、幸せだったと思うよ」って、小さく答えた。
「だって、最後まで王子のそばにいられたから」
そのあと、惠君はしばらく何も言わなかった。
ただ、小さな声で「……うん」って。
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2024年3月6日
惠君が「屋上で夕陽を見よう」って言い出した。
看護師長さんに止められたのに、惠君はお構いなしで、
私の車椅子を押して廊下を全力で走った。
まるで、二人でこっそり逃げ出すみたいだった。
結局、夕陽は見えなかったけど――
息を切らして笑っている惠君の顔は、
どんな夕陽よりも、まぶしかった。
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2024年3月9日
前から、少し気になっていた。
惠君はどうして、バイトをしながらボランティアまでしているんだろう。
どうして、そんなに忙しくしているんだろう。
そのことを聞いてみたら、
彼は少し笑って「忘れたいことがあるから」って言った。
それが何なのかは、結局、教えてくれなかった。
――その笑顔が、少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだったのかな。
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2024年3月12日
午後、惠君が屋上に連れていってくれた。
風が強くて、髪がぐしゃぐしゃになった。
「寒くない?」って、後ろから惠君の声。
私は首を振った。
夕陽が空をゆっくりと橙色に染めていく。
遠くからは、帰り道の学生たちの笑い声が聞こえた。
その光の中で、惠君がぽつりと言った。
「千姫と一緒に、放課後を歩けたらよかったのにな」
――どうしてだろう。
顔が熱くて、胸の鼓動が止まらなかった。
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2024年3月15日
午後、惠君が少し遅れてやって来た。
手にしていたのは、桜の形をしたヘアピン。
「たまたま店で見かけてさ……似合うと思って」
耳まで赤くして言うから、思わず笑ってしまった。
髪にそっとつけて、首をかしげる。
「どう? 似合う?」
惠君はしばらく黙って、じっと私を見ていた。
そして、少し照れたように、小さな声で言った。
「……うん、桜みたいだ」
その瞬間、胸の奥で“ドクン”って音がした気がした。
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2024年3月18日
今日、先生に「病状が安定したから、しばらく学校に戻っていい」と言われた。
その言葉を聞いたとき、胸の奥が抑えきれないくらい嬉しくなった。
すぐに惠君に伝えたら、子どもみたいに目を輝かせて喜んでいた。
「やった! 一緒に学校行けるね!」って。
その顔を見ていたら、ふと思った。
――神様がくれたプレゼントは、
治ることじゃなくて、惠君に出会えたことなのかもしれない。




