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第三十二章

 あの日から、恵君はほとんど口をきかなくなった。

 先輩の中で、何かが静かに壊れてしまった気がした。


 彼はいつも教室の窓際に座って、どこか遠くを見つめている。

 まるでその先に、私には見えない何かがあるみたいに。



 私は無理に話しかけなかった。

 以前みたいにゲームの話で明るくふるまうこともやめた。

 ただ静かに、彼の隣に座って、時々そっと手に触れただけ。

 そこに、まだ温もりが残っているか確かめるみたいに。


 もう屋上には、一度も行っていない。


 放課後、一緒に帰ることはあるけど、先輩はほとんど何も話さず、

 その足取りは、まるで何か重いものを背負っているみたいに重かった。

 私は半歩後ろから、その背中を追いかけて歩いた。

 夕陽に照らされた影が長く伸びて、昔よりずっと細く見えた。


 少しでも元気を出してほしくて、お弁当を作り始めた。

 何度作っても上手くいかなくて、握ったおにぎりは形がいびつ、

 卵焼きは焦げて、梅干しの味も強すぎた。


 それでも惠君君は、黙って全部食べてくれた。


「……おいしいよ」


 そう笑ってくれたけど、その瞳には光がなかった。

 空っぽで、見ているだけで胸が痛むほど締め付けられた。


 ――本当の惠君君は、もうここにはいない。


 分かっている。彼の心は、少しずつ遠くへ行ってしまったって。

 どんなに名前を呼んでも、もう届かないようない――そんな距離。


 それから季節がゆっくりと過ぎていった。

 日々は同じように流れていくのに、彼の笑顔だけが戻らなかった。


 気づけば、二度目の春になって、校庭の桜がまた咲いた。

 淡い花びらが風に舞って、まるで無数の夢が消えていくみたいだった。


 惠君は桜の木の下で、ただただ桜を見上げていた。

 その横顔はどこか現実から切り離されたようで、

 時が止まったみたいに静かだった。


 彼の背中を見つめながら、胸の奥をぎゅっと掴まれるような痛みを感じた。


 ――もう、このままにしてちゃダメだ。


 もし千姫先輩が今の惠君君を見たら、きっと悲しくて泣いてしまう。


 思いきって息を吸い込んで、勇気を振りしぼるみたいに一歩踏み出した。

 そしてそっと彼の手を取った。

 冷たくて、まるで長い間、誰の温もりも感じていないようだった。


「先輩……桜、見にいこう?」


 惠君君はしばらく呆然としたまま、

 手のひらに伝わる温もりに気づいて、ようやく私の顔を見た。

 数秒の沈黙のあと、静かに頷いた。


 私たちは学校の近くの公園に向かった。

 そこには満開の桜が咲き誇り、風に舞う花びらが優しい雪のように降っていた。


 惠君は木の下で立ち止まり、また空を見上げた。

 その瞳は、相変わらず遠くて、どこにも焦点が合っていなかった。


「……先輩」


 私は震える手で彼の正面に立ち、両手でその顔を包み込むようにして、無理やり視線を合わせた。


「ねえ……ちゃんと聞いて。私、言いたいことがあるの」


 惠君の瞳がわずかに揺れ、唇がかすかに震えた。

 でも、言葉は出てこなかった。


「……私、実は――先輩が中学のときにゲームで付き合ってた……“彩芭”です」


 その瞬間、惠君の瞳が見開かれた。

 目に見えるほど震えて、何か言いかけたけど、結局言葉にならなかった。


「前にも話したこと、覚えてますか? 私、あんまり親と仲良くなくて……。

 表面上は私の意見を尊重してるように見えるけど、実際は全部勝手に決めちゃうような人たちなんです。

 中学の頃なんて、勉強のストレスで押し潰されそうで……。

 そのとき、ゲームの中で出会ったのが――先輩でした。」


 私は小さく息を吸って、続けた。


「先輩は優しくて、いつも私を励ましてくれたんです。

 一緒に遊んでくれたり、話を真剣に聞いてくれたりして……私、すぐに先輩のことが好きになっちゃって。

 でも……あのとき、先輩が私のキャラを勝手に転職させた......」


 きっと、私に責められると思ったんだろう。

 彼は視線を泳がせ、私の目を避けようとした。


「先輩は“君のためだ”って言ってた。

 職業限定のスキル本を買うために、私のキャラを勝手に転職までさせて……“火力を上げるためだから”って、納得させようとしたんです。

 でもね……私、そんなの望んでなかった。

 好きな職業のまま、ただ一緒に遊んでいたかっただけなの。」


「あのときの惠君君が、私の両親と重なって見えたの。

 私の気持ちを聞こうともせず、勝手に決めて、私の小さな世界を変えてしまう――そんな人たち。」

 気づいたら、涙が一粒、頬を伝って落ちた。


「だから、嫌いになったの。

 “この人も結局、私のことなんて分かってくれないんだ”って。

 そして……全部の連絡を切っちゃった。」


 その言葉に、惠君君は息を詰まらせたまま、動けなくなったように見えた。

 まるで、見えない重さに押し潰されているみたいに。


「でもね、時間が経って……私は後悔したの。

 あんな小さなことで、先輩の全部を否定した自分が馬鹿だったなって。

 謝りたくても、もう......遅くて……」


 風がそっと吹いて、桜の花びらが私たちの間を通り抜けた。

 そのかすかな音だけが、世界に残っていた。


「高校に入って、校門で先輩を見かけたとき、すぐに分かりました。

 だって、前に写真を見せてもらったことがあったから。

 でも、そのとき先輩はもう千姫先輩と付き合ってて……。

 だから、私はただ遠くから見てることしかできなかったんです。

 そして――先輩が記憶を失ったとき、ようやく自分のチャンスが来たって思ったの。」


 いつの間にか、目から溢れた涙が止まらなくなっていた。


 恵君は震える指先で、そっと私の頬に触れた。

 その指が、頬を伝う涙を静かに拭い取っていく。


「……なんで、今になって……そんな話を……」

 その声は、感情を押し殺すようにかすれていた。


「だって……そうでもしなきゃ、恵君、ちゃんと話を聞いてくれないじゃない!」

 喉が焼けるほど叫んでいた。

 涙が地面に落ちて、静かに滲んでいった。


「恵君なんか、大嫌い……っ!」

 そんな感情をぶつけて、彼の服を掴んだまま……もう力が入らなくて、膝をついちゃった。


 彼は、立っているのがやっとのように見えた。

 まるで、今にも崩れてしまいそうな枯れ葉のようだった。


「……ごめん……彩花……」

 声は、かすかな風に溶けるように弱々しかった。

 その瞳には、もう何も映っていなかったんだ。


「俺はもう……誰の気持ちにも、応えられないんだ……」


「ばか……っ! 恵君の大ばか……っ!」

 涙でぐしゃぐしゃになりながら、力の限り彼の胸を叩いた。


「千姫先輩が……どんな気持ちで、あんな噓をついたと思ってるの!?

 ぜんぶ、先輩のためだよ……!

 千姫先輩はね……! 先輩がこんなふうに悲しむの、絶対見たくなかったんだよ……っ!」


 もう、声にならない声で叫んでいた。

 それでも伝えたかった。

 千姫先輩の気持ちも、私の気持ちも、全部――この人に届いてほしかった。


「先輩は……自分の悲しみばっかりで、千姫先輩の気持ちなんて、考えようともしなかったくせにっ!

 今の先輩を見たら、きっと……千姫先輩、悲しくて泣いちゃうよ……!」


「千姫先輩は、もう――いないんだよ。」


 言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

 それでも、伝えなきゃいけなかった。


 彼は、まるで大きな悲しみに呑まれていくように、ただ、立ち尽くしていた。

 そして――瞳に焦点が戻ったとたん、崩れ落ちるように嗚咽を漏らした。


「……ごめんね、ごめん……彩花……」

 彼は私の肩に顔を埋めて、何度も、何度も謝った。

 その声は、まるでこれまでの悲しみも未練も全部吐き出すみたいに震えていた。

 混じる涙が、私の肩を静かに濡らしていく。


 私はただ、泣きじゃくる彼を抱きしめて、そっとあやした。

 その泣き声は、舞い散る桜の花びらと一緒に、風の中へ溶けていった。


 ――ようやく、惠君君が戻ってきた気がした。その涙のぬくもりが、胸の奥にじんわりと広がっていく。

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