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第三十一章

 彩花視点


 千姫先輩の病室で、私は惠君と並んで座っていた。

 惠君が私の手を握ってくれていて、千姫先輩はその私たちを、穏やかな笑みで見つめていた。

 その視線があまりにも優しくて、胸の奥が少し痛くなった。


 まさか、こんな形で三人が顔を合わせるなんて――そんなこと、少し前の私には想像もできなかった。


 昨日の夜、私と惠君は、あのパスワードを解いた。

 そしてその瞬間、千姫先輩が隠していた真実を知った。

 千姫先輩は、留学なんてしていなかった。――本当は、治療のために海外へ行っていたのだ。


「惠君、紹介してくれないの?」

 静まり返った病室に、千姫先輩のやわらかな声が響いた。

 私は思わず顔を上げる。彼女は私を見つめていて、その瞳には敵意なんて微塵もなく、ただ静かな興味だけが浮かんでいた。

 その微笑みは、淡い光の中に咲いた花のようで――綺麗で、どこか儚かった。


 惠君は少し躊躇うように私を見て、それから千姫先輩へと視線を移した。私を紹介しようと口を開く、そのほんの少し前にーー私はもう言葉を口にしていた。


「千姫先輩、はじめまして。稲葉彩花です。惠君の……今の彼女です」


 深く頭を下げながら、震える声をどうにか押さえ、できるだけ穏やかに言葉を紡いだ。


 千姬先輩は、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。

 たぶん、惠君の紹介より先に、私のほうが名乗ってしまったから、少しだけ意外だったのかもしれない。

 それでもすぐに、あの穏やかな笑みを浮かべてくれた。


「はじめまして。千早千姫です。惠君の“元”彼女、かな」


 まるで今日の天気でも話すような軽やかな口調で、彼女もまた小さく頭を下げた。


「惠君ってすごいね。こんなに可愛い彼女が見つけるんなんて」


 冗談みたいな口調なのに、その言葉を聞いた瞬間、頬がふわっと熱くなった。


「わ、私……千姬先輩もすごく綺麗だと思います……」

 思わず口にしてしまって、自分でも何を言ってるのか分からなくなった。


「あら、お口が甘いんだから。ふふ、知ってる? 惠君はね、可愛いタイプが好きなのよ」


 からかうようでいて、どこか柔らかな声だった。

 どう返せばいいのか分からなくて、ただ視線を落とした。胸の奥が少し熱くなった。


 そのとき、惠君が少し掠れた声で口を開いた。

「……海外の医者は、何て?」


 千姫先輩の笑みが、一瞬だけ止まった。

 けれどすぐに、またいつものように穏やかな表情に戻った。


「大丈夫。今の治療方針で問題ないって。手術も、受けられるみたい」


 惠君の手が、ぎゅっと私の手を握りしめた。


「……手術って、いつ……?」


「明日」


 その言葉は、まるで明日の天気でも告げるように、静かで穏やかだった。

「成功率は高いって言われたの。だから心配しないで」


 でも、彼女の声にはどこか無理をしているような響きがあった。

 惠君は唇を噛み、何か言いたげに眉を寄せた。

 私はその手をそっと握り返してた。


「……その時まで、俺はずっとそばにいるから」


 絞り出すような声だったけど、その言葉には強い決意が宿っていた。


「彼女の前で、そんなこと言うなんて……惠君も大胆ね」

 千姬先輩は笑ってみせたけれど、その笑顔の奥には、ほんの少しの寂しさがあった。


「まだそんなことを言うのかよ……」

 惠君は顔をそむけ、少し強めに息を吐いた。


「千姫先輩は、きっと大丈夫です!」

 気づけば、声が少し大きくなっていた。

「私も惠君も......信じてますから!」


 思いがけない言葉だったのか、千姬先輩は一瞬ぽかんとして、

 それから、ふっとやわらかく笑った。

「ありがとう、彩花ちゃん」


 その声は穏やかで、その視線が、私と惠君のあいだをゆっくりと行き来して、

 やがて、そっと口を開いた。

「惠君があなたに出会えて......よかった」


 その言葉とともに、彼女の瞳にふっと安堵の色がよぎった気がした。


 重くなった空気に、惠君は小さく息を吐いて立ち上がった。

「看護師さん呼んでくる」とだけ言い残して、千姫先輩の点滴を替えてもらうために、病室を出ていった。


 静まり返った病室に、時計の針の音だけが小さく響いていた。


 私は、惠君を見送る千姬先輩の横顔を見つめた。

 光に包まれたその頬も、細い指も、まるで儚い夢の一部みたいで――

 それでも、彼女は静かに微笑んでいた。

 その穏やかさが、痛いほど綺麗だった。


「千姬先輩……」

 気づいたら、声が漏れていた。

 でも、何を言えばいいのか分からない。

 励ますべきなのか、それとも謝るべきなのか。

 千姬先輩から見れば、私は惠君を奪ったも同然だよね。

 どんな言葉を口にしても、きっと白々しく聞こえるだけだ。


 そんな私の声に、千姫先輩は、すべてを見透かしたように微笑んでくれた。


「彩花ちゃんは......気にしなくてもいいよ。私と惠君のことは、もう過ぎた話だから」


 その瞳は曇りひとつもなく、澄んでいた、。


「だからね、これからも惠君のそばにいてあげて、あの子は、すぐ無理しちゃうから」


 その声はやさしく、でもどこか遠くへ消えてしまいそうで――。


「そんなこと、言わないでください......

 千姫先輩が元気になったら、私と……正々堂々と勝負してください!」

 泣きそうになるのを必死でこらえて、無理に明るい声を出した。


 彼女のまつ毛が、ふるりと震えた。

 光が頬をかすめて、その横顔に淡い影を落とす。

 その静けさの奥で、何かがそっとほどけていく気がした。


「正々堂々、か……」

 そう小さく呟いて、彼女は少しいたずらっぽく笑った。


「ふふ、それじゃあ……彩花ちゃん、負けちゃうかもしれないね。

 だって、私と惠君には、三年分の思い出があるんだから」


 軽く笑ってみせたその目には、薄く涙が滲んでいて、

 彼女は顔を背け、そっと髪を整えるふりをした。


 そのとき、病室のドアが開いた。

 惠君が戻ってきて、看護師さんも一緒に入ってきた。

 看護師さんは無言で点滴を取り替える。


 千姬先輩は、その間にそっと表情を整えた。

 惠君に気づかれないように、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


 惠君は二人の様子を見回し、少し首をかしげた。

「何を話してたの?」


「女の子の秘密~」


 千姫先輩は軽くウインクして、楽しそうに言った。

「それより、二人の話を聞かせてよ」


「前に電車で話しただろ」惠君はそう言いながら、手に取ったリンゴの皮を静かにむきはじめた。


「彩花ちゃんの口から聞きたいの。ね?」

 千姫先輩が私の手を取った。

 思わず息をのむ。

 その手は少し冷たくて――なのに、心臓が小さく跳ねた。


「……私も、聞かせてください。惠と千姫先輩の......思い出を」


「ふふ、そうね。……じゃあ、少し昔話をしようか。」

「最初に惠君と出会ったのも、この病院だったの。」


 そうして、三人で語り始めた。

 かつての思い出を、ゆっくりと。


 いつのまにか、窓から夕日が差し込み、

 病室の影がゆっくりと伸びていった。

 そっと惠君の横顔を見る。

 その視線はずっと、千姬先輩に向けられたまま。

 彼の手は、彼女の冷たい手を離さないように、強く握りしめていた。


 本来なら胸を締め付けれらるはずの光景なのに、そのときの私は、不思議と穏やかな気持ちだった。


 私は、そっと立ち上がった。

 この静かな時間を、二人に預けようと思った。


「……そろそろ、私、行きますね」

 そう告げて、扉の前まで歩いた。


 振り返らずに、静かに言う。

 その声が、少しだけ震えていた。


「千姫先輩は、きっと大丈夫です。

 私......信じて待ってますから」


 その言葉を残して、私は病室を出た。


 廊下の灯りは思っていたよりも眩しくて、

 思わず目を細めながら、壁にもたれて深く息を吐いた。

 さっき見た光景が、まだ頭から離れない。

 千姫先輩の笑顔と、惠君がその手を握っていた姿が、まるで一枚の絵のように焼きついていた


 もう......いこう。いまは、ただ心の底から祈るしかなかった。


 曲がり角を抜けたところで、見覚えのある背中を見た。

 ——あの人だ。先輩を殴った、あの男。

 壁にもたれ、ガムを噛みながら、退屈そうに頭を掻く男の人。


「タイミング悪かったな。来ても無駄だったか。

 ……ま、騎士が現れたんなら、もう俺の出番はないよな」


 独り言みたいな声。

 でも、それは確かに私に聞かせるように言った言葉だった。

 彼は片手を上げて、軽く笑い、背を向ける。


「じゃあな」


 その一言を残して、手を振りながら歩き去っていった。


 私はもう一度だけ、病室の方を振り返った。

 そして、小さく呟いた。


「千姫先輩は、きっと……きっと大丈夫だから……」


 その祈りは、これまででいちばん強く、そして、いちばん真っすぐな願いだった。

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