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第三十章

 無意識に車椅子の肘掛けを握りしめた。視線の先に、あの日の情景が滲むように浮かび上がる――。


 まだ惠君が記憶喪失になる、ほんの一週間前のことだった。


 桜の木の下で、粉雪みたいに花びらが舞っていた。

 その中で、惠君が眉をひそめ、唇を強く噛みしめていた。

 その目は、何かを必死にこらえているようだった

 あんな顔、今まで一度も見たことがなかった。


 彼の胸を叩きつけるようにして、嗚咽まじりに叫び声をあげた。涙が飛び散った。


 彼は私の手首を強くつかみ、低く震える声で言う。

「大バカは千姫の方だ……手術を控えてるこの時に、何考えてるんだよ……!!」


 真っ赤に充血した瞳に、抑えてきた感情がにじみ出ていた。

「三年前に約束しただろ……!

 手術の前は何があっても、俺はずっとお前の傍にいるって!

 なのに、どうして俺に留学へ行けなんて言うんだよ!

 どうして、俺を突き放そうとするんだ……!」


 その切なそうな目を見た瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。


「バカは惠君の方だ! 大バカ!

 将来に関わる大事なことなのに、私のせいで簡単に諦めちゃって……!

 私が嬉しいとでも思ってるの!? 全然!

 私、また惠君の重荷になってるだけじゃん……!」


 彼は力が抜けたようにその場に崩れ落ち、声を震わせる。

「じゃあ俺はどうすればいいんだ……

 千姫のそばにいられないなら、俺にとって何の意味があるんだ……

 千姫が重荷だなんて、一度も思ったことない……

 俺はお前とただ一緒にいられるだけで幸せなんだ……

 千姫は......俺のこと嫌いになった……?」


 床に落ちた彼の涙が、私の意地をすべて砕けた。


「ごめん……惠君、ごめん……ごめん……」


 何度も何度も謝りながら、私は彼をもう二度と離さないように、強く抱きしめた。「ごめんね惠君……ごめん、ずっと一緒……」


 ひやりとした感触が、私を現実に引き戻した。

 掌には、深く爪の跡が残っていた。


「ほんと……私、バカだね」

 小さくつぶやいて、口元にかすかな笑みが浮かぶ。

 自分でも苦笑いだと分かっていた。

「結局、惠君の重荷にはなりたくなかったんだ」

 だから、私は二つも嘘をついた。


 ――もう充分だよ、惠君。あなたから、私はもう十分すぎるものをもらった。これからの道は、私がいなくても歩いていけるよね。


 髪につけた桜のヘアピンを外し、褪せた花びらの縁を指先でそっとなぞる。

 すると、三年前の春のぬくもりがふっとよみがえった。

 あの少年の震える指先が、私の前髪をそっとかき上げたあの瞬間――

「千姫は、桜みたいだね」

 そう顔を真っ赤にして言った彼が、そのヘアピンを私の髪に、いちばん目立つところにそっとつけてくれた。


 冷たい雫が桜のヘアピンに落ちた。

 誰かの涙みたいに、花びらを伝ってすっと流れ落ちる。

 思わず手を握ると、そこにはもうひとつのヘアピンがあった。

 私のものと同じ形で、まるで店で買ったばかりのように新しかった。


「桜の花言葉は……」


 その声は懐かしく、わずかに震えていた。

 まるで、いくつもの記憶の時空を越えて、ようやくここにたどり着いたかのようだった。

 春風が庭の木々を揺らし、花びらが無数に舞い上がる。


 車椅子の上で固まったまま、ヘアピンを握る指先に力を込めた。

 金属の縁が掌に食い込み、かすかな痛みが走る。

 怖くて顔を上げられない。

 まるで、何度も夢で見たあの光景が現実になったみたいで――。

 このまま見上げたら、何もかも壊れてしまいそうで――。


「……忘れるな、だろ?」


 背後で、枯葉を踏む小さな音がした。

 その瞬間、息が止まった。

 見慣れたスニーカーが視界の端に映る。

 胸の奥がきゅっと痛む。――それでも、私は顔を上げた。


 木漏れ日が彼を優しく照らしていた。記憶の中よりずっと痩せて、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。

 それでも、その瞳に宿る優しさと切なさは――夢で見たときのままだった。


「……惠君」

 喉が詰まって、声が震えた。


 彼はしゃがみ込み、震える手で私の冷たい指をそっと包む。

 その体温が肌を通して伝わり――あまりにも現実的で、熱くて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 涙が、こぼれそうだった。


「千姫は……どうして俺に嘘をついたの」

 泣き出しそうな顔で、それでも必死にこらえていた。

「ここに来るまで、どれだけ遠回りしたと思う?」


「惠君こそ……なんで来たの!」

 抑えきれず、叫んでしまう。


「あんなに忘れてって言ったのに……」

「もう振り向かないでって、あんなに伝えたのに……」

「どうして……どうして惠君は、聞いてくれないの!」


 抑えていた涙が、堰を切ったように頬を伝った。

 本当は、来てほしかった。最後まで、そばにいてほしかった。

 それなのに今の私は、また心とは裏腹の言葉を叫んでいる。


「だって……千姫と約束したから。」


 その声は静かだったのに、まっすぐ心に響いた。

 もう、無理――。

 気づけば彼の胸に飛び込んでいた。

 三年間の想いが、すべてこの腕の中に溶けていくようだった。

「バカ! バカ!」

 肩に顔を埋めて、「忘れるって……約束したのに……」と呟く

 その声には、諦めと意地入り混じっていた。


 彼は私をそっと抱き寄せ、小さな声で言った。

「でも……忘れたくなかったんだ」


 木漏れ日が揺れて、光が頬をかすめた。

 世界が静まり返って、呼吸の音さえ聞こえる気がした。


 欠けていた三年の記憶を埋めるように、

 涙が落ちて、彼の服に滲んでいく。

 彼は何も言わずに、ただただ、私を強く抱きしめたまま、耳元で小さく言った。

「今度こそ、そばにいるから。」

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