第二十九章
朝の病院の廊下は、ひどく冷たく静まり返っていた。床を転がる車椅子のタイヤの音だけが、かすかに響いている。
少女は力を振り絞るように車椅子を押していた。ひと押しごとに全身の力を使い切ってしまうようで、指先は力を込めすぎて白くなり、わずかに震えていた
窓の外では、薄曇りの空の下、散り残った花びらや枯れ葉が、風に乗って静かに舞っていた。
春の終わりを告げるような、やわらかな静けさが漂っている。
窓ガラスには、彼女の青白い顔がぼんやりと映っていた。
唇の色は肌とほとんど変わらず、息は細く、ひと呼吸ごとに大きな力を使っているようだった。
看護師が足早に横を通り過ぎ、ふと彼女の姿に足を止める。
その視線に気づいた少女は、顔を上げて、かすかに笑みを作りながら首を振った。
「大丈夫です……自分でできますから」
看護師は言葉を飲み込み、小さくため息をついて背を向けた。再び廊下には、ギシギシと鳴る車椅子の音だけが残り、彼女は一歩一歩、必死に中庭へ向かっていた。
(千姫視点)
朝の空気って、どうしてこんなに胸を締めつけるんだろう。
お医者さんは「心臓の力が弱いせいで全身に力が入らないんですよ」って言っていた。
夜に長く横になっていると血の流れが遅くなって、心臓の負担も重くなるから、朝はとくにきついんだって。
手術まで、あと一日。……もしかしたら、これが私に残された最後の時間かもしれない。
せめて、陽だまりの温もりだけは、ちゃんと覚えていたい。
残っている力を全部かき集めて、車椅子を押し出す。
たった数百メートルの道なのに、ひと月前なら数分で歩けた距離なのに……いまは、果てしなく遠く感じる。
「でも……ちーちゃんは頑張ったよ」
心の中で自分にそう語りかけ、重く沈む空気を少しでも軽くしようとする。「これはちーちゃん一人だけの奮闘記なんだから」
あの時のこと、ふっと頭に浮かんだ。二週間前の電車の中――あのときの私は、まだ平気なふりをして、惠君と笑い合っていた。けれど、惠君の肩に頭を預けて、眠ったふりをした時、涙がこぼれそうになっていた。
結局……ちゃんと演じきれたのかな
惠君を……だませたのかな
最初の嘘は、いまの惠君には恋愛感情なんてないって言ったこと。
彼の過去のネット恋愛のことが知ってる。
中三までの記憶しかない惠君は、まだ女の子の気持ちなんて分からないし、拒絶されることを怖がってる。
だから、そう言えば……きっと、私のところには来なくなると思った。
案の定、あの後の一か月、惠君は私と目を合わせることすらできず、ほとんど話しもしなかった。
本当は……そんな距離が、つらかったのに。
医者には、入院して安静したほうがいいと何度も言われた。でも私は、どうしても学校に行きたかった。遠くからでも、彼の姿を見たくて。声を聞きたくて。
知っている。彼が昼休みに屋上へ行くことも。そして……彼が別の女の子を好きになり始めていることも。あの子は、彼の初恋の相手に似ていることも
胸を刃でえぐられるように痛む。でも、それでいいの。彼が幸せになれるなら――。
気づけば、中庭の前にたどり着いていた。空はまだどんよりとしていて、湿った風が頬を撫でた。
春を告げる花々も、灰色の光の中ではどこか色あせて見えた。
そして……惠君に二つ目の嘘をついた。――「留学する」という嘘。
恵君は賢いから、前に私がついたうそが変だって、きっと気づいていたんだと思う。
……でも、惠君が気づいてくれたのは、正直ちょっと嬉しかった。
だから、あの日、惠君に呼び出されたとき――その瞬間に、何となく察した。
……もう一度、嘘をつく覚悟をしなきゃって。
ちょうどその頃、海外での検査の予定が入っていた。
だから私は、それを利用して「留学する」ってことにした。
先生にも、そういう話で通してもらうようお願いした。
これが二つ目の噓、本当は、留学するはずだったのは恵君の方なのにね。




