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第二十八章

 びしょ濡れのまま家に戻ると、髪先から伝った雨粒が床にぽたぽたと落ち、水跡がにじんでいく。

 玄関に立つ彩花は、無意識に指先で服の裾をねじりながら、まつ毛から落ちた雫が光を反射して、まるで涙が残ってるみたいだった。


「とりあえず、拭こうか」


 タオルを差し出すと、彩花はそれを受け取ったものの、動かずに俺を見上げた。


 薄暗い電灯の下で、その瞳だけがやけに澄んで見える。雨に洗われた星みたいに。


 ふいに彼女はそっと背伸びして、タオルを俺の頭にそっとかぶせた。


「惠の方こそ……もっと濡れているのに」


 指先がタオル越しに髪をなでる。その動きがあまりにも優しくて、胸の奥がふっと熱くなった。

 彩花の真剣な横顔を見ていると、心臓が勝手に跳ねた。


 ――十数分後。

 着替え終えた彩花は、俺のシャツを身につけていた。

 袖口が細い手首を包み、裾は太ももをかすめるくらい。

 ベッドの端で膝をそろえ、シーツを小さな手でぎゅっと掴んでいて、どこか不安げだった。


「……二つ、彩花に話さなきゃいけないことがある......」

 喉がひどく詰まる、俺は切り出した。


 彩花は小さくうなずいた。まるで、もう覚悟していたかのように。


「一つ目……俺は確かに、千姫に未練があった」


 彩花の体がかすかに震え、返ってきたのは、小さな「うん」だけだった。


「二つ目……俺がクレーンゲームを練習してたのは、千姫のためじゃない」深く息を吸い込む。「中学のとき、ネットで付き合ってた子のためだったんだ」


 空気がぴたりと止まった。

 彩花の瞳がかすかに揺れ、唇はきゅっと結ばれる。

 俺は目を閉じて、怒りか涙を覚悟した――

 けれど、次の瞬間、ふわりとした温もりが唇に触れた。


 反射的に目を開けると。彩花の顔が、すぐ目の前にあった。

 唇は少し冷たくて、いちごのリップがかすかに香った。

 彩花の手が俺の頬を包み、指先に力が入る。――もう離したくない、そんな想いが伝わってきた。


 そのキスは軽いのに、頭の中が真っ白になるほど深くて。

 息づかいも、体温も、すべてが彼女で満たされていった。

 どれくらいそうしていたのか、もうわからない。

 やがて彩花はそっと身を引き、肩に腕を回したまま、まっすぐ俺を見つめてきた。


「ばか……」その声は、ため息みたいに小さかった。

「こんなことで、私が怒ると思ったの?」


 指先がそっと俺の頬をなぞる。瞳は優しくて、どこか切なげだ。


「私が怒ってたのはね、惠が過去に未練があることじゃない……ずっと、何も話してくれなかったこと。」


 胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚。

 彩花の顔を見ていると、もう罪悪感しか残らなかった。

「ごめん……俺――」


 言いかけた言葉は、再び熱いキスに溶かされた。

 今度の唇は、さっきよりずっと熱くて、俺の中の罪悪感をすべて溶かしていくようだった。

 気づけば、俺は彼女の腰を抱き寄せ、その温もりを確かめるように、ただ近づいていた。


 世界が凍りついたように静まり返り、時間の針さえ動かなくなった。

 窓の外では、雨音が次第に強くなり、ガラスを叩く音だけが響く。

 この瞬間が、まるで永遠に続くかのようだった――。

 ようやく、二人は唇を離した。


 彩花はにっこり笑って、

「これで、惠が記憶をなくしてからのファーストキスは私のものだね! だって私は、惠の三人目の彼女なんだから~」と、からかうように言った。


「三人目?」思わず聞き返した。


「ほら、一人目はネットの彼女でしょ? 二人目は千姫先輩。そして、現役はこの私~」

 彩花はまるで気にしていないみたいに、楽しそうに笑った。


「でも、そのネットの彼女って、会ったこともないんだよ? それもカウント?」


「だって、惠があの子のことも好きだったんでしょ? だったら立派に一人目だよ!」

 彩花は、妙にきっぱりと言い切った。

 俺はよく分からないまま、こくりとうなずくしかなかった。


「それにね、私決めたの。惠の記憶探し、私も一緒にやる! その時惠が千姫先輩の方を好きになっても、絶対負けないんだから!」

 その瞳は星のようにきらめいていた。


「彩花……」

 そのまっすぐな言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 まったく......ほんと、できすぎた彼女だよ。

 俺は、この間のことを隠さずに、全部を話した。


「じゃあ、先輩……記憶を失ってた間の日付は、もう全部試したんだ?」彩花は小さく首を傾げて、唇に人差し指を当てた


「うん、2024年から2027年まで、ありえそうなの全部やったよ。記憶が失った後の初デートの日まで試した」

 俺は苦笑いして首を振る。


 すると、彩花がぱっと顔を上げ、目を丸くした。

「そんなことありえないと思うけど……もし千姫先輩が、最初から見せる気がなかったとしたら? パスワードが、二人が別れた日の後の日付だったりして......」


 その言葉が、稲妻のように胸を貫いた。

 そんな発想、これまで一度も浮かばなかった。

 千姫が――あえて俺との思い出に関係のない日付を、パスワードに選んでいたなんて。


 雨音が遠のき、耳に残ったのは、自分の早まる鼓動だけだった。

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