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第二十七章

 彩花視点


 どうして私、先輩のことが好きになったんだろう。――あれはもう、ずっと昔のこと。


 ひたすら走っていた。耳に残るのは風を切る音と、自分の荒い息だけ。背後から先輩の呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返って、足を止める勇気がなかった。


 頬を伝う涙が風にさらわれていく。それが悔しさなのか、悲しさなのか、自分でも分からない。。


 人気のない路地の隅にしゃがみ込み、傷ついた小動物みたいに身を丸める。袖口はもう涙でぐっしょりだった。


 ――私って、ほんとバカ。


 あの日、ふらつく先輩を支えながら一緒に帰って……つい、言っちゃったんだ。


「たとえ先輩に千姫先輩のことを好きだった記憶が戻ったとしても、私は絶対にもっと先輩に好きになってもらいます。必ず先輩に選んでもらうんだから!」


 ――あんなこと言っておいて、結局、何もできなかったじゃない。


 恵は、私とちゃんと向き合うために、自分から千姫先輩に会いに行った。そんな先輩を何度も教室の外からこっそり見ていた。


 千姫先輩が留学するという話を聞いてから、恵はずっと不安そうで……


 たぶん、あの頃から怖かったんだ。自分が千姫先輩に勝てないって、恵のその上の空の顔を見て、心のどこかで分かってた。――記憶を取り戻した先輩を振り向かせるなんてできると言い放った昔の自分が、今は滑稽でたまらない。


 千姫先輩が姿を消してからの恵は魂が抜けたみたいだった。本当は今すぐ抱きしめたかったのに、私はただの代わりにしかなれないんじゃないかって怖くて動けなかった。


 それでも、そんな臆病な自分にあの日先輩は告白してくれた。「記憶がどうなろうと、俺はお前と一緒にいたんだ」って――あのとき、私は本当に嬉しかった。


 恵を信じたい。自分が口にした言葉も守りたい。恵が千姫先輩のことを思い出しても、私を好きでいてもらえるように頑張りたかった。


 ……でも、私は弱い人間だ。


 一緒にヘアピンを買いに行ったあの日、別れたあと、私はつい恵のあとをつけてしまった。

 そしたら、恵またあの店に戻って、ずっと眺めていた桜の花びらのヘアピンを買っていた。


 ――もう無理......心の奥の恐怖がどんどん大きく膨らんでいく。

 やっぱり恵は、何か千姫先輩のことを思い出したんだ。千姫先輩のことを忘れられないんだ……


 そのあとから、恵はいつも眠そうな顔をしてた。

 何か、千姫先輩のことを調べてるんじゃないかって疑ったけど、

 それでも私のためにゲームに付き合ってくれた。


 だから、気づかないふりをして――

 ちゃんといい子にしてなきゃって思ってたのに……。


 でも、気づけば恵がぼんやりしている時間がどんどん増えていって、どうしようもなく抑えきれずに、感情をぶつけてしまった。


 言ってから、すぐに後悔した。どうして私は、いつもこうなんだろう。好きな人に嫌われるようなことばっかりする。


 これで自分も少しはおとなしくなれるって思ったのに


 クレーンゲームの前で立ち止まった恵の横顔を見た瞬間、

 もしかして――また何かを思い出したんじゃないかって思った。

 あの腕前だって、もともとは千姫先輩のために練習してたんだ。

 今もきっと、あの頃のことを思い出してるんだろうな……


 そう思ったら、また我慢できなかった。……こんなことしても先輩に嫌われるだけなのに。


 だから、もう......逃げることしかできない。


 千姫先輩の影は、いつまで経っても先輩の心に絡みついて離れない。

 それを見ている自分は、不安さえ隠せない、情けない臆病者だ。


 いつの間にか雨が降り出し、ぽつり、ぽつりと落ちてきた雫はやがて本降りになった。髪はびしょ濡れになり、前髪につけたウサ耳のヘアピンがずれていく。私はそれを外し、手のひらにぎゅっと握りしめた。


 ――これは先輩と一緒に選んだものなのに、いまや守る勇気さえ持てないなんて。


 また同じ過ちを繰り返した......恵はきっともう私を好きにならない、もう二度と私のところに来ない……。


 胸の奥に重く沈んだ何かが、じわじわと広がっていく。

 どれだけ頑張っても、私はやっぱり臆病で、弱くて――。


 先輩の隣で笑っていた時間が、遠い夢みたいに感じた。

 もうあの頃には戻れない。

 そう思った瞬間、胸の奥がぷつりと切れて、涙が溢れた。


「私、ほんとダメな子……」


 唇を噛みしめ、喉の奥からかすれた嗚咽が漏れる。記憶に苦しむ彼を分かっているのに、選んでくれたことも分かっているのに、私は子供みたいに何度も「好き」を証明させようとしてしまう。


 ――こんな私が、恵を好きになってもらう資格なんてない。


 雨が髪先を伝い、世界がにじんで見えた。


 このまま消えてしまえたらいい――そう思うと、もう何もかもどうでもよくなった。


 景色は灰色に溶けて、冷たい雨が頬を打つたび、

 自分の輪郭まで薄れていくような気がした。


 そして気づけば、意識の奥までぼやけて、

 私はただ大雨に溶け込み、流されてしまいたいと思った。


 そのとき、体がぐらりと傾き、遠くから駆けてきた誰かに勢いよく抱きとめられた。思わず悲鳴をあげそうになって、でも見えたのは見慣れた背中だった。


 彼は息を切らし、全身ずぶ濡れで、疲れきった顔をしながらも必死に私を抱きしめ、何度も「ごめん」と言い続けていた。


 私は彼の腕の中で黙っていた。すべてが夢のようで、現実感なんてなかった。彼は雨の中でずっと「ごめん」を繰り返し、その声はかすれていてほとんど聞き取れなかった。


 どれくらい経ってからだろう、ようやく彼の言葉が耳に届いた。


「ごめん、彩花、違うんだ。俺が思い出したのは……クレゲの腕は千姫のためじゃなくて、昔ネットで付き合ってた相手のために練習したんだ......本当にごめん」


 その言葉を聞いて、ほかの女の子ばら、きっと怒ったのかもしれない。でも私はむしろ少しだけ嬉しくて、彼の首に腕を回し、濡れた肩口に顔を埋めた。

 ――雨の匂いと、彼の体温だけが、確かにそこにあった。

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