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第二十六章

 夕暮れの街並みが橙色に染まり、静かな空気がゆっくりと流れていた。


 その中で、俺と彩花の足音だけがやけに大きく響いている気がした。


 彩花は小さく俯いたまま、落ち着かない様子で足元ばかり見つめていた。


 その歩幅はいつもよりずっと小さくて、隣を歩く俺を気にしながらも、今にも置いていかれそうな不安を隠しきれないでいた。


「……惠は」

 彩花が不意に口を開いた。その声はか細くて、夕暮れの静けさに溶けてしまいそうだった。


「惠は……こんなワガママな私、嫌いになったりしない……?」


 かすかに震える声。勇気を振り絞って放たれたその言葉に、思わず足を止めて振り返る。

 伏せられた睫毛が頬に小さな影を落とし、噛みしめられた唇は色をなくしていた。


「そんなわけないだろ」

 思わず手を伸ばしたが、途中でためらってしまい――代わりにそっと彼女の肩に触れた。


「告白のときに言ったよな。俺は彩花のワガママが好きなんだ。むしろ……ワガママであればあるほど、好きだ」


「……惠って、やっぱりドMの素質あるんじゃない?」


「ちょっと離れてくれない?」


「いやだよ。俺、変態だからな」


「なっ……もうっ! あっち行け、あっち!」


 彩花は慌てて俺を押しのけるように手をぶんぶん振りまわした。けれど、その口元には抑えきれない笑みがにじんでいた。


 その顔を見たら、俺も笑いを堪えきれなくて吹き出してしまう。


 すると彩花もつられて笑い、二人の間に流れていた重苦しさがふっと和らいだ。


 ――やがて、ゲームセンターの明るい灯りと賑やかな音楽に包まれる。


 彩花は前みたいにガラスに張りついて「先輩! これこれ!」と目を輝かせることはなかった。


 けれど、クレーンゲームの前に立った彩花は、気づけば小さく手を振って俺を呼んでいた。

「惠! これ!」


 その声は、あの頃のような弾んだ調子を取り戻していた。


 そこに並んでいたのは、真っ白なウサギのぬいぐるみ。丸いお腹に大きなハートが飾られていて、やけに愛らしく見えた。


「お~、可愛いな」


 俺は操作レバーに手をかける。


「見てろよ、これ取ってやるから」


 アームが降りて、ぬいぐるみの耳をがっちりと掴む。


 一度目で、もう半分以上移動させた。


「これならあと二回でいけるな」


 得意げに彩花へニヤッと笑って見せた


「恵すごい!」


 彩花の瞳がぱっと開かれる。さっきまでの沈んだ気配はもう跡形もなかった。


「えっ、今のってどうやったの!?」


「お前のゲームと一緒だよ」


 俺はクレーンの中を見つめながら、自然と声が柔らかくなっていた。


「練習すればできるんだ」


 三回目で、ウサギのぬいぐるみがカタンと音を立てて出口に転がった。


 俺はそれを拾い上げ、得意げに彩花へ差し出した。


「わあ……取れた!」


 彩花は思わず身を乗り出して、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。

 顔をふわふわの毛に埋めて、まるで宝物みたいに抱きしめながら、小さな声で呟く。


「惠からのプレゼント……大事にするね」


「……ああ。気に入ったみたいで良かったよ」


 思わず手を伸ばし、彼女の頭を撫でようとした。


 けれど、指先が髪に触れた直前――動きが止まってしまった。


 脳裏に、別の光景がよぎった。


「……前輩?」

 彩花が不思議そうに顔を上げる。


 俺は苦笑して手を下ろそうとした。


 だが、その動きを彼女はさっと避けた。


 ほんのわずかな沈黙が落ちる。彩花の視線は揺れて、唇がぎゅっと結ばれていく。


「……どうせ」

 彩花の声は小さく、まるで独り言みたいだった。けれど、その一言は俺にははっきり届いた。

 

「また……千姫先輩のこと、思い出してたんでしょ」


 その指先が無意識にぬいぐるみの耳をぎゅっと掴み、柔らかな毛並みがぐしゃりと歪んだ。


「違う! 本当に違うんだ!」


 気づけば俺は慌てて彩花の肩を掴んでいた。力が入りすぎてしまうくらい。


「彩花、俺は――」


「……でも、どうしてなの?」


 顔を上げた彩花の瞳は赤く滲んでいた。

 それでも声は静かで、かえって胸に刺さる。


「どうして恵は……一緒にヘアピンを買った日以来、変わってしまったの?」


 その手は俺の袖を掴み、布地が裂けそうなほど力を入れていた。


「どうして……どうしていつも千姫先輩のことばかりなの……?」


 最後には、押し殺していた声が震え出した。


 涙がとうとう零れ、うさぎのハートを濡らす。染み広がった跡が、まるで胸の奥の痛みを刻むようだった。


 彩花は俺の袖を離し、ぬいぐるみをぐいっと俺の胸元に押しつけた。


「私.......知ってるんだよ……」


 後ろに下がりながら、かすれた声で言葉を絞り出す。


「恵はあの日......私と別れたあとに、桜のヘアピンを買いに戻ったんでしょ……」


「あの日から……惠がどんどん遠くへ行って、もう私を見てくれなくなった!」


 涙を流しながらも、顔を上げて俺をにらむように見つめた。


「それでも……それでも私は惠が好き……! 好きすぎて......こんな自分が嫌になるくらい!」


 最後の言葉は、悲鳴のように掠れて耳に残った。彼女は涙を振り払うように駆け出していった。


 その泣き声だけが、いつまでも耳の奥に焼きついて離れなかった。


 俺はウサギのぬいぐるみを押し付けられたまま、ただ立ち尽くす。


 赤いハートは涙に濡れて、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。


 まるで、握り潰された心臓みたいに。

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